ひとこと



ひとこと



 2018年、オルグ・レコードとしての新譜を13年ぶりに発表できる予定だ。それはつまり、頭士くんの実に13年ぶり!の新作。感無量である。

 いつだったか千葉のジャガーさんを引き合いに出して揶揄されたこともあるが(そもそもそれは究極のインディー、ジャガーさんに対して無礼千万というものであろう)、安っぽい金銭感覚だけで他者の行状を云々するしたり顔のやからには一生かかっても理解できないのがオルグ、そして「渚にて」なのである。

 さて今度の頭士くんの新作は、もう…なんというか…形容に困る巨大な未知の建造物を目にするような…大変なことになっている。前作「III」で達した心の成層圏の高みから大気圏外に突き抜けてしまって宇宙を俯瞰するような感がある。

 ただし、前作からの飛躍も相当なスケールなので、その分ハードルは高くなっている。軽い気持ちではついていけない。脱落者は必ず出るだろう。  
 そう、それでいい。

 今までも軽い気持ちの者は必ずといっていいほど脱落していった。それは俺が一番よく知っている。

 心あるひとにだけ頭士くんの新作は響く。

 The 4th Zushi album wiil be coming soon!


心あるひとにだけ頭士くんの新作は響く

17.11.11









 バスーン、オーボエ奏者をレギュラーメンバーとして据えようと考えたロックバンドは世界広しといえどもヘンリー・カウだけだろう。
 「Legend」の透し彫りのように端正なジャズロックと「Unrest」の深い谷底を覗き込むような仄暗いロック・インプロヴィゼーションとの距離は、彼女によってもたらされたものだ。
 王立音楽院でクラシックの教育を受けながらもUKアンダーグラウンド屈指の異端バンド、コーマスに加入するというバスーン女子。この飛距離は只者ではない。
 彼女のエッジの立った的確なバスーンは、ソフト・マシーン/ザッパ直系のジャズロックとデレクベイリー/SMEの英国伝統的インプロヴィゼーションとの間で寄る辺なく揺れ動くヘンリー・カウのオリジナリティ形成に思い切りよく楔を打ち込むような形で寄与した。それはさしずめ、ジェイミー・ミューアが進路に迷うロバート・フリップのネジを一気に巻き上げた経路と似ている。
 「Unrest」でリンゼイ・クーパーとヘンリー・カウが確立した、旧来の(プログレッシヴ)ロックの感覚に拠り所を求めない汎ヨーロッパ的な音像の輪郭は、全ての後年のチェンバー・ミュージックの雛形ともなった。 今となっては全てが愛おしい。

 これは25年ほど前にオーストラリアでひっそりと発売されたリンゼイ・クーパーの、まさに珠玉の作品。ニューズ・フロム・バベルの硬直した音楽性にはどうにも馴染めなかった自分だが、これは本当に素晴らしいと思う。

Lindsay Cooper
An Angel on the Bridge

いわゆるR.I.O.レコメン系ロックの範疇から貞淑に逸脱した、
フィメール・モダン・クラシカルの完成形

17.10.23









 謎の音塊と不分明の余白、 これが神秘のサード・イアー・バンド!

 70年代は天下無双の東芝音工洋楽部ディレクター、石坂敬一による胸のすくタタキが小気味良かった。実際、この名作の魅力をたった1行で浮き彫りにしてみせるセンスは相当なものだと言える。でもって、

 題名;天と地、火と水
 曲目:1. 天  2. 地  3. 火  4. 水

 見よ! この直球勝負。俺ホント好きなんだよね、こういうの。ミルフォード・グレイヴスのBäbiと並び称されるべき明朗会計である。ちなみに、
     
 題名;Bäbi           
 曲目:1.Bä  2. Bi  3. Bäbi

 ミルフォードは別稿に譲って、この字面だけ見ると小学生の習字大会みたいなコンセプトの単刀直入さを懐の深い感覚的な即興演奏で演出できるところがサード・イアー・バンドの凄味であった。
 高校生の時分、初めて聴いた時の衝撃は今も鮮明に覚えている。ピンク・フロイドとは別の宇宙が存在したのだ。
 この、まさに異端そのもの、のバンドがビートルズと(一応)同じ会社からレコード出してストーンズの前座やったりしてたんだから、70年代の英国ロックもまた懐が深かった。


このジャケ、最高!

