ひとこと

ひとこと

 昨日の早朝、よく晴れた西の空に薄く残る白い月を見た。  
 オーケストラ・ルナ。  
 ロック・マガジンの創刊は1976年初頭だったと記憶している。近鉄南大阪線古市駅の裏通りにあった三坪もない侘しい本屋で「明星」「平凡」なんかと一緒に並ぶ異様な表紙の音楽雑誌を見つけた時のいたたまれないような異物感は今もよく覚えている。
 「この雑誌は頭のいいキミたちに贈る教科書だ」といった扉の煽り文から始まるその雑誌は、学校の成績と頭の良し悪しは全く別であってロックが好きで頭のいいキミたちが聞くべきレコードは決してキッスやエアロスミス、クィーンなどではなくスパークス、ピーター・ハミル、そして「イーノとその周辺」なんだ、という確固たるメッセージを抱いていた(その当時パンクはまだ認知されていない)。
 それは昭和の高校二年生だった自分にとって痺れるようなインパクトがあった。今でいう「壁ドン」みたいな(違うか)。
 ロック・マガジンは音楽雑誌と称しながらメジャーな王道ロックや黒人音楽を最初から完全に無視していて、とにかく編集発行人・阿木譲の嗜好に叶った特殊なレコードだけしか扱わない「個人誌」だった。
 実質的には素人編集で誤植だらけのプログレ同人誌なのに、一体どんな手を使ったのかいきなり取次を通した商業誌として登場した点は画期的で、当時渋谷陽一が「僕と違ってスマートなやり方」と羨んでいたほどだった。
 露悪的に心情を吐露するエッセイや編集後記も毎号刺激的で「結局あなたたちロック・ファンっていうのはただそれだけの存在でしかなかったのか」などと読者に挑みかかるような断罪をしょっちゅうやっていたが、お目当てのレコードレビューを除けばいつも後味の悪い読後感が残る雑誌だった。
 結局のところ自分は心斎橋にあった編集室を訪ねる気には一度もならなかった。
 (前フリが長過ぎた。この辺りの思い出は以前にも書いたので『ひとこと2013.1.20』を参照)
   そんなロック・マガジンで知った時代々々の「尖端」レコは少なからずあって、その都度あたふたと梅田のLPコーナーやHOGG、Down Townに駆けつけては購入したものだが、ほとんどは青春の終わりと共に処分されていった。UK盤で揃えて悦に入っていたセイラー、デフ・スクール、プラネッツも、とっくの昔に手放してしまった。いつしかこのレコードだけが残っていた。
 オーケストラ・ルナ。
 当然ながら日本盤など出なかったコレは、1976年時点ではジャケットデザインからしてさぞかしハイセンスでお洒落な(しかもロック・マガジンを読んだ人にしかわからないレアな)レコードだったことだろう。
 コンセプトは米国音楽オールド・スタイルの「リ・メイク / リ・モデル」ショーケースで個々の楽曲、歌唱自体はティピカルなUSスタンダードといってもいい。実際、ペギー・リーで有名なスタンダード「Heart」のカバーも入っている。
 ただ、その再構築、提出の仕方が我が国の誇るピチカート・ファイヴの20年先駆け的なエディット/ハイブリッド感覚であることと同時に「お洒落な音楽」としてはどこかいびつでトゥー・マッチな意匠を凝らしてある点が非凡なセンスを感じさせる。掉尾を飾る名曲「Doris Dreams」の笑ってしまうほどに過剰なギターソロなどはどうみたって確信犯で「モダン・ポップ」と型にはめるよりもザッパ系列USヘルシー・サイケのシックな末裔であると解釈するのがふさわしい。
 ノスタルジックな管弦アレンジを全て手がけているルパート・ホームズのプロデュースがどこまでコントロールしていたのかわからないが、ガーシュイン、ブロードウェイ、ジャズコーラス、ボーイスカウト、野球、ハリウッドなど、20世紀アメリカ通史をロック的にではなく歌劇的に体験するかのような見事な一枚だ。
 マンハッタン・トランスファーのパラレル・ワールド的突然変異種とでもいうべきオーケストラ・ルナが唯一残したこのアルバムが、今となっては古き良きアメリカ白人系文化の最も美しい部分を掬い上げ結晶化したタイムカプセルとなっていることは何とも儚く、それゆえにとても愛おしい。


砂丘 青空 白い月

このジャケ最高!
リサお姉さん(表紙の並びで一番左側)が可愛いんだよね〜

正規盤には無い曲が3曲収録された10曲入りのテストプレスがあるが、
なんとDoris Dreamsが入っていない
やはり曲を差し替えた9曲入りの正規盤の方が断然良い
これは賢明なプロデューサー判断だった

18.12.29









  2018年、「III」から13年を経て「IV」が完成する。
 おかげさまで、CD受難の時代にもかかわらず売れ行き好調である(とはいえオルグの零細ロットでの話なので、関心のある方はお早目に)。
 昨年忠告したように「IV」は前作からの飛躍が大きく、その分ハードルは高い。軽い気持ちではついていけない作品だ。脱落者は必ず出る。いやすでに何人も脱落していることだろう。
 「 IV」は、頭士くん自身が語るように「ギター・アルバム」だ。しかし「ギター・アルバム」だからといってアクロバティックな超絶技巧を期待する向きにはまず理解できない領域で構築された作品が「 IV」なのだ。
 たとえばイーノ在籍時の初期ロキシー・ミュージックを「まるで上手くない」「はっきり言って下手クソな」等々、判で押したように演奏の巧拙で取り沙汰する者が二十一世紀になっても絶えないように(なぜそんなにムキに下手下手と言いたい? ポール・トンプソンのドラムはカールトン・バレット級に重くソリッドだ)、音楽にフィギュアスケートの「技術点」を要求する価値観からすれば「IV」は全く意味を成さない。  
 ただ頭士くんは十代の頃に「王水」というバンドを率いて「Larks' Tongues in Aspic Part 1&2」(Part 1は前半のみでヴァイオリン・ソロ以降は割愛しメドレーでPart 2に雪崩れ込むという大胆なアレンジだった)や「Fracture」をフルコピーしていた巧者でもあった。  
 彼がリアルだったのは、そこまでやりながらも決してクリムゾンのフォロワーにはなろうとせず、クリムゾン(プログレッシヴ・ロック)のさらに向こう側にあるものを求めて「螺旋階段」に加入、次に最初期「非常階段」でギター2本による無秩序な大音量の即興演奏(ノイズという概念がまだ存在しなかった1979年のことだ)を追求するという選択をした点である。  
 しかしノイズの世界にもまた安住することを選ばなかった頭士くんは約40年を経て、今なおギターを手にとめどなく漂泊し続けている。
 
 六月のベアーズでの演奏のようにライブでは圧倒的な音数で弾きまくることも少なくない頭士くんがこのアルバムに収めたのは、自己のギターの技巧的な部分、必然性の薄い部分を極限まで切り落とし抑制を重ねた果てに選び抜かれたノートだけなのだ。
 ギターだけに限ったことではないが「技術的に正確な演奏」と「音楽として的確な演奏」には大きな隔たりがある。
 その途方もない距離の在り処を感じとれる人にとっては、「IV」は望外のGiftとなる。
 
 そう、それでいい。  
 今までも軽い気持ちの者は必ずといっていいほど脱落していった。それは俺が一番よく知っている。  

 心あるひとに頭士くんの新作がよどみなく響きますように。


To be true

18.10.26









 そして「現象化する発光素」から7年後、2005年。  
 「III」。  
 前作のモザイク様の多面的な音楽性から一転、ベクトルは一気にシンプル化し、楽曲と演奏は大きな深化を遂げる。  
 それはあたかもキング・クリムゾン「リザード」から「アイランズ」への変容を思わせた。  
 初期クリムゾンの課題だったピート・シンフィールドの詩世界の音響化を「アイランズ」で最上の精度をもって成就させた上でバンドを解体再構築し、新たなステップに踏み込んだロバート・フリップの音楽への忠誠心「To be true」は今なお決して古びることがないが、頭士くんが「III」でたどり着いた境地は、まさにフリップと同等のレベルでリアルだった。  
 細心の注意を払って彫りあげられた六つの音像は、かつて「パラダイス」で切り開いたどこか夢幻のベールに包まれた地平から遠くへだたった、深い喪失感と再生への希求の結晶化だ。
 「アイランズ」がそうであったように「III」に曖昧な叙情は存在しない。ここにあるのは、ただひたすらな激烈である。  
 「最後に」から始まるこのアルバムを聴くと僕は本当に言葉を失ってしまう。  
 死ぬほどの喜びにうち震えながら言葉を失い、自分を見失い、あらゆる気を失っていく。あとには何が残るのか?   
 「III」とは、実際にそんな体験ができる作品だ。  

 そして13年後、2018年。  
 頭士くんは「III」の境地に安住することなく新たな局面を掘り下げた「IV」を上梓する。  



たかがCDといっても侮るなかれ
HDRと周辺機材のアップグレードを反映したきめ細かで深遠なスケール感のある音質
最近のお手軽なデータ起こしのアナログ盤など軽く蹴散らす


…こればかりは「2001年宇宙の旅」同様、体験するしかない
(初見は50年前の梅田OS劇場…
件の70mm上映は見れなかったがIMAXで40年ぶりに体験!)

18.10.24









 「パラダイス」から10年後の2ndアルバム「現象化する発光素」。  
頭士作品中、もっとも謎が多く多面的な音楽性を放射するアルバムである。そもそもタイトルからして謎めいている。
 90年代に郷里の岡山に生活拠点を移していた頭士くんが少しずつ機材を買い揃え自宅録音の環境を構築していく過程で生み出された作品だ。  
 その成果が冒頭の2曲「結合の神秘」「1999:白化」の打ち込みリズムをベースとしたサウンドで、当時「結合の神秘」のデモを聞いた時は仰天したものである。元々は兄の結婚披露宴で歌うために作ったという「結合の神秘」は槇原敬之もビックリ(しないか)のあけすけなイントロに導かれたコンパクトなエレポップだが、終盤のミニマルな展開には一筋縄ではいかない微妙な「ずらし」が仕掛けられている。  
 続く「1999:白化」が、本作の核心となる曲だ。やはりこちらも単なる打ち込みリズムではなく時間軸の設定にはイレギュラーなプログラムが巧妙に仕込まれている。それにのせて「歌う」というより止めどなく息を吐き続けるようなヴォーカル、空間を翻す超越的なギターソロにはいまだに胸を撃ち抜かれる思いだ。  
 そしてサード・イアー・バンドに対する岡山からの回答ともいうべき3曲目「プララヤ」からこの世のものとは思えない音色のオカリナで参画してくる頭士くんの兄、頭士真砂樹の存在が、本作のもうひとつのキーポイントだろう。  
 80年代初頭、東京で「アケボノイズ」に参加しソノシートを1枚発表した真砂樹はこの時期岡山にしばらく帰郷しており、鉱物の写真撮影や彫金、とんぼ玉による細密な装飾品の製作に没頭していたという。それと並行して頭士くんのレコーディングにも折に触れて参加することがあったようだ。 
 真砂樹は、たとえば「インド旅行の際にティンシャ(チベタン・ベル)を買い求めた時、複数の店で嫌がられるほど何十個ものベルを片っ端から試奏して一番霊妙な倍音と残響を持ったものを選んだ」という逸話から窺いしれるように、ひとつの音を出すのであれば音本来の霊性そのものを極限まで追求する、といったようなキャラクターの持ち主である(確かにそのティンシャは鼓膜を透過して脳内で倍音が増幅していくような強力な響きであった)。
 兄のそういった姿勢が、弟の奏でる音楽に影響を及ぼさないわけがないことは容易に想像がつく。
 頭士くんは、あえて兄を対等の共演者としてアルバムの骨子に引き入れることで兄からの影響を肯定しつつ自分自身の音楽をさらなる高みへとジャンプさせることが必要だったのだ。  
 武満徹をして「頭が狂ってるんじゃないか」と言わせしめたという異形のピアニスト、エルヴィン・ニレジハージへのオマージュ「輝いている水面をずっと」を挟んで「加速舞踏」から登場する真砂樹のカリンバが放つ強い磁力は、ここで本作の印象を否応なく決定づける。  
 次に「揮発」「ルクス」「結合の神秘」といった多様な佳曲が続いてもどこか真砂樹の不在を意識してしまうのだ。「前瞑想的音楽」で再び登場する真砂樹のカリンバの音色が鮮麗な既視感を伴うのは偶然ではない。  
 頭士兄弟のカリンバによる即興セッションは尋常ではないポリリズムのせめぎ合いとなって二人の絆、バックグラウンドを投射し昇華する音響として「現象化する発光素」と題されアルバムタイトルとなった。
 ポリリズムの応酬が決して熱気を帯びた狂騒となることなく、両者一貫して冷徹な時間軸を保ったままトランス状態に突入している点が彼等の驚異的な特性だ。  
 本作以降、頭士くんは真砂樹との演奏には一旦終止符を打つことになったが、これほどテンションの高い音楽的磁場を極めてしまった二人にとってそれは必然の結果だった。  
 そして終曲「再来」の物憂いギターソロがポスト・コイタスの甘い倦怠と安堵を促し、音楽は去っていく。  
 僕は「結合の神秘」アコースティック版の演奏に参加して何曲かのミックスバランスに助言し、切り貼りで版下を作り東京でのマスタリングに同行した以外にはこのアルバムの制作にほとんど介入していない。ジャケット・デザインも含めた全体の構築はすべて頭士くん自身による。
 この極端に多面的なアルバムをものにしたことで確実な自己プロデュース力を得た頭士くんは以降、さらに自己の内面とギター演奏の未知の領域を探る旅に出ることになる。  



