訪 朝 紀 行 (1997)
1997年8月12〜17日
3日目 平壌から元山へ
訪朝3日目の14日午後、高麗ホテルで昼食を済ませた一行は、バスにて平壌を後にし、元山(ウォンシャン)へと向かった。元山は朝鮮東海(日本海)に面する港町であり、1992年に鳥取県境港市と友好都市提携を結んでいる。
平壌からは高速道路があり、バスで3、4時間ほどであったと思う。噂には聞いていたが、北朝鮮の道路は、石油不足でアスファルトが使えないため、コンクリートで舗装されている。であるから、その継ぎ目を通る度、バスは揺れる。
平壌からしばらく行くと、あたりはもう田園風景である。高速道路を走る車は非常に少ないが、それでも時折、トラックと行き交う。たいていのトラックには、人が鈴なりである。兵士や一般人、少年、婦人、子供を背負った婦人まで、どうやら地方では、このトラックが主要交通手段になっているようである。
我々が手を振ると、向こうも振ってくれる。少女ははにかむが、兵士も少年も笑いながら手を振ってくれる。
韓国に行った人に聞くと、韓国は反日感情が非常に強く、至る所で、刺すような視線を感じたという。その人は、最初、私たちの乗った「超豪華バス」を見て、フロントガラスに「日本(イルボン)4」と書いてあり、こんなバスに乗っていたら、どんな視線で見られるだろうかと思ったという。しかし、概して人々は友好的で、安心したという。
その人は、朝鮮革命博物館を評して、日本の侵略がいかにひどかったかということより、自分たちが金日成将軍を先頭にいかに闘ったかを示そうとしているように見えた、と感想を述べられていたが、確かにその通りであると思う。
途中、幾度か休憩する。風光明媚なところでは写真を撮る。写真撮影は基本的に自由である。しかし、軍人の姿は撮らないでくれと言われており、また当然のことだが、一般人の場合でも、撮影する時は、本人の承諾を得てほしいとのことであった。
新坪(シンビョン)休息所に入る。ダムでできた湖のほとりにある。本当に風光明媚であり、思わずシャッターを切りまくる。
朝鮮には、デジタルカメラを持っていったが、これはやはりまだ画質が悪いので、きれいな景色を映す時は、普通のカメラを使った。だが、腕が悪いので、景色のきれいさは、なかなか私の写真では分かってもらえない。
この休息所では、「はちみつ水」を売っていた。もう少し冷やしたら、いいとも思うが、結構おいしかった。
思えば、平壌から元山まで、ほぼ朝鮮半島を横断したことになる。なお、半島を東西に分けているのは、馬憩嶺(マシクリョン)山脈である。その余りの険しさに馬も一息ついて登ったということから、そう名付けられたという。
松涛園国際少年団野営センター
元山では、松涛園(ソンドウォン)国際少年団野営センターを見学した。野営センターとあるので、キャンプ場かと思ったが、実は大規模なユースホステルのようなもので、出迎えてくれたのは、いかにも青少年宿泊所の責任者といった感じの中年の男性と、ここに宿泊する子供たちの生活係という若い女性であった。この人は、私が北朝鮮で見た中では、一番の美人であり、この人が施設を案内してくれた。なお、元々朝鮮半島では、「南男北女」と言われており、北は美人が多いとか言う話を何かで読んだことがある。
この施設は、新館、旧館あわせて1250人の子供たちを収容できるという。ここに来れるのは、集団生活、学業優秀と言うことで、朝鮮各地から選ばれた子供たち、そして外国の子供たち。東南アジアや中近東のあたりの国々と結構交流があるという。なお、北朝鮮と国交がある国は、既に世界で150ヶ国と言う。
なんでも、外国の子供たちは朝鮮に来るまでの飛行機代は自分たちで負担するが、朝鮮での費用、もちろんここでの宿泊費、食費もただであり、全部、朝鮮が負担していると聞いて驚いた。今年からは、日本人の子供たちにも解放され、今年もうこの施設に宿泊した子たちがいたという。もちろん、ただである。
まあそれでも、日本人からはなにがしか金を取って、それを第三世界諸国から来た子に回したらいいのではないかと思ったりしたが、余計なことだと思って言わなかった。
確かに、ここはいい。子供部屋を案内してもらう。六人部屋で、非常にきれいだ。そう言えば、金日成総合大学の学生寮も三人部屋できれいだった。シャワー室がついており、しかも、テレビと冷蔵庫もある。なんでも、もともと子供部屋にそんなものは必要ないと、現地責任者は思ったらしいが、金正日書記の指示により、設置したということだ。書記は、やはりテレビと冷蔵庫を置いて、子供たちが自分の家にいるような気分になれるようすべきだと指示したという。テレビ、冷蔵庫を見て、日本側からは、日本の場合、修学旅行に行っても、生徒が壊すといけないからと言うことで、わざわざ設置してあるテレビを撤去したりするのにねぇ、と感心する声が起こる。
海は近い。この国では、白砂青松という言葉が生きている。海水浴もできる。しかも、雨のことを考えて、室内海水プールまでしつらえてあった。水は海水を濾過して使っている。指先に付けてなめてみたら、やはり塩辛い。
大食堂やお誕生日パーティーのための小食堂を見る。講堂を見た。なかなかいい。ちなみに、電気は明るくしてなかったが、一行の誰かが、備え付けの椅子の下に、男の子が一人寝ているのを見つけたという。声をかけてみると、その子は「ほっといてくれっ!」と言ったとか、言わなかったとか。
