後漢書倭伝

「後漢書倭伝」

 (宋)范曄著(424頃)

 1、後漢書倭伝(原文、和訳と解説)
 2、後漢書倭伝の構成要素
 3、後漢書倭伝の魏志修正箇所

1、原文、和訳と解説

倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓東南大海の中に在り。山島に依り居をなす。およそ百余国なり。武帝、朝鮮を滅してより、使駅を漢に通ずるは三十許国なり。国はみな王を称す。世世、統を伝ふ。その大倭王は邪馬臺国に居す(今名を案ずるに邪摩惟音の訛なり)。楽浪郡境はその国を去ること万二千里、その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里なり。その地はおおむね会稽東冶の東に在り。朱崖、儋耳と相近く、故に、法俗、多くは同じくす。」

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(唐代の今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里、その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地はおおむね会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近いため、法や習俗の多くは同じである。」

 このあたりは魏志の要約ですが、後漢書の書かれた南朝、宋代には、中国は朝鮮半島から撤退しており、魏志の帯方東南を韓東南という言葉に変更しています。話が通じにくいということでしょう。後漢の歴史なので、「漢に使訳通じるところ」という書き替えもあります。帯方郡も後漢末期の中平年間、半独立国を作っていた遼東太守の公孫氏が楽浪郡南部を分割して設けたもので、後漢のコントロールは及んでいない。したがって、後漢の歴史の中には組み込めない。存在しなかったのだから。百余国は漢書地理志燕地からの知識。
「国々がみな代々、王を称している。」という記述は、後漢代の詳しい資料があったのか、伊都国王や面土国王の存在から推定したのか、はっきりしません。
 邪馬臺(ヤマタイ)という今の名は、ヤマイ音の訛だという唐の李賢注が入っています。その分析は「魏志倭人伝から見える日本1、邪馬台国か邪馬壱国か」「邪馬壱国説を支持する資料と解説」へ。
 魏志とは異なり、狗邪韓国を「倭の西北界」の国と記し倭領に含めています。倭は浙江省、福建省(会稽、東冶)の東に位置し、朱崖、儋耳という海南島に並ぶほどの南方まで島々が連なっていると考えられていました。朝鮮の李朝太宗二年(1402)に作られたという混一彊理図(右図)がその形を見せてくれます。おそらく、これは魏志や後漢書の記述に則って作られている。こういう誤解を招いた背景の一つとして沖縄ルートで呉に向かった部族がいたことを想定してもいいでしょう。後に出てくる東鯷人にその可能性があります。


土宜禾稲麻紵蠶桑 知織績為縑布 出白珠青玉 其山有丹土 氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
「土は禾稲、麻紵、蚕桑によろし。織績を知り縑布を為(つく)る。白珠、青玉を出だす。その山に丹土あり。気は温暖にして、冬夏、菜を生じ茹す。牛、馬、虎、豹、羊、カササギ無し。」

「土地は稲、からむし、養蚕に適している。糸を織ることを知っており、カトリ絹をつくる。白珠(パール)、青玉を産出する。その山には赤土がある。気候は温暖で、冬でも夏でも野菜を生じ食べる。牛や馬、虎、豹、羊、カササギがいない。」

 魏志倭人伝には「真珠」と書いてありますが、辰砂のことを真珠と言ったので、誤解を避けるため「白珠」に改めました。気「温腝」の「腝」は日偏の「日耎(ダン)=煗」(フォント無し)が「暖」と同じなので、転写間違いで月偏になったと考えられます。茹は「食べる」「菜を食べる」という意味。日本語で使う「茹(ゆ)でる」という意味はありません。魏志の「冬夏食生菜(冬夏、生菜を食べる)」を別の言葉に書き変えてあるだけです。


其兵有矛楯木弓矢或以骨為鏃
「その兵は矛、楯、木弓あり。矢はあるいは骨を以って鏃と為す。」

「その兵器には矛、楯、木の弓矢があり、骨を鏃としている。」

 魏志倭人伝では、「或鉄鏃或骨鏃」ですから、鉄と骨の鏃を使っています。より古い漢代には鉄の鏃がなかっただろうという推定でこうなったのか?漢代のなんらかのデータがあったのか?魏志には「持っているもの、いないものは儋耳珠崖(海南島)と同じだ」と書かれているし、漢書地理志粤地の儋耳珠崖は「骨を鏃としている」と記されているので、漢書地理志に寄せた可能性があります。