90年代後半はレコーディング環境が激変した
このアルバムは民生用HDRが登場したおかげで完成できた
もちろん頭士くんが使ったのは初期HDRの8トラックの簡素なものだった

18.10.19









 頭士奈生樹1stアルバム「パラダイス」。  
 レコーディングは1987年の真夏の京都だった。  
 結局、頭士くんが在籍した時期の螺旋階段、リラダン(ザ・リラダンズ)、イディオット・オクロックは公式に音源を残すことはなかった。  
 頭士くん在籍時のメンバーでリラダンあるいはイディオット・オクロックが、変身キリンのようにせめてシングル盤1枚でも残していれば。
 それともリラダンの参加が決定されていながら計画途中で仲間割れのために頓挫したという「ドッキリレコード2」が成就され数曲でも収録されていれば。
 ならば、その後の展開は多少なりとも違っていたのではないか、と酔いにまかせた脳裏で無駄な妄想を描く夜はいまだ失せることがない。  
 イディオット・オクロックを82年に離脱した頭士くんは「頭士奈生樹ユニット」として不定形なメンバー構成で楽曲編曲よりも演奏それ自体の一回性に重きをおいたコンセプトを追求していた。一方、イディオット・オクロックはあてどなくメンバーチェンジと改名を重ねノイズ・オクロック、ツー・オクロック、再びイディオット・オクロックへと変容を続けていた。
 そして僕はその両者の活動に常に関わっていた。およそ83年から86年にかけてのことだった。
 85年には自分のソロアルバムをハレルヤズという名前で作った。この時に頭士くん、高山 ”Idiot” 謙一くんの2人に参加を仰いだのだった。僕は彼等2人のとてつもない音楽性にどうしようもなく惹かれていた。彼等が一つのバンドにいられないのなら、自分がそれに近い場所を設定できはしないだろうか?  
 そんな思いがハレルヤズ、パラダイスという形になったのだった。
 バンドでは頭士くんと袂を分かっていた高山くんだが、「頭士がソロを作るんだったら」と快く参加を承諾してくれた。3人で三日間、連日朝からスタジオに篭った。  
 初のソロのために頭士くんが用意した曲をそれぞれどんな風に演奏し録音するか、を3人で話し合いアイディアを交換し時には衝突しながら録音を進めるのは脳が痺れるほど刺激的でスリリングな体験だった。  
 たとえば1曲目の「こびと」。ベーシックのリズムギターのカッティングを最重視する(ドラムに気を取られることなくリズムギターを全力で弾ききりたい)という頭士くんのコンセプトでドラムは後録りということになった。さて誰がドラムをやる?  
 まず僕が意気込んで叩いてみたが、どうにもこじんまりとしてしまってあまり面白くない。「柴山ではアカンな、俺が」と次に高山くんがトライするも、ベーシックのテンポが早すぎてうまく合わせることが難しい。一同腕組み「う〜ん」となってしまった。  
 ミキシングルームでしばしの沈黙の後、頭士くんはタバコを1本吸い終えると(当時は全員喫煙者だった)  
 「じゃあ…ちょっと僕が叩いてみるわ。それでアカンかったらこの曲はドラムはもうあきらめるわ…」とボソッと言い残してスタジオに入っていった。
 そしてなんとワンテイクでものにしたのが、アルバム収録テイクの絶対にドラマーには叩けない脅威のドラミングなのだった!  
 モニターから聞こえる怒涛のドラムを聞いた僕と高山くんは、思わず顔を見合わせ「こんなんできるんやったら最初から頭士がやればよかったのにね〜」と爆笑してしまったというオチは、今も鮮明に覚えている。
 「童話」。当初エンディングのギターソロのパートはあそこまでワイルドにするつもりはなかった頭士くんだが、先に高山くんがあの超絶的なドローン・ソロを弾いてしまったので思わず煽られてギターバトルを繰り広げてしまい結局そのまま収録された顛末等々、色々と思い出は尽きない。
 だけどやっぱり「こびと」のあの場面があの時のセッションの空気を一番象徴しているような気がする。
 予算の制約からリズム録りとリテイク、全てのオーバーダブとVo入れを3日間で完了させるという強行軍になってしまったことはいまだに頭士くんに申し訳なく思っているが、何としてでも彼の類い希な音楽をレコードにして世に問わなければ、という思い込みと勢いで僕は精一杯だった。だが頭士くんとしては、時間の制約のせいで悔いの残る部分は少なからずあっただろうと思う。  
 だからという訳ではないがミックスダウンには足かけ一年近く費やした。もちろん当時の僕の至らないプロデュース能力では頭士くんの音楽性を100%音盤に収めることは到底できなかったけれど、30余年という時空を経た今となっては、この作品を残せたことを少しばかり誇りに思うことをどうか許していただきたい。
 頭士奈生樹1stアルバム「パラダイス」。
 
 その立ち尽くすほどの強靭な美しさには眩暈を。
 その卒倒してしまいたいほどの眩いギターの煌めきには心からの嫉妬を。
 



かつてのピースミュージックと同じで音の良い16track1inchのTASCAMだったが、
テープを買い取る予算がなかったのでマルチマスターが現存せずリミックスは不可能

18.10.1









 この灼熱の夏にはとても太刀打ちできないのでもはや観念して身を委ねるしかないのであるがそれでもやっぱり何か一石を投じずにはいられないのが我が悲しき性。だとすればこの逸品を。  
 (ずいぶん以前一度紹介したことがあるが、コレは何度でも紹介されて然るべきだろう)。  
 R&Bやソウルのクリシェと逸脱する部分を巧みに配合した楽曲、音色の加工を恐れないある種ブリティッシュ的なミックス、なのにニューオーリンズ風の定石を外さないアレンジ、それでいてあくまでも肉食人種っぽくない穏やかな歌唱、どれをとっても最高なんだが、ジョージ・ポーターのベースがすごくいいんだよね。
 俺の夏にコレとタジ・マハール「Music Keeps me Together」は欠かせない。いずれもたっぷりと湿気を含んだ夏の倦怠感に彩られた名盤。



See this another Quiet Sun

18.7.26









 80年代の最初期マヘル・シャラル・ハシュ・バズのギタリスト、時としてバンドリーダーの才能を凌駕するほどに屹立した個性の持ち主だった(であろうと容易に推測できる)岩田侑三19年ぶりのセカンド・アルバム「Daylight Moon」の録音と共同プロデュースを担当していたジョーダンさんから、岩田さんが先週、逝去されたとの知らせが届く。
 
 この春に岩田さんとその新作に関してやりとりをした際、ここ数年体調が思わしくないので近く秩父の温泉での療養を兼ねて一時帰国する予定、との旨は聞いていたのだが……。

 悲しい。

 19年前オルグから「Drowning in the Sky」をリリースした折、ジャケットに使った岩田さん作の美しいリトグラフの原画を丁寧に額装して贈っていただいたことを思い出す。

 部屋に飾りたかったが日焼けで退色するのが惜しくて、今も押入れの奥でひっそりと眠っている。

 「Drowning in the Sky」リリース後にニューヨークへ行った時、岩田さんはわざわざフィラデルフィアから来てくれて深夜まで楽しく酌み交わしたことを思い出す。


 心からご冥福をお祈りいたします。

 Yuzo Iwata

 R.I.P.




May his spirit rest in peace with Daylight Moon



18.7.2









 オルグ・レコード唯一の欠番となったORG-002「やけっぱちのマリア」は、約30年前にジャケットデザイン以前の段階で諸般の事情によって発売中止となったLPである。  
 発売中止に至った経緯はもはや語る必要もないがバンド側に非はなく、全責任は私にある。  
 ところが最近、当時100枚だけプレスしたこのLPが「廃棄された」というようなことがまことしやかにSNSで語られているようだが、これは作り話である。  

 ORG-002番はサンプル数枚を関係者(本当の関係者は一人だけだった)に配布したのちに、残りの盤は全て封印し現在に至るまで保管してある。責任者としてここではっきりさせておく。  
 伝聞と憶測で他者のありもしない行状をでっち上げ吹聴するしたり顔のやからには一生かかっても理解できないのがオルグ・レコード、そして「渚にて」であるといったい何度言わねばならないのだろうか。  




(当該記事は現在すべて削除されています)


18.6.22









「永遠が見たい? そいつは簡単だ。あいつのギターがたどるコースをついていけばいい…」


ギター漂泊者の凱旋、頭士奈生樹十三年目の寄港

六本の弦が秘めたる未踏峰の頂を極めたギター・アルバム
「ZUSHI IV」遂に登場!


もう私は ここに いないか まだ私は ここに いるのか
(IV 「Mirror」より)

18.6.1









 誤解のないよう書き添えておくと「IV」は比類無き「ギター・アルバム」であるが、「ギター・インストゥルメンタル・アルバム」ではない。
  全6曲のうち3曲はヴォーカル入りの歌物(カギカッコで括られた「うたもの」「歌もの」類は平成の廃語)である。  
  30年前(!)の1stアルバム「Paradise」から彼の諸作をご存知の方には周知のことだが、リアルなギタリストである頭士は詩作の才に長けた歌い手でもあった。
  注意深く選ばれた平易な言葉で編み込んだ歌詞のレース模様が、そのフレーズ以外にありえない固有の部分だけを弾く彼のオブリガートを伴う時、文字の連なりは言葉の臨界点を突破する。  
  「IV」の極めて濃密な74分間は、意識を持って聴く者の脳天を、どこまでも静かに、直撃するだろう。
  これだけは、決して文字に変換することができない。体験するより手立てがないのだ。  
 初めてEvening Starを聴いた時の眩暈。初めてHappy Sadを聴いた時の蒼茫感。初めてSort Ofを聴いた時の恍惚は?  
 たとえばこう問われた時「あの感じ」としかいいようのない、ひとつの根源的な感覚を惹起できる人にとって「IV」は至福の贈り物となる。



6月2日発売です

ライブ会場と通販のみの販売となります

18.5.24









 頭士奈生樹の新作「IV」を幾度となく聴いている。  
 ロック・ギターのフォーマットにおけるオーセンティックな情動表現にかけては山口冨士夫やデイヴ・ギルモアに、技能的にはロバート・フリップに比肩するギタリストである彼がここでやろうとしていることは、イディオマティックでなければ非イディオマティック、といった二元論の価値観では到達できない未知の領域を切り開くことではないか、という気がする。
 もちろんそこはすでにフリー・インプロヴィゼーションという狭い土俵ではない。  
 言い換えれば「自分だけにしか弾けないノート」をどこまで「ありのままに弾く」ことができるか、という根源的な自問との格闘の結果が「IV」には美しく結晶している。  
 ロバート・クワインやトム・ヴァーラインの畸形的なギターが切迫したリアリティーを感じさせたのは「パンク・ロック」だから、ではなく彼等が自分だけの一音を探り当てることをどこまでも意識して弾いていたからだが、こういった感覚はたとえばEvening Starのロバート・フリップやUnfaithful Servant(Rock of Ages)のロビー・ロバートソンの超絶的なギターソロにも顕著だ。
 常に自分自身と深く対峙しながら弾くことと引き換えに、彼等の演奏はすでにイディオムから解放されていたのだった。  
 果てしない自問と格闘しながら弾くことは決して楽な選択ではない。だがそれは時としてある種の狂おしい感覚に満ちた美しい一瞬をもたらすことがある。ついにその瞬間が訪れた時、ギタリストは「自分だけの一音」を獲得するのだ。  
 頭士がギターの指板を駆け巡って粘り強く探り当てた、幾多のリアルな瞬間が「IV」の74分間のここかしこに慎ましく、そして大胆に点在している。  
 その痺れるような刹那の一瞬の閃光に触れるために、僕はこのギター・アルバムを幾度でも聴き返すだろう。

 The 4th Zushi album "IV" wiil be released on June 2!



