仏像の見方 

 「仏像の見方」とタイトルを付けてみましたが範囲が広くてうまく纏めることが出来
ずそうかと言って適当なタイトルも浮かびませんでした。
 この世に生存された「釈迦」が起こしたのが世界三大宗教の一つ「仏教」であり、ただ
一人の仏でしたが、大乗仏教とともに多くの如来、菩薩、天部、羅漢などの多種多様
な仏が誕生した結果、仏像といえば釈迦像だったのがそれらの像すべてが仏像と称さ
れるようになりました。
 余計な考えですが仏教ではなく「釈迦教」と名乗っていれば仏教の内容も変わってい
ただろうしこれほど多くの国々には布教しなかったことでしょう。
 スリランカ、ミャンマー、タイなどで仏教と言えば上座部仏教(小乗仏教)で信仰の
対象は釈迦一仏のみです。我が国では複数の仏を信仰しますが一神教のキリスト教、
イスラム教では到底理解できないことでしょう。
 パキスタンで大乗仏教、密教が起こり色々な仏像が出来た筈なのに見当たりません
でした。現在、パキスタンではイスラム教の信者が大半でイスラム教は偶像崇拝を禁
止していることが影響しているのでしょうか。
 キリスト教やイスラム教のような一神教に比べ大乗仏教の仏の種類の多さはキリス
ト教徒、イスラム教徒たちにとっては大きな驚きでしょう。
 どうも仏の数が多すぎるためか我が国では仏の前で柏手を打ったり阿弥陀如来以外
の仏が祀られているのを気にも留めず南無阿弥陀仏と唱えてお祈りするおおらかさが
あります。厳しい修行を求められた仏教がただ念仏を唱えるだけで浄土に往生できる
ようになったことは画期的な出来事といえましょう。それゆえ、我が国では国民の殆
どが仏教徒となったのです。

 「仏陀」とは悟りを開かれた人ということで固有名詞ではありません。が、三蔵法師
と同じように普通名詞が固有名詞となった例です。ただ、仏陀と言えば普通名詞です
が釈迦といえば釈迦族の王子だったことからの名称であるため固有名詞と言えましょ
う。  
 我が国は釈迦の教えである仏教が、釈迦が入滅して10世紀をも経た後、伝来した最
後の国です。また、仏像はインドで仏像が造られ始めてから4,5世紀経って中国、韓
国を経由して我が国に請来したのです。途中の国々で仏の数を増やしながらの伝来だ
けに、仏教伝来の終末国である我が国の仏像の種類の豊富さは数え切れないほどです。
本来は、仏教も他の宗教と同じく偶像崇拝ではなかった筈です。 
 インドでは仏像誕生と当時に仏像を直接拝むことが出来ましたが我が国ではなぜか
仏教伝来当時は絶対秘仏の如く仏像を目の前にして拝むことは叶いませんでした。
 人の目に触れることなく、出来上がった会心作が評価されないのに、人々の心を引
き付ける素晴らしい魅力ある仏像が多いのは仏師が「一刀三礼」の精神で仏像を制作し
たからでしょう。また、仏師が国家公務員となる天平時代には作品の出来上がりによ
って賃金格差があったこととエリートというプライドもありましたので仏像彫刻の黄
金時代といわれる優作揃いとなったのでしょう。 


         釈 迦 誕 生

  釈迦は人間の両親から人間の子
として生まれ人間として亡くなり
ました。人間が仏になるなどキリ
スト教、イスラム教では考えられ
ないことでしょう。
 しかし、それでは不都合という
ことでと釈迦の生母の右腹から白
象が入り釈迦を身籠ったとか誕生
直後に7歩歩いたとか釈迦を神格
化する伝説が生まれたのです。
 有名な釈迦誕生では天上の神々
が甘露の雨を降り注ぐと同時に美
しい花をもって散華しましたので
釈迦誕生を花祭りとも言います。
現在では、甘露の代わりに甘茶を
釈迦に注ぎます。
 釈迦誕生の天上天下唯我独尊で
は人間の子供そのものですが仏伝
の中には母の右腋から誕生する釈
迦にもう既に光背(青矢印)が付い
ています。


  誕生仏像(東大寺)


   釈迦誕生

 時代が下るにつれて、釈迦に聖人としての色んな特徴すなわち人間より優れた特性
が創意工夫して考えだされます。そして出来たのが釈迦の超越した能力を示す
「三十二相八十種好(さんじゅうにそう・はちじつしゅごう)」で釈迦は合計112の優れ
た特徴があるということです。これらの特徴は釈迦如来以外の如来、菩薩にも適用さ
れます。
 生存されたのは釈迦だけでなく弥勒菩薩、文殊菩薩も生存されたのではないかと言
われております。