時間の経過に耐久度高く古びることが一切ない
ホロフォニクスの先駆け的な屹立した音像はキューブリックの映像美に匹敵する

これ聴くと決まってソフト・マシーンの「収束」「ソフツ」が聴きたくなる
一体なぜなのか? オーボエ?

17.9.1









 真のメロウネスはサウンドメイキングではなく精神の強靭さの下に宿る。
 このことを、まさに圧倒的な音楽そのもので実証したのがこのアルバムだ。この人の不思議な、そして「いえてる」ところは僕のキライな「フォークシンガー」的な矮小さをはるかに超越したスケール感とその構成力である。
 もちろん魅惑的なメロディメーカーとしての才能と、透明感とスモーキーな翳りを湛えた歌唱の魅力は天賦の才能であったにせよ、この業界で音楽そのものよりも重要なポイントがプレゼン的な営業面をも含めた自己プロデュース能力である、ということは暗黙の了解事項だ。
 ところが彼はその点においても万全であった。70年代ロック音楽業界においてツェッペリンとフロイドからのサポートを得る、ということはマネージメントサイドからすればこれ以上ないメリットがあったことだろう。
 デイヴ・ギルモアは根っから善意の人のようだからWin-Winだが、ジミー・ペイジは昔から言われる通り転んでもタダでは起きない、抜け目のないタイプのヒトらしい(洋の東西を問わずこんなヒトいるよな)。
 彼はペイジからのリスペクトを最大限に活用しつつ、逆に利用されることのないよう注意深く距離を取っていたに違いない。だからこそ両者は良好な関係を保っていられたのだろうと想像するのだが。  
 まあそんなことはどうでもいい。
 そんなことよりも、彼の音楽の寡黙な雄弁さとでもいうか、時に雄弁を通り越して饒舌になりかねない言葉数の多い歌詞をものともしない透徹したオープンチューニングのコードを軽やかに縫い上げるメロディーラインの曲線美よ。A2「These Last Days」のとろける滋味を聞いてみろよ(DLでなくオリジナルUK盤のLPでな)。

 これこそ、深い心の奥底から信じることのできる、真のメロウネス。


何気にロニー・レーンの参加が嬉しい「イギリスでの或る日」
ポールまで入ってるらしいが、しかし皆んな一体どこに入ってんだ?
Hats off!

17.7.7









 サードなんだよな!

 知ってるかい? 俺の「サード・アルバム伝説」。
 俺の好きなバンドって、必ずと言っていいほどサード・アルバムがポイント高いんだよ。
 フロイドだったら「ウマグマ」(モアはサントラだから除外)、ロキシーだったら「ストランド」(初めて買ったロキシーのLPだった)、クリムゾンだったら「リザード」ね、イエスだったら「イエス・アルバム」で、ソフト・マシーンだったら「サード」、カンなら「エゲ・バミヤージ」(サウンドトラックスはサントラだから除外)、VUだったら一番回数聞くのは「The Velvet Underground」クローゼット・ミックスと相場は決まっとるやろが!
 13th・フロア・エレベーターズだったら「Bull of the Woods」の、なんか違う…感じだし、ザ・バンドは「Stage Fright」の鈍色の閉塞感やろ?
 とかさ、どれもこれも三枚目の過渡期的な面が大スキなんだ。
 ツェッペリンはコレだった。やっぱりサード・アルバム。B面がスキだった。「タンジェリン」から「ザッツ・ザ・ウェイ」の流れは今もってグッとくるものがある。マンドリンとオープン・チューニング、あぁ、幽玄のペダル・スチールの響きよ…。
 まだフェアポートなんか名前すら知らずビートルズとS&Gとフロイド、イエス、EL&Pくらいしか知らないガキにロイ・ハーパーって一体何者?という好奇心を抱かせたのがこのアルバムだった。
 俺にとってツェッペリンの意義はサンディ・デニーとロイ・ハーパーへの道しるべだったことだ。そののち聞いたフェアポートもサードが一番好きな「Unhalfbricking」だったよ。

 俺の「サード・アルバム伝説」。


このバンド名のフォント、たまらんものがあるな

一番思い出深いのは、駅前にあった「ハシガミレコード」で
予約して買ったフィジカル・グラフィティだけど、
あのポスター、一体どうしちゃったんだろ?

