ひとこと



ひとこと

 

今年のオルグ・レコード大賞は、頭士奈生樹/III(ORG-020cd)である。自社商品でナンだが、こればかりは仕方あるまい。じつに7年ぶりとなった頭士くんの新作「III」は、あくまで私的な音楽表現という形式が臨界点に達した、ロックのひとつの果実だろう。ニック・ドレイク、ティム・バックリー、加橋かつみ、原正孝、かつて同じベクトルの表現にこだわった誰もが20代のうちに頓挫、あるいは自滅していった。みんな同じ場所を目指していたのに。その心の成層圏に頭士くんが到達するには、やはり21世紀まで待たなくてはならなかった。2005年にこういった作品が実を結んだ。オルグの20年間が決して無駄ではなかったことを今、誇りに思う。

05.12.29.

 

 

 


ロン・アシュトン?うん、彼ホント いいよな。ロックのギターといえばロン・アシュトンかフジオかってぐらいで。ほんでもってアメ公ロックでなにが最高かっていや、VUでも MC5でもBCでもなくて、やっぱりそれはストゥージズ。メリー・クリスマス。

05.12.24.

 

 


 

いつのことだったか、数年前、アルケミー・レコードの広重氏が、ジェネシスの「トリック・オブ・ザ・テイル」から「そして三人が残った」までの時期の作品の中途半端さが心地良い、それ故に愛着を感じる、といったようなことを書いているのを読んだことがある。つまりピーター・ガブリエルが脱退しドラマーのフィ ル・コリンズがリード・ヴォーカリストにコンバートして従来のファンタジックなプログレッシヴ・ロック路線を深めていったあげくポップス 路線に新たな活路を見い出すまでの、いわば過渡期の作品群である。広重氏の文章を読んだ時、自分にも思い当たるふしがあるな、と思ったものだ。確かにこの時期のジェネシスにはなんとも言えない、なんとも気恥ずかしいような愛着を覚えるのだ。それは鬱屈した少年期の自分の姿と、童話の絵本をそのまま音にしたような当時のジェネシスの甘〜いサウンドとが重なってしまって記憶に固着しているからだ。特に「静寂の嵐」と「幻惑のスーパーライブ」は友人から借りてカセットに録音し、受験間近の高校生だというのに結構な回数を聴いた記憶がある。だが当時のジェネシスの甘いサウンドは、真剣に聴こうと思うと自分で自分がアホらしくなってくるような…、特大のクリスマス・ケーキのようだった。ま、そこがよかったんだが。フィル・コリンズの声には、グレッグ・レイクやブライアン・フェリーの声が喚起するような感情移入をさせない、絶対的な軽さがあった。「ま、キッチリと歌いますよってに、ひとつよろしゅうに。な、兄ちゃん」と肩を叩いてから急に表情を一変させて歌い上げるプロフェッショナルな職人ミュージシャン…の声だと思った。おそらくあの時期に、何かが確実に終っていたのだ。プログレッシヴ・ロックはプロフェッショナル・ロックになり、それはUKへと伝導されていった。「幻惑のスーパーライブ」は、その過程を伝えるドキュメントとして成立した優秀なライブ盤だ。今でも……たまに…無性に聴きたくなるのだ、これが。でも持っていない。ああ恥ずかしい…。

あのやるせない毎日を思い出す「静寂 の嵐」
音楽的にはトニー・バンクスの「鍵盤楽器の嵐」
実際に甘い和音ばかり選んで丹念に塗り込めてある
おかげでひっかかりがほとんどないのがこのアルバムの魅力

05.12.8.

 

 

 

 

スズキの塩焼き、骨有りで。アマガレイの造りもいいですよ。あの肝がなあ・・。うん。あ、お酒、おかわりね。ぼくは今日はぬる燗でいこかな。きみは? そう。ほな、焼酎を お湯割りでね。ああ、おいしいねえ、うん。おいしいものをおいしくいただけるというのは、まことにしあわせなことである。

05.12.1.

