弥生の興亡、3

 

 帰化人の真実、1

 日本には、紀元前5世紀頃から、戦乱や圧迫を逃れた大陸の住民が断続的に移住して来ました。より古くからの居住者、縄文系の大和朝廷にとっては、弥生人すべてが帰化人だったのです。帰化人とされた人々の足跡をたどってみます。

第一章、帰化人についての考察
 一、秦氏
  1、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)
  2、天之日矛(秦氏)とアカルタマ姫
  3、浦島伝説の意味
  4、秦氏(韓人、狛人、呉系楚人)の年表



 第一章、帰化人についての考察

一、秦氏

1、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)

 歴史に登場する最初の帰化人は、日本書紀、垂仁天皇二年、分注のツヌガアラシトです。時代について真剣に考慮する必要はありません。古代からの伝承を、「紀」の編纂時、適宜組み込んだだけで、ただ、早い、遅いという順序のみはあてにできます。これは神功皇后を卑弥呼と推定したことから帰結するもので、それを遡る時代に置かれているのは、卑弥呼以前の、より古い時代の出来事と扱うことになります。《天皇即位順/崇神―垂仁―景行―成務―仲哀(神功皇后)―応神》

「一に云う。崇神天皇の世に、額に角がある人が一隻の船に乗って、越の国の笥飯(けい)浦に泊まった。それで、その土地を角鹿というのである。どこの国の人かと尋ねると、意富加羅国の王子、都怒我阿羅斯等と答えた。またの名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本に聖皇がいるという噂を聞き、帰化しようと、穴門(*)に到った時、その国に伊都々比古(イツツヒコ)という人がいて、我はこの国の王だと言ったが、その人となりを見て、王ではないと思い引き返した。道を知らなかったため、島浦を伝って北海(山口県北部の海)より之(穴門)を廻り、出雲国を経てここに到ったのだと語った。…」《*/山口県西部の響灘に面したどこか》

 出身地という加羅(伽耶、任那)は、陳寿の三国志では、倭と表されている朝鮮半島最南部の呉人(韓人)中心の国です。都怒我阿羅斯等は、「角がある人」の意で、額に角の生えた牛トーテムを表し、ウシキアリシチカンキという別名がそのことを教えてくれます。牛の姫(木)氏なのです。角の土地という意味で「ツノガ」となったらしく、角鹿の文字が当てられていますが、鹿とは無関係でしょう。現在の福井県敦賀市付近の伝承で、ここは畿内から近江を通過し、北陸へ抜ける軍事、交通上の要衝です。
 そして、敦賀には、延喜式名神大社、越前国一の宮の気比神社が存在します。主祭神は伊奢沙別命で、別名を御食津大神、気比大神と言いますから、これは農業神の后稷が食物神として、海産物にまで拡大されたものかと思えます。
「気比神宮の境内地は11253坪に及び、そのなかに遺址として『土公』がある。境内末社、大神下前神社の付近にある墳型の盛地で、周囲に卵形の石を八角形にめぐらしており、社殿や家屋を建てるとき、その土砂をまけば悪神の祟りがないと伝えられる。(日本の神々8、谷川健一編、白水社)
 そして、この土公は保食神(=御食津大神)降臨の地ともいうのです。これは明らかに土地神・后土(=土公)の祭りで、気比神社では周につながる社稷(后土、后稷)が祭られていたことになります。呉は周の分家なので、社稷を祭るのは筋が通りますし、形が八角形ということで、新羅(=弁辰)のソシモリに天下り、土船に乗って渡来したという八坂神社の祭神・須佐乃男命(神代紀)にも結び付いてきます。この都怒我阿羅斯等の伝承は、呉系楚人・弁辰人でもある堂谿氏の渡来伝説なのです。

《注…須佐之男命/八坂神社、八俣のヲロチなど八に結びつき、牛頭天王となって祭られています。また、記、紀神代では頭に蜈蚣が付いた姿に描かれていますし、ヘビ、蜂(=八)とも関係しています。全て、呉と楚に分類できる要素で、須佐之男は呉系楚人の神とすることができます。そして、楚人に分類したトゥチャ族の祖・廩君も、土船に乗ってただ一人沈まなかったという伝承を持っているのです(晋書・李特戴記)。/カチカチ山の狸は沈んでいますので、楚の要素ではなく、敵対する越の要素に分類できます。》

