薬師寺  

 「薬師寺」は「興福寺」と並んで「法相宗」の大本山です。
 薬師寺の所在地の「西ノ京」とは、平城京を朱雀大路で東西に分けられた西の半分で
右京全体を指しましたが、現在では薬師寺、唐招提寺のある界隈だけを指します。西
ノ京で創建当初の面影を留めた建造物は薬師寺と唐招提寺に限られましたからこのよ
うな呼び方になったのでしょうか。近鉄「西ノ京駅」は薬師寺の旧境内にありますので
近鉄線は薬師寺の旧境内を走っております。
  余談ですが平城京の右京(西ノ京)には高級役人が住まいし、左京(東ノ京)には下級
役人、一般庶民が住んでおりました。しかし、高級役人が職務上重大なミスを起こし
て降格になりましたら左京に移住させられることから出た言葉が「左遷」です。時代が
変わると左大臣の方が右大臣より格が上というように左上位となりますが左遷と言う
言葉のみが残ったようであります。

 後に、
薬師寺の建立を発願されました「大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)」は
「壬申の乱」が起こる契機となった皇位継承争いで、身辺に危機が及ぶのを避けるため
自分には皇位に就く意思がないことを示さなければならず、そこで急遽出家して命か
らがら吉野に逃げ延びられたのであります。その大海人皇子が反旗を翻して天智朝と
戦い、壬申の乱で勝利を収められた結果、相手側の天智朝に服していた有力豪族が、
天智朝の敗北により没落しました。このことから、天武天皇は誰一人として気を使う
人物がいなくなりましたので天皇の思うままの政治が遂行できました。それまで、
「大王」だったのが初めて天皇の称号を使われたのが天武天皇で、天皇の政治は高級役
人を皇族で固めた皇親政治となり天皇を中心とした中央集権国家は磐石なものとなり
ました。

 薬師寺建立の経緯は、壬申の乱での戦いで生死をかけた苦労をともにした「皇后(後
の持統天皇)」が病気になられたので天武天皇は何にも代えがたい皇后の病気平癒を祈
願するため「薬師如来」の造像を発願されたのであります。その尊像を安置するための
寺院が藤原京に建立されました「薬師寺」であります。実力の備わった天武天皇ですか
ら官寺に相応しい雄大豪壮な伽藍だったことでしょう。ところが、天武天皇は薬師寺
の完成を見ることなく崩御されましたが既に、病気から回復されていました持統天皇、
続いて孫の文武天皇によって薬師寺が完成されました。しかし、建立後たった12年
で平城京遷都となり新たに平城京に薬師寺が建立されることになり藤原京の薬師寺は
「本(もと)薬師寺」と寺名変更になりました。現在の薬師寺を平城薬師寺、本薬師寺を
藤原薬師寺と呼び区別する場合もありますが使われることは少ないです。
 

 天武天皇は出家した後に天皇になられたという珍しい経歴の持ち主であり、伊勢神
宮の式年遷宮をお決めになっただけでなく、貴族の屋敷には仏像とお経を用意させる
など、神仏を敬うことを奨励されました。
 
先月(2006.03.08)には天武天皇が即位されました「飛鳥清御原宮(あすかのきよみは
らのみや)」で内安殿とみられる二つめの正殿が発見されたと大きく報じられ天武朝の
実力が証明されました。その現場説明に多くの人が集まり発掘現場に到着するまで一
時間を要したという盛況でした。「宮」は天皇一代毎に変わるのが原則ですが飛鳥清御
原宮は天武・持統天皇の二代にわたって使用されましたし「檜隈大内陵(ひのくまおお
うちノみささぎ)」といわれる天武・持統天皇陵は夫婦合葬墓であります。
妬ましいほ
どご夫婦は
比翼の鳥(ひよくのとり)そのものだったようですね。
 

 従来の慣習では都が移るに従って寺院も移転するのでありますがその場合、寺院造
営には伽藍配置、建築、仏像などはその時代様式に倣うのが慣行であります。しかし、
薬師寺は本薬師寺の様式を踏襲して着工されると言う前例のないことが起こりました。
天平時代、寺院の建立形式は「塔」を回廊外に建てられますがその原則に反して薬師寺
は藤原京に建てられた本薬師寺の白鳳建築様式を踏襲して塔は回廊内に建立されたの
であります。
 
平城京の薬師寺は718年から建立が開始されたようであります。   

 薬師寺は1972年 金堂の基礎工事が始まり、現在(2006.03)まだ再建工事がつづいて
おり今は回廊の継続工事中です。古刹寺院でこれほど変化を遂げた寺院は他に例を見
ないでしょう。「金堂」、「西塔」、「中門」、「東僧坊」、「西僧坊」、 「回廊(南側半分)」、
「大講堂」などが再建されさらには新設の「玄奘三蔵院伽藍」の建立があります。

