ひとこと



ひとこと



星も知らない

Even the Stars Never Know


1月18日発売です


May God bless you all
Have a nice new year!

16.12.30









 高校の頃、わりとリアルタイムで聞いたのがコレだった。その頃はといえば、「狂気」の次の謎のベールに包まれた新作を心待ちにするピンク・フロイド漬けの小僧だったわけだが、叔父が「コカコーラの懸賞でこんなん当たったんやけど、興味無いし欲しかったらあげるわ」とお年玉替わりにポンとくれたのだった。
 小僧の自分がザ・バンドの「いぶし銀」に反応するはずもなく「ふ〜ん、これがボブ・ディランか…バンド?…ザ? なんか雑な演奏やな。もっと練習してから録音した方がええんちゃうか?」などと高を括って気軽にスルーしたのだった。
 数年後には「南十字星」と取っかえ引っかえ聴き狂うハメになるとはつゆ知らず。
 今改めて聴くと歌詞の作法にはレナード・コーエンからの影響が結構あるように思う。「いつまでも若く」の詠唱なんかモロだ。
 そういえば、ディランとポール・サイモンは共にキャリアの初期に付き合ったマーティン・カーシーに友好の証として教わった英国民謡からの露骨な剽窃が取り沙汰されたものだが、後年ロイ・ハーパーが大英帝国の誇りをかけて「北国の少女」の元歌「North Country」をわざとディランのヴァージョンを下敷きにしてカバーし、しかるのちに正しくTrad.arr.と表記してみせたのはケッサクだった。ザッパのBeat the Boots!みたいなもんだね。
 話は尽きぬが、このレコードはディランであってディランではない。
 ザ・バンドの7枚目なのだ。期間限定でザ・バンドのゲストメンバーとなったディランが「せ〜の」でどれだけ歌えるかを巧みに切り取ったドキュメンタリーとしてのザ・バンドの7枚目なのである。A面の流れ、ロビー・ロバートソン入魂の痙攣ギター、精神的な絆を目に見えないスコアとして自在に伸び縮みするアンサンブルの妙技…には今なお心震えるものがある。
 もっと練習が必要なのは自分の方だった。
 この3日間のレコーディングをクリアしたことによってディランは「血の轍」を、ザ・バンドは「南十字星」を成就できたのだった。そして、どちらの作品もその時点での自己のキャリアを総括するべくウェル・プロデュースされた傑作となったことも忘れがたい。


文学賞なんかで尻尾振って喜んでるようじゃ失格やろ
手塚治虫マンガ大賞を「自分はマイナー漫画家なので」と拒否した
花輪和一先生の心意気こそがロックなんやで

16.12.6









 自分の場合、心情的には昔から ルー・リードよりもパールズ・ビフォア・スワインだった。そしてボブ・ディランよりもレナード・コーエンなのだった。
 このLPには、本当にのめり込んだ時期がある。
 たまさか失恋の痛手の最中にあった自分の気鬱を癒してくれたのが、この「ある女たらしの死」(単刀直入な邦題がイカす!)だった。
 美しく韻を踏んだTrue love leaves no tracesに痺れ、トラジックにみだらなPaper-thin hotelのモノローグに自分の滑稽な後ろ姿を見た。「哀しみのダンス」(赤面80’sテイストな邦題が逆にイカす!)Various Positionsとこれに心底まいってしまい、来る日も来る日もこの2枚をとっかえひっかえ聞き続けたのだった。
 とりわけ「ある女たらしの死」の微妙にハイ落ちしたイコライジング、モノラル的で深い酩酊感に溢れるバックトラックのサウンドと、トゥーマッチなエフェクト処理を施された(これは当人が嫌悪しそうだな)なげやり気味な歌唱との針の穴を通すようなマッチングのスリルは、リチャード・ヘル&ヴォイドイズの1stにおけるヘルとクワインのやすきよ的丁々発止のチームプレイに匹敵すると思った。
 何度も聴くうちに、最初はぶっきらぼうに感じたボーカルが実は細部を丁寧に歌い込んでいることが徐々にわかっていった。
 どうみても尋常ではない音像を湛えた本作の制作過程には曰くがあって、インテリ受けする割にはいつまでも売り上げが伸びないコーエンに業を煮やしたレコード会社が、偶然来ていたフィル・スペクターのプロデュース売り込みオファーをこれ幸いとこのアルバムにあてがった、という顛末があったらしい。
 レノンやハリスンのソロ作を成功させたスペクターの知名度は、当時まだ有効だったのだ。しかし例によって例の如く、本能的に強権発動するスペクターは、全曲まだ仮歌の段階なのにGOサインを出し本人未承諾のままミックスしてリリースしてしまった(コーエンが自分で録ったデモテープに無断でオケを重ねたという説もあるようだ。1stアルバムでもプロデューサーのジョン・サイモンの装飾的なアレンジに対して 「これは禁じられた結婚だった」など恨みつらみのコメントをライナーに載せていたが、つくづく因果な人である)。
 おさまらないのはコーエン。しかし欧米ではプロデューサーの権限は軍隊並みに絶大で、スペクターがGOと言ったらGO、ペケと言えばペケなのだった。不幸中の幸いは、彼が仮歌でも決して手を抜いていなかったことで、結果、気難しさとリラックスが同居したダルな歌唱と畸形的なサウンド・プロダクションとが「禁じられた逢い引き」よろしく結ばれて絶妙のグラデーションを描いた。
 それは、デヴィッド・リンチ「ブルー・ベルベット」の10年先を行った、禍々しい情事の最中に時間が凍りついていくような、あやかしのメタフィクション・ロックなのだった。


