吾輩は齢78、至って頑健である。石油一筋に42年間、定年退職を平成11年に向かえた。同年に町内会の活動に携わり以後八幡市四区の活動。老人会の活動は現在も継続中。平成22年に浅学非才の身に民児委員の新たな活動のご下命を頂いた。この重責にどれだけ従事できるのか、自信のなさが不安へとつながる。
ふと「我が物と思えば軽し笠の雪」(寶井其角)と上司が呟く句が甦り心の閊えも和らいだ、座右の銘「白首北面」を背に見守りの大切さを学ぶ現在進行形である。振り返れば18歳で社会人となりがむしゃらに勤めた。能力もないのに思いもよらぬポストを任命されたこともあり、“なぜ俺が”と不審でならなかった。その時に(寶井其角)の句と出会い、以後、下命には積極的に取り組んだ。
取引先によく問われた。あなたの趣味は、“はて、俺の趣味?”「自分を高めるための仕事」これが趣味かな。しかし家族の理解は得ているのかな。妻の主婦として母としての苦労などは無理解に等しかった。妻自身の不満は聞いたことがなく家庭のことは家内にと安心し切っており、仕事のことは家庭に持ち込まぬ主義、故に無口になることもあり。家族との和楽の大切さをおもい、己が変わらなければと反省もし実行した記憶がある。定年後「心労をかけぬように我慢した」と妻から聞かされ想い半ばに過ぎるものがあった。
退職を控え自分に出来ることはと考えた。八幡市を終の住処と決め家族がお世話になって来た恩返しにと地域活動に携わった。活動のお蔭で多くの出会いがあった。地域の交流で子どもたちや見知らぬ人たちとの会釈。中でも犬の散歩による動物を介しての温かい交流も出会いの始まりであり、花鳥風月の恩恵にも授かっていることに感謝し、八幡に住んで良かったとつくづく思う。
さて、吾が家系の寿命ギネス更新は104歳で節制すれば可能性は大である。しかし、人生に栄枯盛衰は世の習い、明日の吾が身はわからない。父親が半世紀前に泉下へと旅立った時、どんな思いを私に残したかったのだろう。それを思うと家族には「一筆言い遺し候」と元気な間に書き留めておきたい。そこで「エンディングノート」を作成することにした。公正証書にと多人はいうが、幸いに夫婦和楽に費やしたので二人の子に残す財産はなく、遺言は至極簡単である。家族への感謝と生活理念を綴り、儀式もろもろ、知人への連絡先、パソコン保存の消去など。
そうだ ”へそくり”の隠し場所も!案外身近なことが伝えきれていないことが多い。儀式のミュージックはパバロッティーの独唱曲「カルーソ」を選んでCDに保存。老人会のカラオケサロンで「別離の時は」を愛唱歌とし妻への心情は歌詞の通りである。
少ない貯えは老後の生活のために全て妻に帰属することを明記した。戒名も考えておかなければなるまい、住職に依頼、それとも自分で、泉下では戒名判断はあるのかな!「ありがとう、ありがとう、用があれば携帯に電話して。じゃ~ね」と明るく旅立ちたい。
虫の声もようやくとだえ、夜の帳に安らぎを感じるなか、「妻が梅酒で、わたしゃ焼酎」他愛もない会話に興じ、伴侶を「恐れ山」とユーモアで呼ぶゆとりも出来た。天より授かったパートナーの尽力で和楽の今があり、琴瑟相和する家庭を築けたことを忘れまい。
「恐れ山」ありがとう 最後に“人生は努力”同感 「精出せば凍る間もなし水車」
昨年11月末をもって民児委員の定年を迎え、本年からは補助員として何らかのお役に立ちたく思っている。
お世話になったメンバーの方々に御礼を申し上げます。
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