 今回、驚きましたことは薬師寺の建立総責任者はインドの事情によく精通した方か
インド人そのものではないかと思われるくらいインドの様式に基づいて造営されてい
たからです。薬師寺は古代のロマンに彩られた興味が尽きない寺院でありますゆえ異
国的な雰囲気にゆったりとひたって幸せの時間をお過ごしください。

 

       休ヶ岡八幡神社

  「駐車場」から最初に出会うのが休ヶ岡
(やすみがおか)八幡神社
で案内板にはこの
神社にお参りの後、薬師寺にお越しくださ
いと書かれてあります。この神社の本神は
平安時代に「宇佐八幡神社」から勧請された
のであります。しかし、現在の建物は「豊臣
秀頼」によって再建されたものです。
 本殿には
僧形八幡神神功皇后
津姫
(国宝)が祀られていましたが現在は東
京国立博物館に預けられております。

   

     孫太郎稲荷社

   「休ヶ岡八幡神社」に隣接してあります
のが「
孫太郎稲荷社です。両社の神様にお
祈りしてから現世利益(げんぜりやく)の
「薬師如来」の仏様にお祈りされますと、神

仏にお祈りしたことになり、これからの人
生においてきっと良いことがあるでしょう。
 古刹寺院に神社があるのはよくある話で
すがお稲荷さんまであるとは珍しいことで
しょう。

 

 
        南  門

 
 
南門は寺院の正門南大門に当たる
だけに大規模な門を想像してこられた方
は裏門に来たと勘違いされるようです。
 近い将来、
中門(ちゅうもん)のよう
な天平時代の彩色で彩られた豪華な南大
門が出来ること間違いなしでしょう。

 

 


          中  門

  「中門」は昭和59年再建。
  昔、回廊内は聖域であり、
 僧といえどもみだりに立ち
 入ることは許されませんで
 した。ですから、中門が礼
 堂の役目をするため、豪壮
 な建物となっているのでし
 ょう。
  天平時代までは南大門と
 中門との距離が接近するの
 が原則でした。

 ただし、東大寺は例外です。法隆寺は南大門を平安時代に現在地に移築されま
した。
唐招提寺の中門は倒壊したまま再建されておりませんが中門がないことによ
って南大門から
金堂への眺めは絶景となっております。その唐招提寺金堂は現在
解体修築中です。


 ヤクシー像(インド)


  吽形金剛力士像 


  阿形金剛力士像

 金剛力士像は上半身が「裸」でなく鎧を着けておりしかも「岩座」に立つのが通例で
すが
邪鬼の上に乗っております。東大寺三月堂の金剛力士像も上半身に鎧を着けて
おります。
  邪鬼ほど苛められ惨めな生き物はいないでしょう。その邪鬼の先祖はインドにおけ
るヤクシーに踏まれる生き物(青矢印)ではないかといわれております。 
 ヤクシー像のスタイルは後述の日光・月光菩薩像での「三曲法(緑矢印)」の根源とい
えるものでしょう。それと、立脚(水矢印)、遊脚(紫矢印)の面においても同じことが
言えます。


              金  堂

   「金堂」は昭和51年再建されました。正面の長さは26.6m、奥行の長さは15.5m、
高さは20.4mという20世紀最大の建造物であります。
 一見四重の建物のように見えますが、二重の建物で、上・下層とも
裳階(もこし)」
と言う庇状のものが設けられており二重二閣入母屋造であります。我が国で考えられ
た密教寺院の
多宝塔も、一重塔に裳階が付いたものです。薬師寺では「東・西塔」
「大講堂」の三棟が裳階付きという豪華さです。
 金堂の中央部分は鉄筋コンクリート造、防火シャッタ―構造、周辺部は木造建築で
す。創建当初の木造建築での再建を要望する寺側と人類全体の遺産と言うべき
本尊
薬師如来像
を守ることを主眼とした国側との妥協の建物です。
 
