訪 朝 紀 行 (1997)


1997年8月12〜17日


4日目 元山から金剛山へ

 今日は訪朝4日目、8月15日である。8月15日は、北朝鮮では、多くのアジア諸国もそうだろうが、解放記念日である。日本でも、私の祖母なども生前、この日には、正直言って、ほっとしたと語っていた。
 朝鮮ではこの日は休日であり、朝早く出発したが、元山の中心街は、祝賀集会に集まる人であふれていた。
 海に近い道を通る。白い軍服を着た海軍水兵の姿をしばしば見るようになる。道の人は、やはり珍しげに我々を眺め、手を振り返してくれる。やんちゃそうな男の子もいる。
 途中、侍中湖(シジュンホ)というところの海辺の休息所で一服。海水浴にちょうどいい砂浜である。何人かの地元の人たちが、海水浴を楽しんでいる。ここで海水浴をしたいものだ。今日は、海水浴とは行かないが、少しぐらい足を海水につけてみよう。
 日本の方向を教えてもらって、海に向かってシャッターを切る。

   いよいよ金剛山へ

 金剛山(クンガンサン)は、朝鮮の東岸にある。もう38度線に近い。
 金剛山の美しさを言葉で、少なくとも私の下手な文章で表現することはできない。私の下手な写真でも伝わらない。ビデオがあるから、これならちょっとはましだろう。だが、この美しさは行って見た者にしか分からない。北朝鮮にこんなすごい所があるなどとは、全然予想もしなかった。
 誰かが、北朝鮮は自然がきれいだなどと言っていたが、せいぜいそれは開発が進んでいないことの代名詞だと思っていたが、金剛山を見て、私はその認識を180度転換した。この金剛山だけでも、今度の訪朝の意義はあったし、また金剛山を見るために、もう一度訪朝したいと思う。この日のことを私は一生忘れないだろう。
 世界中の金銀財宝を積まれても、金剛山には換えられないと、朝鮮の人々は言っているが金剛山の美しさの一端を知ってもらうために、後に現地でもらった日本語パンフの一文を転載しておく。

   三日浦

 午前中は、金剛山内の景勝の一つ、三日浦(サミルポ)を訪れた。ここは、元々、海の入り江であったものが、入り口がふさがり、湖になったところである。昔、朝鮮の王様がここにやって来た時、余り景色がすばらしいので、一日のつもりが三日も滞在することになったという故事から、こう名付けられたという。
 なお湖岸の紅葉館(タンプンカン)で食事。海の幸がメインである。毛ガニも別料金で売ってくれた。ここで出たビールは、鴨緑江ビールという中国製。これはまあ行けたが、朝鮮製のビールははっきり言ってまずい(もちろん冷えてはいたが)。実の所、サッポロビールをよく売っており、ある所ではベルギー製のビールが出た。しかし、それでも国の経済の発展のためには、国産ビールを外国人客にも出すべきだろう。その中で、味も改良して行くほかない。
 その他にも、ここで出してくれた海の幸は鉄板焼にしてくれたのだが、日本製のカセットコンロである(初日の焼き肉の時もそうだったが)。概して、外国製品は非常に目についた。しかし、これは現在の多くの第三世界諸国に見られることである。中には、石鹸さえ輸入しているような国もある。
 なお、細かい話だが、ここで出してくれた箸は割り箸である。高麗ホテルでは、朝鮮風の長い金属の箸を出してくれた。朝鮮では、客には金属製の立派な箸を出すのが習慣であり、日本人の家庭に招かれた韓国人が割り箸を出されて、ショックを受けたと言う話を聞いたことがあるが、はっきり言って、日本人には、ホテルのような金属製の箸は重くて扱いづらく、割り箸ぐらいがちょうどいい。もしかしたら、ここで出された割り箸も、日本からの輸入品かもしれない。まだ少数の日本人客の需要に応えるぐらいなら、朝鮮で一から作るより、輸入した方が安いだろう。もっとも、この頃は、日本向けの割り箸を中国でも作っているという。他にも、ポッカコーヒーのように、日本資本が中国で合弁で作ったような商品が、朝鮮に多く輸入されているのかもしれない。
 なお、この日は、祝日であり、中学生たちが、集団で遊びに来ていたり、湖岸には、けっこう行楽客がおり、湖内でボートを漕ぎ出していたりした。また帰りしな、朝鮮の婦人たちが、道ばたで歌い踊っているのに出くわし、日本人も、踊りの輪に入れてもらった。婦人たちは、「カンカン・スミダ、カンカン・スミダ(お会いできてうれしいです)」と歌って歓迎してくれた。

