明日香(村)のお話

 今回は、日本文化の発祥地である「明日香のお話」を記載いたします。
  「明日香」では、我が国最初の本格的な「京(都)」が建設され、人々は異国の高度な文
化に触れ、多いに刺激されたことでしょう。そして、新しい日本を目指し若々しい血が
漲って、気力が燃え滾っていたことでしょう。

 我が国の「木の文化」に対して明日香には木造の古建築は残っておらず我が国では珍し
い「石の文化」だけが残っております。石の文化のふるさと「明日香」と言えます。古建築
が残っていないだけにまるで「石の都」のようで明日香に都があった「飛鳥時代」は特異な
文化の時代でした。これらの文化、硬い花崗岩が加工されているのを見ると、「渡来人」
が優れた道具と先進的な技術を持ってこなければ不可能だったことでしょう。
 西欧、東南アジアは石の文化で、我が国は木の文化ですが明日香だけは非日本的で世
界共通の石の文化です。しかし、明日香の奇怪な石の作品はどうも仏教とは関係なさそ
うです。謎の石の用途は解明されつつありますが謎のままであればある程見る人が空想
を膨らませて魅力が尽きないと思われます。
  それと今回驚いたのは、寺院の丸柱を据える「礎石」が何故か奇妙な形をしていたこと
です。

 明日香は狭い土地なので、すぐに手狭になるのが分かりながら何故選んだのか疑問に
思えました。それだけに明日香はレンタサイクルは勿論歩いても一日でゆっくりと回れ
ます。そのために、「本薬師寺跡」「大官大寺跡」「山田寺跡」はよほど興味がある方のみで
これら三ヶ所を除いてのコースをお勧めいたします。
 明日香は車も少なく歩いて回るのも良いですがレンタサイクルで回るのが疲れず楽で
すし、レンタサイクルの台数も半端な数ではありません。スタート駅を「橿原神宮駅」か「近鉄飛鳥駅」にして乗り捨てるのが効率的ですがレンタサイクル店によっては平日は乗
り捨て出来ないところもありますので事前にホームページで調べて確認されることです。 

 「本薬師寺」は、現在の「薬師寺」が建立されたため「本(もと)」が付いたのであり、
藤原薬師寺、「平城薬師寺」と呼ばれることもあります。
 「心柱」の礎石である「心礎」で、仏舎利を奉安する心礎が、両薬師寺では東西入れ替わ
っていると聞き、楽しみにして訪れました。見つけることは出来ましたが本薬師寺跡の
整備はこれからと言う現状で少しがっかりいたしました。しかし、色んな礎石があり、
丸柱を建てるのになぜこのような形に加工したのか不思議な気がしました。ミステリア
スな礎石群です。「本薬師寺跡」は明日香村ではなく橿原市にあります。


 
東塔跡から緑矢印は西塔跡、青矢印は金堂跡

 

 
 
東塔跡         金堂跡


        
 金 堂 跡


   礎 石(金堂)


      礎 石(金堂)


    
  西塔心柱礎石(枘付き)


東塔心柱礎石(舎利孔付き)・四天柱礎石


      
礎 石(東塔)


         
礎 石(東塔)

        
      
礎 石(東塔)


         
礎 石(東塔)

      

 
    金 堂・塔 跡

  「大官大寺」は「東大寺」「西大寺」と同じで「大寺」と言えば天皇の寺院と言うことで
す。最初の大寺と言う呼称が使われたので是非見ておきたいと思い行きました。
ところが、案内標識もなく、地元の方に「大官大寺跡」は何処ですか尋ねてもそんな所
の話は聞いたこともないと言われ、私はパンフレットにも載っていると見せると初め
て見ると言って驚く始末でした。
 やっと見つけて行った所は、明日香ではずば抜けて大規模だった天皇の寺院と言う
面影もなく、金堂と講堂のあった辺りが畑になっているだけで周囲はのどかな田園風
景です。「史蹟大官大寺跡」と彫られた石柱がぽつんと立つだけで、観光コースから離
れた場所にあるうえ案内標識もありません。興味がある方はどうぞ。