外に出てみると、大勢の朝鮮の少年、少女たちが、先生も交えて、いくつもの大きな輪を作って、フォークダンスに興じていた。そう言えば、来た時、赤いネッカチーフを首に巻いた少年少女たちが、隊を組んで明るく元気に行進していた。
日本側でも、さっそく輪の中に入って、一緒に踊り出す人が出てくる。ビデオを回し、一生懸命シャッターを切る人もいる。最後に、子供たちのフォークダンスを背景に記念写真を撮った。向こう側には、日本のプールに見られるような巨大滑り台がある。
ここで、修学旅行をやってもいい、という声が上がる。
なお、北朝鮮では、教師は尊敬され、優遇されているという。万景台(マンギョンデ、金日成主席の生家があるところ)の日本語ペラペラの、女性案内人は、私たちが教師だと聞いて、こう言ってくれた。
ちなみに、朝鮮労働党のマークは、それぞれ労働者と農民を示す鎌とハンマーの他に、真ん中に一本、知識人を示す筆を一本入れてある。
この日は、元山の東明(トンミョン)ホテルに泊まる。夕食は、別の所で取った。畳式であり、海に近いせいか、刺身が出、日本人に合わせて、わさびを出してくれる。なお、元山からは、沖合いで取れる松葉ガニが、大量に日本に輸出されているという。食堂では、途中、十五分ぐらいで修復したが、停電も経験した。
なお、この日、ホテルでマッサージをやってもらった。60ウォン(3300円)と言うことで、ちょっと高い気もしたが、何事も経験である。白い服を着た女性が部屋に来る。非常にゆるい。もっとも、日本でも関西はきつく、関東はゆるいという話を聞いた。言葉が通じない。どうしてくれと言っているのか分からない。それで、横になったり、ゴロゴロしていると、その女性は、こらえきれないと言う感じで笑い出す30から45分間してもらったと思う。
朝鮮の少年少女たちのフォークダンス
朝鮮の売り子さんたち
北朝鮮では、外国人が両替してもらえるのは、いわゆる外貨兌換券であり、これは外貨ショップでないと使えない。一般の人が使っているお金は人民元(ウォン)である。だから、外国人は一般商店では買い物できない。
あちらは商売は下手である。外貨券の発行量の少なさによるのかもしれないが、まず釣り銭を用意していない。例えば、買い物をして、2ウォン釣りの場合、平気で日本円で110円(1ウォン=55円)支払ったりする。もっとも、これはまだましな方で、30チョン(100チョン=1ウォン)釣り銭不足の時、証紙のようなものをもらい、これは何だろうと思っていたら、実は切手であったり、20チョン釣り銭不足の時には、どうも一枚10チョンだから、ということで愛想笑いしながら、ガムを二枚差し出したりする。最初はおまけにガムをくれたのかと思ったが、実は釣り銭代わりだと知って、この国は「ガム本位制」を実行しているのかと同行の日本人に怒ってみせるが、別に本気で怒っているわけではない。20チョンと言っても、11円ぐらいだから、そんなに腹が立たない。帰りの空港では、円、ウォン、ドル入り混じっての大混乱。ドルで釣りを渡されそうになって、あわてて断る。
売り子さんたちは、不満もじき表情に出し、ふくれっ面をする。自分の持ち場以外は、どんなに忙しくて、その子がてんてこまいしていても手伝わない。品物を一つ売る度に、ノートに何を売ったか記帳している。だが、売り子さんたちが年齢で言えば、高校生ぐらいの女の子だから、生徒の模擬店を見ているようで、怒る気になれない。間違えて、釣り銭を多く渡してきた子には、間違いを指摘して、釣り銭を返してあげる。こんなことも二度ほどあった。
売り子さんの中でも、優秀な子は若干の日本語や英語を解する。概して言葉は通じないから、電卓に数字を表示してもらう。電卓は結構普及しているようだ。五つ玉の古めかしい算盤もあった。
帰りの空港での買い物、急いでいるのに、売り子さんがなかなかこっちを向いてくれない。どう呼びかけていいか分からないから、かつて中国で売り子さんを「同志(トンチー)」と呼んだように、朝鮮語で同志を意味する「トンム(同務)」と呼びかける。するとすぐに、こっちを向いてくれる。何度も「トンム」と呼びかけ、買い物をすると、向こうも、にっこり自然と好意を示してくれた。「同志」と言えばかなり堅いが、実際は「おねえさん、ちょっと!」ぐらいの意味しかない。もっとも、こういう呼び方が、今の朝鮮でポピュラーかどうかは、私は知らない。
概してみやげ物には困り、帰りの空港で、みやげ代わりにミネラルウォーターを三本買ったくらいだ。最初、日本円を差し出したら、この区画ではダメだという。それなら、金がないというと、売り子嬢はせっかく品物を出したのにとふくれる。そこで、いったん戻り、同行者から余ったウォンを買い取り、再びカウンターを訪れると、今度はニコニコする。
このような売り子さんたちは、日本では通用しないだろうが、売り子さんたちとの接触は、生徒と接しているみたいで、今から思えば結構ほほえましかった。それは一つは、相手に全然ごまかそうとか、ふっかけようとか言う気がなかったからであろう。ある日本人旅行者が、北朝鮮の人々を「田舎の市役所で働いているような人のいい素直な人たち」と評していたが、言い得て妙である。
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