銅像のお話

 「仏像」の制作において「金属造」の場合殆どが「銅造」で、「銀造」は「東大寺三
月堂の不空羂索観音像」の宝冠の中央に安置する「阿弥陀の化仏」など極僅かです。
「鉄造」は関東を中心に存在しますが関西では皆無に等しいです。なぜならば 「鉄」
と「銅」を比べると、「鉄」の融点は1,535℃、「銅」の融点は1,084℃です。「鉄」の
融点は大変高く溶解が大変で当然仕上がりは悪かったことでしょう。しかも材質が硬い
うえ作業工具がなかった時代だけに細工が難しかったからです。
 「銅造」は飛鳥・白鳳・天平時代に盛んに制作されました。その代表作品としては
「法隆寺の釈迦三尊像・夢違観音像・橘夫人念持仏像」「薬師寺の薬師三尊像・聖観音像」「興福寺の山田寺仏頭」などがあります。

 


    釈迦三尊像(想像図)

   
       釈迦三尊像(現在)

   左図の「光背」は「法隆寺献納宝物」にあるミニチュアの「光背」を参考に描き
 ました。創像当時は絢爛豪華な「光背」であったことは間違いありません。

        
    夢違観音像

   
                      橘夫人念持仏像


   月光菩薩像


     薬師如来像

  
  日光菩薩像

     
      聖観音像

    
      山田寺仏頭

                                                                                       画 中西 雅子

 

 「銅造」は粘土でおおよその像形の「中型(なかご)」を作り、その「中型」の表面に
「蜜蝋(みつろう)」を厚く塗り蜜蝋層を造ります。 「蜜蝋」とは蜂蜜を取り除いた
「蜜蜂の巣」を圧搾して造った「蝋」のことです。固まった蜜蝋層に像の彫刻をして
「原型」を造ります。これで表面が蜜蝋層である蝋人形ならぬ「蝋仏像」が出来上がり
ます。 その「原型」に粘土を塗り被せて「外型」を完成させます。 その時、「中型」
と「外型」の間には「型持(かたもち)」の金具で「外型」がずれないように固定します。「外型」を乾燥させた後「中型」と「外型」の間にある「蜜蝋」を熱で溶かし像外
に排出させ、「湯口(ゆぐち)」から出来た空洞に溶けた銅を流し込みます。この溶銅
を流し込む工程を「鋳込む」と言います。
 
 余談ですが「蜜蝋」は照明の「蝋」に消費されるよりも仏像制作に殆ど消費されたこ
とでしょう。照明油と言えばアメリカは照明用の鯨油を取るためだけに捕鯨をしており
ました。ところが照明用の鯨油がいらなくなったので捕鯨禁止提唱の国と変わりました。わが国では鯨は大切な蛋白源ですが昔、捕鯨船には冷凍冷蔵の設備がなく塩漬けで保存
する塩蔵だったため味はよくなかったです。
 
子供の頃、肉といえば「鯨肉」で「牛肉」はめったに食べられませんでした。「すき
焼き」といえば少ない肉の「すき焼き」だけに肉を取ることは勇気が要り、具の野菜に
隠して取って食べたものです。社会人になった当時、大阪には「ホルモン焼き」の店は
あっても現在のような「焼肉」の店の存在は私の記憶にはありません。と言うのも当時
はロースなどの高級肉の料理する店は数えるくらいだったからです。「ホルモン焼き」
の「ホルモン」の語源ですが、わが国では家畜の内臓を食べる習慣はなく「放って(捨
てる)」いたからで「放るもん(=ホルモン)」からきております。ただ、環境ホルモ
ンなどの「ホルモン」とは無縁のものです。とはいえ、「ホルモン焼き」を誰が始めた
か知りませんがおいしかったのは事実です。

  「銅」を溶かすには「銅」の融点が1,083度と高いため「熔解炉」に大型の「ふいご」で多量の空気を送り、燃焼を促して火力を高め「銅」の温度を上げなければなりません
でした。「ふいご」は両足で交互に左右の板を踏むと多量の送風が起こる 「仕組み」
で、この「仕組み」を操作する作業者のことを「番子(ばんこ)」と言いました。作業
者が交代でやるところから出来た言葉が今では死語になりつつある「かわりばんこ」です。
 
 「東大寺の大仏」 などの超大型の像は粘土で像の「中型」を造り、その上に粘土が接
着しないように紙などを張る加工をしたうえ粘土を緊密に塗り「外型」を造ります。こ
の場合「蜜蝋」は使用しません。乾燥させた後「外型」を一旦外し「中型」の表面を鋳
込む銅の厚みだけを削り取ります。「中型」と「外型」がずれないように「中型」と
「外型」の間には「型持(かたもち)の金具で固定した後溶銅を鋳込みます。
 小型の銅像の場合「蜜蝋」による「蝋型」の制作ですが銅を鋳込む際「中型」を使用
せず「外型」だけで中空のない銅無垢の像となります。
 