 牛トーテムの楚の姫氏、都怒我阿羅斯等が一族を率い、加羅から始めて日本に渡来した時、山口県(穴門)の西海岸に到達しました。弁辰人(=熊襲)は、「魏志韓伝」に長身と表現されており、渡来して混血する以前はそうだったのでしょう。これは、山口県、土井ヶ浜遺跡の弥生人が長身であることに結び付きそうです。土井ヶ浜から発見された人骨は、女性1に対し男性2の割合で、男女の比率が極端に異なり自然状態ではないことが指摘されていますが、始皇帝が労役に供するため強制移住させた民族の後裔ですから、元々、女性が少なかった、過酷な環境で減少した、あるいは、命がけで海を渡ることを承知するものが少なかったなどと解釈できます。いずれにせよ縄文時代からの土着の人間ではない。遺体はすべて頭を少し高く顔を西の海に向けて葬られており、その方向には対馬や朝鮮半島、中国がある。そのうちのどの土地を意識しているのかわかりませんが、土井ヶ浜弥生人の出身地と考えて良いでしょう。弁辰人が竈を家の西側に作るという風俗にも結び付くように思えます。
 ツヌガアラシトの渡来時、穴門には既にイツツヒコという王がいました。五つは、当然、呉を表します。最初の弥生人、呉人(=韓人・カラ人)が北九州から瀬戸内を固めており、新来の人々には展開の余地がありません。そこで面倒を避けて北方に移動し、出雲、因幡を経て、敦賀に到った様子です。その後、さらに北陸へと伸びていきました。
 この伝承を伝えた一族は、若狭湾に遺跡を残す縄文人でしょうか。ヒとシの区別がつけにくい様子で、縄文の血が濃いと考えられる東北人に通ずる印象を受けます。

2、天之日矛(秦氏)とアカルタマ姫

 次に登場する帰化人は、垂仁紀三年の、新羅の王子という天日槍(天日矛)です。この神は、伊都県主との関係から、呉系楚人、堂谿氏(姫氏)の祖神と既に判明しています。つまり、天之日矛と都怒我阿羅斯等は同じ一族ということになります。
 新羅(弁辰、辰韓)は、長城築造のため、秦の始皇帝により遼東半島に強制移住させられた楚人、越人が、秦の滅亡後、逃亡して建てた国でした。魏志韓伝には「辰韓を秦韓とするものがいる」と書かれていますが、これは事実を表しているわけです。この秦から渡来したと唱える呉系楚人が帰化人・秦氏ですから、天日矛は秦氏の祖神でもあります。
 天之日矛(天日槍)が太陽神を表すのは自明で、東南アジア系の神話では、太陽光線は人の目を刺す針にたとえられます。権威を増すため、より強い矛や槍が選ばれたのでしょうが、意味するところは針とかわりません。
 楚人の祭る祝融の姓は蘇で、竃神になったとされています(荊楚歳時記)。日本で竃神とされるのは荒神で、荒は「すさ(む)」と読み、須佐乃男につながります。
 また、「備後国風土記逸文」には、貧しかった蘇民将来に接待を受けたお返しとして、茅の輪の目印を付けたその子孫のみを疫病から守るという須佐乃男(武塔の神)の話が残されています。蘇民将来は「楚の民、将に来らんとす。」と読めますし、須佐乃男は疫神の牛頭天王となり京都の八坂神社に祭られています。もともと、牛トーテムだったからこそ、牛頭天王の垂迹とされたのです。そして、須佐乃男は青山を枯山にし、河、海を干上がらせる太陽神の性格も持っていました(神代紀)。須佐之男が武塔神とされるのは、楚の西北端、武当山が道教の聖地であることに関係しているでしょう。
 つまり、呉系楚人(秦人=ハタ人・熊襲)の神、須佐乃男は、人身牛首の形をし、どちらかと言えば、海や冥界を支配する月に重きがありますが、日、月の両面を持つ神であり、且つ、火の神、竃神なのです。武塔神が祭られている社は、疫隅(えのくま)国社となっていて、熊にも結び付いています。これは、熊の神籬(ひもろぎ)を神宝の一つとする太陽神、天之日矛と重ねても矛盾がありません。
 須佐之男は茅の輪を付けている者を守るということで、茅も呉系楚の要素に付け加えることができますし、楚人は羋(ビ、ミ=微)と表される民族なので、微少な物もまた楚の要素となります。スクナビコナという小人の神や、ミソサザイという鳥がこれに該当するでしょう(ミソは微+楚)。須佐之男を迎えることを拒絶し、滅ぼされた富める弟の名は巨旦将来とされていて、巨(きょ、コ)は大人の呉に結び付きますし、旦は朝を意味し、これも呉の要素です。呉人が呉系楚人(須佐之男=武塔神))に滅ぼされた形になっています。リンク、補助資料集「蘇民将来」
 呉系楚人、秦氏の首長の姓は「姫」なので、「キ」という音の文字、機、旗、鰭、肌はすべて「はた、はだ」と訓まれています。また、期、碁は「ご」と訓みます。其、磯は「そ、いそ」と訓まれます。これだけあると偶然とは思えません。茅の読みがツヌガアラシトの出身地、伽耶(カヤ)に重なるのも偶然ではないわけです。