 幾ら森林資源が豊かな我が国でも時代が下りますと巨木の入手は困難を極め、例え
ば、
東大寺大仏殿の建設用桧材の入手先はと言えば、創建時は奈良周辺で集めるこ
とが出来ましたが、鎌倉、江戸の再建時は山口県、宮崎県、昭和の修築にいたっては
日本を離れて台湾で調達されました。
 昭和の大型建築「薬師寺金堂」は、台湾からの輸入最後となる桧材で建立されました。
その金堂の「円柱」の製作には古代の手法が適用され、巨木を縦に4つ割にした四分の
一を使って加工されたものです。このことからも一本の木材から四本の円柱が取れな
ければならないという巨大木を必要としたのです。その意味でも、金堂は昭和の最高
の木造建築で、もうこれだけの贅沢な造りの建築は不可能でありましょう。
 その台湾も現在は桧材輸出禁止で、巨木を確保することは難しく「興福寺の中金堂」
はアフリカで調達された木材で現在再建工事中であります。すなわち、巨木を必要と
する大型の仏堂の建立は難しい時代を迎えたのであります。
 裳階の中央を一段上げているのは「東大寺金堂」を倣ってとのことですが同じ形式が
「平等院の鳳凰堂」であります。

 伽藍の中心に金堂があり中門から見通せ、塔より金堂が重要視された最初の伽藍と
いえましょう。これ以降は鎌倉時代までは本尊を祀る仏堂が伽藍の中心を占めていき
ます。

 昭和19年の地震被害の影響で雨の日の法要には、傘をさして行われたという
本金
興福寺仮金堂として保存されております。

 

 
      薬 師 如 来 坐 像 

 本尊の「薬師如来像」は我が国での
頂点に立つブロンズ像どころか、世
界でも有数のブロンズ像といえる見
事な出来栄えで初めて拝観された方
は際立った優美な姿に圧倒され歓声
を挙げられることでしょう。 
  薬師如来像は静の姿勢で、脇侍
(わきじ)の
日光菩薩像」 、「月光菩薩像は動の姿勢です。
 現世利益の仏・薬師如来が本尊と
なった最初の寺院ではないでしょう
か。薬師如来は当時、病気を治す神
様が不在だっただけに大変持て囃さ
れたことでしょう。
古代寺院で病気
平癒を願って創建されたといえば
「法隆寺」「興福寺」「新薬師寺」があり
ます。

 天平時代の終わり頃には厳しい男
性的な表情となりますが、本尊は柔
和な顔立ちだけに気軽に
病気平癒
が祈願できます。 

 薬師如来は「東方浄瑠璃世界」の教主で民間芸能の「浄瑠璃」は薬師如来に起因するもの
です。 
 蝋人形のように像の表面が滑らかに仕上げられているのは、金メッキをするためで、
金メッキした像のみを金銅像(こんどうぞう)と言います。
 唐時代流行の丸顔で、創建時の「東大寺の大仏さん」もこのような丸顔だったことでし
ょう。
 眼は天平時代の特徴である上瞼がほぼ直線で下瞼が曲線となっており目頭で「蒙古襞
(もうこへき)」を表しております。蒙古襞については
興福寺の山田寺仏頭をご参照く
ださい。
 首の三道は飛鳥時代の線彫りの表現から肉体の一部となる写実的な表現になっており
ます。
 左手の掌には見事な千輻輪相が鏨で細密な線彫が施されておりますのはまだその掌に
薬壷を置く習慣がなかったからでしょう。もし、薬壷を置くのであれば薬壷で見えなく
なる千輻輪相を刻む手間を掛けなかったことでしょう。 
  水鳥の水かきのような膜、「縵綱相」など経典に忠実に刻まれておりますのは本像と唐
招提寺の本尊以外には存在いたしません。余談ですが縵綱相はインドでは石像が多くあ
り石造の場合指が破損しやすいのでその補強のために残されたのが如来の特徴に組み入
れられたとのことです。
 
   「裳懸座の台座」で、裳の裾を「台座」に垂らしたものを「裳懸座」といいます。「法隆寺 
本尊
」は正面、左右の三方に裳が垂れておりますが本尊の裳は正面のみでこれはイン
ドの古式に則っているのでしょう。裳懸座は銅製であるのに柔らかい繊維製品の感じが
よく出たリアルな表現となっております。

 像が黒褐色しているのは素材の中に砒素が入っていたからと言われております。銅の
錆といえば毒性の強い緑青ですが私の仕事上で問題になったのは瞬間湯沸かし器で、こ
の湯沸し器には熱伝導のよい銅管が使われ熱効率を上げておりましたが銅から毒素の緑
青が出るので瞬間湯沸かし器で沸かしたお湯は飲料用として使ってはいけないので容器
などの洗い用に使われておりました。ところが現在は緑青は無毒であることが証明され
たとのことであります。緑青が問題になったのはその昔、銅の素材に砒素を混ぜた材料
が使われていたからではないかということです。銅に加えた砒素が問題なのに銅そのも
のが疑われていたようであります。それからすると、本尊薬師如来像の材質には砒素が
加えられていたので現在の色合いの烏銅となったのでしょう。
 鋳造は土型で施工されたのにこれだけ見事な作品に仕上げられたことには驚きです。
機械工具が揃った現在でも同じ作品を造るのは並大抵ではないでしょう。何もかも不足
する時代にこれだけの優作が出来たことは財政破綻を起こすほど官寺の建築、仏教美術
品を造ることに財力を注いだ結果といえましょう。
 人体に薄絹を着せたような表現は、塑造か漆造ならこのような写実表現が可能ですが
それを銅造でリアルに表現したところに凄さがあります。蝋人形の素材である蝋で造像
されたといっても多くの方々は素直に信じることでしょう。 
 薬師如来像は金銅像の最後を飾る作品と言えるものでこれ以降は金銅像のめぼしいも
のは造られておりません。これほど素敵な金銅像はまたと造れないでしょう。