        
                須弥山石(模作)

 
 石 人 像(模作)

 前庭には多くの石像(模作)が設けられてあり、作品をぐるっと回って見ることが出
来ます。たとえば、後述の「猿石」にしても石柵の間 20a程の隙間からの見学で、正
面しか見えず像の裏側は覗くことは出来ません。所在地が宮内庁管轄の「吉備姫王墓」
内だけに見れるだけ良しとすべきでしょう。
 館内に入ると目の前に大型の「藤原京の復原模型」が展示されております。私が興味
を持ちましたのは「十六弁の軒丸瓦」と発掘後、長い年月をかけて再現された「山田寺
の連子窓」でした。 

          
   広場に写真のような「山田寺跡」の説明板があります。       
                   

            

 

 

  飛鳥資料館から約400bですが所在地は桜井市山田です。まず最初に目にする
のは「大和の古道紀行」の看板です。中に入りますと「史跡山田寺址」の石柱がありま
したので
私はここが「山田寺跡」だと思い礎石(上記写真)らしいものを撮影して帰ろうと横道
に出たところ裏に「山田寺跡」がありました。ですので到着するとまず左側にある広
場の説明板を見て入りますと私のような間違いは起こらないでしょう。

 


       五重塔の土壇


    金堂の土壇      五重塔の土壇

   
        金堂の土壇 

    

 
   金堂前の礼拝石(復原)

 創建当初の金堂本尊だった「薬師如来坐像」が、現在、興福寺に安置されてい
る「旧山田寺仏頭」で、記録に出てくる最古の薬師如来像です。白鳳時代にこのよう
な巨大な薬師如来像を難なく仕上げた仏師が居たことは驚きです。「山田寺」は、右
大臣で宮中の実力者だった「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのま
ろ)」の氏寺だから制作出来たのでしょう。
 ただ、後の時代には、中国風の寺号にすべきなのに何故寺地の山田を冠した山田
寺の呼称を続けたのでしょう。「浄土寺」とも呼ばれていたこともありますのに。 

   
     礼拝石(法隆寺五重塔前)  

 
   礼拝石(法隆寺金堂前)  

 当時、「金堂」は聖なる建物で僧侶といえども入堂は許されず堂前の礼拝石(らいは
いせき)に坐り法要を行いました。このことは金堂を大きな仏壇と考えられるほうが
理解されやすいでしょう。伽藍配置は「四天王寺(大阪)」と良く似ておりますがただ
違うところは四天王寺の回廊は講堂と繋がっておりますのに山田寺の回廊は塔と金
堂だけを取り囲んでおります。それゆえ、聖なる空間と俗なる空間をはっきりと区
分けしているのは山田寺の方です。   

 

  

 

     

   上の写真の石像の立て札には
 「むすひの神石
   奇しき岩におわします
    むすひの神に手を合わせ
      願いよ叶え諸々のこと」
 と記載されております。
 昔の人が自分自身でどうしても出来ないのは身体の
コントロールで、「子供」は生産に貢献する大変な財産
と考えられ、不妊は結婚生活に破綻きたすこともある
ので、このような「石像」が、神聖な精神のもとに造ら

れたのでしょう。 
 西洋の結婚では、栄養(精)をつける為一ヶ月間蜂蜜製品を食することが許されま
したので「ハネムーン」といわれますが、我が国では当時、蜂蜜は銅像制作の蜜蝋
として使用されていて新夫婦には与えられなかったので神様にお祈りしたのでしょ
う。
 現在、我が国の出生率が、30年前の半分となりこの国の将来がどうなるのか心
配ですね。
  

 

    

 