心あるひとにだけ頭士くんの新作は響く

18.4.30









 フィラデルフィアの岩田さんから、何と19年ぶりの2nd「Daylight Moon」のレコードが唐突に届いた。
 これは何というか…「あの」耳なじみのある空漠感がむせかえるほどに充満した、早い話が19年ぶりの傑作なのだった。
 この音色は、かつて約30年前のM.S.H B.に顕著であった(そしてかなり以前に完全に失われてしまった)、ある種の特殊な感覚から来るものだ。
 この、あてどない空漠感を湛えたギターの音色とカッティングを注意して聞いてみるといい。
 それは、あたかもヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどそもそも存在していなかったかのように思えてくる胸のすく威風堂々ぶりである。  
 言い換えるならば、R.V.R.M.とRide into the Sunの向こう側にあったはずのもの、それが「Daylight Moon」にはむき出しの形で突き刺さっているのだ。昼の月の白い輪郭にくっきりと切り抜かれた青空の薄さを見るような気持ちで。  
 そのくぐもったトーンは、いわば体験したことのない過去へのノスタルジアを強烈に感じさせる。 
 そして19年前の「Drowning in the Sky」の時にも感じられた、イディオット・オクロック(高山謙一)との奇妙な通底感覚。
 暗い何かに向かってひたすら疾走し続けるような無限感はDaylight Moon II という曲で質量を倍加しているように感じられる。
 何の接点も無さそうな(実際、無いだろう)両者の音楽をつなぐものは一体何処から来たのだろうか。  
 これ以上、言葉で説明することはできない。 不可思議な音楽だ。彼の音楽は特徴的に「腑に落ちない」。
 そこが僕にとっては非常な謎であると同時に、大変な魅力でもある。 
 思えば今年は頭士奈生樹も13年ぶりの新作「IV」を発表するのだ。  
 これは世が彼等二人の音楽を呼んだという大きな必然であり、決して偶然ではないと僕は思っている。



岩田侑三 Yuzo Iwata  Daylight Moon

(2018 Siltbreeze Records SB183)

3.31 追記:250枚限定のLPはすでに完売、近日追加プレスの予定だそうです

18.3.23









「Gravity」以降、どうも映画的飢餓感を満たす作品がなかった。  
 デビュー作「第9地区」大ヒットの呪縛から逃れられないニール・ブロムカンプははっきり言ってずっと低迷状態だし、人生の残り時間を意識しすぎてビッグバジェットの超駄作を連発するリドリー・スコット、イーストウッドは年齢を考慮すれば大したものだが近年は実話モノでお茶を濁す傾向がどうにも歯がゆい。  
 などと、菊正宗・生酛純米(常温)をあおりながら勝手なことを思っていたら、来ました。久々に「お前の飢えを満たす」映画が!  
 「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」まずこの長ったらしい原題がいい。 ピンとくるものがある。  
 よく練られた脚本、豊富な伏線と鮮やかな回収、先の読めない展開、見る側の想像力を喚起しつつ期待を「はずす」フック、濃いキャラの立った脇役の配置、映画の出来を左右する食事シーンの扱い、そして俺の審美眼には絶対に欠かせないマヌケ感。
   テンコ盛りのサイドストーリーも込み込みで2時間を切る尺にきっちり収めるテンポの良い編集は、見事としか言いようがない。  
 そう、こういうのが見たかったんだ。 
  親指の爪に痛快ドリルとか、「ファッキン神父はLAギャングと同類」パワー論法とか、ちゃぶ台返しの片付けは親子で仲良くとか、オレンジジュースのストローの向きとか、「砂の多いところだ」「?」とか、ドナルド・サザーランドってそもそもオカンがクリソツやんけ!とか、やっぱり部屋にはニルヴァーナとか、「娘とは思わないわよ」鹿さんへの語りかけはバルタザールの翻案?とか、MC5も逃げ出すビッチ、カント、マザーファッカーズ乱発… とかとか、仕込みネタがいちいち充実しすぎなのである。
 「窓際の虫」のシーンでもわかるように、並みの映画なら見向きもしないような、ちょっとした日常光景の「何でもないような」カットを丹念に拾いあげる作業がいかに映画全体を生き生きさせる効果があるか、ということをよく知っている監督だ。  
 脇役だったはずの「眉間に縦シワ」署長ウィロビー、「ヘタレコップ」ディクソンがいつのまにか主役にシフトしていく脚本の流れも作為感がなくスムースで、舌を巻いた。あたかもボケとツッコミが縦横無尽に入れ替わる「やすきよ」全盛期のフォーメーションを想起させ、それはそれは「斬れ味の良い刃物を見る快感」(by 小林信彦)が一貫してあった。  
 マーティン・マクドナー、アイルランド系イギリス人の監督だそうだが、寡聞にして全然知らなかった。今後要チェックにします。


タイトルを補完するかのようなわかりやすいポスター
これがUSアメリカン

…しかし父親たるもの自分とて同じポジション、
署長ウィロビーの身の処し方には色々考えてしまった

18.2.10









渚にてによるMNKリスト MNK List by Nagisa Ni Te vol.11


その11 :
デレク・ベイリー
Derek Bailey/Solo Guitar



 大昔から、このヒトについての講釈が創意工夫を凝らした高尚なレトリックに満ち満ちたものばかりなのは致し方ないところであろう。
 つまりそれは、田舎の道端に転がってる石を指して「あの石を定義しキミの解釈とその根拠を述べよ」という宿題を出されたようなものだからだ。
  世界最高水準のマヌケ・ギタリストとは、テッド・ニュージェントではなくデレク・ベイリーのことである。
 彼が「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」と聴衆にプレゼンするギターの弾き方を「発明」した。この偉大な発明を前にしてあらゆる追随者は単なる模倣者でしかない。彼の前にも後にもギター・インプロヴィゼーションは存在しなくなってしまった。
 この屹立した自己確立のあり方は、ジミ・ヘンドリクス、クラウス・ディンガー「アパッチ」などが近いだろう。
 同じことをやっても仕方ないのでロバート・フリップとフレッド・フリスは聡明な「第二次使用者」として正々堂々と「ロック・インプロヴィゼーション」を模索した。その類い稀な交配の成果として発表されたキング・クリムゾンとヘンリー・カウの諸作品は、いまだに傾聴に値するものとなっている。
 B面1曲目がケッサクで、いきなり「トッテチッテタ〜」というオモチャメロディが始まったと思ったら急にアイヌのムックリみたいな音色にシフトし延々と「ズンガズンガ」とシャッフルを淡々と、しかも延々と弾き続けるんだね。口ずさめるデレク・ベイリー。横山のやっさんならずとも「オイにいちゃん!ちょっと聞くけどナ……いつまでズンガズンガ弾いとんねん!」としばかれること必至のマヌケぶりである。
 ま、ベイリーに向かって「いつまで弾いとんねん」とは不敬も甚だしいツッコミなのであくまで脳内で留めておくが、とにかくそういう光景が目に浮かぶ、というだけで既に名誉MNKの殿堂入りなのだ。


ギター墓場にて
何処へ行くのかさすらいのMNKインプロ野郎…

(MNK=マヌケ あらゆる藝術に対する最上級の褒め言葉の意)

18.1.31









渚にてによるMNKリスト MNK List by Nagisa Ni Te vol.10


その10 :
ウーヴェ・ネッテルベックのトニー・コンラッド・ウィズ・ファウスト
Tony Conrad with Faust / Outside the Dream Syndicate by Uwe Nettelbeck



 結局オレ、ウーヴェ・ネッテルベックという山師プロデューサーの感覚とウマが合うんだと思う。気は合わないだろうけどね、絶対。
  ピーター・ブレグヴァド曰く、手入れの行き届いた顎ひげに青いレンズをはめた楕円形のメガネ、銀色の長袖Tシャツにスエードのズボンという風体で高価なワインと上質のLSDを嗜んだというウーヴェは、ファウストのプロデューサーというよりは「発明者」と呼ぶ方がいいのかもしれない(ファウスト/ヴュンメ・イヤーズ)という。
  「発明者」とは、まさに言い得て妙であり慧眼である。コレにしたってドローン/ミニマルのケッサクと称せられるわりには、アカデミックな威厳というものがまるで感じられない。だいたい普通(って何だ?)、こんな「毛皮のヴィーナス」のバックトラックだけ抜いてループさせたような反復音楽にこんな野趣豊かなロックドラムとベース入れるか?  
 コレ聴いてると、ドローン/ミニマルとか吹っ飛んでしまってどこか人知れない荒野の斜面を太い丸太棒が転がり落ちていく様子をボーッと眺めてるような気分に襲われる。
 正座して拝聴するにはなんだか吹き出したくなるようなマヌケ感。
 いつまでたっても終わらない坊さんの読経の後ろで肩を突っつき合ってクスクス笑いするガキどもみたいな感覚。  
 そのあたりの采配が「発明者」ウーヴェの面目躍如たる所以である。
 ロックの「見巧者」と言い換えることもできるだろう。ここが重要だ。
 
 名誉MNKプロデューサーとここに認定する。


大昔、中野レコードの広告でこのジャケ写を見た時の
得体の知れないインパクトは今もってMNKな悪夢の反世界を呼び起こす…

(MNK=マヌケ あらゆる藝術に対する最上級の褒め言葉の意)

18.1.11









 2018年、オルグ・レコードとしての新譜を13年ぶりに発表できる予定だ。それはつまり、頭士くんの実に13年ぶり!の新作。感無量である。

 いつだったか千葉のジャガーさんを引き合いに出して揶揄されたこともあるが(そもそもそれは究極のインディー、ジャガーさんに対して無礼千万というものであろう)、安っぽい金銭感覚だけで他者の行状を云々するしたり顔のやからには一生かかっても理解できないのがオルグ、そして「渚にて」なのである。

 さて今度の頭士くんの新作は、もう…なんというか…形容に困る巨大な未知の建造物を目にするような…大変なことになっている。 前作「III」で達した心の成層圏の高みから大気圏外に突き抜けてしまって宇宙を俯瞰するような感がある。

 ただし、前作からの飛躍も相当なスケールなので、その分ハードルは高くなっている。軽い気持ちではついていけない。脱落者は必ず出るだろう。  

 そう、それでいい。

 今までも軽い気持ちの者は必ずといっていいほど脱落していった。それは俺が一番よく知っている。

 心あるひとにだけ頭士くんの新作は響く。

 The 4th Zushi album wiil be coming soon!



心あるひとにだけ頭士くんの新作は響く

17.11.11









 バスーン、オーボエ奏者をレギュラーメンバーとして据えようと考えたロックバンドは世界広しといえどもヘンリー・カウだけだろう。
 「Legend」の透し彫りのように端正なジャズロックと「Unrest」の深い谷底を覗き込むような仄暗いロック・インプロヴィゼーションとの距離は、彼女によってもたらされたものだ。
 王立音楽院でクラシックの教育を受けながらもUKアンダーグラウンド屈指の異端バンド、コーマスに加入するというバスーン女子。この飛距離は只者ではない。
 彼女のエッジの立った的確なバスーンは、ソフト・マシーン / ザッパ直系のジャズロックとデレクベイリー / SMEの英国伝統的インプロヴィゼーションとの間で寄る辺なく揺れ動くヘンリー・カウのオリジナリティ形成に思い切りよく楔を打ち込むような形で寄与した。 それはさしずめ、ジェイミー・ミューアが進路に迷うロバート・フリップのネジを一気に巻き上げた経路と似ている。
 「Unrest」でリンゼイ・クーパーとヘンリー・カウが確立した、旧来の(プログレッシヴ)ロックの感覚に拠り所を求めない汎ヨーロッパ的な音像の輪郭は、全ての後年のチェンバー・ミュージックの雛形ともなった。 今となっては全てが愛おしい。

 これは25年ほど前にオーストラリアでひっそりと発売されたリンゼイ・クーパーの、まさに珠玉の作品。ニューズ・フロム・バベルの硬直した音楽性にはどうにも馴染めなかった自分だが、これは本当に素晴らしいと思う。


Lindsay Cooper
An Angel on the Bridge

いわゆるR.I.O.レコメン系ロックの範疇から貞淑に逸脱した、
フィメール・モダン・クラシカルの完成形

17.10.23









 謎の音塊と不分明の余白、これが神秘のサード・イアー・バンド!

