ひとこと



ひとこと


『ペット・サウンズ』を聞いてブライアン・ウィルソンに「音楽は素晴らしいけど、ジャケットデザインだけは次からもっと真剣に考えた方がいい」と進言したというポール・マッカートニーの鷹揚な直截さが俺は好きなんだが、ピート・シンフィールド仕切りだった初期クリムゾンは装幀の重要性を最初からずっと意識していた。1枚目からこの最終作へと視座が遠ざかっていくコンセプトも見事であった。だがその最終曲で重要な肝だったキース・ティペットの煌めくミスタッチをあろうことか削除して無難なフレーズに書き換え、しかも2回目のサビ後からフライングでメロトロンを早出ししてしまった40周年リミックスの失態は一体どうしたことか。シンフィールド会心の激シブMixだったコーダ部、徐々に沁み透るメロトロンを先導して幽かにフェイドインしてくるはずのドラムも最初から無粋に大きく出しすぎ、オリジナルの陰影と品格がすっかり削がれてしまったのは末代まで語り継がれるべき痛恨の更新エラーであったが、遥かに時を隔てたこの未来世紀にあっては、1971年とはなんと豊穣なロックの収穫期であったことよのう、と感嘆するしかない。

Earth, stream and tree return to the sea
Waves sweep sand from my island, from me.

15.12.30



ハルモニア。LP6枚組ボックス・セット。今年の締めくくりにふさわしい大物だ。この三点支持ジャケ写を見てしまった時点で負けでしょう。初めて聴いた摩訶不思議と太陽讃歌のリマスターは、ブラッシュアップしすぎ。マスターのヒスノイズを除去するなってば。おかげで1stの猥雑な密室感、2ndの風光明媚な空気感がざっくり削がれてしまっているんだが、まあ今時のエンジニアの仕事はこういうことだから仕方ない。目玉の未発集「Documents 1975」はこちらの期待が大きすぎたせいでやや肩すかし的な内容だったが、それでも十二分に、いい。異端、重厚、耽溺、ドイツ・ロックだ。もう2016年、半世紀前にアーサー・C・クラークが描いた未来が今なのだ。こんな音が聴けるだけでも長生きした甲斐があったというものだ。このプロジェクトの完パケの事実自体が大いに賞賛に値する。讚えよ!ハルモニア。


Another Complete World

15.12.15



渚にてによるMNKリスト MNK List by Nagisa Ni Te vol.9


その9 :
アンソニー・ムーア
Anthony Moore/Secrets of the Blue Bag

 

見ろよこの永遠な空気感漂うジャケット。その昔ブロンズ社「ブリティッシュ・ロック大名鑑」のちっちゃなモノクロ写真を飽くことなく何度も眺めてはその内容に想いを馳せたものよ。その後万難を排して入手、「Out」の前日譚的なものを勝手に期待していた自分を痛快に裏切るドレミファソの堂々とした反復(「Out」のオープニングStitch in Timeのイントロに引用していたのは感動的だった)の典雅なアホらしさとシュールな題名のマッチングに「ドレミは青い袋の秘密か、う〜む」などとよくわからぬままロマンチックなイメージを曖昧に重ねたまま疑いもしなかったんだが、近年よく考え直してみたらどうやら大いなる勘違いを長年してきたような気がしてきた。偶然知ったのだがBagとは「侮蔑的な含意をもって女性を指す言葉」の意味があるようなのだ。Old bagはババア、Bag shantyは淫売宿。そこでハッとこのレコードを思い出した。そういえばBlueもブルーフィルム、古典的に淫らな形容詞だったじゃないか! そしてSecretは複数形の場合Secret parts、陰部を指すこともあるらしい。ということは…Secrets of the Blue Bagとは「淫乱女のアソコ」のダブルミーニングだったのか!?と思い至った時の軽いショックはこの間抜けな骨董盤に新たな説得力を付け足した。やってくれるじゃないかアンソニー。ファウスト「So Far」のミキシング・ルームにはストーンしたピーター・ブレグヴァドとアンソニー・ムーアがいたという。もう何もかも伝説だ。Leg End。裏ジャケの自虐ネタ、1971年ハンブルグでのマース・カニンガムとの愛らしいやりとり「で、君は何をやってるんだいアンソニー?」「え、えーと、ぼ、僕は音楽をやってます」「ほう、すると君はミュージシャンなんだね?」「ぼ、僕は…あの〜僕は…えーと…えーと…」


ドレミは青い袋の秘密

15.9.19






渚にてによるMNKリスト MNK List by Nagisa Ni Te vol.8


その8 :
ニール・ヤング
Neil Young/Trans

 