  「水落遺跡」は日本で初めて造られた「水時計(漏刻時計)」の設備です。この時計で
の時刻を、飛鳥の人々に知らせるために使った道具は、「鐘」と「太鼓」だったと言われ
ております。鐘と太鼓を使い分けてある程度細かく時刻を知らせたのでしょう。しか
し、我が国で「鼓楼」が残っていないのは不思議です。「唐招提寺の鼓楼」も舎利が祀ら
れて太鼓は設置されなかったようです。
  当時、明かりと言えば自然光が頼りでしたので、一時間の長さを季節によって変え
る「不定時法」でした。すなわち、夏の一時間は長く、冬の一時間は短くして自然に適
った生活をしていました。
 「朝庭(朝廷)」と言われるように役人は朝早く日の出と共に働いていました。役人に
は時刻を知る必要があったかと思われますが、農業従事者は明るいうちは働いていた
のでさほど時間を気にしなかったではないでしょうか。ただ、種まき、収穫は季節が
関係いたしますので、その四季を渡り鳥や風、例えば東風が吹けば春の訪れを感じた
りしていたことでしょう。

      

 


    二上山   畝傍山

 
 飛鳥川       耳 成 山

  「二上山」の麓には古代の双塔がそろっている当麻寺があります。


           天の香具山

  
    飛鳥寺が望めます

  「甘樫丘(あまかしのおか)」からの眺望は素晴らしく、遠くには「葛城連峰」「二上山」
近くには「畝傍山」「耳成山」「香具山」が手の届くような距離にあります。明日香の地域
は狭隘で、大寺院と豪族の邸宅だけで殆どの土地を占め、一般の人々の居住空間が取
れないのではないかと思われる程の眺めでした。それだけに、「平城京」の人口は、
10万とか20万人とか言われる大都市だったのに比べ「飛鳥京」の人口は、ずっと少
なかったことでしょう。また、都が対称(シンメトリカル)に造れる地形でもないのに
この土地を選ばれたのは、我が国の非対称を好む精神の表れでしょうか。
 上記の写真で、もし、「飛鳥寺」が創建当初の壮大な伽藍の規模のままでしたら、写
真の被写体の大部分が飛鳥寺の伽藍で占められたことでしょう。平地は猫の額ほどの
広さでした。
 甘樫丘には明日香では珍しく無料駐車場があります。そこから上がると
「川原展望台」がありますが見えるのは二上山と畝傍山だけです。ですのでそこから歩
いてもさほど距離はない「豊浦展望台」に行くことをお勧めいたします。上記の写真は
豊浦展望台からの撮影です。歩くのが苦手な方は豊浦の有料駐車場を利用されるとよ
いでしょう。

 

 

 「飛鳥寺」は金堂が3棟もある最古の本格的な寺院でしたが、今は往時の面影を見る
ことが出来ず有名な「飛鳥大仏」しか片鱗を偲ぶことが出来ません。
 これまで、宮殿建築の屋根は茅葺か板葺きであったので瓦葺の寺院は、異国の建築
として驚きを持って迎えられたことでしょう。その瓦ですが創建当初の瓦が1400年も
の時を経た現在も
「元興寺」の屋根に載せてあると 伝えられております。普通、寺
院の瓦は、特殊で400年持つと言われておりますがその3倍以上も持ち続けたのは当
時、薄くて軽い瓦を焼く技術がなく、厚い瓦しか出来なかったため、瓦の寿命が長く
なったとしか考えられません。
 一塔三金堂式の伽藍で、舎利崇拝(塔崇拝)時代なのになぜ金堂を3棟も必要とした
のか疑問が残ります。舎利崇拝と言えども心礎から出てきたものは宝石類、馬具、甲
などでこれらは後期古墳の埋納物と同じだと言われています。このことからももうす
でに我が国では舎利崇拝の精神は薄れ仏像崇拝の信仰が芽生えていたのでしょうか。
 それと当時は地名を冠した寺号とするのが習慣でしたが後に中国風の寺号にするこ
とが決められます。しかし、蘇我馬子の創建当初の寺号が「法興寺」という時代を先取
りしたものでした。それが今は飛鳥に位置するがゆえ「飛鳥寺」と名乗られており我が
国最初の寺院に相応しい寺号となっております。

             

 