   本尊(マハーボディ寺院)

  
    ミャンマーの仏たち

 本来、如来は金色に輝いていなければな
らないと経典に定められており、東南アジ
アではそれを守るべく敬虔な信者が金箔を
買い求めそれを仏にやさしく貼り付けてお
ります。上記の仏たちは幾層もの金箔の厚
みで原形を留めず球形となっております。

ところが、我が国では金メッキが剥落したとか彩色が退色したのが好まれると言う仏
教国では少し異常であります。

    
       千輻輪相(中央部分)

  「手足千輻輪(しゅそくせんぷくりん)相」
とは手の掌や足の裏に千輻輪相(青矢印)(千
本のスポーク状の車輪)という文様があるこ
とです。輪の外周には矢尻のような武器が千
個付いており、この武器で敵をなぎ倒します。
このことは煩悩を蹴散らして我々を仏教に帰
依させることです。輻を千本刻むのは現実に
は難しいので制作の際には省略されておりま
す。それでも手間が掛かりますので薬師寺本
尊以外は見当たりません。
 吉祥相として指先には卍花文相、足裏には
宝瓶相のなどが表わされております。
 薬師寺本尊には足紋と違った千輻輪相が手
の掌にも設けられております。
  残念ながら足文も手文も高い位置にあるた
め確認できません。       


        台 座(北面・玄武)

  台座には 色々な文様や四神、異人像が刻まれた見事な作品で、このようなユニー
クな台座は薬師寺以外ではお目に掛かれないでしょう。北側面は目の当たりに見える
ように来迎壁が大きく開口されておりますのでじっくりとご覧ください。見応えのあ
る台座を見に来られただけでも薬師寺を訪れる価値が充分あります。
 上框にギリシャの葡萄唐草文、周囲にはペルシャの蓮華文、中框にインドのヤクシ
ャ像、下框には四方を鎮護する中国の四方神(東に青竜、南に朱雀、西に白虎、北に玄
武)で、ギリシャからペルシャ、インド、中国を経て薬師寺に到着、シルクロードの終
着地が
古都奈良の証でしょう。
 仏師はシルクロードを意識して造られた国際色豊かな表現の台座となっております。
 四神が仏教に取り入れられることもないので当然、台座に表された遺例はほかにあ
りません。   

                   ヤクシャ像

  「台座を支える像」は腹が膨らんでいるところなどインドのヤクシャ像そっくりです。
やはり、台座像は塔、台座、柱を支えるインドのヤクシャ像に起源を発するものといえ
るでしょう。

 


  月光菩薩立像
 


  日光菩薩立像 


 観音菩薩像(インド)

 「日光菩薩像」、「月光菩薩像」は中尊側の足を立脚、外側の足は膝を心もち曲げて遊
脚としやや腰を捻っております。
胸・腹下半身を交互に左右に振ってお
りますが、これは古代インドの美術からきた
三曲法です。インド舞踊は手足を初め
身体を小刻みに動かすことのよって、物語を語るポーズがベースとなっており、この
様式がインドの仏像に採用されたのであります。
 豊胸で肉付きの良い身体であるのに痩身像の如く腹を前に反らせており官能的な妖
しい魅力で心和ませることでしょう。 

 普通は「条帛(じょうはく)」で、条帛とは像の左肩から右脇腹にかけた斜めに垂らす
細長い布でのことですが、本像では
条帛ではなく「瓔珞(ようらく)」という豪華な装身
具を二段に着ける珍しいものです。図像では詳細は分かりづらいですが一つは
花文を
つないだ意匠の瓔珞(
緑矢印)で写真像のように条帛の如く左肩から右腰に掛けていま
す。もう一つは殆ど失われておりますが連珠文を二列につなげた瓔珞(黄色で強調)で、
肩から膝まで垂れ下がり正面で曲線を描き今度は反対の肩の方へと上がっていきます 。
とにかく我が国では見られぬ珍しい瓔珞ですが多分インドでは存在するのでしょう。
条帛は後述の「聖観音像」が着けております。ただ、両像は素敵な胸飾りを着けており
ますがインドの多くの観音像では聖観音像
のように首飾りと胸飾りの両方を着けてお
りました。
裳裾の広がりは小さな動きの状態か一瞬の停止を表しているのでしょう。 

