訪 朝 紀 行 (1997)


1997年8月12〜17日


1日目 平壌到着

 平壌(ピョンヤン)までは3時間ほどで着いた。非常に近い。考えてみれば、大阪から札幌、あるいは沖縄よりも、直線距離にしてみれば、平壌の方が近いのだ。
 空港ビルで入関手続き。おそらくは、カバンの中身を開けられるだろうと思っていたが、それはなかった。だが、まだ外国人客は少なく、入関の非能率は否めない。なお、入国関係の書類には、朝鮮語の他、英語、ロシア語、中国語が記されている。
 手続きが終わり、空港ビル前で記念写真。迎えにきてくれた朝鮮国際旅行社のバスに乗り組む。日本製であり、冷房も程良く効いている。ガイド兼通訳の金さんが日本語で挨拶される。なかなか堂に入っている。もう一人の若い人も金さん。我々は若い方の人を日本人同士の会話では、ジュニア金さんと呼んだ。
 空港の入り口を自動小銃を持った兵士が警備している。市内でも、自動小銃を肩にした兵士が警備していたりする。もっとも、韓国に行った人の話を聞くと、その辺の警備は韓国の方がよっぽどものものしいという。軍人の多さは、やはり目に着いた。ソ連式の肩幅いっぱいの肩章の付いたカーキ色のけっこう立派な軍服を着ている。もちろん、私たちが目にしたのは、ごく少数の警備兵をのぞいては、いわゆる作戦行動中でない非武装の軍人たちである。私は北朝鮮は徴兵制を取っているものと思いこんでいたのだが、ガイド氏によれば北朝鮮は徴兵制を取っていないらしく、韓国に行ったことのある人々は、韓国の徴兵制と比較して驚いていた。

 朝鮮は山の多い国であるが、この平壌近辺は比較的広い平野のようである。広大な敷地を持った空港、やがて田園風景が広がってくる。
 朝鮮の人々が歩いている。最初は人通りが少なく、この国には人が本当にいるのだろうかなどと、一瞬不安になったが、市街に近づくに従って人は増えてきた。おそらくはジャガイモがつまっているであろう袋を肩にかけた人、とりわけ驚いたのは、頭に荷物を乗せて運ぶ女性たちである。
 自動車は予想以上に少なかった。中国と違って、自転車も少ない。それでも、高校生ぐらいの子が、新品の自転車を乗り回して、二三人でたむろしていたりしていたが、後で聞くと自転車がはやりだしたのは最近であり、新しいのはそのためだという。
 平壌においては、市民の主な交通手段はトロリーバスと地下鉄、二両編成の市街電車。時刻は夕刻、ちょうど通勤帰りの人たちを見る。
 街の様子は、まあ1950〜60年代の日本と言ったところか。それでも、往時の中国のように、人民服ばかりというようなことはない。なお、筆者は82年と83年に二回訪中し、北京、上海、内蒙古を訪ねたことがある。そう言えば、北朝鮮の人々は、中国がまだ人民服の頃でも、背広を着ていた。70年代中頃までは、けっこう経済もうまく行っていたという話もある。夏でもあり、ネクタイを締めている人は全然見かけない。まあ、日本でも50年代ぐらいまでは、夏場はこんなものだったと思うが。通訳兼ガイドの金氏も、会社からはネクタイを締めるように言われているが、暑いから締めていないと言う。
 平壌の女性の服装は、スカートがほとんどであり、ズボン姿は全くと言っていいほど見かけなかった。婦人警官や女性兵士もスカートをはいていたように思う。中学生ぐらいの女の子が、夏服のセーラー服を着ていたのにびっくりする。セーラー服を着た女子生徒の姿は、テレビでも見られた。朝鮮の人には聞かなかったが、やはりこれも日本統治時代の名残であろうか。