 

 

 

 

そうして今朝も、かなしいほどに空は晴れわたっていた。どうしても青いのだ、空が。秋の気配はとうに逃げ去っている。朝顔の花々は茶色い種になっている。知らないうちに。毎夜、知らないうちに意識はうすれ眠りに溶けていく。日々の重なりは、その数だけ記憶の果てに尖塔を立てつづけている。だが、誰も訪れることはないだろう。一番古い塔からは声が聞こえてくる、と親しい友人がいつか歌にしてみせたことがあった。覚えているかい? ああ、僕はもちろん覚えているとも。でも、昔からいつだって僕の記憶の方がいい加減だったけれどね。

05.11.20.

 

 

 

 

昨夜おそくからの雨が、独り言のように窓の外で佇んでいる。彼等はいつのまにか朝の雨になった。薄暗く横たわる朝の雨が鳥たちを黙らせる。胸元からするりと入りこんでくる冷たさが子供のようになつかしい。ゆっくりと衿を寄せて、今はもういない者たちのことを考える。きょうは濡れた道を歩くのだから。

 

05.11.3.

 

 

 

 

 

うちのドラムの竹田の『渚にて』原画展が心斎橋の複眼ギャラリーで開催中である。先週の土曜はここで演奏した。ギャラリーなので通常のエレキ編成では音量の制約があって演奏できない。したがってアコースティックでやらざるをえない。そこで、ウッド・ベースを持って来させた。で、竹田はスティックではなくブラシでドラムを演奏するのだ。もちろん僕は生ギターで。これが予想以上におもしろい。我ながらシブい。ジャズとは程遠い渚にての音楽にせよ、これでピアノとアルトが入ったら完璧に「気分」である。さしずめ70年代のトム・ウエイツか。だが、それはしないのが大人の「粋やねえ〜」というものである。今週の土曜にもう一度、ギャラリーで同じ編成で演奏することになっている。4ビートはやらないけど、やっぱり言ってみたくなる。It don't mean a thingスイングしなけりゃ意味ないね。

05.10.25.

 

 

 

 

おととい、渚にての『花とおなじ』『夢のサウンズ』のアナログ盤のテスト・カッティング、つまりラッカー盤を試聴した。ラッカー盤とは、海外でいうところのアセテート盤にあたる。レコードをプレスするスタンパーの元になるものだ。これを元に銀ラッカー盤を起こし、そこから更にメタル・マスター盤、そしてマザー盤と全部で3回のメッキ作業工程を経てスタンパーが完成する。カッティング・マシンはもちろん、ノイマンVMS70。マスター・テープの送り出しはドイツ・テレフンケンのテープ・レコーダー。今回はじめて知ったのだが、テレフンケンがノイマンVMS70純正の組み合わせだそうだ。前作『こんな感じ』はステューダーのA−820が送り出しレコーダーだったので、カッティング作業の時点で再生音の質がかなり違って感じられた。さて、持ち帰ったラッカー盤は家のステレオではどう聞こえるだろう? こ、これはスゴイ。やっぱり違う! 慣れ親しんだステューダーの明るく華やかな中高域とは異なるキャラクターだ。重く、やたら中低域の輪郭が太い。かすかなリヴァーブでさえ6Bの鉛筆で書いたみたいな濃さを帯びている。チューニングを下げてミュートしたスネアの音、ベースの倍音、スルドの重低音、ヴォーカルのはり出し、どれもこれも「鳴り」が重量級だ。なにより、全体の音像そのものがデカイ。これじゃもう、CDなんかセコくて聞けねえぞ! よっしゃ、異議なし! これからはテレフンケンだ。

05.9.17.

 

 

 

 

きのうまで咲いていた朝顔の花が今 朝、おちる。その一瞬を選んでいたかのように。黒い土にふれる時、かすかにやわらかい音がする。こんな風にかろやかに、朽ちていけるなら。何を恐れることもなくなる。

05.9.9.