    
月光菩薩像(天龍山石窟)
         
日光菩薩像(天龍山石窟)

 日光菩薩像日輪
月光菩薩像月輪を手
に持つか、蓮華の茎に

輪」「月輪」を付けたものを
手にするかであります。
 薬師寺の日光・月光菩薩
像は薬師如来の脇侍とはっ
きり分かるので、日輪・月
輪を持たないのでありまし
ょう。

 

   
      東  塔
    
     西 塔(さいとう)

  伽藍内に「双塔」がある 形式を薬師寺式伽藍形式とか白鳳伽藍形式と言います。
  釈迦入滅から時代を経ると、亡くなられた釈迦の舎利を崇拝することよりも生きた
お姿を写した尊像の礼拝を願うようになったのはインドのみならず仏教国すべてであ
りました。当時の我が国でも火葬にふされましたのは持統天皇をはじめ極僅かの人で
それ以外の皇族、貴族は土葬で現在のように遺骨を重んじることはなかったことでし
ょう。ですから、舎利崇拝より仏像崇拝の方が好まれたのは必然でありましょう。

 しかし、金堂を伽藍の中心に設置し、
高い塔を南北の基本軸よりずらさなけれ
ばなりませんが、塔を後の時代のように
装飾品扱いは出来ず塔の処遇に苦慮され
たことでしょう。そこへ韓国から本来一
塔でよいのに双塔形式の情報が持たされ
ましたのでその情報に飛びついたのは当
然でありましょう。この双塔形式は天平
時代には原則となりますが、天平時代の
双塔は伽藍から外に出されます。


     双 塔(感恩寺・新羅)

 「東塔」「西塔三重塔であるのに屋根が六つあり、一見六重塔に見えますが、
屋根の三つは
裳階(もこし)という庇状のことです。各層に裳階があるのは東南ア
ジアにも存在しません。裳階が付いたお陰で安定感が出てまいりました。
 
 木造塔は、間口が方三間のうち中央の間が両脇間より広いのが普通でありますが、
当塔は方三間が等間隔であります。また、三層目は方二間という異例でありますが
同じ形式が
法隆寺五重塔当麻寺三重塔法起寺三重塔にも見られます。し
かし、裳階の方では中央の間を脇間より広くしてあります。
  東塔は730年建立で創建時唯一の遺構です。しかも天平時代の官寺の重要な建物の
中でも唯一の遺構という貴重なものです。
 高さは34.1m、相輪の高さは10.3mです。

 西塔は昭和56年再建で、創建当初の双塔伽藍が完成しました。天平時代の華麗
な彩色仕上げです。心礎に設けられた舎利孔は西塔にありますが、本薬師寺では逆
で東塔の心礎に舎利孔が設けてあります。今は礎石を残すのみとなりましたが「本薬
師寺址」には東塔の心礎が今も残っておりますので明日香をお訪ねの際には一度ご覧
ください。
 非常に均整のとれた美しい両塔を「竜宮城」と称されましたことは納得出来、当時
の人が描いた乙姫様のいらっしゃる華麗な竜宮城とのイメージがあったのでしょう。
ただ、竜宮城は名の通り竜王の住まいです。

   
    基壇、初層部分(東塔)
  
    基壇、初層部分(西塔)
               「壇上積」の「基壇」です。

 「東塔の基壇は堆積物と地盤沈下で約80cm
低くなっており、西塔と見比べれば一目瞭然
です。
東塔の初層には西塔と同じように
子窓
がありましたが現在は白壁で塗り込まれ
ております。

 再建以前は西塔の心礎に水が溜ま
り、その水面に東塔が映り、風情が
あると多くの人に感動を与えました
のでそれを理由に西塔の再建を反対
する人もいたらしいです。

 
      東 塔


     法隆寺五重塔

 塔の上層屋根から上にある金属製(石製もあり)の部分全体を相輪と呼びます。飛鳥
時代は韓国から渡来した相輪担当の技術者の肩書きは露盤博士 だったことから当時、
相輪は露盤と呼ばれておりました。博士の尊称が与えられるくらい露盤の製作は熟練
の技を要したからでありましょう。博士の尊称を与えられたのは瓦工との二人だけで
した。現在では相輪を九輪とも言います。