True love leaves no traces
If you and I are one
It's lost in our embraces
Like stars against the sun

Repose en paix

16.11.20









 晩秋によく似合う、この黄昏アルバムには聴き方がある。
 「シド・バレットのセカンド・アルバム」と思って聴くもんだからつい「ファーストと比べると云々」などとつまらないことばかり考えてしまっていけない。
 これは仮想ピンク・フロイドのイマジナリー・セカンド・アルバムとして聴くべきなのだ。G, Vo : シド・バレット、B : デイヴ・ギルモア、Key : リック・ライト、Ds : ジェリー・シャーリーというメンバーで出直した「第2期ピンク・フロイドのファースト」として。
 そう思って聴くとまるで違った輝きを放ちはじめるから先入観とは怖いものだ。
 林立夫を彷彿させるジェリー・シャーリーのステディなドラミング、リック・ライトのどこまでもジェントルなピアノとハモンドが面倒見の良い弟達のようにシド兄さんの不穏で穏やかなヴォーカルをお世話する。いい構図ではないか。
 「ジゴロおばさん」の妙に溌剌とした歌いっぷり(しかもサビはダブル・トラック)とやる気なさげな脱力ギターソロとの落差の付け方は絶妙としかいいようがなく、ギルモア&ライトのコントロール以前に彼自身が自分の音楽に対する客観的な視点をキープしていたことがわかる。
 そして「ラブ・ソング」(いいかい、シド・バレットの「愛の歌」だぜ)「ワインド・アンド・ダインド」の透徹した夢幻の響きはどうだ。
 後年、ジェリー・シャーリーは「シドは自分の見せ方を意識していたような面もあった。本当は周囲が思っていたほどには狂っていなかったと思う」というような発言をしているが、さもありなん。
 譜割りのクリシェを大胆に回避して合奏を拒否し続ける曲展開、全編に渡るキレイに脚韻を踏んだ歌詞、軽妙洒脱なシド流Nursery Rhyme「興奮した象」…これほど高度な音楽表現は狂人には不可能だろう。
 まさにシド・バレットのロック!


この世で一番キレイな歌

Wined and dined
Oh it seemed just like a dream
Girl was so kind
Kind of love I'd never seen

Only last summer, it's not so long ago
Just last summer, now musk winds blow...

16.10.22









 最後のオリジナルメンバー、マイク・ラトリッジまで辞めてしまい「そして誰もいなくなった」というジェネシスも吹っ飛ばす冗談のような9枚目なんだが、これがまた味わい深く、大変に具合がよろしいのである。
 「収束」と並んでコレもすごく好きなんだよね。この、あてどない空漠感。ここまでくると音楽からエゴが薄れてきた感があり、カール・ジェンキンスのオーボエは時として「不分明の余白」サード・イアー・バンドの壮大なる無常観を想起させる。
(と書いたものの、このアルバムでジェンキンスはオーボエを使用していないことが後日判明。アラン・ウェイクマンのソプラノサックスでした)
 ジャケットデザインの軽さがまた小気味好い…まあ、どうでもよかったんではなかろうか。気持ちはわかる。
 1976年ということで直前に出たジェフ・ベックのWiredをちょこっと意識したようなふしもあるジョン・エサリッジのギターは早弾きが上滑り気味で、さすがにベックと比べられるとフレーズとトーンの食い込みがいかにも浅く小粒感は否めないにせよ、そこがまた良いのだからどうしようもない。
 贔屓の引き倒しかも知れぬ、だが何度でも言わせてもらおう。
「収束」と「ソフツ」をフュージョンと形容することは断じて許さない。 ブリティッシュ・ジャズ・ロックと言いなさい。


タイトルがこれまた潔くて好き!

16.10.12









 “American-flavoured country-rock…to acid-drenched psych.”とDiscogsには書いてあったが言い得て妙、そんな感じではある。我が青春のアイドル、ジェントル・ジャイアントと同様ルーツが一向に不明な英国ロックの白眉。
 これぞ1972年型正統派ブリティッシュ・ロック。いや確かに1stにはニール・ヤング&クレイジー・ホースを忠実に再現しようとして至らなかったけどそれがどうした文句があるかテイストの曲もあったけれども、それとてなんだか所謂UKスワンプ一派とは全然別の方角を見ているような虚脱感が前に来ていた。
 この3rd、Lots of Mellotronのロングトラックがハイセンスにヘンテコで味わい深く、朝夕ひんやりとした空気が流れてくれるようになった今時分にひっそり聴くと大層しみる。ジェネシスやクリムゾンとは真逆でコンセプトが希薄というか全体的には何をやりたいのかよくわからないバンドなのに、どの曲においても確固たる意識を以って演奏が統制されているのがまことに不思議な持ち味。
 初期のトラフィックもそんなところがあった。「ご自由にどうぞ」ネーミングもまた投げやり気味で素敵だ。パブでこんな音楽やるかよ!

