隋書地理志 揚州


隋書地理志 揚州

揚州於禹貢為淮海之地 在天官自斗十二度至須女七度為星紀 於辰在丑 呉越得其分野
「楊州は禹貢に於いては、淮海の地と為す。天官に在りては、斗十二度より、須女七度に至り、星紀と為す。辰に於いては丑に在り。呉越がその分野を得る。」

「揚州は禹貢に於いては淮、海の地となす。天官に在りては斗十二度より須女七度に至り、星紀となす。辰に於いては丑にあり。呉越がその分野を得る。」

「禹貢」は書経(尚書)の一篇。中国黎明期の地理書で、当時、明確な境界はなかった。おそらく淮水中流域の南から長江の南を含む地域で、海に至るまでを揚州としていたのであろう。夏王朝以前のことなので、長江の南といっても、会稽付近までではないか。あとは天文に関する記述でよくわからない。


江南之俗 火耕水耨食魚與稲 以漁猟為業 雖無蓄積之資 然而亦無饑餒 其俗信鬼神好淫祀 父子或異居 此大抵然也
「江南の俗は火耕水耨し、魚と稲を食らひ、漁猟を以って業と為す。蓄積の資なしといへども、しかしまた饑餒なし。その俗、鬼神を信じ、淫祀を好む。父子或いは居を異にす。ここはたいてい然るなり。」

「江南の風俗は、火で耕し、水で草切る。魚と稲を食べ、漁猟をもって生活手段としている。蓄積の資財はないが、それなのにまた飢えることもない。その風俗は鬼神を信じ、淫祀を好む。父と子は住まいを別にする場合がある。ここは大抵そうである。」

 このあたりは日本の風俗と共通する。魏志倭人伝の卑弥呼の「鬼道」は、儒者の立場から見れば淫祀になる。同じく倭人伝に「父母兄弟臥息異所=両親と男子は別の所で眠る」と記されているが、表現が異なるだけで、若者(男子)が家族と離れ、若者頭の指揮下に入って共同生活する若者組の風俗である。


江都弋陽淮南鍾離蘄春同安廬江歴陽 人性並躁勁 風気果決 包蔵禍害 視死如帰 戦而貴詐 此則其旧風也 自平陳之後 其俗頗変 尚淳質好倹約 喪紀婚姻率漸於礼 其俗之敝者稍愈於古焉 丹陽旧京所在
「江都、弋陽、淮南、鍾離、蘄春、同安、廬江、歴陽、人性は並びて躁勁。風気は果決。禍害を包蔵し、死を視るに帰するが如し。戦いて詐を貴ぶ。これは則ちその旧風なり。平陳よりの後ろは、その俗は頗る変はり、淳質を尚び、倹約を好む。紀を喪なひ婚姻するも、やうやく礼に率がひ、その俗の敝れはやうやく古にいゆ。丹陽は旧京が在する所なり。」

「江都、弋陽、淮南、鐘離、蘄春、同安、廬江、歴陽、人の性質は、地域一並びで、軽々しくて強い。気性は、思い切りがよく、災難を包み隠し、死を少しも恐れない。戦って、はかりごとを貴ぶ。これは則ち、その昔の風習である。平陳から向こうは、その風俗はかなり変化する。質素を尚 び倹約を好む。規範を失い婚姻していたが、しだいに礼に従うようになり、その風俗の破れはようやく昔のようになおってきた。丹陽は昔の都があった所である。」

 最初の地名は淮河と長江に挟まれた地域のもの。呉であったり、楚であったり、越であったり。戦国時代にはすべて楚領になった。平陳郡、丹陽は長江の南にある。長江を渡れば風俗が異なってくる。


人物本盛小人率多商販 君子資於官禄 市廛列肆埒於二京 人雜五方故俗頗相類 京口東通呉会南接江湖西連都邑亦一都会也
「人、物は本より盛んにして、小人は多くは商販に率がひ、君子は官禄に資す。市廛の列肆は二京に埒(ひと)し。人は五方が雑(まじ)る 故に、俗は頗る相類す。京口は東は呉、会に通じ、南は江湖と接し、西は都邑が連なる。また、一都会なり。」