 相輪は下から箱型の基盤(基壇)、半円形の伏鉢(ふくはち)、四角形の平頭(びょう
ず・へいとう)、傘蓋(さんがい)、竜舎、宝珠となっておりますが薬師寺塔以外は平
頭が受花となっております。インドでは殆どが薬師寺塔と同じく平頭で薬師寺塔は古式で貴重な塔と言えます。  
 インドのストゥーパ(塔)の傘蓋は円錐形の傘状を象っており傘蓋といえるものであ
りますが我が国のを見ると車輪形そのもので、ここから相輪、九輪という言葉が誕生
したのでしょう。ですから我が国では傘蓋というには問題があり、傘蓋の部分を九輪
と呼べばわかりやすいのですが、当麻寺塔のように八輪という例外もあります。

 輪とは最高権威の象徴であったのでしょう。法輪、輪宝、転法輪、相輪、千輻輪な
どがあり、しかも古代インドの武器が輪であったものが仏教に取り入れられておりま
す。その輪の思想が仏教が東漸する途中で相輪に取り入れられたのが我が国での九輪
(相輪)となったのでしょうか。
 舎利の安置場所は通例伏鉢内でありますが平頭内におさめられる場合もあったよう
であります。古代の我が国では舎利は塔の地下に安置されております。


 アジャンター第10窟(インド)

 
    サンーチの第一塔(インド)

  アジャンター第10窟の石窟寺院は、奥にストゥーパを祀りその前の空間を礼拝場所
としております。基壇が高くなってきておりこれから高層楼閣建築へと変化していく
のでしょうか。サンーチの第一塔の基壇は円形状の二段になっております。基壇が二
段といえば「法隆寺五重塔」があります。


          水 煙(東塔)


  天童   天女       天男
 この三体の飛天は子供の天童、母親の天
女、父親の天男であると闊歩された方がお
られ大変感心いたしました。天童は坊主頭
で蓮の蕾を両手で捧げております。天女は
頭が小さく、右手で刹管を支え左手で散華
のための華盤を捧げております。天男は跪
き変わった頭巾を被り横笛で奏楽しており
ます。健康的な家族の飛天ということであ
れば親しみが湧いてまいります。

 天平創建の東塔の「水煙」は年代のものだけに画像では不鮮明となりましたが価値あ
る東塔を掲載いたしました。水煙の大きさは高さ193p、下辺の長さ48pもあります。
 果てしなく空間の零芝雲上に雄飛する東塔の飛天が、1300年も前から今日まで天空 
で散華奏楽をし続けてきたことは奇跡としか言いようがありません。

 水煙は左右対称で流れるような天衣と霊芝雲が同じ火炎状となって識別し難くなっ
ておりますが「東僧坊」内に複製の水煙が飾ってありますので間近にご覧になり見極め
てください。しかも、撮影が許可されており上記の三体の写真はその複製水煙を撮影
したものです。


   アジャンター第26窟  


  如来像(インド)

 インドの如来像には空中より散華供養する飛天が浮彫りされておりますのが通例で
すがストゥーパでは見えませんでした。仏像が造られるようになるとアジャンター石
窟の第26窟のようにストゥーパの正面に仏像が刻まれ、飛天(青矢印)が刻まれるよう
になりました。尊像、仏堂を飛天で供養されるのに塔はなぜ飛天で供養されなかった
のか不思議なことです。塔を供養するのには飛天が相応しいと思われます。相輪が創
製された時、飛天で供養することをなぜ考えられなかったのでしょうか。東塔はイン
ドの古式に則っておりますが飛天を伏鉢ではなく空中からの散華供養を考え水煙に安
置されたのでしょう。
 水煙に飛雲中に舞う天人の姿を配したのは東南アジアで唯一の遺構と言えるもので
す。貴重であり心に残る薫り高い飛天像でありますので双眼鏡持参でご覧ください。
 アジャンター石窟の第26窟のストゥーパは平頭より上(緑線)は破損して小さな残骸
を残すのみとなっております。  

 我が国では飛天といえば「三保の松原」の美しい天女を想像いたしますがインドでは
「寄り添う半裸のカップルの飛天」とか「両手に花の飛天」であります。半裸の肉体のま
まで飛行する用具は一切なく飛翔できるというのですから理解し難いです。このカッ
プルの飛天が中国で天男、天女に別れさせられ、天女はそのままでありましたが天男
の一部は八部衆の一神となったのでしょうか。薬師寺塔の飛天はカップルのまま我が
国を目指し、その飛来途中で子供が誕生したので天人親子となったのでしょう。
親子の故郷はインドでありますが華麗な姿を薬師寺塔で見せているとはロマンチック
な話ですね。  

