隋書地理志 荊州


隋書地理志 荊州

尚書荊及衡陽惟荊州 上当天文自張十七度至軫十一度 為鶉首 於辰在巳 楚之分野
「尚書、荊及び衡陽はこれ荊州。上、天文、張十七度より軫十一度に至るに当たり、鶉首と為す。辰に於いては巳に在り。楚の分野なり。」

「尚書では、荊および衡陽が荊州である。上は、天文の張十七度から軫十一度までに当たり、鶉首となす。辰においては巳にあり。楚の分野である。」


其風俗物産頗同揚州 其人率多勁悍決烈蓋亦天性然也 南郡夷陵竟陵沔陽沅陵清江襄陽春陵漢東安陸永安義陽九江江夏諸郡多雜蛮左 其與夏人雑居者則與諸華不別 其僻処山谷者則言語不通 嗜好居処金異頗與巴渝同俗 諸蛮本其所出承盤瓠之後 故服章多以班布為飾 其相呼以蛮 則為深忌
「その風俗、物産は頗る揚州に同じ。おほむね勁悍、決烈多し。蓋し、また天性然なり。南郡、夷陵、竟陵、沔陽、沅陵、清江、襄陽、春陵、漢東、安陸、永安、義陽、九江、江夏諸郡は雑蛮左多し。その夏人と雑居する者は、則ち、諸華と別たず。その僻所、山谷の者は、則ち、言語通ぜず。嗜好、居所、金異?は頗る巴、渝と同俗なり。諸蛮は、本、そのい出る所は盤瓠の後と承(う)く。故に、服章は斑布を以って飾と為すこと多し。その相呼ぶに蛮を以ってす。則ち、深忌と為す。」

「その風俗と物産はほとんど揚州と同じである。その人は、おおむね強くて荒々しく、意志が強い。おそらく天性がそうなのである。南郡、夷陵、竟陵、沔陽、沅陵、清江、襄陽、春陵、漢東、安陸、永安、義陽、九江、江夏の諸郡は様々な蛮族が多い。中国人と雑居する者は、中国人と区別できない。僻地や山谷にいる者は言葉が通じない。嗜好や住居、金異?は巴(渝は渝水=巴の嘉陵江)とほとんど同じ風俗である。諸蛮はもとその出るところは槃瓠の後と受け継いでいる。故に、服の模様は班布(縞模様の布)を飾りにするものが多い。お互いを呼ぶのに蛮(バン、マン)を用い、則ち深いはばかりと為している。」

 魏志倭人伝には、卑弥呼の献上物のなかに班布が記されている。班は「分ける」という意味で、班布がどういうものかわからなかったが、ここへきて、模様が分かれた布、縞模様の布だとわかった。
 日本には、「あなた」という意味で、「おはん」「おまん」を使う土地がある。「お」は接頭語なので、「はん」「まん」が実体である。呉系楚人が渡来している。この荊州の槃瓠の後裔の言葉と関係するのかどうか?「御前(おんまえ)」からの転訛なのか?中国人には自分たちの言葉を知られたくなかったようである。


自晋氏南遷之後 南郡襄陽皆為重鎮 四方湊会 故益多衣冠之緒稍尚礼義経籍焉 九江襟帯所在江夏竟陵安陵各置名州為藩鎮重寄 人物乃與諸郡不同
「晋氏、南遷の後より、南郡、襄陽はみな重鎮と為り、四方は湊会す。故に、益は衣冠の緒多く、ようやく礼儀、経籍を尚ぶ。九江襟帯の所在、江夏、竟陵、安陵はそれぞれ名州を置き、藩鎮と為し、重きを寄せる。人物は乃ち諸郡と同じからず。」

「晋氏が南に遷った後(東晋)より、南郡、襄陽はみな重要拠点となり、四方から物資が集まる。故に、益が衣冠のきっかけになることが多く、ようやく礼儀、経籍(儒学に関する書)を尊ぶようになった。洞庭湖を取り巻くように所在する江夏郡、竟陵郡、安陵郡(安陸?)はそれぞれ名州を置き、兵を置いた拠点と為して重く寄りかかっている。人物はすなわち諸郡と同じではない。」