 これからの記述は我々が通常外観からはっきりと見える特徴のみといたします。 
  当初我が国では仏像の相好(語源は三十二八十種)については経典で定められた
事柄によって制作されましたが平安時代ともなるとインドで定められた儀軌(ぎき)に
よって仏像は制作されました。
 儀軌は守らなければなりませんがその国その国の時代の趣向が取り入れられたり人
気モデルによって制作されることもあったことでしょう。仏像の種類毎に決められた
儀軌通りに制作しなければならないとはいえ施主の意向を無視することはできなかっ
たこともあったでしょう。

 世界的な国宝「薬師寺の薬師如来像」は薬師寺に安置されておりますので薬師如来と
言われますが釈迦如来との区別は何処にもありません。多くの仏が堂内に安置される
ようになりますと見極める必要上儀軌に則って薬師如来には薬壺を持たせたり、儀軌
以外でも薬指を前方に倒したりして少しは区別ができるようになりました。そえでも、
「獅子窟寺の薬師如来像」は薬壷を持たず宝珠を持っています。このように薬師如来は
薬壺ではなく宝珠を持つものもありややこしいです。 

 太子(釈迦)が修行中での出来事について記述いたします。


   御者、愛馬(カンタカ)の帰城

 太子は出家のため城を出ました。途
中まで同行していた御者と愛馬とも別
れ、一人で修行の旅に向かわれたので
す。そこで、御者に王子として身に着
けていた装身具などを渡し妃に届ける
よう命じました。
 写真は御者と愛馬が太子から預かっ
た太子が身に着けていた傘蓋や装身具
などを太子妃に渡すところですが妃は

太子が帰城しないを知り悲しみにくれております。

 太子は修行の途中、猟師に出会い
自分の衣服と猟師の衣服とを交換い
たします。太子は衣服を脱いで上半
身裸になり、左側の猟師と衣服を交
換するところです。後ろの人物が動
物の獲物を背負っており猟師と分か
ります。修行にふさわしい質素な服
装に変身されます。
 修行中の釈迦は釈迦菩薩といわれ
それは粗末な服装ですがもう既に光
背が付いております。


        衣服の交換

 儀軌では「釈迦の身長」は常人の倍あり、立像で丈六(約4.8m)、坐像で半丈六
(約2.4m)です。坐像の半丈六仏は多くありますが立像の丈六仏は極めて少ない
です。もっとも、当時、普通人の身長が2.4mもあったとは考えられません。 

  
    金箔が残る釈迦像

 「金色(こんじき)相」とは如来の身体全体が黄金色
でまばゆいばかり光り輝いているということです。
 東南アジア仏教国の仏像は、制作された当初の鮮
やかな金色の姿を維持することが信者の努めであり
功徳であるという思想があり仏像は金色ですが、我
が国では仏像の金メッキや漆箔(金箔を張る)が剥落
して地肌があらわれていることが喜ばれます。我が
国では金人(きんじん・こんにん)の尊像を祀る堂だ
から金堂という名称が付いたという一説があります。
東南アジアでは金堂という堂名はないと思われるだ
けに不思議な気がします。
 ただ、信仰心からいえば如来は常に金色に輝いて
いなければならないのですが国宝指定文化財などは
現状を保持しなければならないことから現在の姿と
なっているという事情もあります。不謹慎な私など
現状の姿の方が逆に心を癒される思いがいたします。

  ガンダーラの釈迦像に赤色塗料が足首の間に残っており
ました。法衣の赤色塗装が垂れたのでしょうか。私など赤
い法衣と言えば禅宗の開祖である「達磨大師」しか思いつき
ません。シルクロードでは過去仏をはじめ仏が赤い法衣を
身に着けているのがよく出てまります。
 仏像の肉身部が赤色というものがあり、例えば、著名な
興福寺の「阿修羅像」がそうです。古代我が国でも、特権階
級者は後の時代の白化粧ではなく赤化粧だったようです。


    ガンダーラ像


    剃 髪


  ターバン冠飾の礼拝

 修行中の釈迦は髪を
剃られて比丘のように
丸坊主だったのか、た
だターバン冠飾を下ろ
されただけなのか分か
りません。
 仏伝には剃髪された
「仏髪礼拝」と「ターバン
冠飾礼拝」の2種類があ
ります。

      ガンダーラ

        マトゥラー

  「肉髻(にっけい)(頂髻)(青矢印)」とは字の如く肉の髻であり髪の髻ではありません。
肉髻は厳しい修行で色々と悩み思索されたので脳が大きくなった結果といわれており
ます。髻(けい)とは頭髪を頭上で束ねたものを言います。
ガンダーラでは釈迦の頭髪
をみると頭上で束ねており頭髪を紐(赤矢印)で結んだ部分が肉髻となったのでしょう。
 肉髻といっても頭頂部の髪を巻き上げただけだったのが我が国で見られるような頭
頂部の肉(大脳)が一段盛り上がったものへと変化していきます。
 我が国でも他の仏教国と同じように肉髻の形状はまちまちに表現されております。

 「螺髪(らはつ)(紫矢印)」とは修行中束ねた髪を解放すると長髪が右巻きに巻いてパ
ンチパーマのようになった髪のことです。螺とは巻貝のように螺旋状になったもので
す。
 マトゥラーでは創像当初から螺髪に近いものになっていました。 
 肉髻と螺髪は如来専用で菩薩には用いません。