さしずめ裏インクレディブル・ストリング・バンドってやつだな

16.9.9









  この秋、スラップ・ハッピーwithファウストといういかにも切り札的な企画でドイツのフェスに出演するそうだが、こいつは「危機・こわれもの完全再現ライヴ」なんかよりはよっぽど楽しめそうだ。1パイントのスタウトなんか飲みながらね。
  現在の彼等に往年のクリエイティヴィティやアトモスフィアはもはや望むべくもないが、もしザッピーの生ドラムで「Just a Conversation」が聞けたら結構盛り上がってしまうかもしれない。なにせ「Sort Of」(と「Out」)は我が生涯の神棚盤であるからして。
  その昔スラップ・ハッピー来日の折、「渚にて」に前座で出演依頼のオファーが来たことがあった。が、持ち時間セッティング込み30分と聞いて即座に断ったのであった。
結局前座をやった羅針盤はプログレおやじが過半数を占める観客の冷淡な態度を受けて瞬時に出演を後悔した(笑)という。
  しかしこのマッチング、ありそうでなかった顔合わせ。再来日させて会場代の安いライブハウスでジャパン・ツァーを組めば還暦の小金持ちプログレ爺が大挙押し寄せて結構儲かるのではないかと目論むイベンターが現れてもおかしくはない。
  もちろん、ケヴィン・エアーズ最後の来日ツァーのように礼を欠いたドサ廻り企画になってしまう可能性が極めて大きい…最大の敬意をもって迎えるべき偉大なミュージシャンが待遇の粗末さに機嫌を損なうような悲しい現場には立ち合いたくないので、ここはひとつドイツまで出向くしか手はなさそうである。 
http://www.weekendfest.de/?l=2


若かりしアンソニー・ムーア、カッコイイよな

16.8.23









  酷暑の7月に夏向けのジャケを。ホークスつながりでニック・ターナーズ・スフィンクスを右大臣とすればこちらは左大臣にあたるロバート・カルヴァート1975年の傑作セカンド。いちばん冴えてた時期のイーノがプロデュース、VCS3、音響トリートメント担当、エンジニアはコニー・プランクを凌ぐ名匠レット・デイビス Rhett Daviesとくれば、もう内容は保証されたようなもの。
 1976年、東心斎橋にあったメロディーハウスで見つけた時は第一発見者よろしく舞い上がって即買いした。まだロック・マガジンでさえ紹介されてなかったからね。
 1曲目「Ship of Fools」から狂的なVCS3の波状攻撃でいきなりノックアウト。同時期のイーノが関わった忘れがたい名作にフィル・マンザネラ「Diamond Head」クワイエット・サン「Mainstream』ニコ「The End」ジョン・ケール「Fear」があるが、いずれもVCS3を石器時代の飛び道具さながら猛々しく、かつジャコメッテイのように思慮深く使いこなした野蛮なサウンドスケープを聞くことができる。
 当時イーノはこういった音作りのセンスが最高に突き抜けていた。VCS3はギターのような長年の練習や正確な運指が必要なくセンスとインスピレーションだけで操作することのできる画期的な楽器だったのだ。
 だが現代のDTMソフトとは似て非なるもので、使いこなしにはギターでいえば調律の音階自体から設定しなければならないような独創性が必要とされる厄介な代物でもあった。
 近年イーノは「重要なのはテクノロジーの形式ではなく人間、今さらアナログにロマンを抱くべきではない」などといった発言をしているが、80年代以降のイーノが見失ったのは、このアルバムの随所に散りばめられたようなアナログ時代の技術的制約の多さを逆手に取ったコロンブスの卵的なアイディアの玉手箱だった。
 コンピュータ時代となって制約が大幅に減少したことが逆に音楽表現自体へのモチベーションを世界的に低下させてしまった。
 カルヴァートの控えめなボーカルが愛らしいこのアルバムには、まさにバイキングの帆船に乗り込んで未知の音楽大陸へ踏み出さんとするスリルと喜びがあふれていた。今となっては全てノスタルジアだが、二度と取り戻せない過去にこそ真のロマンが宿る。