 商業が盛んになり、収入も増えて衣冠をそろえられたし、教養を高める余裕も生まれたということであろう。


大抵荆州率敬鬼 尤重祠祀之事 昔屈原為制九歌 盖由此也 屈原以五月望日赴汨羅 土人追到洞庭不見 湖大舡小 莫得済者 乃歌曰何由得渡湖 因爾鼓櫂争帰 競会亭上 習相伝為競渡之戲 其迅楫斉馳 櫂歌乱響喧振水陸 観者如雲 諸郡率然而南郡襄陽尤甚
「大抵、荊州はおほむね鬼を敬う。尤も祠祀の事を重んず。昔、屈原は九歌を制するを為す。蓋し此れに由るなり。屈原は五月望日を以って汨羅に赴く。土人は追ひて洞庭に到るも見えず。湖は大にして舡は小。済りを得る者なし。乃ち歌ひて曰く、何に由りて湖を渡るを得。因りて、鼓櫂し帰るを争い、競いて亭上に会す。習ひ相伝へて競渡の戯と為す。その迅い楫を斉しく馳せ、櫂、歌は乱れ響き水陸を喧振す。観者は雲の如し。諸郡はおほむね然り。南郡、襄陽は尤も甚だし。」

「たいてい荊州はみな鬼を敬う。とりわけ祠を立て祀ることを重んずる。昔、屈原が”九歌”を作ることができたのは、おそらくこのことによるのである。屈原は五月十五日に汨羅(ベキラ=洞庭湖に注ぐ川の名)に赴いた。土地の人は追いかけ、洞庭湖に到ったが見つからなかった。湖は大きく船は小さい。渡ることができたものはいない。すなわち、歌って言った『何によって湖を渡ることができるのか?』。そういうわけで、櫂を漕いで争うように帰り、競いあって宿のほとりに集まった。習い、相伝えて競渡の戯(ボートレース)と為した。そのすばやい櫂を揃えて走らせ、櫂や歌は乱れ響き、水陸をにぎやかに振るわせる。見る者は雲の如く多い。諸郡はおおむねこのようで、南郡と襄陽はとりわけ甚だしい。」

 屈原の捜索がボートレースの始まりのように書いてあるが、おそらく、祈雨の水神の祭りが起源であろうという。五月半ばなら田植えの前ではないか。


二郡又有牽鉤之戯 云従講武所出 楚将伐呉以為教戦 流遷不改習以相伝 鉤初発動皆有鼓節 群譟歌謡 振驚遠近 俗云以此厭勝用致豊穣 其事亦伝于他郡 梁簡文之臨雍部 発教禁之 由是頗息
「二郡にはまた牽鈎の戯あり。講武所より出づると云ふ。楚は将に呉を伐たんとし、以って、戦を教ふるを為す。流れ遷りて、習ひを改めず、以って相伝ふ。鉤は初め発動するに、みな、鼓節あり。群れ譟ぎて歌謡し、振りて遠近を驚かす。俗に云ふ。これを以って勝を厭(お)し、用ひて豊穣を致すと。その事はまた他郡に伝はる。梁、簡文の臨雍部は教を発し、これを禁ず。これに由り、頗る息む。」

「二郡には、また”牽鈎の戯(綱引き)”がある。講武所から出たという。楚は将に呉を伐たんとし、戦い方を教えた。時が流れ遷っても改めず、習い相伝えた。綱が初め動き出すときは、みな鼓の合図がある。群れ騒いで歌い、振りまわして遠近を驚かせる。俗には、このことで勝ちを祈願し、用いて豊穣を招くのだという。そのことはまた他郡に伝えられた。梁の簡文帝の臨雍部は、”教”を発してこれを禁じた。このことにより、ほとんど止められた。」

 日本神話では出雲の八束水臣津野の命の国引き物語がある(出雲国風土記)。古代から神事として綱引きが行われていたと思われる。楚の軍事演習、おそらく体力強化のために行われたということであろうが、これも豊穣を祈る祭りとして行われていたものではないか。縄は蛇=水神にかかわる。


