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イグナーツ・プレイエル 1846年 パリ

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〒651-2117 神戸市西区北別府2-6-1


19世紀半ば頃のヨーロッパでは、
ウィーン・パリ・ロンドン といった大都市が
音楽文化をリードしていました。
それ以外の都市は、こうした都市で人気を呼んでいる音楽を最先端として追っており
ポーランドやチェコなど
東欧の上流階級は、特にウィーンの楽団に関心 を寄せていました。

そのウィーンの聴衆が熱狂したのは、ヴァイオリンのパガニーニ、ピアノのタールベルグ
をはじめとする
「 ヴィルトゥオーゾの名演 」とロッシーニやベッリーニ、ドニゼッティ
らの手による
「 イタリアオペラ 」でした。
貴族のサロンなどで催されるコンサートでも、人気オペラが取り上げられ
良家の子女は、こうしたアリアを歌える事がお洒落な嗜みとされていました。


ショパンの愛したピアノとして知られる プレイエル は、1830〜40年代にかけて少なからず
演奏されていた バロック時代のチェンバロの薫が残るピアノで、現代のピアノに比べると

響きが短く、音が早く消えていくピアノ
だったようです。  

低音は イギリス式の丸く広がりのある響きが特徴で、製作者の カミーユ・プレイエル が
ロンドンで修得したものです。 同じ頃ウィーンで作られていたピアノの低音は
少しきつい感じがしますが、プレイエルは ベルベットのような柔らかさで
チェロ や コントラバスの音色が 聴こえてくるようだといわれています。 

サロンで演奏活動をしたショパンには、この響きが好ましく感じられたようです。



プレイエル氏は、イギリス流のアクションに、上手く組み合わされたレバーのシステムを加え
鍵盤の固さを取り除く事に成功 した。 
おかげでピアニストは、信じられぬほどに同じ音符を速く、均等に、楽々と弾けるように
なったのです。 ハンマーで叩くと濁りのない澄んだ音色が、いつ弾いても同じように
強く響くよう配慮もされていました。

1830年になると、ピアノの樅の木の木目と直角方向にマホガニーの響鳴板を貼ることにより
高音は輝きを帯び、中間部はアクセントがはっきりと響き、低音部は鮮明で力強くなりました。

1810年〜1850年 この40年間は、ピアノが劇的とも言えるほどに
大きな変換を遂げた時期でした。
まず ピアノの構造の基本を決定してしまう
弦の太さが2倍、張力はおよそ20kgから40sに
ハンマーの大きさも約3倍
になりました。
当然、鍵盤を動かす力
タッチも重くなり、鍵盤が下がる深さも5mmから8mm になり
この変化によって、音の強弱の幅が広がり、陰影もつけやすくなりました。




ショパンとプレイエル

ショパンは エラールのピアノ も ブロードウッド のピアノも 嫌いではありませんでしたが
彼の
音の理念に一番近かった楽器はプレイエル でした。 
プレイエルのピアノは、
ショパンの詩的な感情を揺さぶる響き を秘めていたといえます。

「 私の体がいう事を聞かず、指も固くて動きが鈍く思うように鍵盤を動かせず
  鍵やハンマーの動きを操るほどの力が無い時は、エラールのピアノを選びます。
  音の響きが良くて、透明感がありますからね。

  でも 気力が湧いてきて いくら指を動かしても疲れないし、
  苛立つようなこともなければ、プレイエル の方が私の想念や感情をしんみり伝えられるし
  個人的なものが直接に表現できます。」


ショパンはエラールとプレイエルを比べてこのように述べています。


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