さしずめ裏タイガー・マウンテンってやつだな

16.7.19









 ニック・ターナーズ・スフィンクス。
 非常に名作ではあったが、世はパンクかディスコかフュージョンか三者択一の1978年といういかにも不利な時期に発売されてしまった不幸なアルバム。オンリー・ワンズもそうだったが73年あたりのリリースだったら今頃は世間の扱いもさぞ違っていただろうに。
 エジプトはギザの大ピラミッドで現地ガイドにチップを大枚はずんで録音させてもらったのであろう古代の天然石リバーヴがたっぷり乗ったマリワナチックなフルートがとても心地良い。
 ニック・ターナーのジャズ色皆無で頼りなさげなサックスとフルートは、トラフィックにおけるクリス・ウッドのポジションとよく似ている。
 バンドを統率するようなキャラではないにもかかわらず、そこにいるだけで知らず知らずのうちにバンドのカラーを決定づけてしまっているという、重要な立ち位置なのだ。アンディ・マッケイまた然り。吉田正幸もまた然り。寅さんにおける佐藤蛾次郎的存在だ。
 こういうタイプの人はめっきりいなくなった。
 さて、このアルバムを一本芯の通ったものにした立役者はスティーヴ・ヒレッジというよりもモーリス・パートのパーカッション。ブランドX「モロッカン・ロール」をエキゾ・ジャズ・ロックの唯一名作たらしめたのは彼の功績であることは明らかで、ジェイミー・ミューアとは真逆の演奏をする人だ。
 ここでも決して前面に出ることなく残響を生かしてアンサンブルの空間を巧みにデザインするパーカッション・ワークが見事。


ニック・ターナーをサポートするスティーヴ・ヒレッジ、という友情物語は
沢田研二と萩原健一両方の面倒を見た井上堯之を思い起こす

16.7.2









 1985年から86年にかけて一年ほど、西成の街に住んでいたのだ。ちょうどハレルヤズの録音をしていた頃だ。毎晩のようにあちこち飲み歩くうち、いつしか通うようになったのが「縄のれん 田中屋」だった。
 居酒屋ではなく蛍光灯の割烹といった風情の田中屋は、調理場を囲むコの字のカウンター席だけの15席ほどだったろうか、夫婦二人で要領良く店を切り盛りする様子がその界隈に似つかわしくなく、季節の旬にこだわった肴の味わいとも相まって何度も通いたくさせる魅力があった。
 その頃の新世界はといえばまだまだ泥臭いスラム街の匂いが漂っていて、ジャンジャン横丁を歩くのは不幸な過去を背負ったような日雇い労働者ばかりだった。ごくまれに迷い込んできたOL風の女の子が逃げるような早足で歩いていると、すれ違う汚れた顔のおっさん達は皆振り返ってその後ろ姿をしばらく眺めていたものだ。
 毎週となく田中屋に通ううちに、角刈りで強面の二代目マスターや人生のビター&スイートを嚙み分けたような常連客の面々とも少しずつ打ち解けていった。
 味つけにあらぬ因縁をつけて無銭飲食を企むタチの悪い客筋をスマートに排除するマスターの手腕に惚れ惚れする場面も当時はままあって僕はこの店が次第に好きになっていった。
 ある夜、人懐こい風貌の常連、通称「きっちゃん」が、いつも思いつめた暗い顔つきでひとりコップ酒をあおる僕を哀れに思ったのか、いきなりマスターを通して二級酒をおごってくれたことがあった。
 そんな経験は初めてだった僕はどぎまぎしてしまった。ぎこちなく礼を言って有り難く二級酒「酒豪」冷や一合を頂いたものの、どうにも気持ちのおさまりがよろしくない。翌週、返礼として酒をきっちゃんにおごろうとすると、きっちゃんは手をひらひらさせて「いやいや、あんなんは俺の気まぐれやから、こういうことされてもしらけんのや兄ちゃん。余計な気ぃ使わんと気軽に呑んでや」とにこやかな表情で辞退するのだった。
 どうやら彼はこの界隈に住んでいたらしく、徒歩か自転車で田中屋へ毎日晩酌をしに通っていたようである。帰り際に「あ〜今月分、今度計算しといて」と言い残すことがあったので月毎精算のツケで呑んでいる様子であった。
 彼は喧騒を嫌い、静かに呑むのが流儀だった。たまさか声高に喋るサラリーマンの二〜三人連れなどが来ると、彼は「ちょっと風呂行ってくるから、これ(食べかけの料理)戻るまで置いといて。うん、じきに戻るから」と近くの銭湯へさりげなく避難するワザも心得ていたのだった。
 その後、90年代になってからきっちゃんは一度だけ渚にてのライブを見にベアーズまで来てくれたことがあった。
 山高帽が変形したような珍妙な帽子をかぶり豪勢な赤いバラの花束を携えて楽屋に現れたきっちゃんと遭遇した山本精一くんは「今のあのヒトは…アレはいったい何者や? えっ? きっちゃん? 渚にてを見に来た? アレはどう見てもタダもんやないな!」としきりに感心していたのだった。きっちゃんはライブの感想はあまり言わなかった。
 それからしばらくしたある夜、田中屋にいると店に電話がかかってきた。開口一番マスターが「え? 亡くなった? きっちゃんが? 昨日? 昨日って、昨日うちで呑んで帰らはったとこやがな!」と絶句した時の光景は今もはっきり覚えている。
 きっちゃんは昨夜田中屋から帰る途中、横断歩道を渡っているところを信号無視で突っ込んできた車にはねられて即死してしまったのだという。今夜がお通夜とのことだった。
 店からそう遠くない会場だったので慌ただしくお悔やみに出向いた。晩年の室田日出男のような貫禄ある風貌のお兄さんが「弟とは音信不通で何年も会うてなかったんですけど…まさかこんなことで顔見るとはなあ……」と言葉少なく語り悲嘆にくれておられた。
 身内ではない自分にとってもその事件は衝撃であった。数日前、田中屋で同席したばかりだ。
 その夜のことはどうしても腑に落ちることがなかったのだが、しばらく時間が経ってからこの事件がきっかけになって「本当の世界」という曲ができた時、少しだけ肩が軽くなったような気持ちになれたのであった。

