訪 朝 紀 行 (1997)


1997年8月12〜17日


5・6日目 元山経由平壌、そして帰国

 5日目、朝早く金剛山ホテルを出た我々は、もと来た道を再び平壌に戻った。途中、元山では港に係留してある米情報収集艦、プエブロ号を参観。1968年、朝鮮領海に侵入したプエブロ号を朝鮮海軍は銃撃戦の末、拿捕。これに対し、米軍は空母2隻を含む大艦隊を展開して、朝鮮に圧力を加え、戦争寸前という局面に立ちいたったが、断固たる朝鮮側の態度に、ついにアメリカは謝罪文を提出し、それを受けて朝鮮側は板門店を通じて、乗組員を釈放したという。世に言うプエブロ号事件である。聞くところによると、このような北朝鮮の毅然たる態度には、韓国の政府や軍の内部にも感心する人が少なくなかったという。




プ エ ブ ロ 号

 この日は、前に来た道をそのまま引き返したわけだが、途中の元山-平壌間で、トンネル工事に遭遇し、この日の予定は大幅に遅れた。トンネルの前では、3時間近く待たされたと思う。
 バスの中で待つのも退屈なので、皆バスを降りて、付近をぶらぶらする。鉄橋の上である。見ると、何台ものトラックがやはり、工事がひと段落するのを待っている。トラックの上は人でいっぱい、皆座ることもなく、立ったまま、この夏空の下、まんじりともせず、工事が終わるのを待っている。兵士がいる。赤ちゃんを背負った婦人が、苦労してトラックによじ登る。ある赤ちゃんを背負った女性は、カーキ色の服を着、ズボンをはいていた。戦後間もなくの日本と同じで、着るものがあまりないので、退役した軍人などが、肩章をはずした軍服を着ているのであろうか。彼らは、我々日本人を珍しげに眺める。カメラを手にすると、やはり意識されるので、風景を撮るにも、気を使う。
 朝鮮では、各種工事には軍が当たることになっているらしい。この時初めて聞いたが、ここでもトンネル工事に当たっているのは、緑色の肩章をつけた建設専門部隊(日本で言う工兵でもないらしい)である。それに対し、一般戦闘部隊は赤色の肩章をつけているが、この頃では、彼らも建設はじめ生産に携わることが多いという。
 突如、発破の音がする。正直言って、私含め日本人のほとんどが「びびっ」てしまった。すると、それを見て朝鮮の人たちは笑う。格好悪かったなあと、お互い話し合った。
 しかし、発破の音は工事完了が近い合図でもある。トンネルを抜け、平壌への道をバスは急ぐ。途中、新坪の休息所で、再びはちみつ水を求める。

 結局、夕方になって、平壌に戻ったが、この日、予定されていた平壌観光は、もはや時間のいとまがない。団の人々の強い要望により、ガイドの金氏らと共に、夕刻の平壌の街を少し歩くことになった。
 街は、通勤帰りの人々でにぎわっている。小学生の一団が、先生に引率されて歩いている。参観の帰りであろうか。セーラー服姿の中学生の女の子が、先生を助けて子供たちの後ろを歩いている。そういえば、私たちと一緒に朝鮮革命博物館を見学していた小学生の一団の後ろにも、こんな女の子がついていた。
 通勤帰りか、案外みんなくつろいで見える。時刻は七時頃、店はもう閉まっている。既に、夕御飯の買い物客の姿は見えない。誰かが7時にもう店が閉まるの」と驚くが、日本でも20年ほど前までは、そんなものである。八百屋、時計屋はじめ、国営商店の数々を見る。正直言って、品数は豊富なようには見えない。概して、元々農業には向かない北朝鮮では、平常でも野菜類は豊富ではないようである。
 道路わきに露店が開かれているが、これは砂糖入り氷水を売っているのである。一杯20チョン。人民元(ウォン)を持たない我々外国人は、金氏の好意により、二杯の砂糖水を提供され、回し飲んだ。素朴な味である。そうだ。私も子供の頃、砂糖水を好んで飲んだものである。食事にも、砂糖をかけたトマトが出たりして、一部の人は「ゲッ」となっていたが、私の母も昔、好んで食べたと言い、何も驚くようなものではない。
 なお、朝鮮では米は政府が1キロ60チョンで農家から買い取り、国民には8チョンで売るという。もっとも、配給制で配給される量は普段から決まっているらしいから、安いからと言って、いくらでも買えると言うわけではない。この米の値段からすると、一杯20チョンの砂糖入り氷水はかなり高いわけだが、これは主婦の副業であるからだという。
 ジュニア金氏と話す。向こうが、朝鮮では住居費は安く、収入のほとんどは貯金して、日本製電化製品などを買うために使うと話す。私が、日本では電化製品は比較的安価であるが、住居費はべらぼうで、私などは収入の4分の1を住居のために使っていると言うと、彼は苦笑していた。
 外貨ショップで買い物、はっきり言って、みやげとして大したものはない。私は日本語と、それと同内容の中国語の朝鮮観光案内を買ったぐらいである。二冊で10ウォンだったか。とにかく本は安かった。ちょうどウォン切れしていたので、同行の人から金を借り、円で返すことにした。