   食糧事情の一端を見る

 疲れた人のためにと、朝鮮国際旅行社が乗用車を用意して送迎してくれる。これでピストン輸送するというのだ。誰かが、あれはボルボやないか、と驚く。もっとも、この頃、中国で合弁でボルボを作り出したというから、これも中国製のボルボかもしれない。中国は国内で急増する乗用車需要のために、だいぶ前から外国との合弁で、乗用車を作り出している。日本と違って、高級外車として扱うのでないから、内装は決して上等なものにはしていないと言う。
 誰も、語らいながら、道を歩くのが楽しいから、車に乗ろうとしない。運転手さんを待たせるのが悪いから、乗りたくはなかったが、I先生と一緒に乗ることにした。
 バスとの合流点で、後続の人たちを待つ。水田やトウモロコシの畑を見る。旱魃だというが、青々としているではないかと思うが、これが都会育ちの浅はかさで、日本人でも少し分かる人に言わせると、稲でもトウモロコシでも、この時期にしては、だいぶ実りが悪いという。
 やはり、少し暗澹とする。朝鮮は一昨年と昨年は、100年に一度という大水害、今年は大旱魃と三年続きの大水害。せめて米の10キロでもかついで来(て、困った人のために使ってもらっ)たらよかった。とつぶやくと、隣の女の先生が、同意したように、せいぜい外貨を落として行きましょう、と言う。今の所、個人では、それぐらいしかしようがないようである。
 はっきり言って、帰国後、テレビで見たような人の背丈の半分しかないようなトウモロコシとか、飢えたような子供た?ソは、私たちの行った所では、見かけなかった。だが、聞いていると地方差はあるようである。私たちの見た状況が、朝鮮国内でも平均的な所なのか、いい所なのか、テレビのようなのが全般的なのか、あるいはわざとひどい所をテレビが映しているのか。この辺のことは、私には判断できない。
 ただ、一つ責任持って伝えられることは、今年一年で160万トンの穀物が不足するという通訳兼ガイドの金氏の話である。穀物が160万トン不足すると言うことは、どういう事態を招来することなのか、私には分からない。金氏に言わせると、飢えて死ぬようなことはないが、冬場など、栄養不足で風邪をこじらせ、肺炎にかかって死ぬ子が、かなり出るだろうと言う。
 そしてもう一つ私に言えることは、日本には現在300万トンの余剰米があり、その管理費だけでも、年間350億円もかかっており、既に、農協などは北朝鮮に100万トンの米を無条件で贈ることを提案しているということ、また中国などはすでに50万トンの穀物を朝鮮に贈っているということである。
 私たちの帰国後、既に一カ月以上が立とうとしているが、新聞報道によると、小渕外相は9月14日午前のNHK討論番組で、北朝鮮への食糧支援について、「あくまでも人道的見地から日本としても、こたえていかなければならないという気持ちがある」と述べ、また、日朝国交正常化交渉の再開問題にも言及、「一日も早く現実のものになるよう努力していく」と強調している。

   九龍の瀧へ行く

 この日の午後は、九龍の瀧までのハイキングであった。実を言うと、往復6キロの道のりと聞いて、私はちょっとげんなりした。体調もも一つだ。実際、団の中にも、体調不良から、ホテルに居残る人も出てきた。
 しかし、ホテルに残る気など、私には更々なかった。もっとも、最初からそんなに金剛山の自然を期待していたわけではない。
 バスで行けるところまで、連れていってくれる。ガイドの金氏が、色々説明してくれる。朝鮮の山は、花崗岩むき出しの岩山が多い。だから、日本に比べると、確かに木は少ない。もっとも、それでも中国の山よりは木は多いと言うが。
 金剛山も結構岩山である。何でも、水流は非常にきれいで、いわゆる貧栄養湖であり、きれいなのは微生物がいないからであり、その結果、微生物を餌とする魚も棲んでいないと言う。
 団の人たちと歩いていく。最初の頃、「なんだ、こんな風景なら、別に日本の田舎に行けば、まだまだいくらでもある」と言うと、他の人は、「日本ならそこら中に空き缶が転がっているが、ここはそういうことはない」という。確かに、その通りだ。なお、金剛山は、自然保護のため、入山制限を行っていると言い、この日、山に入ったのは、私たちと、家族客らしい数名の中国からの観光客だけであった。
 水流は、確かにエメラルドグリーンであり、非常にきれいだ。赤く塗った鉄の橋がかけてある。鉄板がしいてある。おそらく、この国は、鉄とセメントに不足することはないのだろう。

