脱活乾漆像 

  「脱活乾漆像(だっかつかんしつぞう)」の「脱活」とは「張子の虎」のように内部が
空洞と言う意味で「乾漆」とは「漆」が乾いて堅くなったと言う意味です。「漆」は硬
化と言わず「乾く」と言うのですが乾くと言っても我々が考えるような素材に含まれた
水分が蒸発して乾くのとは違い、事実は漆が「乾」くのではなく化学変化で「硬く」な
るのです。この乾燥には高湿度の部屋が必要という不思議さで、湿度乾燥を促進させる
のが高湿度の「漆風呂」の役目です。

 「脱活乾漆像」の製作工程は、まず最初に大まかな塑像を造り、乾燥した塑像の表面
を「漆」に浸した「麻布」で包みます。 この「麻布の像」を「漆風呂」で接着剤の漆の
乾燥を促し、麻布同士を固着させます。漆が乾燥すれば麻布の像の上からさらに漆に浸
した麻布で像全体を被います。再度麻布の像を漆風呂に入れ漆を乾燥させます。これら
の繰り返しを坐像の場合数回、立像の場合10回程度行います。その工程が終われば、坐
像の場合底(尻)、立像の場合背中を切って像内の塑像をばらばらにして取り出します。そして空洞になった像内に薄板の木枠の心木を納め、像と心木を釘で固定し 、漆が収縮
して像が痩せるのを防ぎます。
 「張子の像」のようになった「麻布の像」の表面に、漆に木の粉末などを混ぜて作っ
たペースト状の堅さの「木屎漆(こくそうるし)」を使って細かい仕上げをいたします。そして、「脱活乾漆像」が完全に乾燥すれば「漆箔」または「極彩色」を施して完成です。
  
 「脱活乾漆像」では凌ぎある細かい表現は、毀れやすい材質の「漆」使用のため出来
ません。しかしそれだけに「像」の相貌は、柔らかい感じの表現になります。それと漆
は写実を重んじた「天平時代」に適った素材でした。その理由は、漆が乾燥する間、漆
の高い粘着性を利用して「脱活乾漆像」の姿を理想の表現に整えることが出来る利点に
あります。

 「脱活乾漆像」では当時、貴金属の金価格と同程度と言われるほど、極めて高価な材
料「漆」を大量に消費しました。何故高価になるかと言えば「張子の像」の素材である
漆がひび割れするのを避けるため高純度の漆を必要としたからです。 恐れ多い「仏像」
だけに表面のひび割れを絶対に避けなければなりませんでした。
 わが国産の「漆」は世界でも最高の品質を言われ英語で「ジャパン」といえば「漆」「漆器」のことだったことからも分かります。 しかし、英和辞書でジャパンと引けば「漆」「漆器」とありますが、現在は「漆器」のことをジャパンと言っても通じないよ
うです。
 
 「脱活乾漆像」は、「漆」が乾燥するのに日数が掛かり制作期間が長く、しかも制作
費用が厖大のため、造像されたのは天平時代に設けられた官営造仏所である「造東大寺司」などに限られます。 しかし例外として、「唐招提寺」は鑑真和上の私寺であるた
め、官営の「造唐招提寺司」は設置されなかったのに大仏である「脱活乾漆造の盧舎邦
仏像」が安置されております。
 「漆」が乾燥する間仏師は手持ちぶさたになるため単体の造像では非能率だったが天
平時代は多くの像需要があればこそ可能だったのです。
 「脱活乾漆造」は巨像の制作に適し、多くの巨像の傑作が「東大寺三月堂」に存在い
たしますのでどうぞ一度ご覧になってください。
 
 「脱活乾漆造」は中国から伝来した技術ですが中国では古代の「脱活乾漆像」は残っ
ておりません。それだけに古都奈良の「脱活乾漆像」群は世界的な貴重な遺産と言えま
す。
 
 「乾漆」という言葉は近代につけられたもので古代では「即(そく)」とか「夾紵
(きょうちょ)」などと呼んでおりました。

 
       
   持国天像(当麻寺)
  
   盧舎邦仏像(唐招提寺)
   

   
        不空羂索観音像(東大寺)

      
          金剛力士像(東大寺)

 
     阿修羅像(興福寺)

  

      
        迦楼羅像(興福寺)


  鑑真和上像(唐招提寺)


         行信僧都像(法隆寺)

                      
            