「人、物は元々豊かで、庶民は、多くは、商売に従事し、地位の高い者は官の報酬をもらっている。市の店は並んで連なり二京(長安、洛陽)に等しい。人は五方が混じるが故に、風俗は(二京に)非常に似ている。京口は東は呉や会稽に通じ、南は江や湖に接し、西は都邑が連なる。また一都会である。」


京口は長江河口部近く。江は北に接しているはずなのだが。


其人本並習戦 号為天下精兵 俗以五月五日為闘力之戯 各料強弱相敵事類講武 宣城毗陵呉郡会稽餘杭東陽 其俗亦同 然数郡川沢沃衍有海陸之饒 珍異所聚 故商賈並湊 其人君子尚礼庸庶敦龐 故風俗澄清而道教隆洽 亦其風気所尚也
「その人、本、並びて戦を習ひ、号して天下精兵と為す。俗は五月五日を以って闘力の戯と為す。それぞれ強弱を料(はか)り相敵す。事は講武に類す。宣城、毗陵、呉郡、会稽、餘杭、東陽、その俗はまた同じ。然るに、数郡は川沢、沃衍の海陸の饒あり。珍異聚る所、故、商賈並びて湊(あつま)る。その人、君子は礼を尚び、庸庶は敦龐なり。故に、風俗は澄清にして、道教隆洽す。また、その風気が尚ぶ所なり。」

「その住民は、元、そろって戦を習い、天下精兵と号した。風俗では五月五日を「闘力の戯」と為し、それぞれが強弱をおしはかって互いに敵しあう。それは武術の練習の類である。宣城、毗陵、呉郡、会稽、餘杭、東陽、その風俗はまた同じである。しかし、数郡は川や湿地、沃野の海陸の豊かな産物があり、珍しいものが集まる所なので、商人もそろって集まる。住民の君子は礼を尊び、一般庶民は人情が厚い。故に、風俗は澄み切って、道教が広がっている。また、その気質が尊ぶ所である。」


豫章之俗頗同呉中 其君子善居室 小人勤耕稼 衣冠之人多有数婦 暴面市廛競分銖以給其夫及挙孝廉更要富者 前妻雖積年之勤子女盈室 猶見放逐以避後人 俗少争訟而尚歌舞 一年蠶四五熟 勤於紡績 亦有夜浣紗 而旦成布者俗呼為鶏鳴布
「豫章の俗は頗る呉中に同じくす。その君子は善く室に居し、小人は耕稼に勤しむ。衣冠の人、多くは数婦あり。面を暴し、市廛し、分銖を競い、以ってその夫に給ふ。及び、孝廉を挙げ、更に富を要す。前妻は積年の勤め、子女室に盈ちるも、なほ放逐を見、以って後人を避ける。俗は争訟少なくして、歌舞を尚ぶ。一年に蠶が四、五熟し、紡績に勤しむ。また、夜浣紗あり。旦に布を成すは俗に呼びて鶏鳴布と為す。」

「豫章の風俗も呉中とほとんど同じである。その君子は部屋に居ることが多く、庶民は耕作につとめる。衣冠の人の多くは数人の婦人がある。顔をさらして市の店でわずかの分量を競い、その夫に与える。及び孝行で正直であることを挙げられ、さらに冨があることを求められる。前妻は積年の勤めがあり、子供や娘が家にたくさんいても、なお追い出されて後妻を避ける。風俗は訴訟ごとが少なくて、歌舞を尊ぶ。一年に蚕が四、五回成熟し、糸つむぎに勤める。また、夜浣紗があり、夜明けに出来た布は俗に鶏鳴布と呼んでいる。」