 気がつくと、何かポリの袋を下げた朝鮮の女性が二人歩いている。若い方の一人は、今から思えば、まだ10代だったかもしれない。これが、金剛山名物、旅行客と一緒に山を登りながら、ジュースを売る女性たちだと言う。
 なかなか親切で、年上の方の女性は、いささかばて気味の女の先生の手を取って登ってくれた。こちらも、向こうが重そうな袋を抱えているので、少しでも軽くなるならと、一本買うことにした。3ウォンという。ホテルの倍だ。まあ、重い荷物を持って、山を登る彼女らの手間賃であろう。ジュースは、なんとファンタオレンジ、中国製で漢字でファンタと書いてある。ただし、常温である。
 ファンタを飲みながら、しばらく彼女と並んで歩いた。少し、彼女とコミュニケーションをしてみよう。私は、中国語なら少しなら出来るが、朝鮮語は二三の単語以外、全く解しない。朝鮮の中学校では、英語とロシア語を外国語として教えていると言うから、英語なら少し通じるかもしれない。
 「Can you speakEnglish?」と話しかける。一瞬、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた彼女は、やがて意味を理解し、若干戸惑いを見せながら、「ノー」と応える。
 もちろん、こちらだって英語が出来るわけではない。聞き取りは全然出来ない。通訳?フ金氏は、国際会議に参加する北朝鮮代表団の通訳として、最近、日本の大阪にも行ったことのあるという外大卒のインテリであるが、「日本で、例えば大阪の黒門町で買い物をしても、英語が全然通じません。私は、日本人の民族性が強固だから、英語をしゃべらないのかなと思いました。」と述べられ、聞いていた他の先生と一緒に苦笑したことがある。
 今から思うと、日本語に非常に堪能なはずの金氏が、日本での買い物に日本語を使わず、英語を使おうとされたことに、胸中、複雑な思いを禁じ得ないが、それにしても同じアジアの隣国同士である日朝両国民が、互いの意思の疎通に英語を使わざるをえないというのも、おかしな話である。これが、つい50年前までなら、少なくとも知識層同士なら、漢文による筆談で意思の疎通が出来たのだが。
 それはさておき、少女とのコミュニケーションはどうしよう。言葉の分からぬ者同士、相手の国の有名人の名前を上げるに越したことはない。
 「イムスギョン(林秀卿)」と、私は89年、世界180ヶ国の代表を集め、平壌で開かれた国際青年学生祭典に、韓国から祖国統一を祈願して参加した女子大生の名を上げた。少女は知っていた。にっこりと微笑み、知っていると答える。更に私は、「トンイル(統一)、トンイル」と、彼女が広めたという「統一の歌」の出だしをハミングすると、彼女はその歌の一番を歌ってくれた。
 しばらく行くと、谷川の中ほどに、大きな岩があり、休憩に適している。彼女は、微笑んで我々をそこに誘い、休憩を勧めた。今から思えば、なかなか商売熱心な子であった。ジュースを買っていない人も、ジュースを買い、私も彼女に二本目を買わされてしまった。こちらも、それならと彼女に代わって、「皆さん、ジュースはいかがですか!」と、一緒に来た人たちと一緒に、後続の日本人たちにジュースの売り込みを始めた。彼女はそれを見て笑っている。 見ると、崖に何やら、ハングルと数字が彫り込まれている。「19XX.4.15」と日付がある。確か、金日成主席の誕生日は1912年4月15日と、例の万景台の生家には書いてあったように思う。この岩壁の文字も、金日成主席を記念するものであろうかと思った私は、それを指さし、彼女に「キムイルソンチャングン(金日成将軍)?」と聞いてみた。彼女相手に、キムイルソンと呼び捨てにするわけにも行かないし、主席を朝鮮語で何というか分からない私の苦肉の策である。彼女はまた微笑みながら、「そう」というように答える。
 それにしても、ジュースの空き缶をどうしよう。彼女にそれとなく聞くと、彼女もまたいつしか側に来ていた朝鮮人のおじさんにたずねる。山の管理人らしい、そのおじさんは「ここに置いといてくれたら、また拾っておくよ」という感じで、少女に答える。何か日本でも見られるような牧歌的風景である。