 

 

 

 

  

きのうの夢に、二年前の夏死んだ古い友人があらわれた。彼は、もう終電がなくなったから歩いて帰ろう、としきりに訴えかける。だが、彼はすでに生きてはいないのだ。いったい何処へ帰ろうというのだろう。ねえ、君は死んだんだ。だから、もう急いで帰る必要はないんだよ。まだわからないのかい? うまく説明してあげようと思うのだが、なぜだか視線があわず、話しかけるタイミングをつかめない。意に介さず彼はどんどん歩いていく。こんなすれちがいを、彼とはよくやったような気がする。彼にはまだ、帰らねばならない処があるのだろう。僕はまだ、帰るわけにはいかないよ。わかってくれるかい? 夢は唐突に途切れた。ひときわ残暑のきびしい、この夏である。

05.8.20.

 

 

 

  

 

よっしゃ、異議なし!

 

 

 

 

 

まったく手前味噌ではあるが、頭士くんの新作「3」がよく売れている。同時にCD化した1st「パラダイス」も、オリジナルのアナログを見たことがない、という最近の若い人達の声を裏付けるかのように、新作と一緒に購入する方が多い。考えてみれば、88年の「パラダイス」と今年の「3」には、17年という時差があるのだ。じつに彼は17年間で3枚の作品しか発表していない。17年前に頭士くんが作った「パラダイス」は、今になって聞くとより一層心にしみるものがある。「3」は今までの中でもっとも静かな遅い音で構成されている。だが、3枚の中でもっとも激しく聞く人のたましいをゆさぶるのは、この「3」なのだ。激烈、といってもいい。こんなすごいもの、本当は他の誰にも聞かせたくない…じつは密かにそう思っている。すでに盛夏である。

05.7.17.

 

 

 

 

  

はもちりは梅肉よりわさび醤油。 アジはシマアジ。酒は純米より二級を常温で。ただし三合までときめる。皮くじらには酢みそ。黒豆の枝豆には食卓塩がむしろ風流であろう。運がよければスズキのカマの塩焼きにありつくことができる。ただし、酔いにまかせて「新京極」とだけは決して口走ってはならぬ。 せっかくのアマガレイの肝の淡白な味わいが損なわれるからである。

05.7.12.

 

 

 

 

まぬけ。スカタン。まぬけな人達というのはいつの世も絶えることなく存在する。時として自分がその末席を汚すことも、ままあるのだが。やっさん流に言えば、「いや、 かなんな〜しかし」である。まぬけな連中を蔑視しているくせに、自分が同程度の失態を演じてしまったことにはたと気づいた時の心の真空状態といったらもう…それは爽快ですら、ある。まぬけな話がずれるが、太平サブロー演ずるところの「やっさん」には本能的に首肯し難いものを感じてしまう。だいたいやで、あんなん、単にええ人なだけで、全然おもろないやん。かの中村宗一郎氏が偽善音楽を指して言うところの名台詞「うりゃ〜もっと毒吐かんかい〜」なのである。

05.6.30.

 

 

 


 

随分久しぶりに訪れた大阪市鶴見区は、相変わらず凄みを感じさせる町だった。切なささえ覚えるほどに。ここいらは、たとえば浪速区界隈の、義理人情がどんよりと沈澱して固まったようなアスファルトとは、「格」が違う…、というようなことを否応無しに思わせる場所だ。関西経済を担う幹線道路である 中央環状線は片側4車線。群がり行き交う10トン車のディーゼル・エンジンが噴き散らす排気ガスと、ほとんど廃屋のような工場群から漏れ響く金属音が、煤塵まじりの光の澱みの底で奇妙に溶け合い、もの悲しく調和してしまっている。この景色は、大阪固有の風土と言う他ない。かの「はっぴいえんど」には、決して歌にできなかったであろう都市のえげつなさよ。大阪はまだ、1970年からそう遠く隔たっていないのだから。煤けた壁の民家と町工場の境界線を仕切るブロック塀が、どす黒い廃油で染めあげられ美しい鈍色のグラデーションを形成していた。まるで年輪のように。

05.6.17.