男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差 其男衣皆横幅結束相連 女人被髪屈紒 衣如單被貫頭而著之 並以丹朱坋身如中國之用紛也
「男子はみな面に黥し、身に文す。その文の左右大小を以って尊卑の差を別つ。その男衣はみな横幅にして結束し相連ぬ。女人は被髪屈紒す。衣は単被の如くして、頭を貫きてこれを著る。並びに、丹朱を以って身に坋し、中国の粉を用ひるが如くなり。」

「男子は顔に墨を入れ、身に模様の入れ墨をする。その模様の左右や大小の違いが尊卑の差を区別している。その男子の衣服はみな横幅のある布を結んでつなげている。女子はおでこに髪を下ろし、うしろは折り曲げて結う。衣服は掛け布団のような一重の布に頭を入れて着る。赤い顔料を身にまぶすが、これは中国でおしろいを用いるようなものである。」

 黥というのは線や点のような単純な入れ墨かもしれません。面積の狭い顔には複雑な模様を入れられないと思えます。文は竜や蛇などの絵柄でしょう。女子の衣服は掛け布団のような一重の布に穴を開けて頭を入れているというのが、魏志の描写です。頭を貫き入れるのだから、穴が開いているくらいわかるだろうと思ったのか、省略されて簡単になっています。


有城柵屋室 父母兄弟異處 唯會同男女無別 飲食以手而用籩豆 俗皆徒跣 以蹲踞為恭敬 人性嗜酒 壽考至百餘歳者甚衆
「城柵、屋室あり。父母、兄弟は處を異にす。ただ、会同は男女の別なし。飲食は手を以ってし、籩豆を用ふ。俗はみな徒跣す。蹲踞を以って恭敬と為す。人の性は酒を嗜む。寿考にして、百余歳に至るは甚だ衆し。」

「城柵や屋根のような住まいがある。父母と男子は別の場所にいる。ただ、集会時に男女の区別はない。手づかみで飲み食いし、食器に竹製や木製の高坏を用いる。風俗はみな裸足で、蹲踞することで恭しさをあらわす。人の性質は酒を好む。長生きで百余歳に至るものが甚だ多い。」


國多女子 大人皆有四五妻其餘或兩或三 女人不淫不妒 又俗不盗竊少爭訟 犯法者没其妻子重者滅其門族
「国は女子多し。大人はみな四、五妻あり。その余はあるいは両、あるいは三なり。女人は淫せず、妒せず。また、俗は盗竊せず、争訟少なし。法を犯す者はその妻子を没し、重者はその門族を滅す。」

「国は女子が多く、大人はみな四、五人の妻がある。それ以外の者は二人か三人である。女性は姦淫しないし、嫉妬もしない。また、その風俗では、盗窃はないし、争いごとも少ない。法を犯した者はその妻子の身分を奪って奴隷にし、重犯者はその一族を滅ぼす。」


其死停喪十餘日 家人哭泣不進酒食而等類就歌舞為楽
「その死、停喪は十余日なり。家人は哭泣し、酒食を進めずして、等類は歌舞に就き楽を為す。」

「死に際したとき、かりもがりは十余日。家族は泣き叫び、酒食をあまりとらないが、縁者は歌ったり舞ったり、音楽をかなでたりする。」

 喪中の期間と家族や関係者の行動が記されています。晋書、賀循伝に「俗多厚葬 及有拘忌廻避歳月停葬不葬者循皆禁焉(俗は厚葬多し。及び、忌みに拘りて回避し、歳月、停喪不葬あるは、循みな禁ず)」という文があります。呉にある武康県の令となっていた賀循の事績です。停葬はしばらく死体を置いておくこと(殯、かりもがり)らしい。隋書地理志荊洲に同様の記述があります。葬らないのは不葬ですから、それとは少し違う。停葬とすれば、葬る途中で止めたような感じになる。しばらくすると葬るのだが、死体はそのまま置いておく。そういう行為を表現するのに停喪という言葉が作られたようです。魏略逸文では扶余に停喪という言葉が見られます。扶余も南方系の風俗を持っている。