 「白亳(びゃくごう)(緑矢印)」は眉の上辺と顔の中心の交点にあり、伸ばすと4.5m
(1.5m説もあり)もある右巻きの白い毛が巻尺状に納まっていることです。目が届か
ない処にいる悩み苦しむ者を、白亳の毛が伸びそこから慈悲の光を発し探し出すこと
が出来ます。
 今話題になっている平城遷都1300年祭のマスコットキャラクターですが問題点は
白亳にあるのでしょう。

  髪の毛、目玉が吉祥色である群青で表わされて
いますがその顔料として
青い宝石であるラピスラ
ズリが用いられたことでしょう。青の顔料にラピ
スラズリは多くの国で用いられており我が国でも
ラピスラズリを顔料として古代から用いられてい
たようです。しかし、最近これに関してラピスラ
ズリは使っていないとの異論が出ています。
パキ
スタンでは産出されるラピスラズリ製の小物など
が販売されておりました。
写真の小物入れは安価
ゆえ継ぎ接ぎ細工でした。

 左像の眼は「杏仁形」の眼
そのものです。我が国の飛
鳥時代の仏像の目は杏仁形
ではなくアーモンド形に近
いものです。眼については
後述。
 「耳朶」の長さは左像のよ
うに我々と変わらなかった
のに右像のように肩口まで
届く長い耳朶となっていき
ます。我が国でいう福耳で
救済者がどこに居ようとも
聞き取れるのです。

 ガンダーラでは当初の仏像の耳たぶは常人
と変わらないのに時代が下ると耳たぶが長く
なっているのは、釈迦の王子時代写真のよう
な耳が痛くなるくらい豪華な耳璫(イヤリン
グ)を着けておりその重さで耳たぶが肩口ま
で垂れ下がっていったということです。大き
な耳璫は尊さの象徴であり権威の象徴でもあ
ります。
 如来となられる前に一切の装身具を取り豪
華な耳璫も外されましたが大きな耳朶と穴
(耳朶環)が残ってしまいました。
 釈迦が王子時代に耳朶が長くなったのであ
れば初期の仏像の耳朶は長くなければおかし
いと言うような詮索はしないことにします。

  インド、パキスタンの国民は自慢の髭を誇っておりますことから釈迦も王子の時代
には立派な髭を蓄えていたと思われます。ただ、マトゥラーの仏像にはなぜか髭の表
現がありません。

    
   宝冠釈迦如来(ミャンマー) 

 
  仏の特徴で螺髪だけは如来専用と前述い
たしましたが「大日如来」は別で螺髪ではな
く菩薩形の宝冠を被っいます。
 我が国でも鎌倉以降になると宝冠釈迦如
来が見られるようになります。
 東福寺三門の階上に安置された「宝冠釈
迦如来像」を拝見しましたが宝冠の高さは
普通でした。
 宝冠阿弥陀如来も出てきます。

 薬師寺の本尊・薬師如来像と東大寺大仏台座の蓮弁に刻まれた如来像の胸に「卍」の
マークがありますがこの卍はほとんどの如来像では見掛けません。ただ、我が国の地
図で寺院の所在を卍で表されておりますのでよく目にされるものです。
 卍とはヒンズー教のビシュヌ神の胸毛がルーツらしいです。


      右 手


    左 手


 「縵綱相(まんもうそう)」
とは指と指の間に水鳥の水
搔きのような膜があること
を言います。いかなる救済
者も漏れなく救いとろうと
いう慈悲を表しております。
ただ、縵綱相は指先を開か
なければ見えません。

 ガンダーラでは仏像の素材が石材のため破損し易い指先を保護する目的で彫り残し
たものが縵綱相となったのでしょう。このことをあながち否定できないのは右手には
縵綱相がありますが左手には縵綱相がないからです。左手は衣の端を握っていて補強
が要らないから縵綱相がないのでしょう。しかし、衣の端を握った左手にも忠実に縵
綱相がある場合もあります。写真の右手首はよく残った方でなんとか縵綱相のある部
分の指だけが残っております。縵綱相があってもガンダーラ像の場合手首はほとんど
破損しておりました。このように、儀軌は追認で定められることもあったようです。
 三十二相の一つである縵綱相ですが我が国では縵綱相についてはあまり関心がなか
ったのか縵綱相のない如来も結構あります。

 

      

  


   説法印


     禅定印


       降魔印  

   
   施無畏(右手)・与願印(左手)


  来迎印(阿弥陀如来坐像・三千院)