 応神記
「昔、新羅の国主の子がいた。名を天之日矛という。この人が渡来したのは次のような由縁である。新羅に阿具奴摩(あぐぬま)という沼があった。この沼のほとりで賎しい女が昼寝していたが、太陽が虹のように輝いて、その女の陰部に射したのを、ある賎しい男が見ており、怪しんで常に女を見張っていた。女はこの昼寝の時から妊娠し、やがて赤い玉を産んだ。男はその玉を貰い受け、包んでいつも腰に付けていた。男は谷間に田を営んでおり、田を耕す小作達の飲食物を牛に負わせて山谷に入った時、その国主の子、天之日矛に出会った。日矛は、『お前はこの牛を殺して食べるつもりだろう。』と男を捕え、牢に入れようとした。男が事情を説明しても日矛は許そうとしなかったが、日矛に腰の玉を譲ることでようやく解放された。天之日矛がその玉を持ち帰り、寝床の側に置くと、玉は美しい乙女となり、日矛はそれを娶って嫡妻とした。乙女は常に数々の珍味を用意して夫に食べさせた。しかし、日矛が心奢って妻を罵った時、妻は、『私はあなたの妻となるような女ではない。私の祖の国へ行こう。』と密かに小舟に乗り、逃げ渡り来て、難波に留まった(これは難波の比売碁曾の社に坐す阿加流比売神という)。日矛は妻の逃げたことを知り、追い渡ってきたが、難波の渡りの神が遮って入れなかったので、引き返して但馬の国に留まった。」

 以上が、古事記の天之日矛の伝承で、日本書紀では、一に曰くとして、都怒我阿羅斯等の名でほぼ同様の話が記されています。やはり、天之日矛と都怒我阿羅斯等は重ねることができるのです。
 一方、「紀」の秦氏の渡来伝説は、以下のようになっています。
(応神)十四年
「弓月の君が百済から来帰した。『私は私の国民、百二十県を連れて帰化しようとしましたが、新羅人が拒んで、皆、加羅国に留まっています。』と奏上した。そこで、葛城襲津彦を派遣して、弓月の民を迎えにいったが、三年経っても帰ってこなかった。」
(応神)十六年
「平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に派遣。精兵を授けて新羅を威圧し、弓月の民を連れて襲津彦と共に帰ってきた。」