17.6.18









其風画白こと其田由蔵さんのこと

 1985年から86年にかけて一年ほど、西成のドヤ街に住んでいた。
ジャンジャン横丁入口の国鉄ガード下は、怪しげなエロカセットや片方だけの靴、臭い古着の作業服などを乱雑に並べてカップ酒をあおる無許可の露天商や1曲10円でリクエストに応えるガットギターのおっさん、ただ泥酔して失禁し路面に横たわっているだけの浮浪者など、実に良い眺めだった。
 昭和60年(1985年)の西成ではそれがごく自然な日常風景だった。ジャンジャン横丁で見つけた比類なき名店「縄のれん田中屋」に通いつめていたある日のことだった。
 いつものガード下で独り、見慣れない風体のおっさんが「似顔絵書きます1枚300円カラー500円」と段ボールに書いて自分の周りに作品を並べている。
 それらはなんというか…一見して既成の価値観から豪快に逸脱した、異様ながらも激烈にシブい画風の作品ばかりだった。
 画用紙に色鉛筆で描かれた作品群はどれも必要以上に強い筆圧で描かれていたため紙がぶよぶよになり今にも破れそうである。
 中でも目を惹いた1枚がエルンストの森とロプロプを背景に(そう思えた)跳躍する不可思議なフォルムの虎の絵だった。
 のちにハレルヤズのLPの表紙となる、心底エニグマティックで蠱惑的な作品との出会いであった。

 

 動物を描くのが好きで、手持ちの動物図鑑で気に入った写真を模写している、という。
 この絵も図鑑を見て描いた、と開いて見せたボロボロの動物図鑑の中では全く違う顔つきの虎がこちらを睨んでいた。
 これは途方もないものと出会ってしまった!と直感した僕は温和な顔つきをしたおっさんに、似顔絵を描いてもらうことにした。
 問わず語りに聞いた話では、彼は北海道出身で若い頃は炭鉱夫として働いていたが、石炭が灯油に取って代わられる時代の流れで炭鉱が閉鎖されて失職し大阪万博EXPO'70に肉体労働の仕事を求めて大阪へ出てきたのだ、という。
 万博が終われば北海道へ戻るつもりだったが、ずるずると西成界隈に住み着いてしまい現在は生活保護と好きな絵を描いて小遣い稼ぎでその日暮らし、ということらしい。
 女房と子供を北海道に置いてきたのが心残りだが「こんな暮らしぶりでは合わす顔もないし戻りとうても戻れんでな…」というようなことを他人事のように淡々と語っていたが、果たしてどこまで事実なのかは微妙な感じであった。
 身の上話を聞いているうちに完成した似顔絵はこれだった。

 

 僕は自分の直感に確信を抱いた。この時着ていたアロハは格子柄ではなかった。これは自分のどす黒い内面を透視したサイキックなポートレイトなのではないのか?
 署名は「其田由蔵」。これはどう読むんですか?「そのだ・よしぞう」と彼はいった。あくまでも匿名性を強調するペンネームであった。それがしの事情?とでもいう意味合いのIDは「町田町蔵」を軽く凌ぐネーミングセンスである。自主改名のパラレル『よだかの星』である。
 彼は「其田由蔵」の角印も作っていた。完璧であった。

 