  仏の「印(印相)」ですがインド舞踊で物語を多彩な身振りで表現しているのを参考に
して仏の印となったのではないでしょうか。
 印には色々ありますが「釈迦の五印」である「降魔印」、「説法印」、「禅定印」、「施無
畏」、「与願印」のうち説法印、禅定印、施無畏・与願印に加えて阿弥陀如来の専用で
ある来迎印が主なものでしょう。
 ただそのうちでも我が国では深い瞑想に入られた禅定印とか説法をされている説法
印(転法輪印)は好まれず実利的な印が好まれました。たとえば、怖れ苦しみを取り除
く施無畏印とか、いかなる望みをも叶える与願印が現世利益を求める衆生の心を捉え
た仏の印と言えます。施無畏・与願印は通印といわれるくらい普及しております。
 阿弥陀如来には九つのランクである「九品(くぼん)」すなわち九種類の印があります
が何といっても施無畏・与願印の阿弥陀如来像が圧倒的に多いです。阿弥陀如来の施
無畏・与願印は九品でいえば「下品上生印」でありますが「上品下生印」とも称します。
というのは阿弥陀如来の上品(じょうぼん)、下品(げぼん)は我々が日常使う上品(じ
ょうひん)、下品(げひん)の語源であるからです。阿弥陀の下品をげぼんではなく一
般の人はげひんと読みからでしょう。
 来迎印とは施無畏・与願印と同じですが三千院の「阿弥陀如来像」のように左右の手
の親指と人差し指とで輪を作る場合もあります。 

 

 


   頭 光


     挙 身 光  


     飛天光(法隆寺)

 「頭光」は頭から発する光の表現ですがギリシャのマリア像彫刻の影響でキリスト教
のマリアの光背を真似たものでしょう。光背は頭光背だけだったのが釈迦像を引き立
てるため華やかな形状となっていきます。
 「丈光相」とは如来は一丈(3m)の光を四方に放つことですなわち、光り輝くところ
に如来が居られるということです。「身光」とは身体から発する光の表現で通常「後光」
が射すといわれるものです。「挙身光(きょしんこう)」とは頭光と身光を組み合わせた
ものでその代表的なものが「二重円光」です。 
 光背は手の込んだものから簡単なものまで千差万別でこれほど変化したものはなく        光背というイメージからかけ離れたものまであります。
 法隆寺の飛天光は現在、光背の周りの飛天は欠失しておりますため多分こうだった
と思われる想像図です。
 羅漢像には光背がありません。


      偏 袒 右 肩


     通 肩

 インドでの着衣法には両肩を覆う「通肩(つうけん)」と右肩を露わにする「偏袒右肩
(へんたんうけん)」がありますが我が国での偏袒右肩は右肩を露わにすることなく軽
く薄い衣が掛かっております。中国、日本とも気候風土の影響でそのような服装にな
ったのかと考えておりましたが、インドの気候は暑いくらいですがパキスタンの冬は
少し寒かったです。ところが、6月に訪れたラホールは摂氏48度でした。
 偏袒右肩とは仏とか自分より身分の高い人にお目通りをする時の服装で、釈迦は仏
教界の最高位にあるので通肩でなければならない筈です。我が国でも同じく偏袒右肩
の如来像が多く存在します。インドでは清浄な右肩を露わにすることによって敬意を
表したのでしょうか。一方、中国では偏袒右肩は逆に目上の者に対し片肌を脱ぐとは
失礼と感じたので「僧祗支(そうぎし)」が生まれたのでしょうか。上述の法隆寺金堂の
本尊・釈迦如来像が僧祗支の服装ですがこの服装は中国の皇帝の服装との説もありま
す。
 ガンダーラ、マトゥラーともに立像は通肩です。坐像は通肩もありますが偏袒右肩
の方が多いように見えました。

 

 儀軌の「正立手摩膝(しょうりゅうしゅましつ)相」は本来如来の手は直立で下に伸ば
すと脚の膝まで届くと言われますが如来では見られません。主に十一面観音像などの
観音像で見られます。
 指は細く長く優美であるのは如来だけでなく他の仏も同じで我が国の仏像は特にき
れいな指の表現となっております。
 決まりの「
睫毛」は保存上の問題からか初めからありません。

 仏像には「立像」、「坐像」などがありますが大日如来だけはいつも座っております。
 ただ、如来で涅槃像があるのは生存された釈迦如来だけです。


     獅 子 座


宣字座・裳懸座
(賓陽中洞)


  蓮 華 座(平等院)

  釈迦は釈迦族の獅子と言われましたので釈迦が坐る台座を「獅子座」と言います。台
座に獅子が刻まれておりますが獅子が表現されていなくても獅子座と言います。台座
に表現されていた獅子が独り立ちをして「狛犬」へと変化していったのでしょう。
 
我が国の台座は飛鳥時代から「宣字座」、「裳懸座」、「蓮華座」と続きますがその中で
も蓮華座が盛行いたします。
 蓮華座は菩薩にも用いられます。蓮華はインドの国花、インドの国鳥は孔雀です。
 
宣字座とは台座を正面から見ると漢字の宣の字に似ているところからの命名です。
法隆寺金堂の本尊の宣字座は竜門石窟の賓陽中洞の台座に比べはるかに高く台座があ
まりにも高いため台座全体が入った画像は少ないです
先述の法隆寺の図は宣字座の
下段部分が省略されております。
 裳の裾を台座に垂らしたものを裳懸座といいます。
 平等院本尊・阿弥陀如来の七重の蓮華座は最高傑作の一つです。
 