 移住は二度に渡って行われたようで、特に、弓月の民が帰化したと言う二度目に大規模な移住のあったことがうかがえます。そして、百二十県という広がりは、漢氏の十七県に比べて桁違いに大きく、それ以前の、中国から朝鮮半島への移動が、極めて大きな政治権力によってなされたものであることもまた示されています。
 政治的要請により歪められた記、紀の記述をすべてそのまま受け取るわけにはいきませんが、こういうふうに、歴史家の良心が様々な形で散りばめられており、何とか真実を組み立てることが出来るのです。
 秦氏(呉系楚人、須佐乃男、月読、神産巣日、スクナビコナ、天之日矛、ツヌガアラシト、大山咋=虁、弁辰人)の首長、弓月君は、おそらく、辰韓(後の新羅、越系)に圧迫されたため、領民を率いて百済、加羅に逃れ、そこから玄界灘を渡って山口県西部にたどり着いたのです。弓月君は、新羅とは対立的に書かれていますし、同一部族なのに、ツヌガアラシトが大加羅の王子、天之日矛が新羅の王子、弓月君が百済から渡来とするのも、そういう流浪の跡を示しています。
 伊都県主や岡県主熊鰐、夜須郡の羽白熊鷲など北九州に熊襲の伝承が濃厚なことから、二度目の移住では、九州北部から瀬戸内に食い込んだようです。九州に根拠地を築けるのは、先住の呉人に対抗できるだけの人数がいたためと考えられます。
 日矛伝説に戻る。
「阿具奴摩(あぐぬま)」は、呉に「グ」という音があるので、阿を接頭語と考えればいいでしょう。「阿呉沼」です。呉の太湖は、「具区(グク)」と呼ばれていました。これは「呉湖」の呉音かと思えます。
 虹は古代、蛇の仲間と考えられていたので、虫偏が付いています。「虹のような日光に感応して産んだ玉から人が生まれる。」というのが、呉の始祖伝説かもしれません。蝶も蛇も、鳥もカタツムリも、卵から生まれます。それらをトーテムとする部族が、卵や玉から出てきたと伝えるのは、不思議でも何でもないことです。
 日矛は男が牛を食べるといって処罰しようとしており、牛トーテムの楚人にとって、牛は食べたりしてはならない聖なる獣だったようです。阿具沼のほとりの賎しい女が生んだ赤い玉が化したというアカルヒメは、我が祖(おや)の国に行こうと言って日本に渡来しました。つまり、日本には祖の国があるわけで、これこそ、漢(燕地)に「歳時を以って献見に来た」という楽浪海中の倭人、奴国・末羅国等の百余国、呉人の国に他なりません。比売碁曾社の比売は姫氏に通じます。コソも呉に関連づけられる言葉でした。語順も苗系に従います。つまり、アカルヒメは最も古い呉人(韓人、倭)の神ということになるのです。
 呉人(アカル姫)が先に渡来し、元は夫婦で、けんか別れしたという呉系楚人(日矛)がそれに遅れて(追いかけて)渡来したという意味で、姫氏は日本や朝鮮で二重になっています。賎女から生まれたとされるのは、倭国大乱で敗れた呉人が最も低い地位に置かれていたためでしょう。また、アカル(玉)ヒメという名は、赤と太陽に結び付きます。これも呉の要素と扱ったものです。呉は東海に面する国ですから、朝日が似合います。
 難波の渡りの神が、姫を守り、日矛を追い返したといいますから、おそらく、難波には古い呉人の強国が存在していました。景行紀では、難波の入り口の支配者を、「柏の渡りの神」と表現していますが、古代の河内湖東岸に当る生駒山地の麓に、柏原市や八尾市柏村町、柏村という地名があります。したがって、その呉人の国は生駒山麓を中心に、河内湖一帯の大阪中部の広い地域を支配していたと推定できます。播磨国風土記・賀古郡には「摂津の高瀬の渡り」に、渡し守の紀伊国の人、小玉(ヲタマ)が登場しますが、これも姫(紀)氏の表現のようです。
 「紀」は、童女(アカルヒメ)は比売語曽の神となり、難波と豊国国前郡の二ヶ所に祭られたと記しています。豊国の比売語曽神社は、大分県、国東半島の北に浮かぶ姫島にあります。伊邪那岐、伊邪那美神がオノゴロ島へ帰る途中で生んだという吉備の児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島のうちの女島が、この姫島とされていますから、古代は瀬戸内航路の中継点として重要な島だったようです。
 以下の考察は、「日本の神々1(白水社)」の比売語曽神社の項から得た資料に基づくものです。
 この神社の別名は赤水明神で、色は赤です。姫神がオハグロをつけたという「かねつけ石」の伝承もあり、江戸時代の神体は、筆を持ちオハグロをつける女性像とされていますから、これも呉人の習俗、黒歯に一致しています。また、この島には、中世の念仏踊りの伝統を引くという中踊りを中心にして、その回りで踊るアヤ踊り、ゼニ太鼓、狐踊りという非常に興味深い盆踊りが伝えられています。中踊りは、現在は腰の後に手を組みますが、旧態は自然体で手を下ろしたまま、両足が揃った時に手拍子を打ったといいます。念仏踊りの伝統とされますが、その念仏踊り自体の起源が、両手を下ろし、ただ一列に並んで足踏みを繰り返して回るだけというミャオ族の舞踊、踏歌にあるように思えるのです。アヤ踊りは青竹を両手に持ち、打ち鳴らして踊ります。ゼニ太鼓は中に銭貨をつるしたブリキとフグ皮で作った太鼓を持つ男性が踊るといいます。狐踊りは文字どおり、狐装束の子供が踊るものです。小道具は竹、フグ、狐と、呉のトーテムに分類したものばかりで、比売語曽神社のアカルヒメが、呉人の神であるのは、もはや疑えません。また、呉人は、風俗的に、ミャオ族の要素が濃厚だったと思わせます。周人(太伯、仲雍)が王として上位に入り、ワやワラと自称するようになったミャオ族と解せば良いようです。
 姫社神社の伝承が、難波と姫島、肥前国基肄(き)郡にしか残っていないのは、倭国大乱で滅び、楚人(呉系)の中にそれが吸収されてしまったからでしょう。ゼニ太鼓の中に銭貨(*金=金山彦、楚はセン姓)をつるすこと、ブリキ(金=カネ)で作ることは、楚人が重なっていることを示しています。呉人のその他の神は稲荷などの民間信仰となって生き延びたようです。《*/金と楚の関係は後に説明します。》