 ハレルヤズの編集作業が終盤に近づいた頃だった。ジャケットデザインはおろかアルバムタイトルについてもアイディアが浮かばず、「縄のれん田中屋」で二級酒「酒豪」常温をあおっては思案にくれていた矢先の出来事だった。チャンス・ミーティングである。この突き抜けた作品をジャケットに使うことができれば、きっと最高の出来になる!
 「おっちゃんの絵が一目見てすごく気に入ったのでぜひとも譲って欲しい、自分は音楽をやっていて近々自主制作でレコードを作る予定なのだが、その表紙にこの絵を使わせてもらえないだろうか?」とオファーしてみた。
 「レコードは200〜300枚の少数プレスで完売しても利益は全く見込めないので追加のお金は払えないが、もしそれでも良ければぜひに」と。彼はレコードの話には無反応で全く関心を示さなかった。
 「何枚買うてくれるんや…まだ書きかけのもあるけどな。ほ、ほな1枚300円で」  
 安すぎる。
 僕はその場に並べてあった虎の絵と残りの作品数点を1枚500円で購入したのだった。

 

 なぜだかその後、彼をガード下で見かける度合いは次第に減っていった。
 翌年になってハレルヤズのLPが完成した。もちろん例の虎の絵が表紙である。タイトルは虎の絵を眺めているうちにフト思いついた文句『肉を喰らひて誓ひをたてよ』と題した。出来上がったレコードを彼に謹呈し礼を言わなければ。そう思い続けていた。
 ところが暫くのブランクの後、久しぶりに見かけた「其田由蔵」の画風は変貌していた。なんと絵具が鉛筆からポスターカラー?にシフトしているではないか!
 鉛筆画の手間を嫌ったのだろう、蛍光色のポスカラでベタ塗りを多用してペイントされた彼のニューウェイヴな新作群は依然として異様なオーラを放ってはいたものの、虎の絵が湛えていた品格と侘び寂び感を失っており、僕に声をかけることをためらわせた。
 「縄のれん田中屋」への道すがら彼の姿を見かける機会は幾度となくあったが、バブルっぽく派手な画風へと変化してしまった彼の新境地と虎の絵に一目惚れしたあの時の自分の気分との距離はなんだか到底埋めることができないような気がした。
 かつて自分がいたところへ引き返せない後ろめたさも手伝って僕は二度と彼の前で足を止めることができなかった。
 そうこうしているうちに「其田由蔵」の姿は僕の視界から消え去っていった。

 

 その後「其田由蔵」が「其風画白」と改名していたことは、つい最近、失笑を買う「アウトサイダー・アート」として見覚えのある画風の作品がネット上で面白おかしく紹介されているのを見かけて初めて知った。
 虎の絵との出会いから何年も後になって、東京から来たサブカル系漫画家が彼を「発見」していたく感動し、あろうことか強引に東京へ連れ帰って銀座の画廊で個展を開かせようと目論むが、しかし彼は個展開催の前日ホテルの部屋から忽然と姿を消し行方不明に、という情報は当時漫画家自身が何かの雑誌に顛末記を書いたらしく、自分は未見だったが人づてに聞いたことはあった。
 いつ頃改名したのか定かではないが、東京の漫画家には「其風画白」と名乗ったのであろう。
 90年代にその話を聞いた時「サブカル最先端の露悪的な漫画を描いていても発想は文学賞の権威を崇める出版社と大差ないんだな」と思った。彼のような人を西成から「お持ち帰り」しようと考える時点で失格だ。
 銀座? 画廊? 個展? そんなものが彼にとって一体どんな意味がある? 漫画家は「其風画白」を自分の手柄にしたかっただけだ。
 チャー坊の御言葉を借りれば「あんた…いえてへんわ」である。
 「其田由蔵」はそのことを本能的に察知して飼い殺されることを拒否し、動物として当たり前の忌避行動をとっただけだ。
 そう、それでいいんだ。それでよかったんだよ、其田さん!