灼骨以卜用決吉凶 行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰 若在塗吉利則雇以財物 如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之
「骨を灼き、以って卜し、用ひて吉凶を決す。行来して海を渡るには、一人をして、櫛沐させず、肉を食らはせず、婦人を近づけずせしむ。名づけて持衰と曰ふ。もし塗に在りて吉利ならば、則ち財物を以って雇す。もし病疾や害に遭へば、持衰が謹まずと為すを以って、さらに共にこれを殺す。」

「骨を焼き、占って吉凶を決めるのに用いる。海を渡って行き来する時、一人に、くしけずったり、体を洗ったりさせず、肉を食べさせず、婦人を近づけさせないようにする。これをジサイと呼んでいる。もし途中に問題がなければ財物を支払う。もし病気のような害にあったりすればジサイが謹まなかったとして、みなでこれを殺す。」

 ここまでの記述は魏志倭人伝を要約したものですが、わずかな違いがあります。重犯罪者の一族が滅ぼされるか(後漢書)、奴隷にされるか(魏志)とか。


建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
「建武中元二年、倭奴国が貢を奉り朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす。安帝、永初元年、倭国王帥升等が生口百六十人を献じ、願ひて見を請ふ。」

「建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。安帝永初元年(107)、倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内して天子にお目にかかることを願い出た。」

 范曄はたくさんある後漢書を新たに整理統合した(衆家後漢書を刪す)と宋書范陽伝に記されていますから、今は失われた先行後漢書等に奴国の朝貢などの記述があったのだと思われます。朝貢時にわかることしか書いていませんから、おそらく原資料は光武帝や安帝の起居注で、東夷伝というようなものではないでしょう。それが先行後漢書のどれかに採用されていたらしい。范曄の時代に残っていたのだから、百四十年ほど先立つ魏志の編纂者、陳寿も当然このデータを知っており、「漢の時、朝見した者がいる。」と書いています。しかし、魏の歴史とは関係がないので、過去の出来事のまとめとして簡単に触れているのみです。倭国の極南界(最も南の境界)に奴国が存在するはずなので、魏志では、所在地のはっきりしないその他の国の最後に奴国を付け加え、ここが女王の境界の尽きるところと記しています。魏志倭人伝では奴国が二つになってしまいましたが、最後の奴国は、おそらく先行後漢書のこの極南界の奴国のデータに基づいて陳寿が付け加えたものです。
 安帝永初元年(107)の倭国王帥升は、北宋本通典では倭面土国王帥升となっており、こちらが原型と思われます。当時は倭国王と呼ばれるほどの統一君主は存在しなかったでしょう。

桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語 居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛 法俗厳峻
「桓霊の間、倭国は大いに乱れ、さらに相攻伐し、歴年、主なし。一女子ありて、名は卑弥呼と曰ふ。年は長にして嫁せず。鬼神道に事へ、能く妖を以って衆を惑はす。ここにおいて共に立て王と為す。侍る婢は千人。見有る者は少なし。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞語を伝ふ。居所、宮室、樓観は城柵し、みな兵を持ちて守衛す。法俗は厳峻なり。」

「桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。高齢だったが、独身で、鬼神道につかえ人々を惑わし操るのに長けていた。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。侍女千人が付き従っている。面会した者はほとんどいないが、ただ男子一人がいて、飲食物を給仕し、言葉を伝える。住まいや宮殿、高層の神を祭る場所は城柵で囲い、みな兵器を持って守っている。法習慣は非常に厳しい。」

 桓帝の在位は147~167年、霊帝は168~188年ですから、167~168年を中心に両帝の間にまたがって倭国大乱を考えれば良いようです。梁書は霊帝光和中(178~183)と書いていますが、これは面土国王帥升が訪れた107年に、魏志にある、「住むこと七、八十年で倭国が乱れ相攻伐して年を経た。」という記述を重ねたもので、机上の計算です。光和中というデータが存在したわけではありません。面土国王が107年頃に新たに移住して揉め事を起こしたと考えているわけです。更に相攻伐以下は魏志の要約ですが法俗厳駿という言葉が付け加えられています。(参考資料、「卑弥呼の鏡、2 邪馬壱国は越人の国であること。その移住時期」