3、浦島伝説の意味

 呉人に分類したプ・マン(蒲蛮・自称ワラ)族は、プーラン族(布郎)とも呼ばれており(他称)、フラ、ウラも民族名に起源を持つ呉や呉系楚の要素と分類したものです。

 丹後国風土記逸文 浦嶼子(うらのしまこ)
「丹後国風土記に曰わく、與謝の郡、日置の里、この里に筒川の村がある。その住民、日下部首等の先祖の名を筒川の嶼子という。これはいわゆる水の江の浦嶼子という者である。……雄略天皇の御世、嶼子は一人で小舟に乗り、海に出て釣りをしたが、三日三夜を経ても、一匹の魚も釣れず、五色の亀を得た。奇異に思って亀を船の中に置いていたが、嶼子が寝いると、その亀は忽ち麗しい乙女となり、共に蓬(莱)山に行こうと嶼子を誘ったのである。承諾した嶼子が目をつむると、一瞬のうちに海中(水中ではない)の広大な島に着き、そこには大きな御殿があった。迎えに出てきた七人の子供達が、『これは亀姫の夫だ。』と言い、次ぎに出てきた八人の子供も、『これは亀姫の夫だ。』と言うので、その言葉から乙女の名が亀姫というのを知った。『七人の子供は昴(バウ、めう)星で、八人は畢(ヒツ、ひち)星です。怪しむことはありません。』と亀姫が教えて中へ案内し、大歓迎を受けて二人は夫婦となった。嶼子は旧俗を忘れて仙都に遊んだが、三年が過ぎると、故郷や両親を思い出して帰りたくなり、その思いは日毎に増していった。『あなたの顔色を見ると常とは違う様子、一体何を思っているのですか。』と乙女が問いかけると、嶼子は、『古の人は、少人は土を懐かしみ、死する狐は丘に首を向けると言います。嘘だと思っていましたが、今は確かにそうだと思っています。』と答え、乙女達に国へ帰る決心を告げた。別れに際して、乙女(神女)は、『私を忘れずに帰ってくる気があるなら、決して蓋を開けないでください。』と言って玉匣(箱)を渡した。船に乗りこみ、教えられた通り目をつむると、忽ち故郷の筒川の郷に帰り着いたが、しかし、そこでは既に三百余年の歳月が過ぎており、知っている人は誰もいなかったのである。嶼子は神女が恋しくなって、先の約束を忘れ、玉匣を開けると、閉じこめてあった時間が流れ、一瞬のうちに、自らの若々しい姿が風雲に従って天に飛んでしまい、再び神女と会うことは出来なくなってしまった。」