 ここで過ごした色々な思い出は生涯消えることはないだろう。

 比類なき名店「縄のれん 田中屋」よ永遠なれ。

長い間お疲れさまでした。
こちらこそありがとうございました。
きっと充実した第二の人生を送られんことを心より願いつつ。
またいつか、どこかでお会いしましょう!


16.5.17









 「こんなひどい録音のレコード出すのやめようぜって、さんざん抗議したんだよ。なにしろ録音のひどさ。なんていうの、オレが込めてる力加減とか、そういうのが表現されてないわけ。全部平らにされちゃって。録音自体がすげえつまんなかったんだよね。(中略)村八分の一番くだらない部分だよ」(山口冨士夫「村八分」 K&Bパブリッシャー 2005年発行より)
 とにかく彼は生涯このレコードのことを執拗に批判し続けた。強権バンマスのチャー坊によってエレックとの契約内容はメンバーに伏せられロイヤリティーの配分も不透明だったことも、この批判の背景にあったようである。
 だがしかし、このアルバムほど記録され世に出たという事実そのものに意義がある作品はないだろう。
 1973年、自分は行きつけの「ハシガミレコード店」でこのレコードを手にとって小1時間ほど逡巡した挙句に結局買わなかったという苦い思い出がある。それはなぜかというと当時愛読していたヤング・ギターで「ロックをわかっていない迫力のない録音etc」などとボロカスに書かれていたからだ。
 まあ、ある意味正しい意見なのだが、あの記事で買うのを止めたヒト、他にも結構いたんじゃないかな。
 「全部平ら」っていうのは確かで、言うなればノン・プロデュースで録りっぱなし。せっかくマルチで録ったのにミックスはギター2本をLRに振り分けただけ、あとは最後までフェーダーいじらず、という寂しいスタジオが目に浮かぶ。ところが、このどこまでもフラットな、突き放したミックスが意外といいのだ。
 下手に雰囲気を作ろうとしていない分、逆に聞き手の想像力を惹起させて解散寸前のバンドの生々しさが伝わってくるという結果的にパンク的な?ミックスとなったのは「フォークのエレック」ならではだった、という皮肉な結末。
 村八分との契約は間違いなく社長決裁による英断であっただろうと推測するが、ロック・スター気取り(本気)の超生意気なバンマスとの契約交渉、商業主義を敵視する京大西部講堂管理団体との折衝、麻薬取締法違反の前科者がいるバンドの面倒を見るハイリスク…。
 まさに気が遠くなるようなプロジェクトである。
 プロデューサーとしてクレジットされているエレックの浅沼専務としては、レコーディングが完了した時点で精根尽き果ててしまったのではないだろうか?
 今から思えば、このとんでもないプロジェクトが成就されオフィシャルリリースにこぎつけただけでも値千金だ。
 What if もしこれがチャー坊の野望通りにプロデュースとA&Rはピンク・フロイドの石坂敬一、レコーディングはグラムロック全盛のロンドン、発売は天下の東芝音工洋楽部からとトントン拍子に行っていれば、それはそれでチグハグな代物が出来上がっていたんじゃないかという気もする。
 プロデューサー判断で弱いリズムセクションはクビ、チャー坊と冨士夫の2人だけ渡英させて現地調達で二流のセッションマンあてがったりしてね。
 チャー坊が加藤和彦ほどの自己プロデュース能力に長けていれば、もっと違う結果も有りえたのかも知れないが…。

 いずれにせよ、彼らの音楽を知るよすがとしてこのレコードだけでも残されたことはまことに幸いなことだった。


収録は昭和48年5月5日、こどもの日

「うるさい!文句あんのやったらここ来たら? 前来て言い」
「誰か親切なヒトお水持ってきて」
「音小さいですか?…なんもよう言わんねんな…ゴメン」
「見てる方はええなあ〜、見てる方はええで。もっと見て」

今も痺れる名セリフ
もはや眠狂四郎クラスである

16.5.5









 この48年前の、なんとも香ばしい馥郁たる歌声の倍音成分は、いまなお私を魅了して止まないのだ。
 この際言っておくがリンダ・パーハックスなんか目じゃないからね。数日前とてもショッキングなことがありダメージからまだ立ち直れないでいる自分がふと思い出すのは、輝く愛と未来への可能性をカモメの飛跡のように軽々と歌い綴る48年前のジョニ・ミッチェルなのだった。
 もう新世界へは行かない。