 

 

 

 

 

そうだな、アレはいいよな。あの「カスい」感じがさ。ジャケットが銀紙でさ、そこに山脈の遠景と瞬く北極星?が青紫で刷ってあるわけよ。あれがまず強力じゃない?そりゃ最初聞く前にさ、もう、すご〜く濃い音楽を期待しちゃうわけよ。おー、天空駆けるプログレッシヴ・ロックよー!ってなもんで。でも、針落とすとけったいなバイオリンがひょろひょろ出てきてさ、タイコが「スッカンスッコン」って。いきなり人を喰ったアチャラカですわ。なんや、エキスポランドの踊りとタイコの納涼ショーかいな。「コーメスタ。ラ。ルーナヤ」とかな。あんた、そら冗談キツすぎやで、ホンマ。あれよあれよと聴いとるうちに気ィついたらフュージョンみたいな鉄砲玉やんか。あの辺りやねえ、僕なんかにしてみたら。 いや『ブルース・フォー・アラー』やないけどね。そや、『スーン・オーヴァー・ババルマ』ってイニシャルは…SOBやな…もうキミとはやっとれんわ!

05.6.7.

 

 

 

  

「彼は軽蔑に値する男ですよ……」彼は煙草を取り出し、ゆっくり火をつけた。深々と紫煙を吸い込んでは天井に吹き上げる。その物腰はまるで、『ツィゴイネルワイゼン』の藤田敏八であるが。確かに、彼はそう言い切ってしまえる連中を少なからず知っていた。だが、もとより礼節を知らない連中が尊敬に値しないのは自明の理、そんなことにいちいちこだわりたがる彼の性癖こそが彼自身の問題であり、足枷となっていた。いわば、つまらぬ正義漢である。「酒は二合までと決めているんでね…」訊きもしないのに、こう呟いては冷や酒をちびり。それが健康上の理由なのか、はたまた眠狂四郎ばりの「流儀」に因るものなのかは、判然としない。まあ、気取っているのであろう。単に滑稽な男だともいえるのだが、持ち前のつまらぬこだわりが時として、真実を見抜く眼力を発揮する場合もあるとあっては、いやはや、敵にまわしたくないタイプではある。見方を変えれば、こういった厄介な人間の扱いは簡単だ。彼はまだ気づいていない。そこで、世の中を敵と味方に峻別する方法を教えてやるのだ。それですべては解決する。


05.6.3.

 

 

 

 

いい気候がつづきますな。こんな陽気だと、朝日の差してるうちにモグラの穴なんか探しに行ってきょとんとしてみたり、そのあと犬といっしょに家に帰って庭の伸びすぎたキンモクセイの枝を刈ってみたりしているうちに影が丸くなってるのに気がついてしまう。もうお昼か。それにしても陽が早いな。いや、それともおれがのろいのか? たぶん両方だな、きっと。あっ、飛行機雲だ。


05.5.23.

 

 

 

 

まぁ〜みなさん聞いてください! オルグ・レコードと、渚にて。どちらも公式な窓口をあえて設けずにいましたが、このたび、ここにささやかなページを開設するはこびとなりました。責任者出てこ〜い! はい、代表の柴山です。ほな、ぼちぼちいこか。てな感じでやっていきますので、みなさん、どうぞよろしくお願いします。かれこれ「オルグ・レコード」をはじめて20年、「渚にて」は10年になりますか。そのあいだには実に色んなことがあり、また色んな人々に出会い別れてきました。そのどれもが必然であり偶然であるかのような顔で待ち受けていては過ぎ去っていった。時間にのって。本当に時間にだけは逆らえないもの。さすれば、オルグ・レコードで作ってきたLP、CDはそんな時間の木になった果実で仕込んだお酒のようなものか。さあ今度はどんな実がなるか? ほな、ぼちぼちいこか。

 

05.5.14.

 

ニュウス

さくひん

ひとこと

いちまい
 
   

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