 豫章は彭蠡沢の南、かなり内陸部である。前漢、武帝の頃は東越がこのあたりまで支配していたようである。


新安永嘉建安遂安鄱陽九江臨川廬陵南康宜春 其俗又頗同豫章 而廬陵人龐淳 率多寿考 然此数郡往往畜蠱 而宜春偏甚 其法以五月五日聚百種蟲 大者至蛇小者至蝨 合置器中 令自相啖 餘一種存者留之 蛇則曰蛇蠱 蝨則曰蝨蠱 行以殺人 因食入人腹内 食其五蔵 死則其産移入蠱主之家 三年不殺他人 則畜者自鍾其弊 累世子孫相伝不絶 亦有隨女子嫁焉 干宝謂之為鬼其実非也 自侯景乱後 蠱家多絶既無主人 故飛遊道路之中則殞焉
「新安、永嘉、建安、遂安、鄱陽、九江、臨川、廬陵、南康、宜春、その俗はまた頗る豫章に同じくす。廬陵の人は龐淳にしておほむね寿考多し。然るに、この数郡は、往々、蠱を畜ふ。宜春は偏り甚だし。その法は、五月五日を以って百種の蟲を聚める。大は蛇に至り、少は蝨に至る。合わせて器中に置き、自ずから相啖はしむ。餘一種存するはこれを留む。蛇は則ち蛇蠱と曰ひ、蝨は則ち蝨蠱と曰ひ、行ひて以って人を殺す。因って、人腹内に食入りて、その五蔵を食らふ。死すれば則ち蠱主の家に産まれて移り入る。三年、他人を殺さず。則ち、畜ふ者は自らその弊を鍾(あつ)む。累世子孫、相伝へて絶へず。また、女子の嫁に随ふあり。干宝はこれを謂ひて鬼と為すも、その実は非なり。侯景の乱より後、蠱家が絶ゆる多く、すでに主人無し。故に、道路を飛び遊び、之(ゆ)きて中(あた)るや、則ち殞(し)す。」

「新安、永嘉、建安、遂安、鄱陽、九江、臨川、廬陵、南康、宜春、その風俗はほとんど豫章と同じである。廬陵の人は人情が厚く、おおむね長寿が多い。しかし、この数郡は、時々、蠱(コ)を飼う。宜春はとりわけ甚だしい。その方法は、五月五日に百種の虫を集め、大は蛇に至り、小はシラミに至る。合わせて器の中に置き、自然に食い合いさせる。残った一種の生きているものはこれを置いておく。蛇はすなわち蛇蠱といい、シラミはすなわち蝨蠱という。それで殺人を行う。人の腹の内に食い入ることにより、その五臓を食べる。死ねば蠱主の家に生まれ移り入る。三年、他人を殺さない場合は、飼っているものが自らその弊害をあつめる。何代も子孫が伝えあって絶えない。また、女子の嫁行きに随うこともある。干宝(東晋、捜神記の作者)はこれを「鬼」だと言ったが、その実は違うものである。侯景(人名)の乱より後は、蠱家は絶えたものが多く、主人が無くなった。故に、道路に飛び遊び、当たれば命を落とす。」

 このあたりも前漢代の東越の地。会稽の西から南に広がる地名である。


自嶺已南二十餘郡 大率土地下湿 皆多瘴癘人尤夭折 南海交趾各一都会也 並所処近海多犀象瑇瑁珠璣奇異珍瑋 故商賈至者多取富焉 其人性並軽悍 易興逆節 椎結踑踞 乃其旧風 其俚人則質直尚信 諸蛮則勇敢自立 皆重賄軽死 唯富為雄 巣居崖処 尽力農事刻木以為符契 言誓則至死不改 父子別業 父貧乃有質身於子 諸獠皆然 並鋳銅為大鼓 初成懸於庭中 置酒以招同類 来者有豪富子女 則以金銀為大釵 執以叩鼓 竟乃留遺主人 名為銅鼓釵
「嶺より已南の二十余郡は、おほむね、土地下湿にして、みな、瘴癘多く、人はとりわけ夭折す。南海、交阯はそれぞれ一都会なり。並びて、所処は海近く、犀、象、瑇瑁、珠、璣、奇異、珍瑋、多し。故に、商賈至るは富を取ること多し。その人性は並びて軽悍にして、た易く逆節を興す。椎髻し、踑踞す。乃ち、その旧風なり。その俚人は、則ち、質は直にして信を尚ぶ。諸蛮は、則ち、勇敢にして自立し、みな賄を重んじ、死を軽んず。ただ、富むを雄と為す。崖処に巣居す。農事に尽力す。木を刻みて以って符契と為す。言誓すれば、則ち、死に至るも改めず。父子は業を別にす。父貧せば、乃ち、身を子に質すことあり。諸獠はみな然り。並びて銅を鋳て大鼓を為す。初め、成るや、庭中に懸ける。酒を置き、以って同類を招く。来者に豪富の子女あれば、則ち、金銀を以って大釵と為し、執りて以って鼓を叩く。竟(お)へて、乃ち、主人に留め遺す。名づけて銅鼓釵と為す。」