台座にはいろんな種類がありますが後日に譲ることにいたします。ただ、阿弥陀如
来が脇侍、二十五菩薩を引き連れて雲に乗り亡くなった人を迎えに来てくださる雲座
は我が国では大変好まれた台座です。
 
上座部仏教では釈迦一仏ですので光背は頭光背ですがわが国は大乗仏教ですので釈
迦三尊仏となり華麗な光背が見られます。
 
すべての仏像が台座に乗ります。

  
      輪 王 座
   如意輪観音像(観心寺)

 靴を脱いで床上で日常生活をするのは我が国と
韓国だけですが韓国の女性はこの輪王座のように
立て膝で座ります。それに比べ、我が国の女性は
正座を強いられ膝の弱い女性は益益膝を痛めるこ
とになりますが、現在のスカートでは立て膝は無
理です。室生寺の釈迦如来座像やガンダーラの

釈迦如来立像も膝(緑矢印)
が光っておりました。多く
の人が膝の回復を願って撫
でたためでしょう。
 左足裏に立て膝した右足
裏を乗せる座り方を
輪王座
と言いこの座り方をするの
は如意輪観音です。


 ガンダーラ像



           草刈り人の布施

 釈迦は草刈り人が布施する「吉祥草」を受
取り、ピッパラ樹の下で吉祥草を敷き詰め
た金剛宝座(吉祥草の草座)に結跏趺坐して
これから悟りを開くべき深い瞑想に入られ
ました。我が国ではそのような吉祥草座は
見掛けたことはありません。
 吉祥草とは我が国で屋根材として使用さ
れるススキやかやのようなものでしょうか。
吉祥草とは釈迦が悟りを開かれた後の命名
でインドにおける旧名は存じません。ピッ
パラ樹の下で釈迦が悟り(菩提)を得られた
機会にピッパラ樹が菩提樹と改名されまし
た。


       四天王奉鉢


     千手観音像(唐招提寺)   

 「四天王奉鉢」とは四天王が釈迦に鉢を奉献
したということです。
 釈迦は悟りを得られた場所で落ち着いた生
活をされ喜びに浸っていましたが何も食して
いませんでした。そこへ通りかかった2商人
が釈迦に供物を差し上げようとしましたが、

供物を入れる鉢が無く途方に暮れておりましたところへ四天王が鉢を持って現れます。
各天王が鉢を差し上げようとしましたが鉢は一つで充分だと釈迦は神通力で各天王が
差し出した4つの鉢を1つの鉢に纏められたのが釈迦の左手にある鉢です。僧侶の持
ち物である「三衣一鉢(さんねいっぱつ)」の一鉢はここからきているのでしょう。
 「千手観音」が観音本来の合掌印の下にある禅定印の上に「宝鉢」を持っております。
禅宗の托鉢行脚の雲水が持っておられる托鉢用の鉢で皆さんお馴染みです。
  釈迦が悟りを開かれた降魔座には当然吉祥草が敷かれておりますがそれ以外でも吉
祥草の台座は少なくありません。この四天王奉鉢の台座も吉祥草座です。

  余談ですが中国の薬師如来は薬壺を持つことなく錫杖と宝鉢を持っております。
 錫杖と宝珠を持つといえば我が国の地蔵菩薩でます 。

  
       優填王(ウダヤナ)の造像


 釈迦如来立像(清涼寺)

   「優填王(うでんおう)の造像」とは釈迦が誰にも告げず
三十三天に行かれたので人々は釈迦が居なくなったことで
悲しみにくれました。その中でも優填王の傷心ぶりは異常
で憔悴し切っており、見かねた臣下が王を慰めるために栴
檀で釈迦の像を造りました。その仏像を優填王が三十三天
から降下された釈迦に披露しているところです。
この「釈迦如来像」を中国僧が故国に持ち帰ったのを、

東大寺の僧「「然(ちょうねん)」が模刻してわが国へ持ち帰り、京都・「清涼寺」に本尊
として祀られたのです。異国情緒溢れる「清涼寺式釈迦像」は大変な評判を生み全国各
地で清涼寺式釈迦像として摸刻されました。これが事実だとすると生存中に釈迦像が
誕生したことになります。

 
        阿弥陀如来

 インドで唯一の阿弥陀如来像であ
りますが残っているのは足だけです。
 台座の銘文に阿弥陀と書いてあり
ます。
 我が国では阿弥陀の「四十八願」の

うち「十八願」はただ一心に「南無阿弥陀仏」と念ずれば必ず浄土へ迎えてもられると
いうことで多くの人々に受け入れられました。余談ですが「おはこの十八番」は十八
願から出ております。親鸞にいたっては悪人でも誠心誠意念仏を唱えれば往生でき
ると唱え人々の心を掴んだのです。
 よく人々は死後は極楽に往生したいと言いますが極楽は阿弥陀の浄土であって仏
には個別の浄土がありその数は数十に上るといわれています。その中でも薬師如来
の浄瑠璃浄土、観音菩薩の補陀洛浄土がよく知られるところです。

