興 福 寺 |
「興福寺」は「法相宗」の大本山です。
平安時代になると藤原氏は朝廷と深い係わり合いを持つようになり中央政界で君臨 |
中世の興福寺は大和の多くの寺院を私院化(末寺)するだけでなく、商工業の同業組 興福寺は落雷、戦乱による度重なる焼失さらには明治の「廃仏毀釈」で甚大の被害を 藤原氏の氏寺として威容を誇った広大な境内地が今はこじんまりとなって奈良公園 廃仏毀釈時の境内敷地は約7,000坪だったのが現在では相当数の坪数まで寺域を回
興福寺は「慶派の博物館」の様相を呈しております。こんなことを書けばお寺から敬 康慶、運慶、快慶、定慶、湛慶など慶の付く仏師の集団だから「慶派」と呼ばれてい |
|
![]() 行基菩薩像 |
地下駅である「近鉄奈良駅」の階段を上がって行 |
その後、通りの東側である元興福寺の境内に西向きの商家が出来て現在の商店街にな |
![]() 「南大門」跡・前方の建物は「東金堂」です。 |
![]() |
「能楽」は「興福寺」で育ったこ |
|
|
「五重塔」は焼失と再建が繰り返されて室町時代の復古建築であります。塔高50.1m
五重塔の前庭には多くの鹿がおり、子供だけでなく大人までが鹿と戯れております。 |
![]() |
![]() |
![]() 東 金 堂 |
「東金堂」は西向き |
柱の間は端から9・10・14・14・14・10・9尺です。創建当時は中央の柱間の立面 |
|
|
|
古代では「仏堂」そのものが神聖な空間で |
|
「維摩居士(ゆいまこじ)」は豊かな学識を身に秘め |
ょうか。 |
![]() 文 殊 菩 薩 像 |
「文殊菩薩」は「三人寄れば文殊の智慧」と言われますよ |
「釈迦如来」の脇侍は「文殊菩薩」と「普賢菩薩」ですが、文殊は「獅子」、普賢は「象」の上
同じ「もんじゅ」でも高速増殖原型炉「もんじゅ」は、訴訟騒ぎを起こしており、文殊 |
|
「広目天像」は「東金堂」の須弥壇に安置されております。 |
の迫力で今にも動きだしそうであります。
|
|
![]() 波 夷 羅 像 |
「十二神将像」が像高120p程度の像でありますのは |
イデアのブーツ(沓)を履いております。こんな豪華な沓を履けるのは戦士では無理で |
|
|
![]() 国 宝 館 |
「廃仏毀釈」で壊された「食堂(じきどう)」跡に建築された「国宝館」です。国宝館は |
![]() 迷 企 羅 像 |
「迷企羅(めきら)像」は、厚さがたった3pの桧板に |
たり、手を身体の前に置いたり後ろに置いたりしております。 |
![]() |
「千手観音立像」は「食堂(じきどう)の本 |
![]() 山 田 寺 仏 頭 |
「山田寺仏頭」は「山田寺講堂の本尊」にありました |
白鳳時代の特徴である眼の下瞼が直線になってはるか遠く眺める様相で瞑想してい |
|
|
|
![]() 行賀像(左膝を立てて坐る) |
「法相六祖像」は2体ずつが同じ坐り方であるのは、南円堂本尊の両側に安置されて
先月(2006/01)興福寺国宝館に確認に参りましたら上記の行賀像と玄ム像の両像は |
|
|
![]() 阿 形 像 |
「金剛力士像」は仏教寺院の門の左右に安置され伽藍の守護神で筋骨たくましい門番
かっと見開いた眼は、「玉眼(ぎょくがん)」で睨む方向に目の玉を膨らませておりま
「寄木造」の特徴は素材の肉厚を薄くして像の干割れ、反り、歪みを抑えることでし |
「十大弟子」、「八部衆」は釈迦如来の眷属として造像されており「法隆寺の塔本四面具
八部衆は「天」「龍」「夜叉」「乾闥婆(けんだつば)」「阿修羅」「迦楼羅(かるら)」「緊那羅 |
![]() 迦 楼 羅 像 |
「迦楼羅」とはサンクリット語のガルダ、ガルーダを音写 |
|
![]() 迦楼羅像(雲崗石窟第12窟) |
我が国には国章が存在しませんが迦楼羅はインドネシアとタイ国の国章で迦楼羅は |
|
![]() 阿 修 羅 像 |
「阿修羅」とはサンクリット語のアスラを音写した |
の謎でしょう。筋肉隆々の体質がこのように変わってしまってこれではガードマンと |
![]() 阿修羅像(雲崗石窟第10窟) |
阿修羅像の第三手は何かを支えるポーズですが左右の |
が省略されたのが「修羅場」「修羅の巷」であります。 |
帝釈天といえば「男はつらいよ」の柴又の帝釈天が有名ですね。 |
|
|
「夜叉」とはサンクリット語のヤクシャを音写したもので |
我が国では、夜叉は悪鬼と考えられ悪いイメージが強いです。その一例としては |
|
「乾闥婆」とはサンクリット語の |
塵も感じられません。瞋目で瞑想しているように見え余計に優しくなっております。 |
|
「緊那羅」とはサンクリット語のキンナラ |
「摩睺羅迦」とはサンクリット語のマホーラガを音写したものです。ニシキヘビのよ |
|
「釈迦」には多くの弟子がいましたが中 |
優しく親しみを与えております。 |
|
|
|
「天燈鬼」、「龍燈鬼」が像高は78pしかないので恐ろしい鬼ではなく微笑を誘う可愛
天燈鬼は阿形で口を大きく開け、手と肩で支える「燈籠」の重荷に耐えながら横目で |
![]() 仮 金 堂 |
「仮金堂」は「薬師寺の旧金堂」 |
中金堂とは東金堂、西金堂の三金堂が建立されました故の名称です。 |
|
|
「北円堂」と「西金堂」は隣接しておりました。父のための建物、北円堂と母のための |
![]() 北 円 堂 |
宝 珠 露 盤 |
![]() 地垂木(縦長の六角形) |
「北円堂」は残念ながら春秋のわずかな日数しか公開されません。公開日時について
北円堂は鎌倉時代の再建ですが、興福寺では現存最古の堂で、天平時代の律令政治
建物は鎌倉時代には珍しい八角円堂で、屋根の軒に特徴があります。それは三軒 |
|
「北円堂」内の尊像は、鎌倉の仏教美術の一級品は興福寺にあると言われている中で
「彌勒菩薩像」、「無著・世親像」は運慶の子息たち並びに弟子たち鎌倉彫刻界を君
脇侍と四天王は惜しいことに行方知れずですが現在、四天王像は平安初期の作品が |
|
本尊の「彌勒仏像」は、桧材ではなく桂材 |
かしんだのかそれとも新しい作風への挑戦なのでしょうかダイナミックな彫りではな |
|
|
|
兄弟の
「無著(むちゃく・むじゃく)・世親(せしん)菩 |
古代から魅了し続けてきた本像と阿修羅像は現代でも多くの人を惹きつけ立ち去り |
|
![]() 南 円 堂 |
奈良時代は「東塔」「西塔」の2塔方 |
不空羂索観音像、四天王像、法相六祖像など鎌倉の見応えのある尊像が安置されてお |
![]() |
![]() |
南円堂の前庭の両側に藤棚がありますが |
「北円堂」と同じように垂木は 「三軒(みのき)」です。 |
![]() 三 重 塔 |
平安時代に創建された「三重塔」は和様化の |
|