訪 朝 紀 行 (1997)


1997年8月12〜17日


再刊に当たって


 今から約10年前の1997年8月、筆者は機会があって、府立高校教職員を主体とした「日朝友好親善大阪府教職員の会」なる30名ほどの教職員ツアーに参加し、朝鮮民主主義人民共和国(以下、略称する場合は「北朝鮮」)を訪問した。帰国後、一念発起するところがあって、紀行文を執筆し、同年10月初めには、『北朝鮮−アジアの純真』と題して、主にともに訪朝したメンバーに送り、同月末には、『訪朝紀行』と改題し、テキストのみの冊子を主に前任校全教職員に配布した。その後、当時普及し出したカラープリンターを使用した写真入りのものを若干部製作したこともあったが、ほぼ8年近く、この文章を省みることはなかった。
 しかし、この間、日朝を取り巻く情勢は大きく変化した。我々が訪朝した翌年、韓国民間人の初めての北朝鮮訪問、いわゆる「金剛山観光」が始まり、1999年末には、長らく朝鮮労働党と関係断絶中であった日本共産党までもが参加した超党派国会議員団(村山元総理団長)の訪朝があったりしたものの、現在、筆者の願いとは裏腹に日朝関係は「戦争寸前」と言っていいぐらいに悪化している。
 それでも、つい最近のミサイル問題や核問題にもかかわらず、韓国の「太陽政策」(北朝鮮との融和政策)は既に確固としたものとなっているし、次期国連事務総長となる韓国の外交通商相・潘基文氏の同問題での活躍も期待される。また、当該問題においてより存在感を増したのは中国であり、韓国とも連携をとりながら、北朝鮮とアメリカとの関係を取り持ち、中断していた六カ国協議再開を実現させた。
 しかるに、我が日本はと言うと、前の小泉総理が北朝鮮の首脳とは二回も会談しながら、中国や韓国との首脳との会談を拒否され続けてきたことは、まだまだ記憶に新しい。
 それはさておき、今回、この小冊子を「再刊」するに至った理由は、私の父の「お前の書いた『訪朝紀行』を読み返している。今のような情勢下でなかなか面白い」という「褒め言葉?」と、今回、新赴任校で人権映画として上映された『パッチギ』を見たからである。この映画の感想については、現任校人推委(人権教育推進委員会)に提出したが、ここでは、そこに書ききれなかったことを書こうと思う。
  『パッチギ』の舞台にはなったのは1968年の京都であるが、筆者は1960年の京都生まれである。そして、1973年から6年間、私立の中学・高校に通い、毎日1時間近くかけて、中学3年間は市電で、市電廃止後の高校3年間は市バスで、それこそ「重い鞄を抱えて」学校に通った。そして、映画では触れられていなかったが、京都の朝鮮中学・高校は銀閣寺の近所、ちょうど筆者の通学路の途中にあったのである。行きの電車には、京都のいろんな私立学校の制服の男女生徒に交じって、当然朝鮮学校、特に女生徒のチマチョゴリ姿があった。彼女らは、「銀閣地道」という所で、大量に降りていく。私の学校の最寄り駅から、銀閣地道まではちょうど3駅である。帰りは、銀閣寺道のホームにチマチョゴリ姿の生徒たちが鈴なりになって、市電の来るのを待っており、どっと乗り込んでくる。
 中学1年の時、そういった「異邦人」がこれだけ日本に存在していることを知った時の驚きは鮮烈であった。我が母校は当時、卓球が強いことで有名であり、筆者の高3の時の担任教師は、卓球部の顧問として、その世界で知られた人であり、高校生選手団を率いて、中国はおろか、今では信じられないことであるが、北朝鮮にも行ったことのある人であった。
 それでも残念なことに、私のクラスメートの中には、彼らを差別的な呼称で呼ぶものが少なくなかった。学校では、人権教育などというものはなかったが、二三の教師は授業の合間に、朝鮮人を差別すべきでないことを訴えた。「私は共産主義は嫌いだ」と生徒の前で公言された社会の先生が、民族衣装を着て堂々と通学する朝鮮学校の生徒たちを褒め称えられ、「これはよほどの民族的自尊心がなければ出来ないことだ。彼らをばかにすることは間違っている」と訴えられた。また、国語の先生は、中国、朝鮮、日本という文化的な繋がりの中で、朝鮮民族を尊重すべきことを訴えられた。
 思うに、現在の私の在日問題を含めた朝鮮韓国問題に対する姿勢の原点はこの辺にあると思う。『パッチギ』は何よりも私にとって、このことを思い出させてくれた映画であった。

2006年11月17日


目  次
  1. 開かれた朝鮮観光ルート

  2. 1日目 平壌到着

  3. 2・3日目 平壌観光

  4. 3日目 平壌から元山へ

  5. 4日目 元山から金剛山へ

  6. 5・6日目 元山経由平壌、そして帰国

  7. 【付録】金剛山観光案内