 

17.4.24









 ちょうど、この夏のように うだる暑さだった。
 一九八四年の夏、僕は二四歳で、まだ学生の気分の中にいた。
 親を安心させるためだけに就いたサラリーマンの職は、三ヶ月しか続かなかった。
 あてもなく友人のバンドを手伝ったりレコードばかり聞いてみたり、だらしない自分の日常と頭の中で鳴る理想の音楽との接点が、次第に遠ざかっていくのを傍観しているような、甘い危機感が日々をただつまらなく支えていた。
 ブラブラと過ごしているくせに、何もしないでいることにも耐えられなかった。
 彼女の部屋に居候しながら時折のアルバイトでこづかいを稼ぎ、気ままにバンドをやっていた同い年の友人がやけに羨ましく映ったからといって、自分にもそんなことができるとは到底思えなかった。
 やがて思い当たったのは、自分のレコードを作ることだった。二十歳のころ、遊び半分で多重録音したテープを、シングル盤にしてみたことがあったのだ。
 幸い、僕の周囲には本当に才能のある人達がいた。みんな、ミュージシャンとして生活しているわけではなかったけれど、それぞれが独特で魅力あふれる音楽を持っていた。彼等の個性を生かしつつ、自分なりのやりかたで一枚のレコードにまとめることで、主役になれるのではないだろうか。ロキシー・ミュージックのギタリスト、フィル・マンザネラが『ダイアモンド・ヘッド』という初のソロ作品で打ち出していたコンセプトのように。
 そう考えて、一九八五年の夏、数回のレコーディング・セッションを仕切った。高価なスタジオ代やレコードのプレス費用を捻出するためにはブラブラしているわけにもいかず、家業を手伝い始めた。
 翌年、それがハレルヤズの『肉を喰らひて誓ひをたてよ』というLPになった。わずか三〇〇枚のプレスだった。
 当時は関西でも派手なパンク系の音楽が人気を集めていたこともあってか、これを聞いた知人達の反応は、あまり芳しくはなかったように記憶しているけれど、「もう少し売ることを考えて作ったら?」などと言われても、自分ではもうどうしようもなかった。
 それでも、主要な音楽雑誌にはサンプルを送り、完成したレコードとチラシを持って、自主制作盤を扱ってくれそうな大阪や京都のレコード店を巡り歩いた。思いつめた顔つきでいきなりやって来て委託販売を乞う若造は、大抵の場合、あまり歓迎されないのだったが。
 それでも、東京のレコード店にも持ち込んだ。雑誌の広告を見て数軒あたりをつけておいて上京し、一日で一気に回るのだ。しかし東京で歓迎されるはずもなく、いい加減疲れていた。次でおしまいにしようと思い、最後の店に入って何度も繰り返した口上の後、レコードをゴソゴソ出そうとすると、店長らしき人が言った。
 「うちはね、自主盤を扱うかどうかはね、まず僕が聞いて決めるんですよ。僕がいいと思ったら扱うし、そうじゃなかったら扱いません。これはうちのやりかただから。とにかく内容を聞かせてください。聞いてから返事します」
 こんなことを言われたのは初めてだ! 僕は面食らって、
 「い、今、聞くんですか?」
 と言うのがやっとだ。
 「もちろん今聞きます」
 ハレルヤズが狭い店内に響きわたる。いたたまれない。
 これはこれで納得できるやりかただと思えたので、僕は彼の判断が下るまで、おとなしく待つしかなかった。
 しかし一曲二曲とレコードが進行しても、彼はレジなどを打ちながら、いっこうに口を開く気配がない。
 とうとうA面が終わると、返事を聞こうとする僕をさえぎって、
 「B面も聞きます」
 四〇分少々が、あれほど長く感じたことはない。
 やがて、彼は針を上げると、こう言った。
 「今、何枚持ってきてます? 全部あずかりますよ!」
 モダーン・ミュージックという店だった。店長の生悦住さんには今も懇意にしていただいている。

                    「図書新聞」2001年8月4日号掲載


 

生悦住さん

最後にお会いしたのは何年前だっただろうか
心からお悔やみ申し上げます

31年前、自分の音楽を初めて公に認めてくれたのが生悦住さんだった

持ち込みの後、しばらくしてモダーン・ミュージックの雑誌広告に
「今月の推薦盤」としてハレルヤズが掲載されているのを見た時の
何ともいえない嬉しさは、今も鮮明に覚えている
その10年後には、PSFからCD再発もしていただいた

「もしこのアルバムが埋もれてしまったら、日本の音楽に明るい未来は無い」
やっぱり、日本の音楽に明るい未来は無かったけれど

生悦住さん、今日からは地下音楽でなく天上の音楽を存分に浴びてください

いずれまた、お会いしましょう!