 誰もが知っている浦島太郎です。ただ、子供の頃、覚えた話と違って、行き着く先は竜宮城ではなく、海の中に浮かぶ仙境、蓬莱山です。日下部(くさかべ)首の祖先が浦嶼子で、クサは既に呉系の地名として分類できています。筒川の筒は、星から蝶につながりミャオ系の土地と扱いました。支配階級の交代により地名が変化することも有り得るし、逆に、よそから人が流入することも有り得ますので、全てが一致するというわけにはいかないでしょうが、浦島子はミャオ族につながる呉人と想定できます。「少人は土を懐かしみ、死する狐は(巣穴のある)丘に首を向ける。」という島子の言葉にも、呉人の祭る(后)土と狐が出ています。楚の霊廟には三千年前の亀が祭られていたという荘子の記述から、亀は楚のトーテムの一つと推定しました。したがって、亀姫は楚人を意味することになります。
 B・C505年、呉王の弟、夫概は呉王闔廬に敵対し、敗れて楚に逃れ堂谿氏となりました。B・C473年に呉が滅亡した後、呉人の一部は朝鮮半島に逃れ、ほどなく日本に渡来しますが、その激動の間、堂谿氏は楚王、芊(仙)氏のもとで安泰だったのです。堂谿は元の房子国で、呉を封じたことから呉房とも呼ばれています《房/ハウ、ばう》。海の中の御殿には、七人の昴星と八人の畢星と仙人がいました。昴(バウ)は房(バウ)に同じで、これは羌族系の長身の民族と考えられますし(槃瓠に滅ぼされた犬戎の房王がいる。)、畢もまた楚の民族、ビツカ(トゥチャ族)のビに一致します。つまり、海中の蓬莱山(仙都)は楚の堂谿を意味し、昴、畢、仙人(楚王は芊姓)などに囲まれて、浦島子(堂谿氏)は亀姫と幸せに暮らしていたのです。土地の先住民で、基盤をなすと考えられる房人が羌族系(犬戎)であることは、弁辰人が長身とされることに結び付くでしょう。
 堂谿氏が諸侯となって居住していた楚も、やがて秦によって脅かされ、ついに紀元前224年、楚は滅亡します。三年後、斉を滅ぼして中国を統一した秦の始皇帝は、楚人や越人を朝鮮半島に徴発しました。堂谿氏もこの中に含まれていたのです。この時、堂谿氏となってから既に280年ばかりを経ています。秦滅亡時(B・C207)の混乱に乗じて、呉系楚人は遼東、楽浪郡からさらに南に逃れ、馬韓を経て、朝鮮半島東部に国(弁辰)をつくり、その一部は呉人が国を作っていた日本にまで達しました。浦嶼子が元の国へ戻るのは300余年後で、計算がぴったり一致するのです。
 そしてまた浦島子は、別れた妻、アカルタマ姫を追って渡来した天之日矛に重ねることも出来るわけです。
 単純計算すれば、呉系楚人、堂谿氏=秦氏が始めて日本に渡来したのは紀元前205年頃(505-300)ということになりますが、紀元前200年前後としておけば問題ないでしょう。朝鮮半島に残ったこの一族が魏志韓伝に弁辰と表されているわけです。300年の隔たりは、同じ呉王の末といっても、楚の言葉を使い、その風俗に同化していますから、ほとんど接点もなく、離れた楚(堂谿=蓬莱山)が恋しいのでしょう。玉匣を開けたため、仙境には二度と戻れなくなったという最後も、戻ろうにも決して戻れないつらい境遇を表しています。
 堂谿氏は、アルタイ系の房(羌族)や、苗系の畢(楚人の本体)が雑居する土地の首長となりました。堂谿は楚といってもかなり北方で、秦との国境に近く、屈原の楚辞にみたように、楚の言語自体が既に漢語化していましたから、堂谿氏の言語としては、漢語の苗系あるいはアルタイ系方言といえるようなものを想定できます。
 隋書俀国伝に、「竹斯(筑紫)国から東へ行くと秦王国(*)に至る。その人は中国と同じである。」という記述があり、秦王国は秦氏の国と考えられますが、隋の使者は中国人と同じと、その言語に疑問を持っていません。ここからも、秦氏=堂谿氏=呉系楚人は、漢語的な言葉の使い手と考えられるのです。《*秦王国/戸畑ではないか?/岡県主も同族なのでここに含めて良いかもしれない。》ただ、魏志弁辰伝に、弁辰は辰韓と言語が似ていると記されていることが障害になります。しかしこれも、辰韓に吸収され、その言語を受け入れていたと解すれば足りるかもしれません。魏志より二百五十年ほど遡った紀元前39年、弁辰は新羅(辰韓)に服属したという記述が新羅本紀にみえます。
 弓月君の伝承から、大きく二度に分けられると考えた弁辰の呉系楚人の渡来も、最初の弁辰建国直後の紀元前200年頃に、主に日本海側へ展開した浦島子(丹後)、都怒我阿羅斯等(敦賀)、弓月君の渡来があり、辰韓に吸収された紀元前39年前後に大挙して百済、加羅へ逃れ、さらに北九州から瀬戸内海へ入る天之日矛、弓月の民の渡来があったと出来そうです。
 加羅の建国は42年となっていて、辰韓に併合されてから八十年ほど後のことになります。辰韓に不満を持つ弁辰人が南下し、勢力を拡大して、そこに国を作っていた倭(朝鮮半島の呉人)を吸収するに到ったようです。加羅の伝承では、金首露(キンスロ)が金官加羅を開き、同系の六つの国に発展したとなっています。トーテムは亀で、金の卵から六人が孵ったといいますから、これを呉系楚人としても矛盾はありません。加羅系のその他の国の建国年代は不明です。
 加羅は倭(呉人)の上に弁辰(呉系楚人=秦氏)が入った国で、この国の風俗、言語は倭の影響が強く、辰韓、弁辰と異なることから区別されていたようです。そして、首長は弁辰(秦)系と解することになります。
 紀元前一世紀に渡来した秦人は、国が辰韓に吸収されたため、それを嫌ったせいか数が多く、対馬から壱岐を経て、北九州海岸部に拠点を築きました。これが天之日矛で表された一族です。伊都国王(県主)が天之日矛の子孫となっていますし、岡国王(県主)も熊襲の同族です。宗像氏も、宗像三女神は須佐乃男の刀から生まれた子で、同族なのです。
 当時から、北九州の中心は呉人の国、奴国だったでしょう。魏志倭人伝では戸数二万とされていて、末盧、伊都、不弥の三国を合わせた戸数でも、わずか六千に過ぎませんから、奴国の三分の一にも満たない数です。しかし、その奴国をもってしても、秦人の増加には危機感を抱かざるを得なかったのでしょう。後漢代になると、それまでの地方政権の燕ではなく、遠路、中央政府に朝貢し、自らの地位を強化しようと図ったようで、57年、光武帝から「漢委奴国王」という金印を授けられ、その承認を得て、この企ては成功しました。
 呉王直系の奴国がこのように強力ですから、呉王を裏切った王弟、夫概を始祖とする秦人は見下されることになります。同じ祖先を持つといっても、つらい境遇に置かれたのは想像に難くありません。瀬戸内を通り、アカル姫を追って難波に向かったという天之日矛も、難波の(柏の)渡りの神が遮って入れなかったため、引き返して但馬の国(出石)に留まったとされていますから、九州と同じ様な状況だったと考えられます。
 様々な伝承を考慮すると、河内湖を中心に展開していた大阪の呉人が最も強力だったらしく、和歌山もその支国という気配です。そういうわけで、後に、越人の文・漢人が漢(新)から渡来し、津屋崎付近に割り込んだ時や、倭国大乱時には、秦人はそちら側に付いて奴国と戦うことになります。奴国が滅び、伊都国王がその地位を保っていた裏には、こういう複雑な事情が存在したのです。
 また、岡県主の名は熊鰐で、楚と越のトーテムが合成されています。つまり、宗像氏(秦人、クマ)と文、漢人(ワニ、不弥国/邪馬壱国の豪族に和迩氏がいる)の融合した勢力で、秦系と扱われていることになります。