 金堂の前に創建当初の「金堂礎石」が残されております。金堂の礎石にしては少し
小さすぎる感がしないでもありません。

 
   釈迦如来像(飛鳥寺) 画 中西雅子

 飛鳥寺の「飛鳥大仏」は後世の補修が拙く原
型を留めないので超国宝となるべきところ残
念ながら重要文化財の指定に留まっておりま
す。なぜ、銅像がそこまで手を加えなければ
ならなかったのか疑問が起こります。多分、
百済から渡来した中に仏師がいなかったのが
原因でしょう。
 飛鳥寺の計画時には請来された仏像があっ
たので仏師が来朝しませんでしたが、やはり
新しい仏像制作の要望が起きたのではないの
でしょうか。
そこで、畑違いの「馬の鞍造り」に従事した渡
来人「止利仏師」が動員されたため、満足な出
来栄えの仏像が制作できなかったのでしょう
か。
止利仏師はこれ以降も、金銅像の制作だけに

関わっており、技術の蓄積も出来、鋳造の技法も 進歩して優品を残しております。
 「飛鳥大仏」は大変痛ましいお姿ですが私の知り合いの方などは愛着を感じて古都
 奈良では一番好きな仏像だと言われますのも日本人の感性でしょうね。それと嬉
しい ことにお寺の好意で尊像の撮影が許されております。 

 「塔心礎中心
   地下3メートル
」と記載されております。
 
 当時、「心礎」は掘立柱式で地下にありました。
心礎は時代が古いほど地中深い所に設けられてお
りました。この飛鳥寺の心礎は地下3メートルで、
我が国では一番深く、最古の寺院の証と言えます。
 心礎は天平時代には基壇上に設けられるように
なりますが「塔」が信仰のシンボルから装飾的な建
物となりますと、心礎を1階の天井上に設け1階
部分に仏像を安置するためのスペースを確保した

りしました。後には心礎を必要としない「心柱」を吊り下げる方式も出てまいりま
した。

 

  
       西側からの飛鳥寺伽藍

 
   蘇我入鹿の首塚

  「蘇我入鹿首塚」は、昨日(2003.12.05) 心無い者によって黄色のスプレーで落書きされました。

 

       
       亀 形 石 造 物

 

  当時は祭政一致の「天皇」時代でしたから天皇による祭祀の際に用いられた施設
「祭祀場」だったのでしょう。硬い花崗岩を加工できたのは優秀な技術者「渡来人」が
居たからです。当時 、米の生産量は極端に低く稲作の水確保は絶対の使命で、雨
乞いは天皇の権威を示す絶好の機会だったことでしょう。

      
    酒 船 石


      横 側

    裏 側

 「酒船石」の用途は「酒の醸造」とか「油絞り用」など色々言われておりますが何の目
的で造られたのか思いを巡らせてください。記録がないだけに、文字にしても誰に
も否定も肯定もされることはありません。命名された方は酒の醸造をするための石
と考えたため酒船石とされたのでしょう。

 

 


   五重塔・金堂(法隆寺)

  「飛鳥板蓋宮」は「大化の改新」のクーデターが起きた場所と言われております。
 当時の宮殿の屋根は、「茅葺」か「草葺」であったのに珍しく「板葺」にしたのは、
当時、板を作るのが今では考えられないほど高コストだったからで普通は宮の名
称は地名を付けるところを屋根の材料が宮の名称となったのでしょう。
「法隆寺金堂・五重塔の裳階(もこし・矢印)」の屋根は板葺です。

 

 


 羨 道(えんどう)

 他の時代にはない「石の文化」時代でその頂点の作品が「石舞台古墳」です。古墳と言
いながら、演技の舞台に利用したことがあるので舞台と呼ばれるようになったとのこ
とです。時代が古墳から寺院に変わり、古都奈良では古墳が多く潰されました。それ
らの影響で解体されたため古墳ではなく舞台の名称が付けられたのでしょうか。もし
仮に、「平城京」に古墳が保存されておれば碁盤目の都にならなかったことでしょう。

 玄室は奥行 7.6b、幅 3.5b、高さ
4.7bです。これだけの規模の古墳が建
設できたのは有力者以外考えられず
「蘇我馬子」の墓であることは間違いないで
しょう。
当時、古墳の造営に競って莫大な費用を付
き込んだため「薄葬令」の詔が出たくらいで
す。