 70年代は天下無双の東芝音工洋楽部ディレクター、石坂敬一による胸のすくタタキが小気味良かった。実際、この名作の魅力をたった1行で浮き彫りにしてみせるセンスは相当なものだと言える。でもって、

 題名;天と地、火と水
 曲目:1. 天  2. 地  3. 火  4. 水

 見よ! この直球勝負。俺ホント好きなんだよね、こういうの。 ミルフォード・グレイヴスのBäbiと並び称されるべき明朗会計である。ちなみに、
     
 題名;Bäbi           
 曲目:1.Bä  2. Bi  3. Bäbi

 ミルフォードは別稿に譲って、この字面だけ見ると小学生の習字大会みたいなコンセプトの単刀直入さを懐の深い感覚的な即興演奏で演出できるところがサード・イアー・バンドの凄味であった。
 高校生の時分、初めて聴いた時の衝撃は今も鮮明に覚えている。ピンク・フロイドとは別の宇宙が存在したのだ。
 この、まさに異端そのもの、のバンドがビートルズと(一応)同じ会社からレコード出してストーンズの前座やったりしてたんだから、70年代の英国ロックもまた懐が深かった。



このジャケ、最高!

時間の経過に耐久度高く古びることが一切ない
ホロフォニクスの先駆け的な屹立した音像はキューブリックの映像美に匹敵する

これ聴くと決まってソフト・マシーンの「収束」「ソフツ」が聴きたくなる
一体なぜなのか? オーボエ?

17.9.1









 真のメロウネスはサウンドメイキングではなく精神の強靭さの下に宿る。
 このことを、まさに圧倒的な音楽そのもので実証したのがこのアルバムだ。この人の不思議な、そして「いえてる」ところは僕のキライな「フォークシンガー」的な矮小さをはるかに超越したスケール感とその構成力である。
 もちろん魅惑的なメロディメーカーとしての才能と、透明感とスモーキーな翳りを湛えた歌唱の魅力は天賦の才能であったにせよ、この業界で音楽そのものよりも重要なポイントがプレゼン的な営業面をも含めた自己プロデュース能力である、ということは暗黙の了解事項だ。
 ところが彼はその点においても万全であった。70年代ロック音楽業界においてツェッペリンとフロイドからのサポートを得る、と言うことはマネージメントサイドからすればこれ以上ないメリットがあったことだろう。
 デイヴ・ギルモアは根っから善意の人のようだからWin-Winだが、ジミー・ペイジは昔から言われる通り転んでもタダでは起きない、抜け目のないタイプのヒトらしい(洋の東西を問わずこんなヒトいるよな)。
 彼はペイジからのリスペクトを最大限に活用しつつ、逆に利用されることのないよう注意深く距離を取っていたに違いない。だからこそ両者は良好な関係を保っていられたのだろうと想像するのだが。  
 まあそんなことはどうでもいい。
 そんなことよりも、彼の音楽の寡黙な雄弁さとでもいうか、時に雄弁を通り越して饒舌になりかねない言葉数の多い歌詞をものともしない透徹したオープンチューニングのコードを軽やかに縫い上げるメロディーラインの曲線美よ。A2「These Last Days」のとろける滋味を聞いてみろよ(DLでなくオリジナルUK盤のLPでな)。

 これこそ、深い心の奥底から信じることのできる、真のメロウネス。



何気にロニー・レーンの参加が嬉しい「イギリスでの或る日」
ポールまで入ってるらしいが、しかし皆んな一体どこに入ってんだ?
Hats off!

17.7.7









 サードなんだよな!

 知ってるかい? 俺の「サード・アルバム伝説」。
 俺の好きなバンドって、必ずと言っていいほどサード・アルバムがポイント高いんだよ。
 フロイドだったら「ウマグマ」(モアはサントラだから除外)、ロキシーだったら「ストランド」(初めて買ったロキシーのLPだった)、クリムゾンだったら「リザード」ね、イエスだったら「イエス・アルバム」で、ソフト・マシーンだったら「サード」、カンなら「エゲ・バミヤージ」(サウンドトラックスはサントラだから除外)、VUだったら一番回数聞くのは「The Velvet Underground」クローゼット・ミックスと相場は決まっとるやろが!
 13th・フロア・エレベーターズだったら「Bull of the Woods」の、なんか違う…感じだし、ザ・バンドは「Stage Fright」の鈍色の閉塞感やろ?
 とかさ、どれもこれも三枚目の過渡期的な面が大スキなんだ。
 ツェッペリンはコレだった。やっぱりサード・アルバム。B面がスキだった。「タンジェリン」から「ザッツ・ザ・ウェイ」の流れは今もってグッとくるものがある。マンドリンとオープン・チューニング、あぁ、幽玄のペダル・スチールの響きよ…。
 まだフェアポートなんか名前すら知らずビートルズとS&Gとフロイド、イエス、EL&Pくらいしか知らないガキにロイ・ハーパーって一体何者?という好奇心を抱かせたのがこのアルバムだった。
 俺にとってツェッペリンの意義はサンディ・デニーとロイ・ハーパーへの道しるべだったことだ。そののち聞いたフェアポートもサードが一番好きな「Unhalfbricking」だったよ。

 俺の「サード・アルバム伝説」。



このバンド名のフォント、たまらんものがあるな

一番思い出深いのは、駅前にあった「ハシガミレコード」で
予約して買ったフィジカル・グラフィティだけど、
あのポスター、一体どうしちゃったんだろ?

17.6.18









其風画白こと其田由蔵さんのこと

 1985年から86年にかけて一年ほど、西成のドヤ街に住んでいた。
 ジャンジャン横丁入口の国鉄ガード下は、怪しげなエロカセットや片方だけの靴、臭い古着の作業服などを乱雑に並べてカップ酒をあおる無許可の露天商や1曲10円でリクエストに応えるガットギターのおっさん、ただ泥酔して失禁し路面に横たわっているだけの浮浪者など、実に良い眺めだった。
 昭和60年(1985年)の西成ではそれがごく自然な日常風景だった。ジャンジャン横丁で見つけた比類なき名店「縄のれん 田中屋」に通いつめていたある日のことだった。
 いつものガード下で独り、見慣れない風体のおっさんが「似顔絵書きます1枚300円カラー500円」と段ボールに書いて自分の周りに作品を並べている。
 それらはなんというか…一見して既成の価値観から豪快に逸脱した、異様ながらも激烈にシブい画風の作品ばかりだった。
 画用紙に色鉛筆で描かれた作品群はどれも必要以上に強い筆圧で描かれていたため紙がぶよぶよになり今にも破れそうである。
 中でも目を惹いた1枚がエルンストの森とロプロプを背景に(そう思えた)跳躍する不可思議なフォルムの虎の絵だった。
 のちにハレルヤズのLPの表紙となる、心底エニグマティックで蠱惑的な作品との出会いであった。

 

 動物を描くのが好きで、手持ちの動物図鑑で気に入った写真を模写している、という。
 この絵も図鑑を見て描いた、と開いて見せたボロボロの動物図鑑の中では全く違う顔つきの虎がこちらを睨んでいた。
 これは途方もないものと出会ってしまった!と直感した僕は温和な顔つきをしたおっさんに、似顔絵を描いてもらうことにした。
 問わず語りに聞いた話では、彼は北海道出身で若い頃は炭鉱夫として働いていたが、石炭が灯油に取って代わられる時代の流れで炭鉱が閉鎖されて失職し大阪万博EXPO'70に肉体労働の仕事を求めて大阪へ出てきたのだ、という。
 万博が終われば北海道へ戻るつもりだったが、ずるずると西成界隈に住み着いてしまい現在は生活保護と好きな絵を描いて小遣い稼ぎでその日暮らし、ということらしい。
 奥さんと子供を北海道に置いてきたのが心残りだが「こんな暮らしぶりでは合わす顔もないし戻りとうても戻れんでな…」というようなことを他人事のように淡々と語っていたが、果たしてどこまで事実なのかは微妙な感じであった。
 身の上話を聞いているうちに完成した似顔絵はこれだった。

 

 僕は自分の直感に確信を抱いた。この時着ていたアロハは格子柄ではなかった。これは自分のどす黒い内面を透視したサイキックなポートレイトなのではないのか?
 署名は「其田由蔵」。これはどう読むんですか?「そのだ・よしぞう」と彼はいった。あくまでも匿名性を強調するペンネームであった。それがしの事情?とでもいう意味合いのIDは「町田町蔵」を軽く凌ぐネーミングセンスである。自主改名のパラレル『よだかの星』である。
 彼は「其田由蔵」の角印も作っていた。完璧であった。

 

 ハレルヤズの編集作業が終盤に近づいた頃だった。ジャケットデザインはおろかアルバムタイトルについてもアイディアが浮かばず、「縄のれん 田中屋」で二級酒「酒豪」常温をあおっては思案にくれていた矢先の出来事だった。チャンス・ミーティングである。この突き抜けた作品をジャケットに使うことができれば、きっと最高の出来になる!
 「おっちゃんの絵が一目見てすごく気に入ったのでぜひとも譲って欲しい、自分は音楽をやっていて近々自主制作でレコードを作る予定なのだが、その表紙にこの絵を使わせてもらえないだろうか?」とオファーしてみた。
 「レコードは200〜300枚の少数プレスで完売しても利益は全く見込めないので追加のお金は払えないが、もしそれでも良ければぜひに」と。彼はレコードの話には無反応で全く関心を示さなかった。
 「何枚買うてくれるんや…まだ書きかけのもあるけどな。ほ、ほな1枚300円で」  
 安すぎる。
 僕はその場に並べてあった虎の絵と残りの作品数点を1枚500円で購入したのだった。

 

 なぜだかその後、彼をガード下で見かける度合いは次第に減っていった。
 翌年になってハレルヤズのLPが完成した。もちろん例の虎の絵が表紙である。タイトルは虎の絵を眺めているうちにフト思いついた文句『肉を喰らひて誓ひをたてよ』と題した。出来上がったレコードを彼に謹呈し礼を言わなければ。そう思い続けていた。
 ところが暫くのブランクの後、久しぶりに見かけた「其田由蔵」の画風は変貌していた。なんと絵具が鉛筆からポスターカラー?にシフトしているではないか!
 鉛筆画の手間を嫌ったのだろう、蛍光色のポスカラでベタ塗りを多用してペイントされた彼のニューウェイヴな新作群は依然として異様なオーラを放ってはいたものの、虎の絵が湛えていた品格と侘び寂び感を失っており、僕に声をかけることをためらわせた。
 「縄のれん 田中屋」への道すがら彼の姿を見かける機会は幾度となくあったが、バブルっぽく派手な画風へと変化してしまった彼の新境地と虎の絵に一目惚れしたあの時の自分の気分との距離はなんだか到底埋めることができないような気がした。
 かつて自分がいたところへ引き返せない後ろめたさも手伝って僕は二度と彼の前で足を止めることができなかった。
 そうこうしているうちに「其田由蔵」の姿は僕の視界から消え去っていった。

 

 その後「其田由蔵」が「其風画白」と改名していたことは、つい最近、失笑を買う「アウトサイダー・アート」として見覚えのある画風の作品がネット上で面白おかしく紹介されているのを見かけて初めて知った。
 虎の絵との出会いから何年も後になって、東京から来たサブカル系漫画家が彼を「発見」していたく感動し、あろうことか強引に東京へ連れ帰って銀座の画廊で個展を開かせようと目論むが、しかし彼は個展開催の前日ホテルの部屋から忽然と姿を消し行方不明に、という情報は当時漫画家自身が何かの雑誌に顛末記を書いたらしく、自分は未見だったが人づてに聞いたことはあった。
 いつ頃改名したのか定かではないが、東京の漫画家には「其風画白」と名乗ったのであろう。
 90年代にその話を聞いた時「サブカル最先端の露悪的な漫画を描いていても発想は文学賞の権威を崇める出版社と大差ないんだな」と思った。彼のような人を西成から「お持ち帰り」しようと考える時点で失格だ。
 銀座? 画廊? 個展? そんなものが彼にとって一体どんな意味がある? 漫画家は「其風画白」を自分の手柄にしたかっただけだ。
 チャー坊の御言葉を借りれば「あんた…いえてへんわ」である。
 「其田由蔵」はそのことを本能的に察知して飼い殺されることを拒否し、動物として当たり前の忌避行動をとっただけだ。
 そう、それでいいんだ。それでよかったんだよ、其田さん!

