基壇と柱のお話
 


    二 重 基 壇

 掘建て柱の時代に、基壇は仏教伝来とともに我
が国にもたらされました。
 写真の壇上積「二重基壇」は飛鳥時代の特徴で、
法隆寺にしか見られないものであります。 
 基壇は土で築かれた建築物であるという意味の
通り、中は砂と粘土を突き固めて盛り土したもの
であります。この工法を「版築」と呼びます。
 須弥壇も当然土か石製であります。
 当時の寺院は土間床で、聖徳太子も椅子、ベッ
ド生活で過ごされたことでしょう。
 外来の基壇だけに、日本古来の神社建築には、
設けられておりません。

  

 
     一 重 基 壇 


  写真の「一重基壇」は、天平時代に栄えた古都
奈良の寺院で多く見られます。

 中国との国交が再開された鎌倉時代に、中国
建築の禅宗様がもたらされました。我が国の禅
宗寺院は中国の禅宗寺院と同じく、基壇の高さ
は低く、床は瓦の四半敷(しはんじき)、天井は
高いものとなりました。
 

 

 平安時代に入り、鎖国時代を迎えると和様
化が進み、座式生活の板敷で、縁側が設けら
れ、基壇が廃れてまいります。板敷きになる
と須弥壇も木製に変わります。
 この時代は、引き違い戸、障子などが考え
られ、現在の日本建築の基礎が確立されまし
た。
 床下に見える白い築造物は、「亀腹(かめば
ら)」で、その曲線は時代が新しくなるにした
がってきつくなります。亀腹を設けた理由は
不明ですが、基壇の名残か床下を美しく見せ
るためでしょうか?     

 亀腹も和様化の表れの一つであり、我が国独特の塔であります「多宝塔」の白漆喰の
部分も亀腹といいます。

 

 
    中 門(法隆寺)

 針葉樹の桧、杉などは建築の材料としては最適
であります。ですから良材の得られない地域では
木材に彫刻や彩色をいたしますが、良材がふんだ
んに得られる我が国では素木そのものが装飾材で
あります。
 中国には天の象徴が丸で、地の象徴は角と言う
「天円地角」の思想がありました。そこで、天に通
ずる柱は丸とし、地に密着した礎石は角とする
「円柱方礎」が起こりました。
 我が国では、柱は丸が圧倒的ですが、礎石は角
にとらわれず、適当な自然石が用いられたりもし
ました。
 モニュメントは洋の東西を問わず、一般的に丸
柱ですが、地域の事情によって材質は違います。 

 エンタシス式の柱ですが、ギリシャのエンタシスとは少し違います。エンタシスと
は柱の下部から上部に向けて少しずつ細くなるか、または同寸円で上がっていき、途
中から少しずつ細くなるかであります。一方法隆寺のエンタシスは、柱の上部が一番
細く、下部から三分の一くらい上がったところが一番太くなっております。ですから
徳利柱、胴張と言えそうです。  

 

  「法隆寺の七不思議」のひとつである
  南大門前の「鯛石」です。    

 礎石は自然石そのものですが、どこか
「鯛石」に似ていますね。法隆寺を訪ねら
れましたら是非探して見てください。

 

  

 柱は天平時代になると、材木の素直
さが重視されて、エンタシスはなくな
り、同寸の円柱となりました。ただ、
最上部だけ写真のように角が取られま
した。和様の始まりでしょう。

 平安時代になると、角柱が用いられまし
たが、まだ円柱の思想が残っていたのか、
角を大きく取りました。時代が新しくなる
と角を取るのは小さくなりました。
 法隆寺には柱が八角形の有名な建物「夢
殿」があります。 

 寝殿造の柱は円柱、書院造の柱は角柱です。

 

 

 鎌倉時代になると、禅宗寺院は上下
で角を丸く削りました。これを「粽(ち
まき)といいます。一方大仏様では上
方だけを丸く削りました。

 礎石の上にあるのは「礎盤 」で、禅宗寺院
の特徴です。見事な「礎盤」があれば、禅宗
寺院であります。

 

  昔は尺貫法に関係なく、柱と柱の間を一間
(いっけん)と言いました。
 法隆寺の中門は、四間二戸(よんけんにこ)
と言いますが、中央の二間は飛鳥尺(高麗尺)
(35.5cm前後)で10尺、両側の脇間は7尺であ
ります。
 戸(こ)とは出入り口のことで、中国では片
開きの出入口を戸、両開きの出入口を門と区

別しました。門と言う文字は戸に戸の裏返しを組み合わせたものです。 
 唐招提寺の金堂の間口は五間ですが、天平尺(29.5cm前後)で中央間から16尺,15尺、
13尺、11尺となっております。多くの方は唐招提寺の金堂の柱間は等間と思っておら
れたことでしょう。

 法隆寺の中門は間口が普通奇数であるのに、偶数の四間とは珍しいですし、また逆
に奥行きは偶数の二間となるのが、三間となっております。何故か、芝の増上寺の正
門である三門も同じく奥行が三間となっております。

 


       三十三間堂

 「三十三間堂」の間口は内陣三十三間
と外陣二間の計三十五間であります。
この三十五間の長さは118.2mであり
ますので、単純に割り算しますと、
118.2(m)÷35(間)=3.377(m/間)と
なり,1間の長さは約3.4mもあります。
  現在の尺貫法1間を1.8mとすると、

118.2(m)÷1.8(m/間)=65.66(間)で、 約66間となり、内外陣を合わせますと
三十三間堂の倍の六十六間堂となります。 
 我が国の古代建築の柱間は等間隔で、唐招提寺の講堂は平城宮の宮廷建築の唯一の
遺構である東の朝集殿を移築したもので、間口の柱間は13尺の等間であったのを両脇
間だけ13尺を11.4尺に縮めての改築でした。 
  寺院建築で、重要でない建物の場合は、柱間が等間になるのが殆どであります。