         玄 室  


   天井部分

 
   後方に見えるのは「二上山」

 南側の天井石の重量
は約77トンといわ
れております。

 

 

 「川原寺(かわらでら)」の東側に飛鳥川があり、当時、その川原(かわら)に建築さ
れたゆえ寺号とされたのであります。その対岸側には「伝飛鳥板蓋宮跡」があり、
明日香は飛鳥川を基準にして形成されています。寺院は遷都と同時に移築するのが
当たり前でしたが川原寺だけは4大寺の一つでありながら明日香の地に取り残され
ました。
 また、川原寺には「弘福寺(ぐふくじ)」の寺名もありました。この弘福寺は「こう
ふくじ」とも読めるため色々と憶測がなされております。
   「礎石」は、最後に掲載した瑪瑙(めのう)製以外は、総て樹脂製レプリカなので
すが、これだけ見事に復元され整備されていることには頭が下がります。しかし、
2回訪れましたが残念ながら見学者は、私以外は先生に引率された児童のグループ
だけで、それも「川原寺」に入る否や「間違えた」と言って足早に立ち去りました。

  
      南門の礎石

 

 
  南門の礎石の一つ

 4個あるところからみると3間1戸(さんげんいっこ)の規模でした。     

          
       中央に見えるのが中門の基壇・右後方は五重塔の基壇 


      中門の礎石

 
    中門の基壇

   


        回廊の基壇


    回廊の基壇


     回廊の礎石

 
    回廊の礎石

                   五重塔の基壇 

 中門を入ると右側(東側)に「五重塔」があり対称の左側に「西金堂」があります。
「法隆寺」の伽藍配置とは逆で、法隆寺は東側に「金堂」、西側に「五重塔」が建って
おります。

   
     五重塔の礎石


 五重塔の心礎・四天柱の礎石


         西金堂の基壇

       
 現在の「川原寺」の本堂は、「中金堂」跡に
建築されております。

 

 
   弘法大師ゆかりの寺

         

 創建当時の瑪瑙(白大理石)製の基壇、珍しいものです。

 

      

 
   
黒駒(法隆寺)

 「橘寺」に向かう途中に「聖徳皇太子御誕生所」の石柱がぽつんと立っており、
聖徳太子の御生誕地の伝承があります。
 「法隆寺」には「橘寺」から
仏像四十九体玉虫厨子などの移入品がありますので
聖徳太子生誕の地と言われるのももっともなことでしょう。

 寺院は宮殿と同じように通常南向きであるのに 橘寺は東向きで、地形の制約か
もしくは創建当初には既に浄土の思想があったのでしょうか。


  「太子殿」の前にある馬の像は「黒の駒像」で、寺伝では「太子の愛馬で空を駆け、
達磨大師の化身といわれる。仏頭山麓の地蔵菩薩の傍らにその姿をとどめ、災難
厄除のお守りになっている。」とのことです。
 法隆寺の「黒駒像」ですが身体は黒く四脚は白いです。一時この黒駒に馬券が的
中することをお願いにお参りする方をよく見かけましたが現在は昔の静けさに戻
っております。

 
     悪
 
    善 
 
   裏側はただの平面

 人の心の善悪二相を表した顔と言われております。
 写真撮影時、熟年夫婦が二組来られ、二組とも男性の方が善の側に立ち記念撮影
をされておりましたが若いカップルなら逆になっていたことでしょう。


      五重塔の礎石

   

 

    
       心 礎


      礎 石

「礎石」の「心礎」は、基壇の1bほど掘った地下にあり、直径90p 深さ10cmの孔
が穿ってあり、その孔に「心柱」を入れます。周囲にある三ヶ所を穿った半円孔は「心
柱」を支える「添木孔」で、私も初めて目の当たりにした珍しいものです。「二面石」も
いいですが是非ご覧ください。独断と偏見でいえばこの「心礎」をご覧になっただけ
で「橘寺」を訪れた価値が充分あると思われます。

 

 


飛鳥資料館の前庭にある「亀石(模作)」

 広場に「亀石」があると想像しておりましたら、商店に隣接して、ガレージに車を入
れたような状態だったため見過ごしてしまいました。蛙石との説もありますが蛙なら
足が表現されてよいと思われます。
 この亀石も謎めいた石ですが建築での
亀腹(かめばら)も形からは想像できず、
亀趺(きふ・亀形の台座)からイメージしてそう呼称されたのでしょうか?