 

17.4.24









 ちょうど、この夏のようにうだる暑さだった。
 一九八四年の夏、僕は二四歳で、まだ学生の気分の中にいた。
 親を安心させるためだけに就いたサラリーマンの職は、三ヶ月しか続かなかった。
 あてもなく友人のバンドを手伝ったりレコードばかり聞いてみたり、だらしない自分の日常と頭の中で鳴る理想の音楽との接点が、次第に遠ざかっていくのを傍観しているような、甘い危機感が日々をただつまらなく支えていた。
 ブラブラと過ごしているくせに、何もしないでいることにも耐えられなかった。
 彼女の部屋に居候しながら時折のアルバイトでこづかいを稼ぎ、気ままにバンドをやっていた同い年の友人がやけに羨ましく映ったからといって、自分にもそんなことができるとは到底思えなかった。
 やがて思い当たったのは、自分のレコードを作ることだった。二十歳のころ、遊び半分で多重録音したテープを、シングル盤にしてみたことがあったのだ。
 幸い、僕の周囲には本当に才能のある人達がいた。みんな、ミュージシャンとして生活しているわけではなかったけれど、それぞれが独特で魅力あふれる音楽を持っていた。彼等の個性を生かしつつ、自分なりのやりかたで一枚のレコードにまとめることで、主役になれるのではないだろうか。ロキシー・ミュージックのギタリスト、フィル・マンザネラが『ダイアモンド・ヘッド』という初のソロ作品で打ち出していたコンセプトのように。
 そう考えて、一九八五年の夏、数回のレコーディング・セッションを仕切った。高価なスタジオ代やレコードのプレス費用を捻出するためにはブラブラしているわけにもいかず、家業を手伝い始めた。
 翌年、それがハレルヤズの『肉を喰らひて誓ひをたてよ』というLPになった。わずか三〇〇枚のプレスだった。
 当時は関西でも派手なパンク系の音楽が人気を集めていたこともあってか、これを聞いた知人達の反応は、あまり芳しくはなかったように記憶しているけれど、「もう少し売ることを考えて作ったら?」などと言われても、自分ではもうどうしようもなかった。
 それでも、主要な音楽雑誌にはサンプルを送り、完成したレコードとチラシを持って、自主制作盤を扱ってくれそうな大阪や京都のレコード店を巡り歩いた。思いつめた顔つきでいきなりやって来て委託販売を乞う若造は、大抵の場合、あまり歓迎されないのだったが。
 それでも、東京のレコード店にも持ち込んだ。雑誌の広告を見て数軒あたりをつけておいて上京し、一日で一気に回るのだ。しかし東京で歓迎されるはずもなく、いい加減疲れていた。次でおしまいにしようと思い、最後の店に入って何度も繰り返した口上の後、レコードをゴソゴソ出そうとすると、店長らしき人が言った。
 「うちはね、自主盤を扱うかどうかはね、まず僕が聞いて決めるんですよ。僕がいいと思ったら扱うし、そうじゃなかったら扱いません。これはうちのやりかただから。とにかく内容を聞かせてください。聞いてから返事します」
 こんなことを言われたのは初めてだ! 僕は面食らって、
 「い、今、聞くんですか?」
 と言うのがやっとだ。
 「もちろん今聞きます」
 ハレルヤズが狭い店内に響きわたる。いたたまれない。
 これはこれで納得できるやりかただと思えたので、僕は彼の判断が下るまで、おとなしく待つしかなかった。
 しかし一曲二曲とレコードが進行しても、彼はレジなどを打ちながら、いっこうに口を開く気配がない。
 とうとうA面が終わると、返事を聞こうとする僕をさえぎって、
 「B面も聞きます」
 四〇分少々が、あれほど長く感じたことはない。
 やがて、彼は針を上げると、こう言った。
 「今、何枚持ってきてます? 全部あずかりますよ!」
 モダーン・ミュージックという店だった。店長の生悦住さんには今も懇意にしていただいている。

                    「図書新聞」2001年8月4日号掲載


 


生悦住さん

最後にお会いしたのは何年前だっただろうか
心からお悔やみ申し上げます

31年前、自分の音楽を初めて公に認めてくれたのが生悦住さんだった

持ち込みの後、しばらくしてモダーン・ミュージックの雑誌広告に
「今月の推薦盤」としてハレルヤズが掲載されているのを見た時の
何ともいえない嬉しさは、今も鮮明に覚えている
その10年後には、PSFからCD再発もしていただいた

「もしこのアルバムが埋もれてしまったら、日本の音楽に明るい未来は無い」
やっぱり、日本の音楽に明るい未来は無かったけれど

生悦住さん、今日からは地下音楽でなく天上の音楽を存分に浴びてください

いずれまた、お会いしましょう!

17.2.28









 先日たまさか「文明の利器」youtubeで、イエス『究極』のレコーディング風景を見た。
 『究極』といえば1977年、TVニュースでは「今、ロンドンでは若者達の間でパンク・ロックが大流行〜」と唾を吐くジョニー・ロットンの映像が流れ、ロック・マガジンでは阿木譲が「今月キミたちが少ない小遣いで買うべきレコードはパティ・スミス、801、モダーン・ラヴァーズだ。この3枚さえあれば他はいらない」などと無責任に煽り立てていた。俺の小遣いで一度に3枚もLPが買えるかよ! 
 当時の自分の不安定な気分は毎日訳のわからない焦燥感でいっぱいだった。そんな時、自分を慰めるかのようにFM大阪夕方6時の名番組「ビート・オン・プラザ」で全曲オン・エアされたのが『究極』なのだった。
 先日見た、そのレコーディングの映像はイエスの華麗なイメージを覆すタフな生々しさで、なかなかに興味深いものだった。
 中でも"Parallels"のベーシック録りの練習風景、ドラム、ベース、ギターが至近距離で互いにテンポを確認しながらユニゾンがうまく揃わないキメの部分を何度も繰り返し演奏する様子には、ドラムの生鳴りの荒い音質も相まって、惰性妥協を排除して最上の結果を追求する彼等の真摯さに改めて感じ入るものがあった。
 …単に演奏力という面では(無論)イエスよりも多分に感覚直感重視のピンク・フロイド側に位置する「渚にて」の音楽であるが、ことレコーディングにおける音作りの追求に関しては(スタジオ機材のグレードを別にすれば)イエスのアティチュードに決してひけを取ってはいない、という自負が少しはある。
 そういう意味で、CDジャーナル2月号に掲載された『星も知らない』のディスクレビューでミックス・バランスについて言及してくれていたことは、嬉しい出来事であった。
 確かにミックスには昔からこだわりがあっていつも普通のバンドの倍以上の時間(=スタジオ代)がかかってしまうのだが、凝ったことは実際に各曲でやっているものの、「異様」というほどではないと思っている。
 自分の理想とする音像感覚の指針となった全盛期のピンク・フロイド、ロキシー・ミュージックの名作群の完成度からすれば「基準」レベルではないだろうか(セックス・ピストルズだってアルバムはセ〜ノの一発録りなんかではなく24トラック・レコーダーをフルに使いクリス・トーマスお得意のコンプレッサー・サウンドのレイヤーが効いたブリティッシュ・ハード王道の重厚なサウンドだった)。
 今回は『遠泳』のミックスで目指した全体的な空気感の緻密さよりも、素のアンサンブルの音色の荒々しさを残しながら音像の遠近感に緻密さを増強する、という方向性だ。
 わかりやすく言い換えれば、前回ここに書いた「音が実際に遠ざかっていく」フェードアウトを作るのに時間をかける、というような領域の作業が多くなるミックスだ。ダビングで重ねた音数で言えば『遠泳』よりも『星も知らない』の方が少なくなっているのだが、そういう風にはあまり聞こえないかもしれない。
 レコーディング / ミックスとは徒労の結晶だ。だからこそ、そこにはマジックが宿る。今回の新作でもほんの一瞬、その眩さは垣間見えたように思える。



CDジャーナル2月号掲載記事より

17.2.9









 『遠泳』から2年。

 9枚目の新作『星も知らない』がまもなく発売となる。意外と早かったでしょ?

 レコーディングは2015年11月22日O-nestでのライブの1週間後から開始したのだった。デビュー20年周年に当たる2016年度中に出す予定だったが、渚にて恒例の長期にわたるミックスがそれを阻止した格好だ。

 前作同様にベーシックは全曲オープンリール(Ampex456)を回してのアナログ録音。重ねは(仕方なく)プロツールスで行い、音入れが完了したら重ねた音を全てテープに録音する。それからプロツールスに再度取り込み、ミックス作業に移る。ミックスが完了したら、完成したデータファイルをスチューダーA820(1/2inch)に録音した後にマスタリングする…。なんともはや面倒な手順を踏んでいるわけだが、これで現在の渚にてサウンドが維持できているのだから仕方あるまい。

 今回音作りに少々苦労したのはフェードアウトの遠近感をいかに表現するか、という点だった。かねてからデジタルの「同じ場所でそのまま小さくなる」だけのフェードアウトの味気なさが嫌だったので、アナログ時代の「音が実際に遠ざかっていく」フェードアウトを再現するために幾重にもエフェクトのレイヤーをかけて試行錯誤した結果、なんとか納得のいく遠近感を作ることができた。こういったちょっとした点にも少し注意して聞いていただければ、より楽しめると思う。

 あとはもっとお楽しみ。やまちゃんのベースは例の当意即妙なオブリを野太く繰り出してクラウス・フォアマンしているし、竹田のリチャード・マニュエルばりの「漬物石」スネアの音色はさらに一回りデカくなったようだ。阿倍野で世界一クセの強いキーボード吉田くんは南十字星ばりの煌めく音色を盛大に散りばめてくれた。いつもイイとこ取りの真打ギタリスト頭士奈生樹はまたもや霊的に発光するフレーズを披露して僕を大いに悔しがらせたのだった。

 さてみなさん、あともう少しでお聞かせできますので、どうぞご期待くださいませ。



Even the stars Never Know
星も知らない

1月18日発売です!
(1月14日のO-nestワンマンで先行販売します)

17.1.9









 ジョン・ケールといえばやはり『Fear』に止めを刺すが、ロックマガジン2号に影響されて梅田のLPコーナーで買った『トロイのヘレン』もなかなかの佳作。
 知名度の割にセールスの上がらないケールに懐の深いアイランドも業を煮やし、もっと売れるレコードを作れという業務命令が下ったのであろう、『Fear』の第一特徴だった躁鬱的音像と荒ぶるイーノ色は一気に薄れ、荒削りな音色の奇矯なプレイが秀逸だったフィル・マンザネラは高度に器用なクリス・スペディングにコンバートされた。そしてテコ入れに英国屈指の名アレンジャー、ロバート・カービーを起用してのAOR路線なのであった。
 おかげさまでB1「Close Watch」はボズ・スキャッグス「We’re All Alone」の先駆け的にゴージャスな名曲と相成った。弟分ジョナサン・リッチマンのカバーなど従来の痙攣路線の名残が部分的にあるものの、あくまで破綻を避けるAORテイストは全体的にマイルドな音質でキープされている。
 ロバート・カービーはといえばニック・ドレイクの諸作を艶やかに彩ったストリングスの叙景が思い出されるが、忘れがたい「Northern Sky」の煌めくチェレスタ、「Fly」の妙なるビオラとハープシコードは他でもないケールであったことも70年代裏ブリティッシュ・ロック史のもっとも美しい記憶のひとつ。
 かつてニック・メイソンがカンタベリー系とのリンクを欠かさなかったのと同様、ケールもまた英国県人会的にドレイクやリチャード・トンプソンなどフェアポート系人脈とのセッションワークを怠らなかった(その流れで、本作のリズム隊は鈍色の名盤『Pour Down Like Silver』を支えたティミ・ドナルドとパット・ドナルドソン、どこまでもぎこちないグルーヴが最高だ)。
 同僚ニコの伴奏全般や後輩ストゥージズ、モダーン・ラヴァーズ、パティ・スミスの世話役など、他人の面倒を見るマメさ加減はイーノに相通じるものがあった。
 そもそも駆け出し時期のルー・リードの面倒を見た、ということがウェールズ人気質からくるものなのかどうかよくわからないが、ある意味マッカートニー的な立ち位置も持ち合わせた不思議なキャラである。
 そういえば『Paris 1919』のA1「Child's Christmas in Wales」も名曲だったな。


AOR路線に抵触すると知りながら
とにかくいつも何か余計なことをやりたい人だ
採用されたのは拘束服とわかりにくいマイルドなテイクだが

 …これでは別の意味でのアダルト・オリエンテッド



17.1.6









星も知らない

Even the Stars Never Know


1月18日発売です


May God bless you all
Have a nice new year!