 高層ビルが立ち並ぶ平壌は、非常に人工的な街である。朝鮮戦争中、人口40万の平壌に米軍は44万発もの爆弾を投下し、平壌はほとんど更地となった。その上に、高度に統一的な計画の下、現在の平壌が建設されたのである。であるから、街並みは非常に美しい。だが、やはり50年代に建てられたようなアパートは、日本の古い市営住宅と同じような感じに見える。
 平壌の人口は約200万、北朝鮮の人口が約2300万だから、平壌には全人口の一割近くが集中していることになる。集中しすぎとの声もあったが、日本でも東京に人口の一割が集中しているし、韓国でも、人口約4000万の内、ソウルの人口は約1000万である。
 とにかく平壌の都市計画は、道路にしろ、何にしろ気宇壮大の一言につきる。あまり根拠はないが、おそらく北京とあまり敷地の広さが変わらないのではないかと思ってみたりする。そこに200万しか人がいないのだから(北京は700万)、確かに人はまばらである。だが、ホテルに近づくにつれ、それなりに人は群集し、繁華街の様相を呈してきた。

 私たちが、宿泊した高麗ホテルは平壌駅の近くにある、言わば駅前ホテルであり、45階建てツイン式の超高層ホテルである。 10数年前、フランス資本との合弁で建てられたと言い、私が案内されたのは19階のツインルームであり、寝室の他にソファーの置かれた8畳ばかりの居間まであった。
 とにかく喉が乾いた。飛行機を降りてからというもの、何も飲んでいない。ホテルの中二階には、バーのようなものがあり、サッポロビールや缶コーヒー、パイナップル味の清涼飲料水、コーラ、ミネラルウオーターなどが置いてあった。サッポロビールは、日本からの輸入品ではあるが、税金のない分、日本より安かった。缶コーヒーはなんとポッカコーヒーであるが、漢字でポッカと書いてあり、見れば中国製。おそらく日本との合弁で中国で作られたものであろう。中国語で、牛乳珈琲と書いてあり、心なしか日本製よりミルク分が多いように思える。清涼飲料水も「美津」と漢字で書いてあり、中国は広東省での製造。コーラも、中国語で「可口可楽」(コカコーラ)と書いてあり、中国製、もっとも飲んだ人によると、中国人の嗜好にあわせてあるのか、日本では許されない味だという。ミネラルウオーターは朝鮮製。これらは皆1ウォン(55円)ちょっとであった。
 こういった商品を中心に中国製品はとにかく多かった。なんでも、日本貿易振興会(ジェトロ)の最近の発表によると、北朝鮮の貿易総額に占める国別の構成比は、中国(29%)、日本(24%)、韓国(11%)の順で、94年から上位3位の顔ぶれは変わっていないという。そう言えば、日本製品はけっこう多かった。日本製の車、テレビを始め電化製品。通訳のジュニア金氏によると、衣食住にかかる費用は少なく、貯金してこういった高額の日本製電化製品を買うのだという。ビデオもけっこう普及しているという。

 夕食。朝鮮国際旅行社主催のささやかな歓迎宴である。ホテルとは別の食堂に向かう。焼き肉である。少ないなと思ったのは、私の前だけで、他の所では、まだまだたくさん余っている。
 ホテルに帰り、通貨の交換を行う。何せ、向こうの人の顔つきが、日本人と変わらないものだから、まだ外国に来たという実感がわかない。当たり前のごとく日本語で注文する。すると、それを側にいた中外旅行社のP氏が通訳してくれる。
 初日の私の平壌に対する印象はこんなものだった。外国に来たという感じがしない。何か日本のある地方の都市に来たような感じである。ただ文字は、ハングルで、漢字は北朝鮮では全廃されている。だから、中国と違って何が書いてあるのかさっぱり分からない。だが、不思議と私は平壌の街に親近感を感じた。今から思えば、英語の看板が全くないところがよかったのかもしれない。何か日本より日本らしい。イデオロギーの問題以前に、このアジアの国には、我々日本人が失ってしまった何かが残っているのかもしれない。
 交替でバスに入る。もちろん、お湯はちゃんと出るし、室内には程良く冷房も効いている。ミツビシのテレビを付ける。この時、写ったチャンネルは一つだけであり、何かドラマがやっていた。言葉は分からない。同室のI先生と、しばし鑑賞する。日本のようにちゃぶ台を前に中年の男女が座っている。女性が煙草をつける。現代の朝鮮では、煙草を吸う女性はほとんどおらず、これはやはり悪女の象徴であろうという。
 こうして、8月12日、朝鮮初日の夜は更けていった。なお、日本と朝鮮の間に時差はない。



平 壌 市 内

平 壌 市 内

地 下 鉄 構 内


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