     
         亀 (北京・紫禁城)

 
  亀趺 (韓国・軍威三尊石仏)

 

 

 「鬼の俎(まないた)」、「鬼の雪隠(せっちん)」ともに欽明天皇陵の石棺の石材の一部
であると言われております。伝説では「鬼」が人や動物を捕まえて「俎」で料理し食し
た後次の「雪隠」で用を足したと言われております。
 よく似た「元興寺」にまつわる話で、元興寺周辺にはガンコと言う鬼がいて夜遊びを
したり親の言いつけを守らない子供はガンコに襲われると言って親は子供を躾けてい
ました。
 我が国では「鬼」といえば毀誉褒貶があり愛されたり貶(けな)されたりしている不思
議な獣です。愛されたのは鬼瓦で、その鬼に建物を守らせるのですから。民家では鬼
の顔貌もしていないのに鬼瓦と言います 。
 閑話休題:俎と言えば魚を調理する台でした。
酒菜(さかな)のお話ご参照
ください。

 

  

  「雪隠(せっちん)」の「雪」はすすぐとか穢
れを洗い流すの意味があり、雪隠とは不浄
を洗い流して隠すと言う意味です。雪隠の
読み方は禅宗の西浄(せいちん)から「せい
ちん」に変化したのでしょう。
  「雪隠詰め」の言葉も死語になりつつあり
ます。
  禅宗寺院では東司(とうす)、東浄(とう
ちん)、西浄(せいちん)、西司と言われて

おりましたが現在は東司が総称して使われております。禅宗での東司は七堂伽藍の
一つになっております。
 子供の時分、「はばかり」「ご不浄」「便所」などと言われておりましたが今は「トイ
レ」で総称されております。水洗式に変わったことで子供たちはトイレの匂いと言
えば金木犀の匂いだと勘違いする時代となりご不浄のイメージはなくなりました。

 「鬼の雪隠」は肥溜めがなく、用を足した後はそのまま肥料にしたのでしょうか。
今では、考えられない話ですが昔は「汲み取り式便所」で、農家ではお金、生産物を
渡して人糞と交換して肥料にしたものです。江戸時代には人糞にもランク付けがあ
って当然大名屋敷からの人糞が、トップで5段階にランクされておりました。ただ、
古代では便所は厠(かわや)と言われ小川に板を渡し、その板にまたがり小川に便を
落として用を足したという現在の水洗トイレでありました。ですから魚の餌になっ
ても農作物の肥料には使用されなかったようです。川に流したから「かわや」と言わ
れるようになったと言う説もあります。同じ餌でも東南アジアのある所では豚を家
の中で飼い、人糞を餌にいたします。ですから、「家」と言う字は、家を表す「宀・
うかんむり」に豚を表す「豕」を組み合わせたと言う説もあります
 厠神(かわやがみ)を祭った時代もありました。『古事記』には「神」の屎尿から同
じ「神」が生まれたと書かれているとのことです。
 子供の頃、トイレに落ちると改名しなければならないと言われておりましたが実
際に改名した方を存じません。トイレには色々な俗説がありやはり出産にまつわる
話もありました。 

 


        チンパンジーに似ている?

 
   猿にも人間にも見える

「猿石」と言われる石が他にあるのはやはり日光東照宮」の「見ざる言わざる聞かざ
る」の猿のように「神馬」を災いから守るためでしょうか。

 古代はおおらかで男性のシンボルを堂々と表現しております。このことは西洋も同
じですが西洋像のシンボルは身体の大きさに対して大変小さいのが特徴です。


なんとなく胡人に見える?


 なんとなく胡人に見える?

 飛鳥の都は、上記のような「胡人?」などの渡来人が闊歩して、華やかな国際都市を
形成していたことでしょう。