 「東大寺の大仏」は像の下部から頭部へ8回に分けて「銅」を鋳込みました。 しか
し、溶銅が回りきらず隙間が出来ます。その隙間を現代病の「骨粗鬆症(こつそしょう
しょう)」と同じく「鬆(す)」と言い、その「鬆」にもう一度溶銅を流し込むのを
「鋳掛(いかけ)」と言います。
 「東大寺の大仏」の造像でわが国の「銅」の在庫の殆どを消費してしまい、これから
暫くは「銅像」の制作は少なくなります。

 子供の頃、「鍋、ヤカン鋳掛(いかけ)」の掛け声の「鋳掛屋」商売があり、それは
アルミ製の鍋、ヤカンの穴の開いた所をアルミのリベットを入れ、リベットの一方を叩
いて潰し、鍋とリベットとの隙間をなくす修理工法でした。当時はアルミ材料不足のた
め板が薄く穴が明きやすかったのです。「鍋釜が質入れ出来る」ほど鍋釜が貴重な時代
でした。しかし、この工法は「鋳掛」というより同質のリッベトを使って修理するので「嵌金(はねがね)」と言う方が正しいかも知れません。

 父は戦後間もなく脱サラして「金物屋」を始め、学校給食が開始されると同時に学校
給食用の食器の販売を始めました。が、当時の食器は横を指で押すと食器がへこむ薄さ
でした。また、めっきは黄色の硫酸アルマイト加工で、メッキが完全でないため、アル
ミの白い地肌が見える白いあばたの食器でしたが販売できる物不足の時代でした。

  明治、大正時代には小型の「ふいご」を持って「鍋・釜」を修理して回る「鋳掛屋」
商売があったらしいです。

 「鬆」とは逆に、溶銅がはみ出て突出した部分を「バリ」と呼びます。
 現在では「金型」ですが天平時代までは「蝋型」ですので出来上がった像の表面は粗く、一皮剥ぐぐらい削らなければなりませんでした。ですから硬い材質の「鉄像」の制
作は難しかったのです。
 表面を粗く削りそれから砥石並びに木炭で、像の材料が蝋かプラスチックで制作した
如く表面を滑らかに磨き上げます。このように大変手間暇を掛けなければ「金メッキ」
が出来ないからです。
 一般的に表面を仕上げることを「鋳浚(いざら)え」と言います。
 
 仏像は経典に定められた「金色の像」に仕上げなければなりません。そのための「金
メッキ」の工程は、金属でありながら液体である「水銀」に「金粉か金箔」を混入する
と「金」が「水銀」で溶かされ「アマルガム」という液体に変化します。「金」が溶け
て見えなくなるので「滅金」とも言います。その「アマルガム」をきれいに仕上げた像
の表面に塗った後、炭火などの加熱で「水銀」だけを蒸発させて「金」を像に定着させ
ます。その際「水銀」が空気中に放散されるため出来た有毒ガスによる皮膚障害、呼吸
器障害の病人が多く出たことでしょう。私の子供の頃は怪我といえば「赤チン」「ヨー
ドチンキ
」の薬を塗ったものですが両薬とも「水銀」が使用されており、現在では製造
禁止となっております。「水銀」といえば悲しい事件「水俣病」がありましたね。
 しかし、「東大寺の大仏」は炭火程度で「水銀」が蒸発されることが出来たかどうか
は疑問が残ります。
 「銅像」に「金メッキ」したものだけが「金銅像(こんどうぞう)」と言えます。 

 「銅」が溶けたのを「湯」と呼称しますが、「銅」の含有率が高くなると「湯」が濃
くなり「湯」の流れが悪くなって「鬆」が多く出来ます。「銅」に「錫や鉛」を加える
と「湯」が薄くなり「湯」の流れが良くなります。
 時代も下りますと「鋳込み」を楽にするために融点が232℃と低い「錫」などを混ぜて
材料の金属の融点を下げました。ところが「銅」の含有率が下がると「金メッキ」が難
しくなりますので「像」の表面には「金箔」を「漆」で接着するようになりました。こ
の方式だと水銀による有毒ガスの発生がなくなる利点があります。
 木像の場合「金箔」を「漆」で貼るのを「漆箔(しっぱく)」と言います。

 「興福寺の山田寺仏頭」は火災に遭いましたが融点の高い「純銅に近い銅」であった
ので溶解せず、「頭」と「胴部」が建物の倒壊による物理的な力で分断されたと考えら
れます。「胴部」は何らかの材料に再利用されたと思われますが「頭部」は恐れ多く大
切に保管されましたので現在我々が目に触れる幸せがあります。
 「青銅」に続いて使用されたのが「黄銅(おうどう)」です。「黄銅」とは「銅」と「鉛」の合金で「真鍮(しんちゅう)」とも言い、金色の仏具などに用います。