17.2.28









 先日たまさか「文明の利器」youtubeで、イエス『究極』のレコーディング風景を見た。
 『究極』といえば1977年、TVニュースでは「今、ロンドンでは若者達の間でパンク・ロックが大流行〜」と唾を吐くジョニー・ロットンの映像が流れ、ロック・マガジンでは阿木譲が「今月キミたちが少ない小遣いで買うべきレコードはパティ・スミス、801、モダーン・ラヴァーズだ。この3枚さえあれば他はいらない」などと無責任に煽り立てていた。俺の小遣いで一度に3枚もLPが買えるかよ! 
 当時の自分の不安定な気分は毎日訳のわからない焦燥感でいっぱいだった。そんな時、自分を慰めるかのようにFM大阪夕方6時の名番組「ビート・オン・プラザ」で全曲オン・エアされたのが『究極』なのだった。
 先日見た、そのレコーディングの映像はイエスの華麗なイメージを覆すタフな生々しさで、なかなかに興味深いものだった。
 中でも"Parallels"のベーシック録りの練習風景、ドラム、ベース、ギターが至近距離で互いにテンポを確認しながらユニゾンがうまく揃わないキメの部分を何度も繰り返し演奏する様子には、ドラムの生鳴りの荒い音質も相まって、惰性妥協を排除して最上の結果を追求する彼等の真摯さに改めて感じ入るものがあった。
 …単に演奏力という面では(無論)イエスよりも多分に感覚直感重視のピンク・フロイド側に位置する「渚にて」の音楽であるが、ことレコーディングにおける音作りの追求に関しては(スタジオ機材のグレードを別にすれば)イエスのアティチュードに決してひけを取ってはいない、という自負が少しはある。
 そういう意味で、CDジャーナル2月号に掲載された『星も知らない』のディスクレビューでミックス・バランスについて言及してくれていたことは、嬉しい出来事であった。
 確かにミックスには昔からこだわりがあっていつも普通のバンドの倍以上の時間(=スタジオ代)がかかってしまうのだが、凝ったことは実際に各曲でやっているものの、「異様」というほどではないと思っている。
 自分の理想とする音像感覚の指針となった全盛期のピンク・フロイド、ロキシー・ミュージックの名作群の完成度からすれば「基準」レベルではないだろうか(セックス・ピストルズだってアルバムはセ〜ノの一発録りなんかではなく24トラック・レコーダーをフルに使いクリス・トーマスお得意のコンプレッサー・サウンドのレイヤーが効いたブリティッシュ・ハード王道の重厚なサウンドだった)。
 今回は『遠泳』のミックスで目指した全体的な空気感の緻密さよりも、素のアンサンブルの音色の荒々しさを残しながら音像の遠近感に緻密さを増強する、という方向性だ。
 わかりやすく言い換えれば、前回ここに書いた「音が実際に遠ざかっていく」フェードアウトを作るのに時間をかける、というような領域の作業が多くなるミックスだ。ダビングで重ねた音数で言えば『遠泳』よりも『星も知らない』の方が少なくなっているのだが、そういう風にはあまり聞こえないかもしれない。
 レコーディング/ミックスとは徒労の結晶だ。だからこそ、そこにはマジックが宿る。今回の新作でもほんの一瞬、その眩さは垣間見えたように思える。



CDジャーナル2月号掲載記事より

17.2.9









 『遠泳』から2年。

 9枚目の新作『星も知らない』がまもなく発売となる。意外と早かったでしょ?