 インド、パキスタンでは「薬師如来像」は見当たりませんでしたが薬師如来は平安
時代から左手にいかなる万病でも治す薬が入った薬壺を持っておられるのでお医者
さんだと分かります。それ以外に薬師如来の十二願の中には貧しい人に衣服や食事
を恵んであげるとなっており優雅な生活を過ごしていた貴族たちには関係ありませ
んが一般庶民にとっては願ってもない贈り物だったことでしょう。

 これからは菩薩について記述いたします。

 ガンダーラでは「菩薩」の宝冠の飾りは欠失して見ることが出来ませんでした。宝冠
は手の込んだ豪華なものばかりでしたので残念でした。宝冠には化仏(青矢印)がある
のもありましたが我が国のように阿弥陀の化仏ではないでしょう。白亳、立派な髭、
大きな耳璫(イヤリング)を着けております。

 平たく大きい「首飾り(緑矢印)」が一本、「胸飾り(赤矢印)」が三本、大きくて豪華な
「臂釧(ひせん)(腕章)(青矢印)」、複数の「腕釧(わんせん)(ブレスレット)」を着けてお
りこれに比べ我が国の菩薩の装身具は質素です。

 上座部仏教での菩薩はサンダル履きでしたが大乗仏教では菩薩はもうすでに如来の
資格があり如来の代役として東奔西走しなければならなくなって如来と同じく裸足に
なったのでしょう。我が国での菩薩は裸足であります。例外としては東大寺三月堂の
日光・月光菩薩は沓を履いています。 

 余談ですが我が国は観音教と言われるくらい観音菩薩が地蔵菩薩と並んで多いです。た
だ地蔵菩薩は堂外安置が多いのに比べ観音菩薩は堂内安置が殆どです。
 観音菩薩は三十三に姿を変えて我々を守ってくださいますが多くの方は三十三の変化身
として聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索観音、馬頭観音如意輪観音准胝観音
などを想像されますが、そうではなくあまり馴染みの無い下記の表の観音がそうです。た
だ、白衣観音は世間に知られております。
 この三十三変化身の「三十三」は三十三観音霊場、京都の三十三間堂の謂れでもあります。

◎ 三十三観音

 

  観  音  名

 

  観  音  名

 

  観  音  名

  1

楊柳(ようりゅう)観音

 12

水月観音

 23

璃観音

  2

竜頭(りゅうず)観音 

 13

一葉観音

 24

多羅尊(たらそん)観音

  3

持経(じきょう)観音 

 14

青頸(しょうきょう)観音

 25

蛤蜊(こうり)観音

  4

円光観音 

 15

威徳観音 

 26

六時観音

  5

遊戯(ゆうげ)観音 

 16

延命観音

 27

普悲観音

  6

白衣(びゃくえ)観音 

 17

衆宝観音 

 28

馬郎婦(めろうふ)観音

  7

蓮臥(れんが)観音 

 18

岩戸観音

 29

合掌観音

  8

滝見観音 

 19

能静(のうじょう)観音

 30

一如(いちにょ)観音

  9

施薬観音 

 20

阿耨(あのく)観音

 31

不二(ふに)観音

 10

魚籃(ぎょらん)観音 

 21

阿麼提(あまだい)観音

 32

持蓮(じれん)観音

 11

徳王観音 

 22

葉衣(ようえ)観音

 33

灑水(しゃすい)観音

  仏の序列は如来、菩薩、天部の順でしたが平安時代からは如来、菩薩、不動明王、
天部の順となります。最下位の天部はインド古来のバラモン教、ヒンズー教の神々が
仏教に取り入れられて仏を守護する神となったのです。しかし中でも、毘沙門天、吉
祥天、弁財天それと天がつかないですが訶梨帝母などは単独で祀られ多くの信仰を集
めています。 

 


      梵 天 勧 請


          
 仙 者 訪 問

 「仙者訪問」とは釈迦が高名な仙者を訪ね多くの教えを請いながら修行を続けられた
ことです。右端は金剛杵を握り釈迦に寄り添い守護する「ヴァジラパーニ(執金剛神)」
です。ヴァジラパーニは釈迦が修行中常にガードマンとして付き添っております。手
には強力な武器「金剛杵」を持っております。我が国では単独象で傑作の誉れ高い東大
寺三月堂の「執金剛神立像」があります。