其死喪之紀 雖無被髪袒踊亦知号叫哭泣 始死即出屍於中庭不留室内 歛畢送到山中 以十三年為限 先択吉日 改入小棺 謂之拾骨 拾骨必須女婿 蛮重女婿 故以委之 拾骨者除肉取骨棄小取大 当葬之夕 女婿或三数十人 集会于宗長之宅 着芒心接蘺 名曰茅綏 各執竹竿長一丈許 上三四尺許猶帯枝葉 其行伍前却 皆有節奏歌吟叫呼 亦有章曲 伝云盤瓠初死置之於樹 乃以竹木刺而下之 故相承到今以為風俗 隠諱其事謂之刺北斗 既葬設祭 則親疎咸哭 哭畢家人既至 但歓飲而帰 無復祭哭也
「その死喪の紀は、被髪、袒踊は無けれど、また号叫、哭泣を知る。始め、死して即ち屍を中庭に出だし、室内に留めず。歛(こ)ひて畢(つい)に送りて山中に到る。十三年を以って限りと為す。先に吉日を択び、改めて小棺に入れる。これを拾骨と謂ふ。拾骨は必ず女婿を須(もち)ゐる。蛮は女婿を重んず。故に、以ってこれに委ぬ。骨拾は、肉を除き、骨を取る。小を棄て、大を取る。これを夕に葬るに当たり、女婿あるいは三、数十人は、宗長宅に集会す。芒芯を着け蘺を接す。名は茅綏と曰ふ。それぞれ長さ一丈ばかりの竹竿を執る。上の三、四尺ばかりは、なほ枝葉を帯びる。その行は前却に伍し、みな、節奏、歌吟、叫呼あり。また、章曲あり。伝えて云ふ。槃瓠は初め死してこれを樹に置く。乃ち、竹木を以って刺し、これを下す。故に、相承りて今に到り、以って風俗と為ると。諱みてその事を隠し、これを北斗を刺すと謂ふ。既に葬るや、祭を設け、則ち、親疎みな哭す。哭畢(をは)り、家人既に至るや、ただ歓飲して帰る。祭哭を復すること無きなり。」

「その死や喪の決まりは、髷を解き肌脱ぎしての踊りはないとはいえども、また、号叫、哭泣(死をいたんで泣き叫ぶこと)を知る。始め、死ぬとすぐに屍を中庭に出し、室内に留めない。ついには送って山中に持っていってもらう。十三年を期限として、先に吉日を選び、改めて小さな棺に入れる。これを拾骨という。拾骨は必ず娘婿がおこなう。蛮は娘婿を重んずるが故にこれに委ねるのである。拾骨は肉を除き、骨を取る。小は棄て、大を取り、これを夕方に葬るに当たり、娘婿や三十から数十人は部族長の家に集まる。ススキの軸にクサビエをつないだものを着ける。名は茅綏(ボウスイ)という。それぞれ長さ一丈ばかりの竹竿をとる。上方の三、四尺ばかりはまだ枝葉が付いている。その行くときは隊列を組み行きつ戻りつする。みな、調子をとって歌い叫ぶ。また、まとまった曲もある。伝えていう。”槃瓠は始め死んだとき木の上に置いた。そこで、竹木を刺してこれを下ろした。ゆえに、相伝えて今に到り風俗になったのだ”と。そのことは隠してはばかり、これを北斗を刺すという。すでに葬ると祭りを設ける。親しい人もそうでない人もみんな哭する。哭が終わると、家の人がやって来て、ただ、にぎやかに酒を飲んで帰る。再び祭りや哭をすることはない。」

 三重県鳥羽市、神島のゲーター祭も長い竹竿で丸い輪を持ち上げ、下に落とす。太陽の復活を祈る祭りとか諸説あるらしいが、はっきりとはしないようである。
 盤瓠の子孫の「北斗を刺す」が葬儀の儀式の一環として行われているから、太陽の死にも当てはまるだろう。起源は同じかもしれない。