 レコーディングは2015年11月22日O-nestでのライブの1週間後から開始したのだった。デビュー20年周年に当たる2016年度中に出す予定だったが、渚にて恒例の長期にわたるミックスがそれを阻止した格好だ。

 前作同様にベーシックは全曲オープンリール(Ampex456)を回してのアナログ録音。重ねは(仕方なく)プロツールスで行い、音入れが完了したら重ねた音を全てテープに録音する。それからプロツールスに再度取り込み、ミックス作業に移る。ミックスが完了したら、完成したデータファイルをスチューダーA820(1/2inch)に録音した後にマスタリングする…。なんともはや面倒な手順を踏んでいるわけだが、これで現在の渚にてサウンドが維持できているのだから仕方あるまい。

 今回音作りに少々苦労したのはフェードアウトの遠近感をいかに表現するか、という点だった。かねてからデジタルの「同じ場所でそのまま小さくなる」だけのフェードアウトの味気なさが嫌だったので、アナログ時代の「音が実際に遠ざかっていく」フェードアウトを再現するために幾重にもエフェクトのレイヤーをかけて試行錯誤した結果、なんとか納得のいく遠近感を作ることができた。こういったちょっとした点にも少し注意して聞いていただければ、より楽しめると思う。

 あとはもっとお楽しみ。やまちゃんのベースは例の当意即妙なオブリを野太く繰り出してクラウス・フォアマンしているし、竹田のリチャード・マニュエルばりの「漬物石」スネアの音色はさらに一回りデカくなったようだ。阿倍野で世界一クセの強いキーボード吉田くんは南十字星ばりの煌めく音色を盛大に散りばめてくれた。いつもイイとこ取りの真打ギタリスト頭士奈生樹はまたもや霊的に発光するフレーズを披露して僕を大いに悔しがらせたのだった。

 さてみなさん、あともう少しでお聞かせできますので、どうぞご期待くださいませ。



Even the stars Never Know
星も知らない

1月18日発売です!
(1月14日のO-nestワンマンで先行販売します)

17.1.9









 ジョン・ケールといえばやはり『Fear』に止めを刺すが、ロックマガジン2号に影響されて梅田のLPコーナーで買った『トロイのヘレン』もなかなかの佳作。
 知名度の割にセールスの上がらないケールに懐の深いアイランドも業を煮やし、もっと売れるレコードを作れという業務命令が下ったのであろう、『Fear』の第一特徴だった躁鬱的音像と荒ぶるイーノ色は一気に薄れ、荒削りな音色の奇矯なプレイが秀逸だったフィル・マンザネラは高度に器用なクリス・スペディングにコンバートされた。そしてテコ入れに英国屈指の名アレンジャー、ロバート・カービーを起用してのAOR路線なのであった。
 おかげさまでB1「Close Watch」はボズ・スキャッグス「We’re All Alone」の先駆け的にゴージャスな名曲と相成った。弟分ジョナサン・リッチマンのカバーなど従来の痙攣路線の名残が部分的にあるものの、あくまで破綻を避けるAORテイストは全体的にマイルドな音質でキープされている。
 ロバート・カービーはといえばニック・ドレイクの諸作を艶やかに彩ったストリングスの叙景が思い出されるが、忘れがたい「Northern Sky」の煌めくチェレスタ、「Fly」の妙なるビオラとハープシコードは他でもないケールであったことも70年代裏ブリティッシュ・ロック史のもっとも美しい記憶のひとつ。
 かつてニック・メイソンがカンタベリー系とのリンクを欠かさなかったのと同様、ケールもまた英国県人会的にドレイクやリチャード・トンプソンなどフェアポート系人脈とのセッションワークを怠らなかった(その流れで、本作のリズム隊は鈍色の名盤『Pour Down Like Silver』を支えたティミ・ドナルドとパット・ドナルドソン、どこまでもぎこちないグルーヴが最高だ)。
 同僚ニコの伴奏全般や後輩ストゥージズ、モダーン・ラヴァーズ、パティ・スミスの世話役など、他人の面倒を見るマメさ加減はイーノに相通じるものがあった。
 そもそも駆け出し時期のルー・リードの面倒を見た、ということがウェールズ人気質からくるものなのかどうかよくわからないが、ある意味マッカートニー的な立ち位置も持ち合わせた不思議なキャラである。
 そういえば『Paris 1919』のA1「Child's Christmas in Wales」も名曲だったな。


AOR路線に抵触すると知りながら
とにかくいつも何か余計なことをやりたい人だ
採用されたのは拘束服とわかりにくいマイルドなテイクだが

 …これでは別の意味でのアダルト・オリエンテッド



17.1.6





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