 インドで仏教が誕生以前からあるヒンズー教の最高神たる「ブラーフマン」と「インド
ラ」が仏教に取り入れられて我が国でいう「梵天」、「帝釈天」という守護神となります。
  「梵天勧請」とはブラフマー(梵天)が「どうか悩める者を救うために教えを説いてくだ
さい」と釈迦に勧請しますと釈迦はブラフマーの熱意に打たれてやっと説法をすること
を引き受けます。この瞬間から仏教が世界教となっていきました。
 我が国で梵天・帝釈天と言えば唐招提寺の本尊・盧舎邦仏坐像の左右に安置されて
いますのと前述の東大寺三月堂本尊の不空羂索観音の脇侍として梵天・帝釈天像が安
置されています。
 禅宗寺院では釈迦如来像の両脇に釈迦の十大弟子の迦葉像と阿難像が安置されてお
りこの三尊配置は中国の「敦煌莫高窟」で数多く見られます。

   
  クベーラ像(毘沙門天)


     
ラクシュミー(吉祥天)

 「クベーラ」はヤクシャの頭領で姿を見ると財宝の神のイメージがありますが守護神
のイメージはありません。守護神として役割を果たす体型ではなく太鼓腹が邪魔にな
るのか胡坐も組めないので右足を立てております。
 腹が光っているのは人々がその太鼓腹に触れて金持ちになることを願ったからでし
ょう。
 クベーラはヒンズー教の財宝神で仏教に取り入れられて四天王の「多聞天」となり単
独で祀られると「毘沙門天」となりました。なぜ、我が国での毘沙門天が財宝神でもあ
るのか理解できませんでしたが毘沙門天の源がクベーラということで納得いたしまし
た。
 毘沙門天が七福神の一神であるのはご承知通りです。四天王は二天で祀られること
はあっても単独で祀られるのは多聞天だけです。というのもその生まれがはっきりし
ているからでしょう。
 我が国でも戦前まではクベーラのような体形が金持ちの象徴であり戦後間もなくは
ダイエットといえば肥えることでしたが現在ではダイエットといえば痩せることと反
対の意味に変わりました。特に最近はメタボ(メタボリックシンドローム)、メタボと
世の中を賑わしております。この像はヤクシャ像との説もあります。 

 「ラクシュミー」はヒンズー教のヴィシュヌ神の妃でした。
 ラクシュミーは蓮華座上に立ち、同じ蓮華座に立つ双象が鼻でつまんだ水瓶を逆さ
まにしてラクシュミーに潅水するのが一般的です。ラクシュミーはインドでは目にし
ましたがパキスタンでは目にしませんでした。
 ラクシュミーは仏教に取り入れられて「吉祥天」となりましたが同じく
蓮華座に立つ
ものでは浄瑠璃寺の「吉祥天像」があります。
我が国では昔、吉祥天は吉祥悔過という
法要の本尊として崇敬されていました。吉祥天は先の毘沙門天の妃でありそのご夫婦
像が「法隆寺金堂」に祀られています。


 ハーリティー像


 
パーンチカとハーリティー坐像 

 「ハーリティー」は夫のパー
ンチカとの夫妻像がパキスタ
ンには多くありましたが我が
国へは旦那を置いて子供連れ
で来たようです。
 我が国では単独で「訶梨帝母
(かりていも)」と呼ばれて祀ら
れております。別名では「鬼子
母神(きしもじん)」とも言われ
「おそれいりやの鬼子母神」で
知られています。
 我が国の訶梨帝母は右手に
多産のシンボルである
石榴を
持っております。 

 子沢山を表現するため夫妻に纏わりつく子供だけでなく台座に多くの子供が刻まれ
ております。
 ハーリティーは子沢山にも拘わらず他人の子供をさらってきては食すという悪神で
したがある時釈迦に諭され、今までの行いを悔い仏道に励むようになりこれ以降子供
を守る神となり、それが仏教に取り入れられて多産と育児の神・訶梨帝母となりまし
た。

◎飛鳥時代

 

 
   救世観音像(法隆寺)

像形は左右対称を重視しております。
◎「山型宝冠(青矢印)」とは宝冠の形が山の形になって
 いるからです。宝冠には線彫の文様、透彫の文様が
 あります。また、宝冠が高いのが飛鳥時代の特徴で
 すが法隆寺の百済観音像の宝冠が低いのは飛鳥仏と
 して気になります。
 法隆寺の夢殿に隣接する中宮寺の本尊「弥勒菩薩像」
は宝冠がなくなっているため双髻(そうけい)が現れそ
れが清浄無垢の乙女のような美貌にマッチして拝観者
に感動を与えています。
◎顔は
やや面長です。
◎「山型宝冠」の前面に「阿弥陀の化仏(けぶつ)」がなけ
  れば「観音」と言えませんが飛鳥時代は化仏のない観
 音像が多くあります。
◎「杏仁形(きょうにんけい)」の「杏仁」とはあんずの種
  のことです。あんずの種の形に似た
見開いた眼の形
  は、我々人間に近い目でこの時代だけです。だが杏
  子の種は丸に近いので、我が国では杏仁形ではなく
 アーモンド形ではないかと思われます。