自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 自女王國南四千餘里至侏儒國 人長三四尺 自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國 使驛所傳極於此矣
「女王国より、東、海を渡ること千余里にして拘奴国に至る。みな倭種といへども女王に属せず。女王国より南、四千余里にして侏儒国に至る。人長は三、四尺。侏儒国より東南、船で行きて一年にして裸国、黒歯国に至る。使駅伝ふる所はここに極まる。」

「女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。みな倭種であるけれども女王には属していない。女王国より南、四千余里で侏儒国に至る。人の背丈は72cmから96cmである。侏儒国から東南、船で行くこと一年で裸国、黒歯国に至る。交流の可能な国はここで終りになる。」

 魏志では南にある狗奴国を東の国と「修正」しました。勘違いとか間違いとか考えるのは范曄に失礼です。この程度の漢文は日本の高校生でも間違わない。まして、秀才の誉れが高かった范曄が自国語を読むのに。


會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 又有夷洲及澶洲 傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還遂止此洲 丗丗相承有數萬家 人民時至會稽市 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來
「会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。また、夷洲、および澶洲有り。伝へて言ふ、秦の始皇は方士、徐福を遣はし、童男女数千人を将ゐて海に入り、蓬莱、神仙を求むるも得ず。徐福は誅を畏れ、あへて還らず、この洲に止まると。世々、相承け、数万家有り。人民が時に会稽の市に至る。会稽東冶県の人、海に入りて行き、風に遭ひ、流れ移りて澶洲に至る者有り。在る所は絶えて遠く、往来すべからず。」

「会稽郡の海外に東鯷人がいる。分かれて二十余国を作っている。また、夷洲と澶洲がある。こう言い伝えられている。秦の始皇帝は方士の徐福を派遣し、子供の男女数千人を率いて海に入り、蓬莱神仙を求めさせたが出来なかった。徐福は罪に問われるのをおそれ、敢えて帰らず、ついにこの島に止まった。代々受け継がれて数万戸がある。その人民が時おり会稽の市にやってくる。会稽東冶県の人で、海に入り、風に流されて澶洲に着いた者がいるが、所在地はあまりにも遠く、往来することはできない。」

 この記述は会稽海外の東方、倭に関連するデータかもしれないと范曄が付け加えたものです。漢書地理志呉地、史記、三国志呉志の記述が整理されています。時間的には最も先立ちますが、確証がないので倭伝の最後に記したものでしょう。范曄が後漢書を編纂する以前の東晋、義煕九年(413年)の神功皇后と思われる遣使、宋書倭国伝の倭王讃(応神天皇)の遣使(421、425)の遣使により、秦から渡来したと伝える秦氏の存在が伝わっていた可能性もあります。
(日本書紀の応神天皇時代の秦氏の渡来伝説は嘘です。弥生の興亡「中国、朝鮮史から見える日本」を読まなければ、理解できませんが「弥生の興亡、帰化人の真実」を参照していただければと思います。
 徐福の漂着した島、澶洲が済州島であることに関しては、「徐福と亶洲」


2、後漢書の構成要素

 後漢書倭伝は、「後漢の関連事項としての倭」を書いたものですから、魏志倭人伝からの要約引用+修正は地理、風俗情報に限られます。後漢代に即位した卑彌呼のこと以外、魏との交流に関する記述は書くことができません。魏も壱与も存在しなかったのだから。そのあたりの認識を欠く人が多いようです。地理、風俗に関して、魏志を上回る記述はなく、すべて魏志の記述の範囲内に収まっており、その要約であることが明らかです。
 要約というのは、魏志をわかりやすく整理しながら、自分の文章で手短に書き改めたということです。だから後漢書の方が魏志より記述のまとまりがある。言葉も統一されている。しかし、范曄の解釈の結果を書いているのだから、情報量は原典の魏志の方がはるかに多いのです。