 「裳階()」を取り除いた三重塔の断
面図です。「初層の間口()」の42%
が「三層の間口()」です。そのため、
とんがり帽子のようですが、裳階があ
るため安定感のある美しい姿となって
おります。
 これとは逆に
浄瑠璃寺の三重塔は 「初層の間口」の84%が「三層の間口」
です。   

 お寺では修学旅行生には東・西塔は
裳階が三重に付いたものであり、「

階建て
」ではなく「三階建て」ですので

誤解(五階)」のないようにとの解説をされているとのことです。結論をいえば屋根の
数ではなく柱が何本あるかです。図のように縦に柱が三本しかないので三階建ての建
物・三重塔ということになります。

 

 

     
          回  廊

   回廊複廊式です。東大寺も同
じ複廊式だったようです。天井の構造は
三棟式(青矢印)で、三棟式とは棟が中
央と両回廊の上の三つあるためです。
   「法隆寺東大門」も同形式の造りです。

 

 

 

   
          東 院 堂

 東院堂は江戸時代に移築する際
基壇を高くした後、南向きから西向
きに変更されました。

 現在は回廊が出来て優美な姿を見
通すことは出来ませんが江戸時代に
はもう既に回廊は廃絶していたので
しょうか。それにしても移築の際も
う少し東側に寄せれば正面の全景が
見通せて良かったのに残念です。

 

  
  聖 観 音 立 像 
 
 グプタ様式の如来像 

 観音とは観自在菩薩」「観世
音菩薩
のことで、最初は聖(しょ
う)観音だけだったので単に観音
菩薩と呼ばれておりましたが「十
一面観音」、「千手観音」などの「変
化(へんげ)観音」が誕生しまして
からそれらと区別するために「聖」
とか「正(しょう)」が頭に付けられ
るようになりました。
 「聖観音像」は本薬師寺の本尊の
脇侍ではなかったかといわれてお
りますのは普通は右手を挙げて左
手を下げるのが逆の姿になってい
るからです。
 聖観音像は白鳳時代の幼児のよ
うな姿ではなく若々しく凛々しい
好青年でさわやかな印象を受けま
す。制作時期は白鳳か天平か意見

の分かれるところでしょう。髻の丈が通常より高くなっております。
 三面宝冠でなければならないのに、頭の左右には唐草文で装飾されており、これは
簪(かんざし)を表しているのでしょう。正面には唐草文が施されていないのはそこに
観音のシンボルである阿弥陀の化仏が付けられていたからでしょう。
 瓔珞は首飾り(緑矢印)と胸飾りの二段となっておりインドでは観音像の多くがその
ようでありました。条帛(紫矢印)が左肩から右腰に掛けて掛かっております。
 天衣は鰭状(青矢印)に広がっており、この表現方法は扁平像などで用いる正面鑑賞
性であります。正面鑑賞性とはいえ本像の側面はグラマーな丸彫りとなっております
のと、左右対称を重んじて写実性から外れております。
 天衣は白鳳時代から二段掛けであるのに珍しい三段掛け(白数字)です。
  (
仏像の見方をご参照ください。)
 裳の裾を高くたくし上げ足首を見せているのも写真のグプタ時代のマトラー仏像の
影響でありましょう。
 瓔珞(ようらく)が膝から膝へ渡る際出来る僅かな隙間までが表現されていると言う
素晴らしい鋳造技術で、鋳造し難い純銅の時代にもかかわらずやりとげた技量には驚
かされます。
 扉形式で両開きのことを「観音開き」と言いますが、これは
両開きの厨子に安置さ
れた仏像が聖観音、変化観音が多かったためです。もし
文殊菩薩が多かったら文殊
開きとなっていたことでしょう。
 聖観音像は太平洋戦争時代には鉄砲の弾になりかけたそうですが、幸いなことに間
もなく終戦となり無事だったとのことです。 
 台座は八角框座で華麗な傑作です。


    沐 浴(ガンジス河) 

 聖観音像の脚部分
の波紋状の襞は、イ
ンドのグプタ様式の
影響をうけており、
そのグプタ様式とは
インドなどで見られ
る衣を着けての沐浴
で、水から上がると
衣服が身体にぴった
りと密着した姿にな
り、その姿が神々し
く見えたから仏像に