16.12.30









 高校の頃、わりとリアルタイムで聞いたのがコレだった。その頃はといえば、「狂気」の次の謎のベールに包まれた新作を心待ちにするピンク・フロイド漬けの小僧だったわけだが、叔父が「コカコーラの懸賞でこんなん当たったんやけど、興味無いし欲しかったらあげるわ」とお年玉替わりにポンとくれたのだった。
 小僧の自分がザ・バンドの「いぶし銀」に反応するはずもなく「ふ〜ん、これがボブ・ディランか…バンド?…ザ? なんか雑な演奏やな。もっと練習してから録音した方がええんちゃうか?」などと高を括って気軽にスルーしたのだった。
 数年後には「南十字星」と取っかえ引っかえ聴き狂うハメになるとはつゆ知らず。
 今改めて聴くと歌詞の作法にはレナード・コーエンからの影響が結構あるように思う。「いつまでも若く」の詠唱なんかモロだ。
 そういえば、ディランとポール・サイモンは共にキャリアの初期に付き合ったマーティン・カーシーに友好の証として教わった英国民謡からの露骨な剽窃が取り沙汰されたものだが、後年ロイ・ハーパーが大英帝国の誇りをかけて「北国の少女」の元歌「North Country」をわざとディランのヴァージョンを下敷きにしてカバーし、しかるのちに正しくTrad.arr.と表記してみせたのはケッサクだった。ザッパのBeat the Boots!みたいなもんだね。
 話は尽きぬが、このレコードはディランであってディランではない。
 ザ・バンドの7枚目なのだ。期間限定でザ・バンドのゲストメンバーとなったディランが「せ〜の」でどれだけ歌えるかを巧みに切り取ったドキュメンタリーとしてのザ・バンドの7枚目なのである。A面の流れ、ロビー・ロバートソン入魂の痙攣ギター、精神的な絆を目に見えないスコアとして自在に伸び縮みするアンサンブルの妙技…には今なお心震えるものがある。
 もっと練習が必要なのは自分の方だった。
 この3日間のレコーディングをクリアしたことによってディランは「血の轍」を、ザ・バンドは「南十字星」を成就できたのだった。そして、どちらの作品もその時点での自己のキャリアを総括するべくウェル・プロデュースされた傑作となったことも忘れがたい。



文学賞なんかで尻尾振って喜んでるようじゃ失格やろ
手塚治虫マンガ大賞を「自分はマイナー漫画家なので」と拒否した
花輪和一先生の心意気こそがロックなんやで

16.12.6









 自分の場合、心情的には昔からルー・リードよりもパールズ・ビフォア・スワインだった。そしてボブ・ディランよりもレナード・コーエンなのだった。
 このLPには、本当にのめり込んだ時期がある。
 たまさか失恋の痛手の最中にあった自分の気鬱を癒してくれたのが、この「ある女たらしの死」(単刀直入な邦題がイカす!)だった。
 美しく韻を踏んだTrue love leaves no tracesに痺れ、トラジックにみだらなPaper-thin hotelのモノローグに自分の滑稽な後ろ姿を見た。「哀しみのダンス」(赤面80’sテイストな邦題が逆にイカす!)Various Positionsとこれに心底まいってしまい、来る日も来る日もこの2枚をとっかえひっかえ聞き続けたのだった。
 とりわけ「ある女たらしの死」の微妙にハイ落ちしたイコライジング、モノラル的で深い酩酊感に溢れるバックトラックのサウンドと、トゥーマッチなエフェクト処理を施された(これは当人が嫌悪しそうだな)なげやり気味な歌唱との針の穴を通すようなマッチングのスリルは、リチャード・ヘル&ヴォイドイズの1stにおけるヘルとクワインのやすきよ的丁々発止のチームプレイに匹敵すると思った。
 何度も聴くうちに、最初はぶっきらぼうに感じたボーカルが実は細部を丁寧に歌い込んでいることが徐々にわかっていった。
 どうみても尋常ではない音像を湛えた本作の制作過程には曰くがあって、インテリ受けする割にはいつまでも売り上げが伸びないコーエンに業を煮やしたレコード会社が、偶然来ていたフィル・スペクターのプロデュース売り込みオファーをこれ幸いとこのアルバムにあてがった、という顛末があったらしい。
 レノンやハリスンのソロ作を成功させたスペクターの知名度は、当時まだ有効だったのだ。しかし例によって例の如く、本能的に強権発動するスペクターは、全曲まだ仮歌の段階なのにGOサインを出し本人未承諾のままミックスしてリリースしてしまった(コーエンが自分で録ったデモテープに無断でオケを重ねたという説もあるようだ。1stアルバムでもプロデューサーのジョン・サイモンの装飾的なアレンジに対して「これは禁じられた結婚だった」など恨みつらみのコメントをライナーに載せていたが、つくづく因果な人である)。
 おさまらないのはコーエン。しかし欧米ではプロデューサーの権限は軍隊並みに絶大で、スペクターがGOと言ったらGO、ペケと言えばペケなのだった。不幸中の幸いは、彼が仮歌でも決して手を抜いていなかったことで、結果、気難しさとリラックスが同居したダルな歌唱と畸形的なサウンド・プロダクションとが「禁じられた逢い引き」よろしく結ばれて絶妙のグラデーションを描いた。
 それは、デヴィッド・リンチ「ブルー・ベルベット」の10年先を行った、禍々しい情事の最中に時間が凍りついていくような、あやかしのメタフィクション・ロックなのだった。


True love leaves no traces
If you and I are one
It's lost in our embraces
Like stars against the sun

Repose en paix

16.11.20









 晩秋によく似合う、この黄昏アルバムには聴き方がある。
 「シド・バレットのセカンド・アルバム」と思って聴くもんだからつい「ファーストと比べると云々」などとつまらないことばかり考えてしまっていけない。
 これは仮想ピンク・フロイドのイマジナリー・セカンド・アルバムとして聴くべきなのだ。G, Vo : シド・バレット、B : デイヴ・ギルモア、Key : リック・ライト、Ds : ジェリー・シャーリーというメンバーで出直した「第2期ピンク・フロイドのファースト」として。
 そう思って聴くとまるで違った輝きを放ちはじめるから先入観とは怖いものだ。
 林立夫を彷彿させるジェリー・シャーリーのステディなドラミング、リック・ライトのどこまでもジェントルなピアノとハモンドが面倒見の良い弟達のようにシド兄さんの不穏で穏やかなヴォーカルをお世話する。いい構図ではないか。
 「ジゴロおばさん」の妙に溌剌とした歌いっぷり(しかもサビはダブル・トラック)とやる気なさげな脱力ギターソロとの落差の付け方は絶妙としかいいようがなく、ギルモア&ライトのコントロール以前に彼自身が自分の音楽に対する客観的な視点をキープしていたことがわかる。
 そして「ラブ・ソング」(いいかい、シド・バレットの「愛の歌」だぜ)「ワインド・アンド・ダインド」の透徹した夢幻の響きはどうだ。
 後年、ジェリー・シャーリーは「シドは自分の見せ方を意識していたような面もあった。本当は周囲が思っていたほどには狂っていなかったと思う」というような発言をしているが、さもありなん。
 譜割りのクリシェを大胆に回避して合奏を拒否し続ける曲展開、全編に渡るキレイに脚韻を踏んだ歌詞、軽妙洒脱なシド流Nursery Rhyme「興奮した象」…これほど高度な音楽表現は狂人には不可能だろう。
 まさにシド・バレットのロック!



この世で一番キレイな歌

Wined and dined
Oh it seemed just like a dream
Girl was so kind
Kind of love I'd never seen

Only last summer, it's not so long ago
Just last summer, now musk winds blow...

16.10.22









 最後のオリジナルメンバー、マイク・ラトリッジまで辞めてしまい「そして誰もいなくなった」というジェネシスも吹っ飛ばす冗談のような9枚目なんだが、これがまた味わい深く、大変に具合がよろしいのである。
 「収束」と並んでコレもすごく好きなんだよね。この、あてどない空漠感。ここまでくると音楽からエゴが薄れてきた感があり、カール・ジェンキンスのオーボエは時として「不分明の余白」サード・イアー・バンドの壮大なる無常観を想起させる。
(と書いたものの、このアルバムでジェンキンスはオーボエを使用していないことが後日判明。アラン・ウェイクマンのソプラノサックスでした)
 ジャケットデザインの軽さがまた小気味好い…まあ、どうでもよかったんではなかろうか。気持ちはわかる。
 1976年ということで直前に出たジェフ・ベックのWiredをちょこっと意識したようなふしもあるジョン・エサリッジのギターは早弾きが上滑り気味で、さすがにベックと比べられるとフレーズとトーンの食い込みがいかにも浅く小粒感は否めないにせよ、そこがまた良いのだからどうしようもない。
 贔屓の引き倒しかも知れぬ、だが何度でも言わせてもらおう。
「収束」と「ソフツ」をフュージョンと形容することは断じて許さない。 ブリティッシュ・ジャズ・ロックと言いなさい。



タイトルがこれまた潔くて好き!

16.10.12









 “American-flavoured country-rock…to acid-drenched psych.” とDiscogsには書いてあったが言い得て妙、そんな感じではある。我が青春のアイドル、ジェントル・ジャイアントと同様ルーツが一向に不明な英国ロックの白眉。
 これぞ1972年型正統派ブリティッシュ・ロック。 いや確かに1stにはニール・ヤング&クレイジー・ホースを忠実に再現しようとして至らなかったけどそれがどうした文句があるかテイストの曲もあったけれども、それとてなんだか所謂UKスワンプ一派とは全然別の方角を見ているような虚脱感が前に来ていた。
 この3rd、Lots of Mellotronのロングトラックがハイセンスにヘンテコで味わい深く、朝夕ひんやりとした空気が流れてくれるようになった今時分にひっそり聴くと大層しみる。 ジェネシスやクリムゾンとは真逆でコンセプトが希薄というか全体的には何をやりたいのかよくわからないバンドなのに、どの曲においても確固たる意識を以って演奏が統制されているのがまことに不思議な持ち味。
 初期のトラフィックもそんなところがあった。「ご自由にどうぞ」ネーミングもまた投げやり気味で素敵だ。パブでこんな音楽やるかよ!


さしずめ裏インクレディブル・ストリング・バンドってやつだな

16.9.9









 この秋、スラップ・ハッピーwithファウストといういかにも切り札的な企画でドイツのフェスに出演するそうだが、こいつは「危機・こわれもの完全再現ライヴ」なんかよりはよっぽど楽しめそうだ。1パイントのスタウトなんか飲みながらね。
 現在の彼等に往年のクリエイティヴィティやアトモスフィアはもはや望むべくもないが、もしザッピーの生ドラムで「Just a Conversation」が聞けたら結構盛り上がってしまうかもしれない。なにせ「Sort Of」(と「Out」)は我が生涯の神棚盤であるからして。
 その昔スラップ・ハッピー来日の折、「渚にて」に前座で出演依頼のオファーが来たことがあった。が、持ち時間セッティング込み30分と聞いて即座に断ったのであった。
 結局前座をやった羅針盤はプログレおやじが過半数を占める観客の冷淡な態度を受けて瞬時に出演を後悔した(笑)という。
 しかしこのマッチング、ありそうでなかった顔合わせ。再来日させて会場代の安いライブハウスでジャパン・ツァーを組めば還暦の小金持ちプログレ爺が大挙押し寄せて結構儲かるのではないかと目論むイベンターが現れてもおかしくはない。
 もちろん、ケヴィン・エアーズ最後の来日ツァーのように礼を欠いたドサ廻り企画になってしまう可能性が極めて大きい…最大の敬意をもって迎えるべき偉大なミュージシャンが待遇の粗末さに機嫌を損なうような悲しい現場には立ち合いたくないので、ここはひとつドイツまで出向くしか手はなさそうである。 
http://www.weekendfest.de/?l=2


若かりしアンソニー・ムーア、カッコイイよな

16.8.23









 酷暑の7月に夏向けのジャケを。ホークスつながりでニック・ターナーズ・スフィンクスを右大臣とすればこちらは左大臣にあたるロバート・カルヴァート1975年の傑作セカンド。いちばん冴えてた時期のイーノがプロデュース、  VCS3、音響トリートメント担当、エンジニアはコニー・プランクを凌ぐ名匠レット・デイビス Rhett Daviesとくれば、もう内容は保証されたようなもの。
 1976年、東心斎橋にあったメロディーハウスで見つけた時は第一発見者よろしく舞い上がって即買いした。まだロック・マガジンでさえ紹介されてなかったからね。
 1曲目「Ship of Fools」から狂的なVCS3の波状攻撃でいきなりノックアウト。同時期のイーノが関わった忘れがたい名作にフィル・マンザネラ「Diamond Head」クワイエット・サン「Mainstream』ニコ「The End」ジョン・ケール「Fear」があるが、いずれもVCS3を石器時代の飛び道具さながら猛々しく、かつジャコメッテイのように思慮深く使いこなした野蛮なサウンドスケープを聞くことができる。
 当時イーノはこういった音作りのセンスが最高に突き抜けていた。VCS3はギターのような長年の練習や正確な運指が必要なくセンスとインスピレーションだけで操作することのできる画期的な楽器だったのだ。
 だが現代のDTMソフトとは似て非なるもので、使いこなしにはギターでいえば調律の音階自体から設定しなければならないような独創性が必要とされる厄介な代物でもあった。
 近年イーノは「重要なのはテクノロジーの形式ではなく人間、今さらアナログにロマンを抱くべきではない」などといった発言をしているが、80年代以降のイーノが見失ったのは、このアルバムの随所に散りばめられたようなアナログ時代の技術的制約の多さを逆手に取ったコロンブスの卵的なアイディアの玉手箱だった。
 コンピュータ時代となって制約が大幅に減少したことが逆に音楽表現自体へのモチベーションを世界的に低下させてしまった。
 カルヴァートの控えめなボーカルが愛らしいこのアルバムには、まさにバイキングの帆船に乗り込んで未知の音楽大陸へ踏み出さんとするスリルと喜びがあふれていた。今となっては全てノスタルジアだが、二度と取り戻せない過去にこそ真のロマンが宿る。



