峯 城

 所 在 地   三重県亀山市川崎町森  別 名   ―
 遺 構   曲輪、土塁、櫓台  形 式   平山城
 築 城 者   関(峯)政実  築 城 年   正平22年(1367)
 歴  史  峯城は、伊勢・鈴鹿郡を本拠とする関氏の五家の一つ、峯氏の居城である。
元弘3年(1333)に、関盛政が関東より伊勢・鈴鹿郡関谷に移り住み、5人の子供に五家を立たせて鈴鹿郡一帯を支配した。そして五男の政実は分封されて峯氏を名乗り、正平22年(1367)に峯城を築城したとされる。
元亀11年(1568)に、織田信長が北伊勢に侵攻すると、関一族は織田政権に服属した。
天正2年(1574)、当主の峯盛定の嫡男・盛祐が織田信孝に従って長島一向一揆と対戦中に戦死した。盛定の孫が幼少のため、峯氏は峯城から移され、羽柴秀吉配下の岡本宗憲が城主となった。
天正11年(1583)、本能寺の変のあと、羽柴秀吉が織田信孝と対立した際、つまり賎ケ岳合戦の一環として、滝川一益に攻められて峯城は陥落するが、秀吉方により奪還され、織田信雄が接収する。
天正12年(1584)に羽柴秀吉と織田信雄が対立すると、小牧・長久手合戦の一環として、峯城は秀吉方に攻められ、落城した。
以後、峯城には岡本宗憲が在城するが、天正18年(1590)に岡本宗憲が亀山に移封されると、峯城は廃城となったと考えられている。
歴 代 城 主 峯氏、岡本宗憲


               南側からの遠景
安楽川と八島川の合流付近に半島状に張り出す丘陵の上に築かれている。


主郭となる第一郭の南側に第二郭、北側に第三郭、さらにその北東に第四郭が、約500mに亘って連なる。主郭の西側に天守台とされる櫓台があり、また第四郭はやや離れた独立曲輪となっており、櫓台がある。南の第二郭側と、北の第四郭側とから入ることができる。
三重県指定史跡に指定されているが、城域は殆ど整備されておらず、樹木と下草に覆われており、遺構の確認が困難な状況になっている。夏場に城域に入ると、蜘蛛の巣に悩まされることになる。


第四郭への虎口。複雑な枡形が形成されているので、第四郭は羽柴秀吉の時代以降に築かれたと考えられている。 第二郭と思われる削平地


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