彼女は当時25歳
ハレルヤズを作った頃の自分と同年代だったとは…

16.4.26









 地球空洞説です。なんとなく憎めないヤツ、それはFar East ファミリー Band。
 「静寂にして甘美なコズミックな時の世界を創る6人の魂!!全世界を震撼させた東洋の感性。ついに21世紀の道は開かれたり。11台のキーボードが織り成す無限の世界!見よ、この快挙!日本人初の世界同時発売!」内容を凌駕せんとする勢いのタタキ文句が小気味良い。
 この辺のイメージを平成Jサイケ的に再構築して成功した輸出産業ロックとの本質的な違いはといえば、彼等はあくまで本気でコズミックを目指していた点であろう。日本在住なのにFar Eastなんだから、これはもう昭和五十年の時点ですでにグローバル?な意識をしていたということなのかもしれない。
 しかし「快挙」というならむしろ次作「多元宇宙への旅」だな。なんせプロデュースはクラウス・シュルツェ、レコーディングはマナー・スタジオだぜ。40年後の近未来Now、スーパー・デラックス・エディションを出すならツェッペリンじゃなくて「多元宇宙への旅」だろうが! 
 …その昔「多元宇宙への旅」発売直前の時期だったか、NHK「若いこだま」に芹沢のえが出演したことがあった。
 彼女はイチオシとして「地球空洞説」を紹介した。ホストの渋谷陽一は「いや〜ボクはこういうドベッとした典型的な日本のロックはもう古いと思いますね、なんか70年頃の日比谷野音みたいで。やっぱりこれからはクイーンとか感覚的に突き抜けたアーティストの時代なんじゃないかな」と無遠慮に批判した。
 それに対して芹沢のえは「…あんたバカなんじゃない?」と軽くいなしたのだった。
 よく放送されたものだと今更にして思うが、きっと両者どちらの言い分も間違ってはいないのだ。
 昭和五十年。
 この、あくまで抜けの悪い、ぶきっちょなジャップ・ロックは決してクールなどではなかっただろうが勘違いはしていなかったように思う。


全世界を震撼させた東洋の感性
日本コロムビアの万全のA&Rは賞賛に価する

16.4.15







 「〜その頃、日本語の歌で『なんとかなんです』とか、あれがすごいイヤで、もう、あれだけは嫌悪してたから。『ですます』じゃやっぱりロックは歌えないと思ったよね。要するに全然速度が違うんだよ、サウンドの速度と」(ロック画報2003年11号森園勝敏インタビューより)。
 流石モップスとダイナマイツの生演奏に薫陶を受け「一触即発」を作った男の言うことは直裁にして磊落、けだし名言である。
 無論、速度とはBPMではなく意識のことを指す。意識とは即ち世界との距離感であるから「ロックを歌う」ということは、音の中と外で自分を対象化し見つめるということなのだ。
 叙情にも抽象にも徹することを拒んで揺れ動く野放図な歌詞が彼の意識を援護した。
 GSとピンク・フロイドとキャプテン・ビヨンドの黄金の三角池帯がこのアルバムだ。
 国産の卓で録音されたという、薄青い膜に包まれたような中域が印象的なサウンドの速度は宿命として短命だったが、それは彼等の青春そのものの投影でもあったにちがいない。

これと黒船のサウンドはリアルタイムで衝撃だった
友達に貸すとなかなか帰ってこなかった

16.3.2








 ある意味ナゾのレコード、そっくりモグラの毛語録。ロバート・フリップのプロデュースというのが唐突というか奇妙な人選である。
 ビル・マコーミック曰く、
 「フリップをプロデューサーに使ったのは大失敗だった。少なくとも彼のおかげでフィル・ミラーは指も動かせないくらいブルッちまったんだからな」
 「俺たちが使いたいと思ったテイクがフリップが承諾しなくて使えなかったとか、そんなことにまでなった」(マイケル・キング著「ロング・ムーヴメンツ」より)
 …だから言わんこっちゃない。
 ゲスト参加したイーノがGloria GloomのイントロにくっつけたシンセとSEのテープ・コラージュが、翌年に出る「Lark’s Tongues in Aspic Part 1」のイントロによく似た構成なのは、きっと偶然ではないだろう。プロデューサーはギタリストを威圧しただけで帰ったわけではなく、しっかりとお土産も手にしていたのだ。
 前作のウェットな雰囲気とはうってかわって即物的で乾いた音像はフリップの嗜好を反映しているが、それがバンドにとってどれほどメリットがあったのかは微妙で、やや強権発動に過ぎる感もある。
 古巣を追われたワイアットが自身のグループでやろうとしたのは、作曲と即興と演奏とが不可分に溶け合った純度の高い音塊の再提示だった。つまり最初期のソフト・マシーンがすでに成し遂げていた語義通りの「自由な音楽」の奪還である。
 だからこそ彼はあえて再度ソフト・マシーン (Machine Molle) の名前を冠したのだ。このことは67年のソフト・マシーンを捉えた秀逸なCD「Middle Earth Masters」を聴けばよくわかる。
 67年のソフト・マシーンは後のファウストやディス・ヒートの萌芽と考えて差し支えない。
 おそらくワイアットは作曲と即興の境を自在に行き来する69年のオリジナル・クリムゾンのライブを体験したことがあって、そこにかつてのソフト・マシーンの残像を垣間見たのだろう。
 彼がグループのステップアップにフリップの手助けが有効だと考えたのだとすれば、この人選は決して唐突ではなかったことになる。
 ジャズという共通言語がキング・クリムゾンとソフト・マシーンのリンクを可能にし、その先に新しい何かが生まれる可能性があったのだ。
 たまさかこれがフルセットのドラムを叩いたワイアットの最後のアルバムとなってしまったことは残念だが、不幸なことではない。
 マッチング・モールとオーヴァリー・ロッジの交配は「太陽と戦慄」を生み、一方で「白日夢」が生まれ、ロックの幸福な時代を彩ったのだから。