ヴォコーダーで思い出したが、このジャケが誰得なのか損なのかがいまだによくわからない傑作をテクノで括ろうとする声が昔から多勢なのはいささか適当すぎる気がしていた。だってニルス・ロフグレンにフランク・サンペドロ、ベン・キースでしょ、でもってベースがビリー・タルボットあるいは元バッファローのブルース・パーマー、ドラムがラルフ・モリーナという平常シフトのリズム隊にクリックに合わせて演奏してみろという難題を吹っかけた?あげくの果てに哀愁のクラフトワーク風味のシンセとヴォコーダーをトッピング。かなり強引に、である。一応それっぽいコード進行の曲もちゃんと用意してあってそれはそれでなかなかに居心地良く、まるでハルモニアのMusik von Harmoniaが熱帯雨林に迷い込んだようなエレクトロ・フォークの趣。これをテクノと解釈するのはクリックとシンセの音色に惑わされすぎだろう。もっとも、もしもこのセッションをコニー・プランクが仕切っていればクレイジー・ホースはクビにしてメビウスとニーメイヤーに伴奏やらせるとかしてその後のヤング節もパラレル・ワールド的に別次元別世界の展開もあったかも知れないが、やっぱり担当はいつものデヴィッド・ブリッグスだったからアルバムのアタマとラストには従来の孤独の旅路気分を損なわないようなアーシーなロック調の曲を配置して往年のファンを一旦安心させた後に絶望の淵から救出する仕組みにしてある。サンドイッチされた本編部分はエレポップというには鈍重すぎで、テクノというにはエレクトロニカ的に難ありで、NWというには年食いすぎで、ようするに扱いに困る音楽だ。無理を承知でいうなればKOY、クラウト・オリエンテッド・ヤング。栄えあるMNKリストに堂々のランクインである。


Trans Young Express

(MNK=マヌケ あらゆる藝術に対する最上級の褒め言葉の意)

(Storytoneについて書こう書こうと思ってるうちに
また新譜が出てしまった…)

15.8.10






「遠泳」から永遠に


「魚の出てくる日」で唯一不満だったのは、ドラムの音像が小さかった点。すごくいい!でもこれでドラムがグッと前に出たらもっと最高なのにな!と何年も思っていたら、きっと同じ思いを抱いていたのであろうニック・メイソンが1978年にあっさり解決してくれたのが「GREEN」だった。どこをどう叩いているかがすっきりと見通しのいいドラムの音像は「雲の影」「狂気」直系の抜けの良さ。ヒレッジのギターはギルモア的に配置されており圧倒的なスケール感とわかりやすい宇宙浮遊フィールである。平たくいうとピンク・フロイドとゴングのいいとこ取りをした傑作だ。フロイドのメンバー仕切りでないとできなかったであろうフロイド流の小技ネタをちりばめた音響設計がひたすら心地いい。この後ヒレッジがアラン・ホールズワースのようにギター曲芸師としてフュージョンへ転向するのではなくテクノ/チルアウト的な方向へシフトしていったことは必然であり、彼のミュージシャンシップの健全さの証左でもある。当時は最先端のハイテク装備だったギターシンセとヴォコーダーが今や何ともレトロフューチャーな味わいに転じているのが二度おいしい。


Another Green World

15.7.21








「遠泳」から永遠に


このレコードがきっかけだった。ここから遡るようにしてゴング、ヘンリー・カウ、ハットフィールド&ザ・ノース、エッグを聴いていった。カーン、アーザッケル、ユリエルなんて口走るとゾクゾクするようなタチのヒトには宝石箱。CANTERBURY SUNRISE カンタベリーの曙光だ。この感覚は一生消えないね。初夏を迎える頃はこのLPを思い出す。


