神 戸 城

 所 在 地   三重県鈴鹿市神戸  別 名   ―
 遺 構   石垣・堀  形 式   平城
 築 城 者   神戸氏・織田信孝  築 城 年   天正8年(1580)
 歴  史  神戸氏は、伊勢平氏の子孫、関氏の一族である。神戸(かんべ)城は1550年代に築かれた。
永禄11年(1568)、 神戸氏7代目の友盛は、織田信長に攻められ、和睦して三男信孝を養子に迎える。
天正8年(1580)、織田信孝は神戸城を拡張し、五重の天守築く。
天正10年(1582)、本能寺の変の後、織田信孝は美濃岐阜城に移る。翌年、織田信孝は羽柴秀吉と対立し、知多半島で自刃する。
文禄4年(1595)、天守が桑名城に移され、以後天守は造営されず。
慶長6年(1601)、一柳直盛が尾張黒田より入封する。寛永13年(1636)、一柳氏の転封後、城は破却される。
万治3年(1660)、石川総長が入封する。享保17年(1732)、本多忠統が河内西代より入封する。以後、本多氏7代が明治維新まで在封する。
延享3年(1746)、本多忠統は、廃城同然となっていた神戸城の再建許可を幕府から得て、着工し、寛延元年(1748)に神戸城の再建工事が終わる。
歴 代 城 主 神戸氏、織田信孝、一柳氏(5万石)、石川氏(2万石)、本多氏7代(1万石)


             本丸跡と天守台
明治8年に城は解体され、堀は埋められ、また二の丸・三の丸は神戸高校の敷地となり、現在、城址として残っているのは、本丸の一部と天守台のみ。
              天守台石垣
扁平な川原石を用いた石垣。野面積の荒々しさが美しい。不完全ではあるが、角部は算木積になっている。


織田信孝が拡張して実質的に築城した神戸城は、本丸、二の丸、三の丸とこの順に繋げられており、またこれらがそれぞれ内堀や外堀で囲まれた縄張りになっている。


現地案内板にみられる縄張


<アクセス>
神戸城跡は、三重県立神戸高校の西側に隣接してある。神戸高校の正門前の道を西方向へ通過し、次の角を南方向へ折れると50m程で、城跡の公園の駐車場がある。(2006.10.28)


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