スネアの響き線を取っ払ったドラミングの冴えはすごい

16.2.22









 What if の話をしよう。
 もしシド・バレットが重度の薬物依存を回避できるメンタルを持ち合わせていれば、ピンク・フロイドの2ndアルバム「神秘」は「S.F.Sorrow」を軽く上回る色鮮やかなグラマラス・ロックに仕上がっていた。
 面倒臭い映画音楽の仕事なんかは受けないので「モア」は存在せず、3rdアルバムとなる「ウマグマ」は各メンバーの緩慢なソロ録音とライブの抱き合わせではなくツェッペリンの成功を意識したシド一流のファズギター・オリエンテッドなハード・ロックになるはずだった。
 いかんせん4小節毎のフィルインばかりに拘るドラマーと左手がスローなベーシストのせいでなんともバランスの悪いヘヴィー・サイケにとどまり人気に陰りが出るも、後年になって一部のマニアから「Think Pink」を凌ぐUKサイケの名盤との再評価を受ける。
 そこで「オーケストラとの共演?そんなクソ退屈な仕事はナイスやパープルみたいな退屈な連中にまかせておけばいい」と制作した「原子心母」は、ハード・ロック路線に見切りをつけたシドが気晴らしに聞いていたザ・バンドやフライング・ブリトー・ブラザーズに影響されて初期の看板だったスライドギターをペダルスチールに持ち替えた気楽なカントリー・ロックだった。
 シドにしてみれば「ナッシュヴィル・スカイラインに対する英国からの回答」のつもりだったが、これはさすがにファンとメディアの双方から総スカンを食らう。
 そうこうしているうちにボウイ、Tレックス、ロキシー・ミュージックの台頭に焦ったシドは元祖グラムのプライドをかけて初心に戻り「サイケデリックの新鋭」を次世代型にアップグレードしたパワー・ポップの会心作「おせっかい」を発表する。
 「おせっかい」からはジーン・ジニーやイージー・アクションと共にUKチャートの上位を競う艶やかでギラついたシングル「タコに捧ぐ詩」を切って一躍スターダムの頂点に。
 依然として面倒臭い映画音楽の仕事なんかは受けないので「雲の影」は存在せず、期待のニューアルバム「狂気」では「グラムはもはや過去の遺物さ。ボクは今ソウル・ミュージックに夢中なんだ」と早々とグラム・ロックからの離脱を宣言したシドがボウイに先駆けてスティービー・ワンダーやオハイオ・プレイヤーズ等を畸形的に解釈した16ビートのファンク・ロックに挑戦。
 しかし16ビートに全く対応できないニック・メイソンは解雇され代わりにアンディ・ニューマークの起用が検討されるが、ここでシドの独裁体制に不満を募らせていたロジャー・ウォーターズがメイソンと共に脱退。
 ウォーターズは「アローン・トゥゲザー」発表後レーベルとの契約トラブルで低迷していたデイヴ・メイソンに声をかけ新バンド「スターズ」を結成し、米国南部への憧憬を胸にレイドバックしたUKスワンプを追求していく(余談になるがスターズがマイナーレーベルに残した2枚のアルバムは今ではマイティ・ベイビーやアーニー・グレアムの諸作と並ぶUKスワンプの名盤とされ、オリジナル盤は200ポンド超えのコレクターズアイテムとして取引されている。現在ウォーターズはスコットランドで鮭の養殖業を営み悠々自適の余生だという)。
 もとより黒人音楽に関心のなかったリック・ライトはスタジオから失踪、「狂気」の制作は暗礁に乗り上げる。
 そこでシドは未知のカテゴリーに活路を見出すべく旧知のジョー・ボイド経由でクリス・ブラックウェルにコンタクトを取った。噂に聞いていた大物、ジャマイカのウェイラーズをマーリー、トッシュ、ウェイラー抜きで「狂気」のバックバンドに起用を依頼するという荒技に出たのだ。
 新しい強靭なリズム「レガエ・ミュージック」とシドの華やかなメロディーは最高の相性だったはずだ。
 しかしブラックウェルはウェイラーズのメジャーデビューとなる「キャッチ・ア・ファイアー」制作に腐心していたためシドのオファーを拒否。
 レコーディングもライブツァーもできない窮地に陥ったシドは再び薬物に手を出してしまうのだった…。もはやシドに忠告する者はいなかった。
 「狂気」は「ライフハウス」「スマイル」と並んでロック史最大の未完成アルバムとして伝説化することになった。
 失意の隠遁生活の後、ふと忘れ物を思い出したように一人でスタジオ入りしたシドは、息も絶え絶えに最後の弾き語りソロアルバム「ピンク・ムーン」を録り終えると「オーヴァーダブはいらないよ。このアルバムにアレンジは必要ないんだ」とだけ言い残し去っていったという……
 あれ? なんか間違ったなオレ。