ヴァイナル史上においてLucifer RisingとFish Risingは別格

15.6.28








「遠泳」から永遠に


「人の物を盗むな!」と連呼しながら人の車を強奪するチャッピーはもはや新喜劇、ケッサクだった。やっぱりビカス、いやシャルト・コプリーという人の言語感覚、リズム感がずば抜けているということだろう。デビュー作『第9地区』があまりに突然変異的に突出した傑作となってしまったがためのプレッシャーが2作目『エリジウム』を半端な凡作にしてしまったことはブロムカンプ君自身が誰よりもわかっていたはずだ(善人ヅラしたマット・デイモンにヒーローを演じさせるという失策には会社側からの圧力も少なからず働いていたと思う)。そして正念場の3本目である。さすがに今回は居直り的に「結局オレがやりたいのは第9地区なんだよ!」と一皮ムケている。ケビン・エアーズは「自分の場合言いたいことはいつもひとつだけで、その違う言い方を何通りも考えるのがソング・ライティングなんだ」と語っていたがまさにその通り。エビをロボットに置きかえただけとの批判を覚悟の上で、臆することなくカット割りの独特のテンポ感でもって強引に2時間の尺を疾走させてしまった。いや大したものである。売れてからの課題となったメジャーなアクターを男女1名ずつ使えという必須条件のデメリットは、ヒュー・ジャックマンにねずみ男的なセコい小悪党をやらせることでクリアしたが、リプリー、いやシガニー・ウィーバーの方はもう仕方ないほっとけや、という感じの放置プレイなのだった。クラウス・ディンガー似の親分が「ニンジャ」(ホントにそう名乗ってるラッパーらしいです)で佐藤蛾次郎似のヒスパニック系の舎弟が「アメリカ」とか、キメの「テンション」とか、いちいちマヌケである。オレが欲しかったのはこの感覚。そう、前作に欠けていたのは、このMNK感、マヌケ感なのだった。その昔、デビュー作の呪縛から解放されんがためロバート・フリップは悪戦苦闘した末に『太陽と戦慄』を作った。そこまで突き抜けたレベルにはまだ至らないにせよ、今回はその健闘を素直に讃えたい。よくやったと思う。
P.S. 日本公開版がレーティングPG12をとるためにラストのグロシーンの一部をソニー判断で削除していた事案に関してだが、見ればフツーにどの箇所か瞬時にわかるヘタクソな編集でそこだけカット割りのテンポがスキップしてしまい見せ場のクライマックスの加速度が一瞬鈍る。残念だ。

 

あ〜あ、ハラへったな…
        

15.6.8







「遠泳」から永遠に


申告すると、自分の場合デヴィッド・アレンといえば「Good Morning!」であり、ゴングといえば「見えない電波の妖精」三部作ではなく「Shamal」なのだった。リアルタイムではスティーブ・ヒレッジ「魚の出てくる日」(デイブ・スチュアートの参画が大いに魅力)も入れて3点セットで順繰りによく聴いたものだった。Shamalはニック・メイソンのプロデュースというのがポイントで、阪急梅田東通商店街のLPコーナーで迷ったあげく当時は日本盤よりずっと高価だった英国盤を買ったのであった。プログレッシヴ・ロック→パンク・ロック世代には忘れられないロバート・ワイアット「白日夢」をプロデュース、ということでメイソンの存在には一目置いていたからである。他にもスティーブ・ヒレッジの会心作「Green」、ダムドのセカンド(これは傑作な人違いだったらしいが)みたいなのまであったが、立ち位置的にカンタベリー系とのリンクを忘れず妙にイイとこ押さえてるんだよな、このヒト。自分のソロではカーラ・ブレイに全曲作らせてワイアットに歌わせるとか、いくら金持ちプロデューサーだからって美味しいとこ取りしすぎ。ドラマーとしては大昔から悪口ばかり叩かれるがピンク・フロイドがヘタだとかムード音楽だとか吹聴する輩が一番わかっていない、ということは今さら指摘するまでもないだろう。間違いなくクリス・カトラーに影響を与えたであろうと思われる、あの大仰なスティックさばきから繰り出すドラミングの特徴的な「緩さ」は、察するところ「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」に於けるリンゴ・スターの連続する変則的フィル・インの異様なタイム感に由来するものだが、それはもはや大リーグボール3号的な倒錯した発想であり、豪腕豪速球ドラムを良しとする硬直した価値観からは決して生まれ得ないメイソン節なのである。その真骨頂は「デブでよろよろの太陽」で発揮されている。さて、そんなメイソンの世話になったデヴィッド・アレン不在の新生ゴング第一弾Shamal。マイク・ハウレットの恥ずかしそうな歌にはアンビエント以前のイーノにも似た瑞々しさがあり、とても良い。メイソンの仕事は、旧来ゴングの持ち味だった多国籍的な音楽性の枝葉を同時展開させていく形でアルバムを構成していくことであったと思う。その多面体の乱反射の輝きにも似た淡い魅力は、かつてバレットを欠いた新生ピンク・フロイドの再出発となった「神秘」にあった気概と同質の、幾分かの迷いに彩られた潔さにつながっているかのようだ。さあ未明の闇が引いた、この砂丘からどこへ向かおう?