取り入れたといわれております。しかし、現実のガンジス河の沐浴では写真のように
厚着のためぴったりと肌に密着とはいかず美しい足の曲線にはお目にかかれませんで
した。涼しい乾季だったから厚着されていたのでしょうか。
 静かに流れるガンジス河の早朝は、洗濯する人、泳ぐ人、頭まで水に浸かり沐浴す
る人、口をすすぐ人様々の風景です。お世辞にも澄んだ水とはいえないですが敬虔な
信者にとっては霊水なのでしょう。沐浴で心身の汚れを洗い落として素晴らしい朝日
の陽光に映えるガンジス河に向かって安らかな祈りを捧げると一層厳かな気分になら
れることでしょう。 
 早朝のためか真摯にお祈りを捧げる人々よりボートに乗って沐浴を見学する者の方
が多いように思えました。  

 


            大 講 堂

 「大講堂」は裳階付き
で眼にも鮮やかな天平
の彩色で生き返りまし
た。これで金堂、三重
塔と並んで大講堂まで
が裳階付きの建築とな
りました。

 本尊の名称は「薬師如
来」から「弥勒仏」の正式

名に変わりました。弥勒仏はインドで現存された方なのでインド名「マイトレーヤ」と
呼ばれ多くの像が刻まれておりました。弥勒仏は釈尊のリリーフと承知しておりまし
たが「法相宗」の教学である「唯識論」の創始者であられたことを今回知りました。
 両側の骨組みは回廊の延長工事用のもので、今なお(2006.03)復元工事が続いてお
ります。

 

 
          仏 足 石

 「仏足石」は釈尊が初説法
を行われた「鹿野苑(ろくや
おん)・サルナート」にあり
ました原本を唐人が写した
のを我が国の黄書本実(き
ふみのほんじつ)が写し、
さらに絵師越田安万(こし
だのますまろ)と石手某が
写し彫ったのがこの作品で
す。
 仏足石では我が国唯一の
国宝と言う貴重な文化財です。

 正面の高さ 69cm 上面の奥行 74.5cm 横幅 108cmもあり結構大きな角礫岩で仏足
の大きさは右足は47.7cm 左足は48.8cmであります。
 
足跡文の周辺には花文が散りばめているのは散華供養のためでしょう。中央の千輻
輪相をはじめ多くの瑞祥文が刻まれております。
 
インドでは釈迦のシンボルとして数多く造られましたが我が国では仏足石そのもの
が珍しく国宝指定の仏足石です。大講堂の後堂に安置されておりますので見落とさな
いように注意してください。

 
  ラホール博物館(パキスタン)

  
       スワート博物館(パキスタン)


   プリンスオブウェールズ博物館(インド)

 仏足石の原本がありました鹿野苑とは鹿が生息したことに由来するものです。
 
天武天皇は熱心に仏教を信仰され,殺生戒を守って、動物の肉を食べることを禁じ
られたのであります。しかし
なぜか、当時は鹿と猪の肉は食してもよかったのですが
元明天皇時代には地上に生殖する動物はすべて駄目となります。天武時代に食しても
よかった
鹿が間もなく神の使いの神鹿(しんろく)となるのですから運命とは不思議と
言うよりほかないですね。


       
鹿野苑の鹿

 「奈良公園の鹿」は野生動物であり
ながら人間に危害を加えるどころか
人によく慣れていて「鹿煎餅」を頂戴
と可愛らしくおじきの動作をいたし
ます。奈良公園の鹿は放し飼いです
が「鹿野苑の鹿」は菱形金網に囲まれ
た地域で飼われております。しかし、
野生動物とはいえ性格は大人しいよ
うに見えました。私が近づくと金網
のところまで来て餌が貰えるのを待
っておりました。鹿の撮影には金網
が邪魔になりますので餌の売人に金

網の向こうに投げてもらい撮影いたしました。角切りがないのか大きな立派な角を持
っております。鹿の数は奈良公園の数に比べるとずっと少なく見渡した範囲で数頭で
した。


      サンーチの第一塔
(西塔門)(インド)

 法輪を中心にして
回りに多数の鹿を刻
んで「初説法地の
聖地
鹿野苑(サルナート)」
を表しております。

初説法印の仏像は説法印だけで理解できますがさらに台座に鹿を刻むことがあります。  

 

 


        玄 奘 三 蔵 院

  

 

 平山郁夫さんの人生そのものというべき
大作
大唐西域壁画が納められております。

 

 

 万葉で詠われた「勝間田池」で
はないかと言われる「七条大池」
からの眺望です。夕日の当たる
風景がきれいなので有名です。
 ただ、車で行かれると道路わ
きに二台くらいの駐車スペース
しかありませんのとこの辺りは
道路がカーブしており見通しが
悪く駐車は出来ません。近鉄西
ノ京駅から歩くと約1キロです。
東大寺大仏殿、興福寺五重塔が

眺められるのも今のうちで映像の中でしか見られない時代も近いことでしょう。
 夕日まで待てず春霞の午後3時の撮影です。

 

 

            画 中 西  雅 子