 築前国風土記逸文 怡土郡
「築前国風土記に曰はく、怡土の郡。むかし、仲哀天皇が球磨曽於を討とうとして、筑紫にいでましし時、怡土の県主等の祖、五十跡手は天皇がおいでになったことを聞き、枝振りの良い榊を抜き取って、船の舳先と艫に立て、上の枝に八尺瓊をかけ、中の枝に白銅鏡をかけ、下の枝には十握剣をかけて、穴門の引島にお迎えし、これを献じた。天皇が『誰人ぞ』と問われたので、五十跡手は『高麗国の意呂(オロ)山に、天より降り来し日鉾の苗裔、五十跡手是なり。』と申し上げた。『いそしや。五十跡手の本国はイソの国といいなさい』と天皇はおっしゃられた。今、怡土の郡というのは訛っているのである。」

 仲哀紀の文章とほとんど同じもので、元は一つの怡土県主の伝承が、中央政府に届けられ日本書紀に採用されたものと、土地の風土記の編纂者に伝えられ風土記に採用されたものとに分かれたようです。
 仲哀紀との違いは、怡土県主の祖・五十跡手が天之日矛の後裔であることを明らかにしている点と、自らが討たれる前に降伏し、地位の保全を図った熊襲であることを隠して、球磨、曽於という九州南部の地名を挙げている点です。
 五十跡手は、「高麗国の意呂(オロ)山に、天より降り来し日鉾」の苗裔としていますから、その来源は高句麗に求めなければなりません。これも遼東半島に強制移住させられた一族が、朝鮮半島を南下して日本に至ったという解釈に一致するのです。イソの国が訛ったという怡土の怡は喜ぶという意味で、キ(喜=姫)に通じます。怡土県主の後裔と考えられる伊蘇志臣の系譜は紀直につながります。宝塚市伊孑志(イソシ)は伊蘇志臣との関連が想像されていますが、その地にある伊和志豆神社は須佐之男命を祭っており、ここでも祭神と氏族の間に矛盾がありません。すべて、怡土県主、つまり天之日矛後裔氏族は呉系楚人(秦氏)という結論に収斂していきます。高麗に来源があるということで、高麗(コマ)人、狛人と表されたのもこの一族です。