其左人則又不同 無衰服不復魄 始死置屍館舎 隣里少年各持弓箭 遶屍而歌以箭扣弓為節 其歌詞説平生楽事以至終卒 大抵亦猶今之挽歌 歌数十闋 乃衣衾棺歛送往山林 別為廬舎安置棺柩 亦有於村側瘞之 待二三十喪 総葬石窟
「その左人は、則ち、また同じくせず。衰服なく、魂を復さず。始め、死するや屍を館舎に置く。隣里の少年はそれぞれ弓箭を持ち、屍を遶(かこ)みて歌ひ、箭を以って弓を扣(たた)き、節を為す。その歌詞は平生は事を楽しみ、以って終卒に至ると説く。大抵は、また、なほ今の挽歌のごとし。歌は数十で闋(や)む。乃ち、衣、衾、棺は歛(こ)ひ、送りて山林へ往く。別に盧舎を為し、棺柩を安置す。また、村側にこれを瘞(うづ)むことあり。二、三十喪を待ち、すべて石窟に葬る。」

「その下層の人は同じ風俗ではない。喪服もなく、魄を呼び戻すこともない。始め、死ぬと屍を大きな建物に置き、村里の少年がそれぞれ弓矢を持ち、屍を囲んで歌い、矢で弓をたたいてリズムを作る。その歌詞は常日ごろは事を楽しみ、終わりに至ったというものである。たいていは今の挽歌のようである。歌は数十で終わる。衣とふとん、柩は送って山林へ持っていってもらう。別に仮小屋を作って棺を安置する。また村の側にこれを埋めることもある。二、三十の喪を待ち、最終的には石窟に葬る。」

 
長沙郡又雑有夷蜒名曰莫傜 自云其先祖有功常免傜役故以為名 其男子但著白布褌衫更無巾袴 其女子青布衫班布裙 通無鞋屩 婚嫁用鉄鈷莽為聘財 武陵巴陵零陵桂陽澧陽衡山煕平皆同焉 其喪葬之節頗同於諸左云
「長沙郡はまた雑し、夷蜒あり。なは莫傜と曰ふ。自ら云ふ。その先祖は功ありて、常に徭役を免かる。故に以って名と為すと。その男子はただ白布の褌、衫を著け、更に巾袴なし。その女子は青布衫、班布裙。通して鞋屩なし。婚嫁は鉄の鈷莽を用ひ聘材と為す。武陵、巴陵、零陵、桂陽、澧陽、衡山、煕平はみな同じ。その喪葬の節は頗る諸左に同じと云ふ。」

「長沙郡はまた入り混じって、夷蜒があり、名は莫傜という。自ら、その先祖に功があり、常に傜役を免ぜられたため、名にしたという。その男子は白布のフンドシと上着を著け、はかまはない。その女子は青布の上着と縞模様のスカートをつける。男女とも皮ぞうり、草ぞうりはない。嫁入りには鉄の火のし(アイロン)を用いて結納とする。武陵、巴陵、零陵、桂陽、澧陽、衡山、煕平はみな同じである。その葬式の決まりは、諸々の下層階級とほとんど同じという。」

 莫傜(バクヨウ)とはヤオ族である。祖先の槃瓠が犬戎の房王を倒すという功労を挙げたので税を免除されたと言い伝えている。杜甫の「歳晏行」という詩にも洞庭湖周辺の莫傜が現れる。
 巴と楚の中心的な蛮はトウチャ族である。「諸蛮は盤瓠の後と伝えている。」と書いてあるから、現在よりも複雑に区別していたのかもしれない。私の調べたところではトウチャ(土家)族からヤオ(瑤)族が派生している。そのヤオ族の一部が長江南東部(浙江省、福建省)へ移動してショー族が生まれた。卑弥呼はその後裔ということになる。斑布や鬼の祭り、綱引き、ゲーター祭の形に似た「北斗を刺す」葬儀。履き物を持たないなど、日本の風俗に近いものがある。こういうことが気になって隋書地理志の一部を翻訳、公開する気になったのである。

隋書地理志 揚州