You can say the sun is shining if you really want to
I can see the moon and it seems so clear

You can take the road that takes you to the stars now
I can take a road that'll see me through

16.2.1









 自分の中では何といってもこれが最高位のレコードだった。グラム時代からFMで流れるシングル曲にはリアルタイムで接していたが、リアルな表現者として彼を意識したのはLowが初めてだった。
 だらしない自分の記憶力だが1977年当時、阿木譲が近畿放送のAM番組ファズ・ボックス・インで
 「もうボウイみたいなね、あんなに知的なロックミュージシャンでさえパンク・ロックっていうものに対してね、もう無視できなくなっているっていう状況だよね。新作(Lowのこと)ではいち早くパンク的な要素っていうか、例えばああいったパンク・ロック的な、荒いドラムのサウンドなんか(A面のこと)を取り入れてたでしょ? そういった点だけをとってもね、やっぱりホントに彼はしたたかだし、確かな人だな、とボクは思います。はいじゃあ次は、ヴォイドイズの新しいシングルを紹介します」
 といった感じで、あの陰鬱だが自信に満ちた低い声で訥々と語っていたことは高校3年当時の鬱屈した日常の気分とラフミックスされたまま、いまだに、やけに生々しく覚えているのだった。


A New Career in Heaven

親の寝静まった深夜にヘッドフォンで幾度となく聴いた
A面ラストからB面にかけての流れは圧倒的だった

16.1.12









 イギリス南部の港町ボーンマスのマイナーバンドだったジャイルズ・ジャイルズ&フリップの小市民的な鄙びたポップスをプログレッシヴ・ロックの真紅の大輪へと一気に跳躍させたのはピート・シンフィールドの絢爛たる詩世界だけの所為ではなく、もとより彼のプロデューサーとしての野心と才覚あってのことだった。
 単なる詩人気取りのヒッピーではロバート・フリップと互角にソングライティングチームを組んで4枚の作品を上梓させることなど到底できなかっただろう。
 しかも、まず選び抜かれた言葉で編まれた精緻な歌詞があり、音楽がイマジネーションの翼を補完し昇華させるというビートルズとは真逆の成り立ち方で。
 初期クリムゾンは常に詞先だった(後期クリムゾンがインストゥルメント主体の音楽へシフトしたのはフリップの自我の目覚めがこの束縛を断ち切らせたからである)。
 バンドの命名者でありながらグループを追われた後もその印象が薄れることなく改名はありえなかった、という点でピート・シンフィールドはシド・バレットと同じ立ち位置にいた。
 初期クリムゾン4作に通底する、あの透徹した時空間の感触はミックス段階での大胆なリバーブ・エコーON/OFFとパンニングの緻密なコントロール、そして始終神経質なフェーダーの上げ下げに負うところが大きかった。
 それはフリップというよりもシンフィールドの嗜好であったことを裏付けるように、Lark’s Tongues〜以降の作風は殊更に生音を強調した閉塞感の強いミックスに取って代わり、リバーブ・エコー処理は常に最小限に抑えられている。
 またライブ演奏時に於いても、ミキサー卓を操作してドラムの音をVCS3に入力しPAの出音に暴力的なノイズ・トリートメントを施すという荒技を披露したシンフィールドのオペレーションは、間違いなく初期ロキシー・ミュージックに於けるイーノの手法に大きく影響を与えている。
 そして、クリムゾンのオーディションに現れて「エピタフ」を(間違いなくあの唱法で堂々と)歌ったブライアン・フェリーの異能に着目したシンフィールドがロキシー・ミュージックのデビューに尽力したのはプロデューサーとしての慧眼であり必然であった。
 フリップ&イーノもこの流れから派生した。まさにChance Meetingだ。


The original Roxy was in a sense Re-Maked/Re-Modeled Crimson

If There Is Somethingのライブバージョンは完全に初期クリムゾン
(マンザネラのギターとメロトロンのからみは悶絶モノ)
A Song for Europeの終末感はまさにエピタフの本歌取り

16.1.5

 

 

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