4、秦氏(韓人、園人、狛人、呉系楚人、弁辰人、堂谿氏)の年表

B.C505 呉王闔閭の弟、夫概(姫姓)が楚に逃れ、堂谿氏となる。堂谿は呉房とも呼ばれているから、この一族は牛蒡を尊ぶであろう。
B.C473頃 呉が滅び、呉人が日本に渡来(=倭人、韓人)
B.C224 楚、越君が秦に敗れる。
B.C221 秦が中国を統一。
B.C213 秦は長城建設のために楚人、越人を遼東半島に流す。ここに堂谿氏も含まれていた。遼東半島は後の高句麗領域。
B.C195頃  秦が滅亡(B.C207)。楚人は南の馬韓に逃れ、馬韓が割き与えた東の土地(新羅)に居住。弁辰と表され堂谿氏が首長となる。越人は辰韓となる。
 弁辰人のツヌガアラシトが日本に渡来、山口県西部から主として日本海側に展開。出雲を経て敦賀に到る。仙人の国へ行った浦島子が三百余年後に元の国(呉)へ帰ったと表現される。
(韓の成立したB.C195年より後)
B.C39頃  弁辰が辰韓に吸収される。弁辰人の不満を持つ勢力が南下し、加羅を経て日本に渡来。人数が多く北九州に地歩を築き、瀬戸内に入ったが、難波の強力な呉人の国(難波の柏の渡りの神、アカルタマ姫)に押し返された。天之日矛が、もと妻のアカルタマ姫を追って日本に渡来したと表される。
 西南諸島沿いに中国と交易し、「会稽海外に東鯷人あり、二十余国を為す。」と漢書地理志呉地に記された。同じ頃、呉人は燕に通い「楽浪海中に倭人あり。百余国を為す。」と記される。
A.D42 加羅建国(呉人の土台の上に秦人が重なる。
A.D57 秦人の勢力増強に危険を感じた呉人の国・奴国は、後漢中央政府に朝貢し、保護を求めて金印を授けられる(後漢書倭伝)。
106頃 新たに渡来した文・漢人と連携して奴国と戦う。戦いには勝ったが、奴国は存続し、現状維持。
160~172頃 倭国大乱。文・漢人と連携して、奴国等の呉人の国を滅ぼす。卑弥呼を共立して女王と為し、狗奴国(記伊)や河内に首長として入る。河内の首長は狗右智卑狗(コウチヒコ)
238~262 卑弥呼と対立して反乱。魏の派遣した張政の功により滅ぼされる。

 「ハタ」という姓を与えられた呉系楚人=東鯷人=弁辰人の一部は、秦から渡来したことを理由に、いつの頃からか秦という文字を当てられるようになりました。雷のことを「はたた神」と言いますし、「はたく」、「はたと打つ」という言葉もあります。「はたす」は殺すことです。魚偏に雷と書いて「はたはた」と読む等から、ハタは雷を意味する語かと思えます。タイ語ではファー・パーが落雷の意味です。これは火雷神という秦系の雷神に由来するのでしょう。火雷神は、火の神・カグツチにホトを焼かれて死に、黄泉の国に横たわっていた伊邪那美命の胸に居たとされる神で、胸方(宗像)という氏族名につながっています。
 伊邪那美命には箸でホトを突いて死んだというヤマトトトビモモソ姫=卑弥呼が投影されているわけで、その死をもたらしたカグツチも秦系です。
 浦島子の話が雄略朝に置かれているのは、雄略天皇が散逸していた秦の民を集めて秦君酒に返したという事績に基づくと考えられます(=秦の民が元の国へ戻る)。(新撰姓氏録、山城国諸番、秦忌寸) link 補助資料集「堂谿氏(秦氏の源流)」

  続き、「帰化人の真実、2」