 後漢書倭伝は次の六つの要素で構成されています。
1、魏志倭人伝の修正要約
 後漢書編纂直前(413、421、425年)に倭の遣使による最新情報が入っているので修正可能。

2、范曄の解説
3、唐の李賢による注
4、先行後漢書と思われる史料の要約
5、漢書地理志呉地からの引用
6、三国志呉書や史記の整理

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同土宜禾稲麻紵蠶桑知織績為縑布出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓矢或以骨為鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆横幅結束相連女人被髪屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹朱坋身如中國之用紛也有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆俗皆徒跣以蹲踞為恭敬人性嗜酒壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒又俗不盗竊少爭訟犯法者没其妻子重者滅其門族其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞為楽灼骨以卜用決吉凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立為王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛法俗厳峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至侏儒國人長三四尺自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣會稽海外有東鯷人分為二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來


3、後漢書の魏志修正箇所

 魏志倭人伝と比較すると、范曄の勘ちがいとは言い難い修正があり、何らかの別のデータが加えられた可能性を指摘できます。范曄が後漢書の著述に取りかかる十年ほど前の東晋、義煕九年(413)に倭国の遣使が記されています(晋書安帝紀)。これは年代的に神功皇后時代に該当し、後漢書の記述は記、紀に見られる神功皇后時代の日本の政治環境に完璧に一致しています。その使者の伝えたデータが東晋の記録として保存され、范曄に採用されたのではないか。このことは「魏志倭人伝から見える日本1、邪馬台国か邪馬壱国か」に記していますので、詳しく知りたい方は参照していただければと思います。

 修正(内容の変化)は以下の箇所です。

魏志倭人伝 後漢書倭伝
●今、使訳通ずるところは三十国
●その(倭の)北岸、狗邪韓国に到る
●使駅、漢に通ずるは三十許国
●その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里
後漢書は狗邪韓国を倭領に加えたため、国数が増え、許(ほど)という文字を加えました。
●郡より女王国に至るまで万二千余里 ●楽浪郡境はその国を去ること万二千里
当時の中国人の世界観では、東、西、南、北、中央、距離はすべて万二千里のブロックと考えられていたため、魏志の万二千余里は間違いだと余を省きました。単なる省略と解してもかまいません。
●南、邪馬壹国に至る。女王の都する所 ●その大倭王は邪馬臺国に居す
邪馬壹国を邪馬臺国に改めています。
●真珠、青玉を出す。その山に丹あり ●白珠、青玉を出す。その山に丹土あり
真珠は日本ではパールの意味ですが、当時の中国では丹砂の意味になるようで、正しく白珠としました。丹も丹砂のことなので、丹土(赤土)と改めています。あるいは魏志の文字抜けか。
●或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠し、これを恭敬となす ●蹲踞をもって恭敬となす
膝を付ける、付けないにかかわらず、手は地面に付ける。それが重要なのに、後漢書は蹲踞のみで恭しさを表すとしています。誤解というより風俗の変化を思わせますが、誤解と解しても問題ありません。
●その法を犯す者は、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸及び宗族を没す ●法を犯す者はその妻子を没し、重者はその門族を滅ぼす
●法俗厳峻
重犯者とその一族は魏志では奴隷にされるだけですが、後漢書では死刑になります。そして、法俗は厳峻(非常にきびしい)という魏志にはない言葉がみられ、ここでも風俗の違いを感じさせます。
●その(女王国の)南に狗奴国あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず
●女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種
●女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種といえども女王に属さず
後漢書は、魏志の四十行ほど離れた記述を合成し、魏志では方向の異なるまったく別の国を一つにしてしまいました。これを范曄の読み間違いとするのは范曄に失礼です。
●年すでに長大 ●年長
魏志、正始八年(247)の頃の卑弥呼は年長大でした。しかし、即位した後漢代の倭国大乱直後(170年代前半)はそれより七十年ほど遡るわけですから、ずっと若い。そこで後漢書は大を省きました。それでも年長ですから、卑弥呼は正始中、百数十歳と考えられていたことも明らかになります。後漢書は百余歳にいたるものがはなはだ多いと書いており、卑弥呼はその中でも最長寿というわけです。



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