画 中 西  雅 子
   

  「脱活乾漆像」の現存最古の像は「当麻寺の四天王像」で白鳳時代の作です。
  「当麻寺の持国天像」は「法隆寺金堂の四天王像」と同じように憤怒相でなく脚を少し
開いた直立不動の姿勢です。後の時代の「邪鬼」は仰向けや横向きになり暴れて反抗して
いますが、「当麻寺の邪鬼」は手を組んで蹲り畏まっております。それに一般的な「脱活
乾漆造」と違うところは像の胴部辺りの像法で、桐の薄板で作られた円筒状のうえに「乾漆」で仕上げていることです。「甲」の長い袖、裳裾の広がりなどの表現は精緻で見事です。「法隆寺金堂の四天王像」の「甲」は丸首ですが後世の様式である襟が前開きになっ
ております。大陸的な見事な顎鬚でこのような顎鬚は四天王像には見当たりませんが「東
大寺三月堂の金剛力士像」に見られます。


 「脱活乾漆像」は像内が空洞のため軽量そのもので、命がけの政争に巻き込まれても持
って逃げることが出来ました。興福寺の脱活乾漆造「阿修羅像」「迦楼羅像」などは大変
軽量のため戦乱の巻き添えになることもなく無事避難させることが出来ました。ただ残念
なことに「本尊」は重量のある「金銅像」のため避難さすことが出来ず姿を消してしまい
ました。脇役の「阿修羅像・迦楼羅像」に高価な材料「漆」が消費されたことからも、当時、藤原氏の氏寺だった「興福寺」の繁栄が偲ばれます。 脱活乾漆造だったお陰で現在
でも「阿修羅像」が拝むことが出来、多くの方に古都奈良を訪れる幸せを与えております。「阿修羅像」の原型と思われるものが「法隆寺五重塔」内に安置されておりますので「法
隆寺」を訪れましたら是非ご覧ください。
 
 「興福寺の迦楼羅像」の「甲」は厚手で立派な割に体躯は痩身で「阿修羅像」と同じく
猛々しいガードマンらしくありません。この風貌では仏敵を退散さすことも出来ないでし
ょう。
 「迦楼羅」は空想上の鳥で、鳥類の王で超大型です。ガルダ、ガルーダとも言います。「ガルーダ」はインドネシア共和国の国鳥でしたが現在は「ジャワクマタカ」と交代。ガ
ルーダ航空は名称変更せず営業を続けております。
 「迦楼羅」は「竜」を常食にしているため、法隆寺玉虫厨子の壁画「須弥山世界図」に
は釈迦の周りに「迦楼羅」がおりますが近くにいる「登り竜、下り竜」がこの「迦楼羅」
に食べられてしまわないかと心配しております。「迦楼羅」は金色の翼を持つので「金翅
鳥(こんじちょう)」とも呼ばれます。
 「迦楼羅」が仏教に取り入れられて「天龍八部衆」の一神となりました。
 
興福寺の「天龍八部衆」は阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、乾闥婆(けんだつば)、鳩槃荼(くばんだ)、五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから) の八神で、西金堂の釈迦如来の守護神でした。 同じように「法隆寺五重塔の阿修羅」も「釈迦入滅の場面」で控えております。   

  「東大寺三月堂の不空羂索観音像」は3.6メートルの巨像で、「不空羂索観音像」と
しては現存最古の像です。興福寺の「十代弟子、天龍八部衆像」に比べて大変厳しく男性
的な相貌となっております。
 「三目八臂(さんもくはっぴ)」で、三つの目と八本の腕を持っているためいわれます
が異様な感じを受けるどころか気宇壮大な相貌となっております。がっちりとした上半身
を支える下半身は股下を短くして安定感を生み出す工夫がされおります。肩の鹿皮と天衣
は別製で、写実効果を高めるための丁寧な技法です。
 「合掌手」は両手を男性的にぴったりと合わせ、「お手手の皺と皺を合わせて幸せ」の
コマシャールそのものです。衣文の意匠は大波、小波の紋様で、次の時代流行の「翻波式
衣文」の先駆けでしょう。
 
頭上の「宝冠」は二万数千個の琥珀、水晶、ヒスイなどの宝石を銀線で組み上げられ
た豪華なもので中央の化仏は像高約25センチもある銀像です。銀像は皆無に近いだけに貴
重な遺品です。こんな立派な「宝冠」は もう2度と作られることはないでしょう。
  「光背」は大変珍しい放射状で要所要所に火炎状の唐草文板が付けられています。

 「東大寺三月堂の金剛力士像」は普通上半身は裸形ですがこの像は「甲」着用の武将像
です。「南大門の仁王像」と同じように「阿吽」の配置が逆になっております。
 「金剛力士像(阿形)」は右手を大きく挙げて仏敵を威嚇しています。髪は「怒髪天を
つく」そのものです。大きなぎょろ目を目頭に持ってきて憤怒の効果を高めています。顎
鬚は 「当麻寺の四天王像」と同じく、見事なもので西洋的な鬚です。