 この日の最後の晩餐は、ホテル外の食堂で行われた。鍋物である。朝鮮製のウオッカが出たが、焼酎のような味である。前では、チョゴリ姿の国立歌舞団の女性たちが、何か歌っている。私たちのテーブルの横は、在外朝鮮人の一団らしく、おばさんが前に出て、歌に合わせて踊っている。本当に、朝鮮人というのは歌って踊れる民族なのだなと思っていると、中の初老の男性が飛び出し、マイクを借りて、例の「統一の歌」を歌った。
 ホテルに帰って、みやげ物あさり。みやげ物には苦労する。それでも、幾品かをそろえた。ちなみに、北朝鮮からのウォンの持ち出しは禁止されているが、別に検査されるわけでもないので、多くの人が余った少額のウォンを日本に持ち帰ったはずである。私も数十チョンを持ち帰り、同行者と語らって、空港に置いてあったユネスコの外貨募金箱に投じた。なお、同室のI先生は、ホテルの部屋で記念にと各種紙幣をデジカメで撮影しておられた。 
 ホテルや帰りの空港の書店では、歴史書、観光案内、古典ものと、とにかく日本語の本や中国語の本をあさった。日本語の本は案外多かった。在日朝鮮人らしき女の子が、安いからみんなに配るみやげにいいですよと、連絡帳のような日記帳のようなノートを薦めてくれる。朝鮮の代表的な古典、『春香伝』の劇場写真集の日本語版をみやげにしようと思い、写真集を手に、指を4本差し出し、「I want four」と無茶苦茶な英語で注文する。店番の女の子は笑いながら、奥に入って探してくれたのだが、品切れていた。本をたくさん買う私に、女の子は素直に好意を抱いてくれたようである。もっとも、私は若い頃からの「積ん読」主義で、おそらくその一割も読まないで終わらせるだろうが。

 次の日の朝、いよいよ帰国の時が来た。名残惜しい。しばらく平壌の街に別れを告げようと、ホテルの外に出て、何枚かの写真を撮る。ふと、このまま団から離れてしまいたい誘惑に駆られる。平壌駅はすぐそこだ。そこから列車に飛び乗り、鴨緑江(アムノッカン)を越えて中国に入り、東北地方(旧満州)を経て、山海関を過ぎれば、北京はすぐそこだ。そして、北京から飛行機で日本に帰ったら。
 だが、たとえ金があっても、そんなことが許されるはずがない。第一、もうちょっと旅行を楽しみたい気もあるが、強行軍の旅行、体力的にはもはや限界に来ている。
 しかし、体は重いが、気分は軽い。このまま、リュック一つを背に、鴨緑江まで歩いていけるような気がしてくる。鴨緑江を是非一目見てみたい。できれば、いつか平壌から北京まで列車で旅をしてみたい。だが、その北京にしてからが、まだまだ大ユーラシアへの入り口に過ぎないのである。
 再びバスに乗り、平壌の街を通り過ぎて、空港へ向かう。空は曇り。帰途のことは言うまでもなし。名古屋から新幹線で大阪に帰った私は、その日の3時過ぎには我が家についていた。今日の朝まで平壌にいたとは、全然信じられない。
 家の階段には、私の不在中の新聞が積まれており、我が家のカレーライスに、私は久々の日本の味を味わったのである。

 なお、私たちの帰国の5日後の8月22日、北京での日朝予備会談の結果、日朝両国はできるだけ早期に、国交正常化交渉を再開することで合意した。



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