 余談ですが中華料理のデザートである杏仁(あんにん)豆腐はあんずの種から作った
ものです。
◎「仰月形(ぎょうげつけい)、アルカイック・スマイル」の口は、横に直線的でただ両
  端を
上に少し上げております。まさに古拙的な笑いです。しかし、お手本とした中
  国の龍門石窟の本尊の口はマンガチックで放物線を描いております。
◎「蕨手型垂髪(わらびてがたすいほつ)(緑矢印)」は字のように、蕨の先のように巻い
  ています。大変変わった髪形です。蕨手型は灯篭の笠、神輿の屋根などで見受けら
 れます。
◎肉体表現を避け衣裳を文様とすることに主眼を置いていることは中国の影響ですが
  その元はガンダーラの釈迦像にあるのでしょう。
◎「X字型天衣」は図の通りで、天衣が膝前(黒矢印)で交差することです。 
◎「鰭状天衣(ひれじょうてんね)(赤矢印)」とは本来布であれば垂直に垂下するのが普
  通ですが、天衣が左右対称の鰭状に広がって装飾的になっております。飛鳥仏の多
  くの特徴は中国の「磨崖仏(まがいぶつ)」の様式で扁平でレリーフのようなものであ
  るため鰭状にすることによって正面からでも立体感を醸し出す工夫がされています。
  このような様式を正面鑑賞性といいます。ガンダーラの初期の仏像も壁に取り付け
  るため丸彫りに近い厚肉彫でした。
◎「台座」には「蓮弁(紫矢印)」がありません。

   

◎白鳳時代

  
 
  夢違観音像(法隆寺)

◎「三面宝冠」の三面とは、宝冠が前面、側面の三方の
  三つあるからです。三面頭飾ともいいます。
◎「三面宝冠」の前面に「阿弥陀の化仏(赤矢印)」がある
 と間違いなく「観音」です。
◎下瞼が直線に近く、一番良く分かるのは「興福寺」の
  有名な「仏頭(旧山田寺像)」です。
 下瞼が直線であると、遥か彼方を眺め、瞑想にふけ
  るような印象です。
 飛鳥時代作の法隆寺金堂・本尊釈迦如来像の手本と
 いわれる龍門石窟の本尊の眼の形は、下瞼が直線で
 白鳳時代の眼の形です。
◎「瓔珞(ようらく)」とは装身具ですがその装飾は見事
  なものばかりです。瓔珞が「胸と腰(紫矢印)」にある
  のは白鳳時代の特徴でこの特徴を持つのは
  「夢違観音像」と薬師寺の「聖観音像」だけです。
◎「二段掛け天衣(青矢印)」はご覧の通りで、天衣が二
  段になっています。
◎「蓮弁(緑矢印)」は飛鳥時代には存在しなかったもの
  です。

  法隆寺夢殿の本尊「救世観音像」を開扉させて名
をなしたアメリカ人「フェノロサ」が当時は船旅時
代で多くの日数と費用を費やして来日しても、こ
の「聖観音像」の拝観だけで充分元が取れるといっ
たくらいの価値があるものです。薬師寺といえば、
「薬師三尊像」と「東塔」だけで聖観音像をご存じな
い方も多いと思われ、悲しい限りです。
 聖観音像は金銅像でありながら、「瓔珞」は膝前
で衣との間に指一本が入るくらい隙間(水矢印)が
作られている驚くべき技術で、現代の鋳造技術を
もってしてもむずかしいことでしょう。
 聖観音像の特徴は、宝冠が「三面宝冠」でなく、
天衣も「二段掛け」でなく「三段掛け(青矢印)」で、
しかも天衣が飛鳥時代の「鰭状(紫矢印)」になって
いて
天平時代の写実に至る過渡期の作品とはなっ
ておりません。

 
   聖観音像(薬師寺)

 

◎天平時代

 

 
  日光菩薩像(薬師寺)

◎「三面宝冠」の三面とは、宝冠が前面、側面の三方の
  三つあるからです。
  「薬師寺」の「薬師三尊像」は、ブロンズ像では世界でも
  ベストテンに入る傑作です。その「薬師如来像」の脇侍
  である「日光・月光(がっこう)菩薩像」の「三面宝冠」は
  残念ながら一部破損しておりますが見事なものです。
◎「三面宝冠」の前面に「阿弥陀の化仏(青矢印)」があり、
  間違いなく「観音」です。
◎「瓔珞」は装身具で、薬師寺の「聖観音像」・「薬師如来
  の脇侍日光・月光像」の瓔珞は秀逸な出来栄えですが
  天平時代からは腰の瓔珞はなく胸飾り(水矢印)だけと
  なります。
◎「二段掛け天衣(赤矢印)」はご覧の通りで、天衣が二段
  になっています。
◎「蓮弁(緑矢印)」はご覧の通りです。
仏像の眼差しは上瞼が直線で下瞼が曲線となりますが
 遠くを眺めるから足元を眺めるようになります。この
 ことは飛鳥時代絶対秘仏扱いであった尊像に人間が

近付いていったことを物語るものです。杏仁形から瞑想するような眼差しに変わりこ
れ以後の仏像は大体瞑想的な眼差しになります。 

 

 

           画 中西 雅子