 いつしか、彼女たちとも離れ、私は道を急いだ。先をゆく人は子供たちを中心にかなり先を行っている。遅い人は、年配の女性を中心にまだまだ後の方を歩いている。私は少し足を早め、先を行く人々に追いついた。
 彼らは、3ばい飲めば10歳若返るという谷川の所で休息していた。さっそく、小学校3年生の健ちゃん(同行の先生の子供)に促されて、若干、水分の取りすぎを気にしながらも、3ばい手のひらにすくって飲んでみる。なんでも、健ちゃんは10歳も若返れば赤ちゃんになると心配して、飲まなかったという。「どう10歳若返った?」と真剣に聞いてくる健ちゃんであった。
 一緒に、東洋系の人々が数人休息していた。家族連れのようでもあるが、中に一人欧米系らしき女性もいる。しゃべっている言葉を聞いていると、中国語である。少し戸惑った上、中の初老の男性に中国語でしゃべりかける。最初、私の中国語を、一体、何語だろうかと考えていたその男性だったが、私の言葉がどうやら中国語らしきものであることに気づき、若干のコミュニケーションが成立した。聞けば、北京から列車で来たという。私たちは、日本の大阪から来たと言い、名古屋から飛行機で来たと話す。聞けば、中国人はかなり前から、たくさん朝鮮に観光に来ていると言い、何かの書店などにも、中国語の旅行案内はたくさんあった。
 その頃になると、金剛山のすごさは、もう否定のしようもないものであることが、私にも分かってきた。花崗岩の岩山の奇相。そして、大きな谷川を渡って、いよいよ最終目的地、九龍の瀧である。九龍の瀧を前にして、「観瀑亭」と額のかかった東屋が建っている。そこには、さっそくジュース売りの女性が数人待っており、他にもミネラルウォーターや氷入り砂糖水を売ってくれる。
 瀧は本当に絶景である。すごい、本当にすごい。こんな瀧があるのなら、もっと早くここに来るのだったと悔やまれた。残り少ない時間であるが、瀧壺まで降りてみることにした。東屋から階段を降り、岩場を渡っていく。人が滑らないように、鉄の杭が打たれ、ロープが手すり代わりに通してある。ロープを伝っていく。瀧壷の縁まで来た。エメラルドグリーンの本当に深そうな瀧壷に、瀧がものすごい音を立てて、流れ落ちている。しぶきがかかってくる。瀧のすごさに思わず、シャッターを切りまくる。瀧を背に記念写真。本当にすごい瀧だ。もう何時間でもここにいて、瀧を見ていたい。なぜ、もっと早く来なかったのだろう。悔やんでも仕方がない。出発時間は迫ってくる。名残を惜しみながら、私は瀧を背にし、観瀑亭に帰っていった。
 帰り道のことは特に言うこともなし。通訳の金氏と若干の漢字談義をしながら、「多くの日本人は気づいていないが、朝鮮とは「朝の鮮やかな国」(朝日のきれいな国)という意味で、非常にきれいな国号です。日本も日の本、太陽の下の国という意味で、日本も朝鮮もどちらも、中国から見て東方の国であることを示しています。」などと言い合いながら、山を降りる。ある高校の山岳部の顧問の先生が、「山の事故は下山の際に多い」と皆に注意を促す。
 バスの乗り場付近まで降りてくると、民芸品のキセルなどを売っており、みやげ用に3本買った。金氏によると、ジュース売りの女性を始め、金剛山の人々は商売熱心であるという。
 バスに乗り込む。なんでも、4人のジュース売りの女性たち(この人たちは、個人営業でなく、おそらく国営ホテルか何かの従業員である)も途中まで一緒にバスに乗るという。バスに乗せてもらったお礼にと、まだ少女と言っていい彼女たちは、順番にはにかみながら、歌を一曲ずつ披露してくれた。朝鮮の民謡が多い。中の一人は、なんと日本の「ドングリころころ」を歌ってくれた。日本側からも、こういう時、真っ先にお返しに飛び出る人がいる。
 彼女たちと別れ、ホテル着である。食事は魚介類が目立つ。そして、なんとこの日は温泉に入ることが出来た。北朝鮮で温泉などとは思いもよらなかったが、日本のような大浴場ではなく、個室で仕切ってあり、底には玉石がしいてあった。二人で一緒に入った。外で外気に当たれば、本当にきれいな夜空であった。
 ちなみに、この日の天気は曇り。金剛山は雨が降ることが多く、曇りというのは珍しいという。雨が降っても、傘をさして登るという。
 なお、朝鮮は地震のない国だと言う。金剛山が、巨岩を積み重なったような所が多く、奇相を呈していられるのは、そのためだという。



金剛山の中枢 九龍瀑布
 
 九龍瀑布(九龍の瀧)は、やはり金剛山の中心である。金剛山は文字通り、韓国朝鮮民族が世界に誇る宝であり、金剛山、しいてはこの瀧を一目見ようと、韓国から大量に観光客が押しかけるのも当然であろう。写真の左下に白い服の人物が写っており、これと比べれば、この瀧の壮大さが想像していただけると思う。なお、写真自体は同じツアーの方が撮影したものをいただいたものである。



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