さしずめ裏タイガー・マウンテンってやつだな

16.7.19









 ニック・ターナーズ・スフィンクス。
 非常に名作ではあったが、世はパンクかディスコかフュージョンか三者択一の1978年といういかにも不利な時期に発売されてしまった不幸なアルバム。オンリー・ワンズもそうだったが73年あたりのリリースだったら今頃は世間の扱いもさぞ違っていただろうに。
 エジプトはギザの大ピラミッドで現地ガイドにチップを大枚はずんで録音させてもらったのであろう古代の天然石リバーヴがたっぷり乗ったマリワナチックなフルートがとても心地良い。
 ニック・ターナーのジャズ色皆無で頼りなさげなサックスとフルートは、トラフィックにおけるクリス・ウッドのポジションとよく似ている。
 バンドを統率するようなキャラではないにもかかわらず、そこにいるだけで知らず知らずのうちにバンドのカラーを決定づけてしまっているという、重要な立ち位置なのだ。アンディ・マッケイまた然り。吉田正幸もまた然り。寅さんにおける佐藤蛾次郎的存在だ。
 こういうタイプの人はめっきりいなくなった。
 さて、このアルバムを一本芯の通ったものにした立役者はスティーヴ・ヒレッジというよりもモーリス・パートのパーカッション。ブランドX「モロッカン・ロール」をエキゾ・ジャズ・ロックの唯一名作たらしめたのは彼の功績であることは明らかで、ジェイミー・ミューアとは真逆の演奏をする人だ。
 ここでも決して前面に出ることなく残響を生かしてアンサンブルの空間を巧みにデザインするパーカッション・ワークが見事。



ニック・ターナーをサポートするスティーヴ・ヒレッジ、という友情物語は
沢田研二と萩原健一両方の面倒を見た井上堯之を思い起こす

16.7.2









 1985年から86年にかけて一年ほど、西成の街に住んでいたのだ。ちょうどハレルヤズの録音をしていた頃だ。毎晩のようにあちこち飲み歩くうち、いつしか通うようになったのが「縄のれん 田中屋」だった。
 居酒屋ではなく蛍光灯の割烹といった風情の田中屋は、調理場を囲むコの字のカウンター席だけの15席ほどだったろうか、夫婦二人で要領良く店を切り盛りする様子がその界隈に似つかわしくなく、季節の旬にこだわった肴の味わいとも相まって何度も通いたくさせる魅力があった。
 その頃の新世界はといえばまだまだ泥臭いスラム街の匂いが漂っていて、ジャンジャン横丁を歩くのは不幸な過去を背負ったような日雇い労働者ばかりだった。ごくまれに迷い込んできたOL風の女の子が逃げるような早足で歩いていると、すれ違う汚れた顔のおっさん達は皆振り返ってその後ろ姿をしばらく眺めていたものだ。
 毎週となく田中屋に通ううちに、角刈りで強面の二代目マスターや人生のビター&スイートを嚙み分けたような常連客の面々とも少しずつ打ち解けていった。
 味つけにあらぬ因縁をつけて無銭飲食を企むタチの悪い客筋をスマートに排除するマスターの手腕に惚れ惚れする場面も当時はままあって、僕はこの店が次第に好きになっていった。
 ある夜、人懐こい風貌の常連、通称「きっちゃん」が、いつも思いつめた暗い顔つきでひとりコップ酒をあおる僕を哀れに思ったのか、いきなりマスターを通して二級酒をおごってくれたことがあった。
 そんな経験は初めてだった僕はどぎまぎしてしまった。ぎこちなく礼を言って有り難く二級酒「酒豪」冷や一合を頂いたものの、どうにも気持ちのおさまりがよろしくない。翌週、返礼として酒をきっちゃんにおごろうとすると、きっちゃんは手をひらひらさせて「いやいや、あんなんは俺の気まぐれやから、こういうことされてもしらけんのや兄ちゃん。余計な気ぃ使わんと気軽に呑んでや」とにこやかな表情で辞退するのだった。
 どうやら彼はこの界隈に住んでいたらしく、徒歩か自転車で田中屋へ毎日晩酌をしに通っていたようである。帰り際に「あ〜今月分、今度計算しといて」と言い残すことがあったので月毎精算のツケで呑んでいる様子であった。
 彼は喧騒を嫌い、静かに呑むのが流儀だった。たまさか声高に喋るサラリーマンの二〜三人連れなどが来ると、彼は「ちょっと風呂行ってくるから、これ(食べかけの料理)戻るまで置いといて。うん、じきに戻るから」と近くの銭湯へさりげなく避難するワザも心得ていたのだった。
 その後、90年代になってからきっちゃんは一度だけ渚にてのライブを見にベアーズまで来てくれたことがあった。
 山高帽が変形したような珍妙な帽子をかぶり豪勢な赤いバラの花束を携えて楽屋に現れたきっちゃんと遭遇した山本精一くんは「今のあのヒトは…アレはいったい何者や? えっ? きっちゃん? 渚にてを見に来た? アレはどう見てもタダもんやないな!」としきりに感心していたのだった。きっちゃんはライブの感想はあまり言わなかった。
 それからしばらくしたある夜、田中屋にいると店に電話がかかってきた。開口一番マスターが「え? 亡くなった? きっちゃんが? 昨日? 昨日って、昨日うちで呑んで帰らはったとこやがな!」と絶句した時の光景は今もはっきり覚えている。
 きっちゃんは昨夜田中屋から帰る途中、横断歩道を渡っているところを信号無視で突っ込んできた車にはねられて即死してしまったのだという。今夜がお通夜とのことだった。
 店からそう遠くない会場だったので慌ただしくお悔やみに出向いた。晩年の室田日出男のような貫禄ある風貌のお兄さんが「弟とは音信不通で何年も会うてなかったんですけど…まさかこんなことで顔見るとはなあ……」と言葉少なく語り悲嘆にくれておられた。
 身内ではない自分にとってもその事件は衝撃であった。数日前、田中屋で同席したばかりだ。
 その夜のことはどうしても腑に落ちることがなかったのだが、しばらく時間が経ってからこの事件がきっかけになって「本当の世界」という曲ができた時、少しだけ肩が軽くなったような気持ちになれたのであった。

 ここで過ごした色々な思い出は生涯消えることはないだろう。

 比類なき名店「縄のれん 田中屋」よ永遠なれ。


長い間お疲れさまでした。
こちらこそありがとうございました。
きっと充実した第二の人生を送られんことを心より願いつつ。
またいつか、どこかでお会いしましょう!


16.5.17









 「こんなひどい録音のレコード出すのやめようぜって、さんざん抗議したんだよ。なにしろ録音のひどさ。なんていうの、オレが込めてる力加減とか、そういうのが表現されてないわけ。全部平らにされちゃって。録音自体がすげえつまんなかったんだよね。(中略)村八分の一番くだらない部分だよ」(山口冨士夫「村八分」 K&Bパブリッシャー 2005年発行より)
 とにかく彼は生涯このレコードのことを執拗に批判し続けた。強権バンマスのチャー坊によってエレックとの契約内容はメンバーに伏せられロイヤリティーの配分も不透明だったことも、この批判の背景にあったようである。
 だがしかし、このアルバムほど記録され世に出たという事実そのものに意義がある作品はないだろう。
 1973年、自分は行きつけの「ハシガミレコード店」でこのレコードを手にとって小1時間ほど逡巡した挙句に結局買わなかったという苦い思い出がある。それはなぜかというと当時愛読していたヤング・ギターで「ロックをわかっていない迫力のない録音etc」などとボロカスに書かれていたからだ。
 まあ、ある意味正しい意見なのだが、あの記事で買うのを止めたヒト、他にも結構いたんじゃないかな。
 「全部平ら」っていうのは確かで、言うなればノン・プロデュースで録りっぱなし。せっかくマルチで録ったのにミックスはギター2本をLRに振り分けただけ、あとは最後までフェーダーいじらず、という寂しいスタジオが目に浮かぶ。  ところが、このどこまでもフラットな、突き放したミックスが意外といいのだ。
 下手に雰囲気を作ろうとしていない分、逆に聞き手の想像力を惹起させて解散寸前のバンドの生々しさが伝わってくるという結果的にパンク的な?ミックスとなったのは「フォークのエレック」ならではだった、という皮肉な結末。
 村八分との契約は間違いなく社長決裁による英断であっただろうと推測するが、ロック・スター気取り(本気)の超生意気なバンマスとの契約交渉、商業主義を敵視する京大西部講堂管理団体との折衝、麻薬取締法違反の前科者がいるバンドの面倒を見るハイリスク…。
 まさに気が遠くなるようなプロジェクトである。
 プロデューサーとしてクレジットされているエレックの浅沼専務としては、レコーディングが完了した時点で精根尽き果ててしまったのではないだろうか?
 今から思えば、このとんでもないプロジェクトが成就されオフィシャルリリースにこぎつけただけでも値千金だ。
 What if もしこれがチャー坊の野望通りにプロデュースとA&Rはピンク・フロイドの石坂敬一、レコーディングはグラムロック全盛のロンドン、発売は天下の東芝音工洋楽部からとトントン拍子に行っていれば、それはそれでチグハグな代物が出来上がっていたんじゃないかという気もする。
 プロデューサー判断で弱いリズムセクションはクビ、チャー坊と冨士夫の2人だけ渡英させて現地調達で二流のセッションマンあてがったりしてね。
 チャー坊が加藤和彦ほどの自己プロデュース能力に長けていれば、もっと違う結果も有りえたのかも知れないが…。

 いずれにせよ、彼らの音楽を知るよすがとしてこのレコードだけでも残されたことはまことに幸いなことだった。



収録は昭和48年5月5日、こどもの日

「うるさい!文句あんのやったらここ来たら? 前来て言い」
「誰か親切なヒトお水持ってきて」
「音小さいですか?…なんもよう言わんねんな…ゴメン」
「見てる方はええなあ〜、見てる方はええで。もっと見て」

今も痺れる名セリフ
もはや眠狂四郎クラスである

16.5.5









 この48年前の、なんとも香ばしい馥郁たる歌声の倍音成分は、いまなお私を魅了して止まないのだ。
 この際言っておくがリンダ・パーハックスなんか目じゃないからね。数日前とてもショッキングなことがありダメージからまだ立ち直れないでいる自分がふと思い出すのは、輝く愛と未来への可能性をカモメの飛跡のように軽々と歌い綴る48年前のジョニ・ミッチェルなのだった。
 もう新世界へは行かない。


彼女は当時25歳
ハレルヤズを作った頃の自分と同年代だったとは…

16.4.26









 地球空洞説です。なんとなく憎めないヤツ、それはFar East ファミリー Band。
 「静寂にして甘美なコズミックな時の世界を創る6人の魂!!全世界を震撼させた東洋の感性。 ついに21世紀の道は開かれたり。11台のキーボードが織り成す無限の世界!見よ、この快挙!日本人初の世界同時発売!」内容を凌駕せんとする勢いのタタキ文句が小気味良い。
 この辺のイメージを平成Jサイケ的に再構築して成功した輸出産業ロックとの本質的な違いはといえば、彼等はあくまで本気でコズミックを目指していた点であろう。日本在住なのにFar Eastなんだから、これはもう昭和五十年の時点ですでにグローバル?な意識をしていたということなのかもしれない。
 しかし「快挙」というならむしろ次作「多元宇宙への旅」だな。なんせプロデュースはクラウス・シュルツェ、 レコーディングはマナー・スタジオだぜ。40年後の近未来Now、スーパー・デラックス・エディションを出すならツェッペリンじゃなくて「多元宇宙への旅」だろうが! 
 …その昔「多元宇宙への旅」発売直前の時期だったか、NHK「若いこだま」に芹沢のえが出演したことがあった。
 彼女はイチオシとして「地球空洞説」を紹介した。ホストの渋谷陽一は「いや〜ボクはこういうドベッとした典型的な日本のロックはもう古いと思いますね、なんか70年頃の日比谷野音みたいで。やっぱりこれからはクイーンとか感覚的に突き抜けたアーティストの時代なんじゃないかな」と無遠慮に批判した。
 それに対して芹沢のえは「……あんたバカなんじゃない?」と軽くいなしたのだった。
 よく放送されたものだと今更にして思うが、きっと両者どちらの言い分も間違ってはいないのだ。
 昭和五十年。
 この、あくまで抜けの悪い、ぶきっちょなジャップ・ロックは決してクールなどではなかっただろうが勘違いはしていなかったように思う。



