明日香(村)のお話
今回は、日本文化の発祥地である「明日香のお話」を記載いたします。
我が国の「木の文化」に対して明日香には木造の古建築は残っておらず我が国では珍し
明日香は狭い土地なので、すぐに手狭になるのが分かりながら何故選んだのか疑問に |
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「本薬師寺」は、現在の「薬師寺」が建立されたため「本(もと)」が付いたのであり、 |
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東塔跡 金堂跡 |
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東塔心柱礎石(舎利孔付き)・四天柱礎石 |
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礎 石(東塔) |
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礎 石(東塔) |
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「大官大寺」は「東大寺」「西大寺」と同じで「大寺」と言えば天皇の寺院と言うことで |
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前庭には多くの石像(模作)が設けられてあり、作品をぐるっと回って見ることが出 |
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飛鳥資料館から約400bですが所在地は桜井市山田です。まず最初に目にする |
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創建当初の金堂本尊だった「薬師如来坐像」が、現在、「興福寺」に安置されてい |
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当時、「金堂」は聖なる建物で僧侶といえども入堂は許されず堂前の礼拝石(らいは |
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上の写真の石像の立て札には |
れたのでしょう。 |
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「水落遺跡」は日本で初めて造られた「水時計(漏刻時計)」の設備です。この時計で |
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「二上山」の麓には古代の双塔がそろっている「当麻寺」があります。 |
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「甘樫丘(あまかしのおか)」からの眺望は素晴らしく、遠くには「葛城連峰」「二上山」 |
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「飛鳥寺」は金堂が3棟もある最古の本格的な寺院でしたが、今は往時の面影を見る |
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金堂の前に創建当初の「金堂礎石」が残されております。金堂の礎石にしては少し |
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飛鳥寺の「飛鳥大仏」は後世の補修が拙く原 |
関わっており、技術の蓄積も出来、鋳造の技法も
進歩して優品を残しております。 |
「塔心礎中心 |
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りしました。後には心礎を必要としない「心柱」を吊り下げる方式も出てまいりま |
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「蘇我入鹿首塚」は、昨日(2003.12.05) 心無い者によって黄色のスプレーで落書きされました。 |
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当時は祭政一致の「天皇」時代でしたから天皇による祭祀の際に用いられた施設 |
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横 側 |
裏 側 |
「酒船石」の用途は「酒の醸造」とか「油絞り用」など色々言われておりますが何の目 |
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五重塔・金堂(法隆寺) |
「飛鳥板蓋宮」は「大化の改新」のクーデターが起きた場所と言われております。 |
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他の時代にはない「石の文化」時代でその頂点の作品が「石舞台古墳」です。古墳と言 |
玄室は奥行
7.6b、幅 3.5b、高さ |
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南側の天井石の重量 |
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「川原寺(かわらでら)」の東側に飛鳥川があり、当時、その川原(かわら)に建築さ |
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4個あるところからみると3間1戸(さんげんいっこ)の規模でした。 |
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五重塔の基壇 |
中門を入ると右側(東側)に「五重塔」があり対称の左側に「西金堂」があります。 |
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創建当時の瑪瑙(白大理石)製の基壇、珍しいものです。 |
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黒駒(法隆寺) |
「橘寺」に向かう途中に「聖徳皇太子御誕生所」の石柱がぽつんと立っており、
寺院は宮殿と同じように通常南向きであるのに
橘寺は東向きで、地形の制約か |
悪 |
善 |
裏側はただの平面 |
人の心の善悪二相を表した顔と言われております。 |
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「礎石」の「心礎」は、基壇の1bほど掘った地下にあり、直径90p
深さ10cmの孔 |
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広場に「亀石」があると想像しておりましたら、商店に隣接して、ガレージに車を入 |
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亀趺 (韓国・軍威三尊石仏) |
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「鬼の俎(まないた)」、「鬼の雪隠(せっちん)」ともに欽明天皇陵の石棺の石材の一部 |
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「雪隠(せっちん)」の「雪」はすすぐとか穢 |
おりましたが現在は東司が総称して使われております。禅宗での東司は七堂伽藍の
「鬼の雪隠」は肥溜めがなく、用を足した後はそのまま肥料にしたのでしょうか。 |
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「猿石」と言われる石が他にあるのはやはり「日光東照宮」の「見ざる言わざる聞かざ
古代はおおらかで男性のシンボルを堂々と表現しております。このことは西洋も同 |
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飛鳥の都は、上記のような「胡人?」などの渡来人が闊歩して、華やかな国際都市を |
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