砂 太陽 風

このアルバムのなかの音楽は決してoutにもinにもならない
音それ自体の広まりと多様な輝きなのである
(ライナーノーツより)

15.5.9


 

 

 

「遠泳」から永遠に


イディオット・オクロック。2度目の再発がリリースされるという。しかもメジャーから、である。僕がこのバンドに加わったのは1982年。京都だった。前身バンド「リラダン」の頃から度々ライブに足を運び、フロントの2人、つまりヴォーカルの高山謙一とギターの頭士奈生樹、の存在感には初めて見た時から圧倒されていた。重いけれどポップでよく練られたアレンジに乗った一風変わった歌詞と楽曲からは、彼らのバックグラウンドが透けて見えた…VUは言わずもがな、VDGGの構築された粘着質のヘヴィーさ、ドクターズ・オブ・マッドネスの自爆的美意識、初期ロキシー・ミュージックの畸形的なプログレ・パンク。そして全体を覆う、むせかえるようなGS(グループ・サウンズ)の匂い。なにより凄かったのは、それら個々の要素が借り物ではなく一度消化した(つまり本質を把握した)上で自分たちの新たな表現として再提出されていたことだ。「何てことだ! 彼等は自分が漠然と思い描いていた理想に近い演奏をすでにものにしているじゃないか!」そう思った。VUの追っかけをしていたジョナサン・リッチマンのモダーン・ラヴァーズ。スターリング・モリスンのリズムギターのカッティングを明確に引用したファウストとスラップ・ハッピー。ジム・モリスンがブライアン・ウィルソンを高く評価しその作品に一目置いていたこと。ドアーズの2代目ヴォーカリストのポジションを切望さえしたイギー・ポップが継承したのはモリスンのヴァイオレントなイメージではなく耽美主義だった。そしてストゥージズをリスペクトしていた(に違いない)リッキー・ウィリアムス(The Sleepers)は「Raw Power」の突発性難聴的な真空感覚を「Painless Nights」で表現した。隔世遺伝としか言いようのない流れ。真のオリジナリティーとは例えば、村八分がローリング・ストーンズのコピーバンドに聞こえない、という事実にこそ存在するのだ。そんなことを彼等の演奏に感じた。あれから33年。いろんなことが通り過ぎていった。この「オリジナル・ファースト・アルバム」からでさえ、26年経過しているのだ。89年初回盤のミックスをディレクションしたのは29歳の自分だが、今聞き直してみてもなかなかいい線を突いてる、と思える。今回はメジャーリリースということで中高域を持ち上げて音圧感を底上げしたリマスタリングが施されているが、この際目をつぶっておこう。また、オリジナル収録曲のうち「Idiot's theme」(原題「は・く・ち - Idiot's theme」)の「白痴」という文言が差別用語にあたるとのことで修正を余儀なくされたのは、これもメジャーの宿命なのだろうが残念。当該箇所の波形をショートディレイ的に崩して?音を濁らせてあるのだが、それでも「はくち」と普通に聞き取れるのが可笑しい。これなら昭和的にブザー音をピーと重ねた方が潔かったような気もするが、差別用語が聞き取れるかどうかよりも「発売元として世間に配慮して修正をしました」と言う既成事実が必要だったという解釈でかまわないだろう(はっぴいえんど「はいからはくち」なんか堂々とメジャー流通してるがアレはOKなのか?「ハイカラ白痴」の意味だが… )。レコーディングは16トラック、1インチテープ使用のアナログ録音、アナログミックスだがマスターは当時普及し始めたばかりのDATだった。ADコンバーターなど今の水準からすると貧弱なものだったはずだが、音痩せは少なかったように思う。聞き比べるとオリジナル録音のコシの強さと空気感の繊細さを感じさせる点ではオメガサウンドの小谷さんリマスターの01年再発盤に軍配が上がるが、今回の再々発盤の音もそう悪くはない。ただ当時のエグゼクティブ・プロデューサーとしてあえて言わせてもらうなら、イディオット・オクロックの音楽の「本質」は、決して寒々としたものなどではない。ボーナスディスクで聞けるハーディガーディの荒涼とした音色がそういったムードを感じさせる場面もあるが、それは表面的なサウンドの志向にすぎない。それでもこのアルバムの「本質」を強引に言葉で表現するとすれば、それは、氷に深く包まれた炎の熱気、あるいは凍った海がいつか溶けていく日々への怯えと希望、である。そう言い換えておきたい。さらに付け加えるとボーナスディスク収録の「爪跡」「火を灯そう」は大人の男が泣ける屈指の名曲、名演だ。この2曲のためだけに買っても決して損はしないと、ここに断言する。


Good night

15.2.17

 

 

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