全世界を震撼させた東洋の感性
日本コロムビアの万全のA&Rは賞賛に価する

16.4.15










 「〜その頃、日本語の歌で『なんとかなんです』とか、あれがすごいイヤで、もう、あれだけは嫌悪してたから。『ですます』じゃやっぱりロックは歌えないと思ったよね。要するに全然速度が違うんだよ、サウンドの速度と」(ロック画報2003年11号森園勝敏インタビューより)。
 流石モップスとダイナマイツの生演奏に薫陶を受け「一触即発」を作った男の言うことは直裁にして磊落、けだし名言である。
 無論、速度とはBPMではなく意識のことを指す。意識とは即ち世界との距離感であるから「ロックを歌う」ということは、音の中と外で自分を対象化し見つめるということなのだ。
 叙情にも抽象にも徹することを拒んで揺れ動く野放図な歌詞が彼の意識を援護した。
 GSとピンク・フロイドとキャプテン・ビヨンドの黄金の三角池帯がこのアルバムだ。
 国産の卓で録音されたという、薄青い膜に包まれたような中域が印象的なサウンドの速度は宿命として短命だったが、それは彼等の青春そのものの投影でもあったにちがいない。


これと黒船のサウンドはリアルタイムで衝撃だった
友達に貸すとなかなか帰ってこなかった

16.3.2









 ある意味ナゾのレコード、そっくりモグラの毛語録。ロバート・フリップのプロデュースというのが唐突というか奇妙な人選である。
 ビル・マコーミック曰く、
 「フリップをプロデューサーに使ったのは大失敗だった。少なくとも彼のおかげでフィル・ミラーは指も動かせないくらいブルッちまったんだからな」
 「俺たちが使いたいと思ったテイクがフリップが承諾しなくて使えなかったとか、そんなことにまでなった」(マイケル・キング著「ロング・ムーヴメンツ」より)
 …だから言わんこっちゃない。
 ゲスト参加したイーノがGloria GloomのイントロにくっつけたシンセとSEのテープ・コラージュが、翌年に出る「Lark’s Tongues in Aspic Part 1」のイントロによく似た構成なのは、きっと偶然ではないだろう。プロデューサーはギタリストを威圧しただけで帰ったわけではなく、しっかりとお土産も手にしていたのだ。
 前作のウェットな雰囲気とはうってかわって即物的で乾いた音像はフリップの嗜好を反映しているが、それがバンドにとってどれほどメリットがあったのかは微妙で、やや強権発動に過ぎる感もある。
 古巣を追われたワイアットが自身のグループでやろうとしたのは、作曲と即興と演奏とが不可分に溶け合った純度の高い音塊の再提示だった。つまり最初期のソフト・マシーンがすでに成し遂げていた語義通りの「自由な音楽」の奪還である。
 だからこそ彼はあえて再度ソフト・マシーン (Machine Molle) の名前を冠したのだ。このことは67年のソフト・マシーンを捉えた秀逸なCD「Middle Earth Masters」を聴けばよくわかる。
 67年のソフト・マシーンは後のファウストやディス・ヒートの萌芽と考えて差し支えない。
 おそらくワイアットは作曲と即興の境を自在に行き来する69年のオリジナル・クリムゾンのライブを体験したことがあって、そこにかつてのソフト・マシーンの残像を垣間見たのだろう。
 彼がグループのステップアップにフリップの手助けが有効だと考えたのだとすれば、この人選は決して唐突ではなかったことになる。
 ジャズという共通言語がキング・クリムゾンとソフト・マシーンのリンクを可能にし、その先に新しい何かが生まれる可能性があったのだ。
 たまさかこれがフルセットのドラムを叩いたワイアットの最後のアルバムとなってしまったことは残念だが、不幸なことではない。
 マッチング・モールとオーヴァリー・ロッジの交配は「太陽と戦慄」を生み、一方で「白日夢」が生まれ、ロックの幸福な時代を彩ったのだから。



スネアの響き線を取っ払ったドラミングの冴えはすごい

16.2.22









 What if の話をしよう。
 もしシド・バレットが重度の薬物依存を回避できるメンタルを持ち合わせていれば、ピンク・フロイドの2ndアルバム「神秘」は「S.F. Sorrow」を軽く上回る色鮮やかなグラマラス・ロックに仕上がっていた。
 面倒臭い映画音楽の仕事なんかは受けないので「モア」は存在せず、3rdアルバムとなる「ウマグマ」は各メンバーの緩慢なソロ録音とライブの抱き合わせではなくツェッペリンの成功を意識したシド一流のファズギター・オリエンテッドなハード・ロックになるはずだった。
 いかんせん4小節毎のフィルインばかりに拘るドラマーと左手がスローなベーシストのせいでなんともバランスの悪いヘヴィー・サイケにとどまり人気に陰りが出るも、後年になって一部のマニアから「Think Pink」を凌ぐUKサイケの名盤との再評価を受ける。
 そこで「オーケストラとの共演? そんなクソ退屈な仕事はナイスやパープルみたいな退屈な連中にまかせておけばいい」と制作した「原子心母」は、ハード・ロック路線に見切りをつけたシドが気晴らしに聞いていたザ・バンドやフライング・ブリトー・ブラザーズに影響されて初期の看板だったスライドギターをペダルスチールに持ち替えた気楽なカントリー・ロックだった。
 シドにしてみれば「ナッシュヴィル・スカイラインに対する英国からの回答」のつもりだったが、これはさすがにファンとメディアの双方から総スカンを食らう。
 そうこうしているうちにボウイ、Tレックス、ロキシー・ミュージックの台頭に焦ったシドは元祖グラムのプライドをかけて初心に戻り「サイケデリックの新鋭」を次世代型にアップグレードしたパワー・ポップの会心作「おせっかい」を発表する。
 「おせっかい」からはジーン・ジニーやイージー・アクションと共にUKチャートの上位を競う艶やかでギラついたシングル「タコに捧ぐ詩」を切って一躍スターダムの頂点に。
 依然として面倒臭い映画音楽の仕事なんかは受けないので「雲の影」は存在せず、期待のニューアルバム「狂気」では「グラムはもはや過去の遺物さ。ボクは今ソウル・ミュージックに夢中なんだ」と早々とグラム・ロックからの離脱を宣言したシドがボウイに先駆けてスティービー・ワンダーやオハイオ・プレイヤーズ等を畸形的に解釈した16ビートのファンク・ロックに挑戦。
 しかし16ビートに全く対応できないニック・メイソンは解雇され代わりにアンディ・ニューマークの起用が検討されるが、ここでシドの独裁体制に不満を募らせていたロジャー・ウォーターズがメイソンと共に脱退。
 ウォーターズは「アローン・トゥゲザー」発表後レーベルとの契約トラブルで低迷していたデイヴ・メイソンに声をかけ新バンド「スターズ」を結成し、米国南部への憧憬を胸にレイドバックしたUKスワンプを追求していく(余談になるがスターズがマイナーレーベルに残した2枚のアルバムは今ではマイティ・ベイビーやアーニー・グレアムの諸作と並ぶUKスワンプの名盤とされ、オリジナル盤は200ポンド超えのコレクターズアイテムとして取引されている。現在ウォーターズはスコットランドで鮭の養殖業を営み悠々自適の余生だという)。
 もとより黒人音楽に関心のなかったリック・ライトはスタジオから失踪、「狂気」の制作は暗礁に乗り上げる。
 そこでシドは未知のカテゴリーに活路を見出すべく旧知のジョー・ボイド経由でクリス・ブラックウェルにコンタクトを取った。噂に聞いていた大物、ジャマイカのウェイラーズをマーリー、トッシュ、ウェイラー抜きで「狂気」のバックバンドに起用を依頼するという荒技に出たのだ。
 新しい強靭なリズム「レガエ・ミュージック」とシドの華やかなメロディーは最高の相性だったはずだ。
 しかしブラックウェルはウェイラーズのメジャーデビューとなる「キャッチ・ア・ファイアー」制作に腐心していたためシドのオファーを拒否。
 レコーディングもライブツァーもできない窮地に陥ったシドは再び薬物に手を出してしまうのだった…。 もはやシドに忠告する者はいなかった。
 「狂気」は「ライフハウス」「スマイル」と並んでロック史最大の未完成アルバムとして伝説化することになった。
 失意の隠遁生活の後、ふと忘れ物を思い出したように一人でスタジオ入りしたシドは、息も絶え絶えに最後の弾き語りソロアルバム「ピンク・ムーン」を録り終えると「オーヴァーダブはいらないよ。このアルバムにアレンジは必要ないんだ」とだけ言い残し去っていったという……
 あれ? なんか間違ったなオレ。


You can say the sun is shining if you really want to
I can see the moon and it seems so clear

You can take the road that takes you to the stars now
I can take a road that'll see me through

16.2.1









 自分の中では何といってもこれが最高位のレコードだった。グラム時代からFMで流れるシングル曲にはリアルタイムで接していたが、リアルな表現者として彼を意識したのはLowが初めてだった。
 だらしない自分の記憶力だが1977年当時、阿木譲が近畿放送のAM番組ファズ・ボックス・インで「もうボウイみたいなね、あんなに知的なロックミュージシャンでさえパンク・ロックっていうものに対してね、もう無視できなくなっているっていう状況だよね。新作(Lowのこと)ではいち早くパンク的な要素っていうか、例えばああいったパンク・ロック的な、荒いドラムのサウンドなんか(A面のこと)を取り入れてたでしょ? そういった点だけをとってもね、やっぱりホントに彼はしたたかだし、確かな人だな、とボクは思います。はいじゃあ次は、ヴォイドイズの新しいシングルを紹介します」といった感じで、あの陰鬱だが自信に満ちた低い声で訥々と語っていたことは高校3年当時の鬱屈した日常の気分とラフミックスされたまま、いまだに、やけに生々しく覚えているのだった。


A New Career in Heaven

親の寝静まった深夜にヘッドフォンで幾度となく聴いた
A面ラストからB面にかけての流れは圧倒的だった

16.1.12









 イギリス南部の港町ボーンマスのマイナーバンドだったジャイルズ・ジャイルズ&フリップの小市民的な鄙びたポップスをプログレッシヴ・ロックの真紅の大輪へと一気に跳躍させたのはピート・シンフィールドの絢爛たる詩世界だけの所為ではなく、もとより彼のプロデューサーとしての野心と才覚あってのことだった。
 単なる詩人気取りのヒッピーではロバート・フリップと互角にソングライティングチームを組んで4枚の作品を上梓させることなど到底できなかっただろう。
 しかも、まず選び抜かれた言葉で編まれた精緻な歌詞があり、音楽がイマジネーションの翼を補完し昇華させるというビートルズとは真逆の成り立ち方で。
 初期クリムゾンは常に詞先だった(後期クリムゾンがインストゥルメント主体の音楽へシフトしたのはフリップの自我の目覚めがこの束縛を断ち切らせたからである)。
 バンドの命名者でありながらグループを追われた後もその印象が薄れることなく改名はありえなかった、という点でピート・シンフィールドはシド・バレットと同じ立ち位置にいた。
 初期クリムゾン4作に通底する、あの透徹した時空間の感触はミックス段階での大胆なリバーブ・エコーON/OFFとパンニングの緻密なコントロール、そして始終神経質なフェーダーの上げ下げに負うところが大きかった。
 それはフリップというよりもシンフィールドの嗜好であったことを裏付けるように、Lark’s Tongues〜以降の作風は殊更に生音を強調した閉塞感の強いミックスに取って代わり、リバーブ・エコー処理は常に最小限に抑えられている。
 またライブ演奏時に於いても、ミキサー卓を操作してドラムの音をVCS3に入力しPAの出音に暴力的なノイズ・トリートメントを施すという荒技を披露したシンフィールドのオペレーションは、間違いなく初期ロキシー・ミュージックに於けるイーノの手法に大きく影響を与えている。
 そして、クリムゾンのオーディションに現れて「エピタフ」を(間違いなくあの唱法で堂々と)歌ったブライアン・フェリーの異能に着目したシンフィールドがロキシー・ミュージックのデビューに尽力したのはプロデューサーとしての慧眼であり必然であった。
 フリップ&イーノもこの流れから派生した。まさにChance Meetingだ。


The original Roxy was in a sense Re-Maked/Re-Modeled Crimson

If There Is Somethingのライブバージョンは完全に初期クリムゾン
(マンザネラのギターとメロトロンのからみは悶絶モノ)
A Song for Europeの終末感はまさにエピタフの本歌取り

16.1.5

 

 

 

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