「嶺(中国南部の山岳地帯)より以南の二十余郡は、おおむね土地は低湿である。どこもマラリアの類が多く、人はとりわけ若死にする。南海、交阯はそれぞれ一都会である。並ぶ所処は海が近く、犀、象、タイマイ、真珠類、変わったもの、珍しいものが多く、商人が来れば利益を得ることが多い。その人の性質はおしなべて軽々しくて荒々しい。簡単に立ち上がって、法に背く。槌型の髷を結い、あぐらをかく。すなわち、その昔からの風俗である。その俚人(土地の人間)は飾り気がなく正直で、信を尊ぶ。もろもろの蛮族は勇敢で、自立している。みな贈り物を重んじ、死を軽んじる。ただ、富むことを男らしいとする。崖になった所で鳥の巣のように(上の方に)住んでいる。農業に尽力する。木を刻んで割り符にする。誓いをたてれば死に至っても改めない。父と子は仕事を別にする。父が貧しければ、子に対し、身を質にすることがある。もろもろの獠族(現在の壮族)も、みな同様である。一様に銅を鋳て太鼓を作る。初め、出来たときは、庭中に懸けて、酒を置き同類を招く。来た者に富豪の子女があれば、金銀で大かんざしを作り、手にとって鼓をたたく。終わると主人に留めて残す。銅鼓釵と呼ばれている。」

 このあたりは前漢武帝代は南越に属した。椎髻という古代越人と同じ髪型を守っている。椎髻は、燕人衛満が朝鮮半島に逃亡して、衛氏朝鮮を建てたとき、(土地の風俗に合わせ)椎髻して蛮夷の服を着たとされていて、朝鮮半島にまで広がっている。当然、日本もそうで、「みずら」のことである。銅鼓のできあがった祝儀を、金銀の大かんざしの形で渡したのであろう。


俗好相殺 多搆讎怨欲相攻 則鳴此鼓到者如雲 有鼓者号為都老 群情推服 本之旧事尉陀於漢自称蛮夷大酋長老夫臣 故俚人猶呼其所尊為倒老也 言訛 故又称都老云
「俗は相殺すを好む。讎、怨を構えること多く、相攻まむと欲す。則ち、この鼓鳴れば、到る者は雲の如し。鼓有るは号して都老と為す。群情は推服す。本、これ、旧事。尉陀は漢に蛮夷大酋長老夫臣と自称す。故、俚人はなほその尊ぶ所を呼びて倒老と為すなり。言は訛れり。故、また、都老と称すと云ふ。」

「風俗は殺し合うことを好む。あだや怨みを作りだすことが多く、互いに攻めようとする。この鼓が鳴るとやって来る者は雲のようである。鼓を持つ者を号して都老としている。群衆の心理は、押いただいて仕えている。元、これは昔の事だが、(南越王)尉陀が漢に蛮夷大酋長老夫臣と自称した。ゆえに土地の人は、やはり、その尊ぶ人を呼んで倒老と為した。言葉が訛っている。故にまた都老と称したという。」
 

隋書地理志 荊州