円錐のデッサンが立方体と違っているのは、垂直線がないと言うことであろう。

 垂直線がないと言うのは正しくない。垂直線は斜線の力を受けてその存在をむしろ強調されている。垂線方向の存在感は、まるで刃物のような鋭さで立ち上がっており、円錐の中心を貫いている。

 そこには研ぎ澄まされて、全ての無駄をそぎ落とされた、ただ一本の垂直線が円錐の真ん中を貫いているのである。

  筆触法によって円錐を把握しようとするならば、そこにはまるで求道者が真理を求めて身を削るような修行をしている、そんな厳しい空気にまず触れるだろう。

  蟻が円錐を登る。

 円錐はそのままエベレストの山頂に外ならない。登山家が自分の命を投げ出して頂上を目指そうとする厳しさと同じ感覚が、一歩一歩登って行く蟻の中に生まれ、その感覚は高度を増せば増すほど強いものになって行くだろう。

  蟻が円錐を登り始めると、垂直線は常にその目前で高まり蟻の進路をふさごうとする。登れば登るだけ、垂直線はそれよりも更に高い場所を作り続けるのである。蟻は休む間もなく自分を上方に向かって引き上げて行かねばならないのだ。それはまさに求道者の人生に符合する。

 一方で、広がりを与えてくれる水平線は、円錐を横に切り取るような形で存在する。それは山を示す等高線のように、高度を増す度に小さくなって行く。このことが円錐の持っている厳しさにつながっているのだ。 今、円錐のふもとを何匹もの蟻が取り囲み、一斉に頂上を目指して登り始めたとしよう。それぞれの蟻は垂直線に誘われて一直線に頂上を目指して登り始める。高度を上げるにつれて、円錐はその広がりを狭めて行く。するとある時点で、蟻は互いの体が邪魔をしてそれより先には進めなくなるだろう。蟻はそれでも上に行こうとして、互いにもがき合い先を争い始める。

 やがて力尽きた蟻や、登るのを諦めた蟻が脱落して行くだろう。当然蟻はその分だけ高度を上げて行く。一歩登る度に蟻が一匹脱落して行くのだ。

 上に登るということはそれだけ余分なものをそぎ落として行かなくてはならないのである。これ程厳しいものがあるだろうか。

 かくしてただ一本の垂直線が円錐の中心に生み出されるのである。

 その頂上に立つものは理論的には存在しない。なぜならその頂上とは一つの点であり、論理的に点は位置だけがあって広さのないものだからである。広さのない場所に立てるものは何もない。

  身を削りながら登り詰めても、全ての相手を振り払い、孤高の場所にやって来ても、なお行き着けない垂直線の頂がそこにある。

  筆触法によって得られるこのようなイメージによって、実際の描線は蟻の動きを注意深く再現しながら行われる。そこでは上に向かって引かれる厳しい直線よりも、下に向かって滑り落ちる直線の方がはるかに多いだろう。

  垂直線はただ一本しかなく、後はふもとからその垂直線に向かう斜線が使われる。しかしこの斜線は、立方体で現れた斜線とは全く違った性質を持っていることに注意しなければならない。

 立方体に現れる斜線は、単に奥行きによって垂直線の力が弱められたものであって、実際に垂直線の力が削り取られたのではなかった。

 しかし円錐のこの斜線は、垂直線そのものがそぎ落とされて出来たものであって、そこには当然ながら、身を切るような厳しさが存在するのである。

  円錐の斜線はこの困難さのために、登ろうとするほとんど全てのものが滑り落ちて行く。無論その中には滑り台を滑り降りる時のような楽しさも含まれている。

 心に生み出された波紋を全て写し取るために、描線はその心のままに引かれなければならない。登ろうとすれば描線は上に向かって、悲鳴を上げて落ちる描線は下方に、あるいはスキーのような爽やかな降下線、霧が這い上るような上昇線というように、描線は心のままに動かなければならないのである。   

  水平線は広がりを表す、水平方向の直線はこの場合曲線を描いて行く。真上から見れば円を描いて、蟻はまた元の場所に戻ってくる。この水平線は円を描きながら上に登り、少しずつその面積を減らして行く。この運動はやがて頂点に達して一つの点になってしまうだろう。

  円錐を横に移動する蟻は垂直線の激しい心遣いとは対照的に静かな動きを見せる。あたかも激流が静かな流れに姿を変えた時のような解放感がそこにはある。それぞれに高度の違いはあっても、水平に動く蟻の足取りに大きな変化がある訳ではないだろう。

 横に移動して行くと、次第に蟻は円錐の縁を回り込み始める。蟻の姿は少しずつ見えなくなって行く、立方体の直角に折れ曲がる変化とは違って、蟻の姿は滑らかに円錐の向こうに隠れてしまうのである。この消え入る一瞬に蟻は一つの点になる。  

  この点がそれぞれの高さに現れ、それらが一列に連なってふもとから頂点に至る斜線となるだろう。しかしこの斜線は垂直線の激しさから生み出された斜線とは違う。あくまでそれは水平線から生み出された穏やかな斜線であり、論理的には存在しない輪郭線なのである。この斜線は水平線が作り出したものなのである。円錐をデッサンする時の最も重要な問題がここにあるのを知らなければならない。

 円錐のデッサンには強烈な斜線が主題になる。しかしその斜線を統括するのはこの穏やかな斜線なのである。あの激しい斜線の運動も、実のところこの穏やかな斜線の内部で起こっているに過ぎないのだ。これを逆から言えば、円錐の中には身を切り裂くような激しいエネルギーが秘められている事になるのである。

 円錐のデッサンには、その内部にこのような強い力が秘められていなければならない。あたかもそれは秘められた原子の力のようであり、あるいは、この世に生み出された存在が、自らの力で生き、真理を得ようと苦闘する、そんな厳しい姿が映し込まれているとも思えるのである。

 鉛筆の芯の先がこうした蟻の動きを忠実に追い、紙の上に描線を定着させることで、次第に円錐のデッサンは完成して行く。

 激しいエネルギーを秘めた円錐は地平に広く裾野を広げている。地平は立方体の項で記した内容とそう変わる所はない。 

  ただ違う所をあえて言うならば、この地平は円錐の頂点に向かう運動を支える力となっている。それは、無から存在を生み出そうとする意志のかかわる地平なのである。この地平は円錐から力を与えられ、次の新たな存在の芽を育んでいるだろう。その胎動が地平の描線に影響を与えてかすかな振動が描線を細かく切り刻む。結果として地平のデッサンは立方体の描線よりも短いストロークで表現されて行くのである。 この細かな胎動が円錐のエネルギーをより膨らませ、あたかもそれが、その頂から放出され、無の空間に帰って行くように見える。立方体のデッサンにも出て来た空間の表現がそこにある。そこではエネルギーが充満し、様々な方向に描線が交錯している。この膨大なエネルギーを蓄えた空間は地平を包み込み、その地平を通して、再び物質を生み出す力を円錐の方に返して行くのである。

 こうして円錐のデッサンは、その究極の所でエネルギーの循環を表す素描となるのである。

 円錐は言わば、動的な宇宙のシステムそのものを表していると言えるだろう。

 デッサンは、更にこの円錐の存在に、明暗を与えることで、よりその意味合いを強めて行く。

 光は円錐の頂を照らし、ふもとは地平とともに闇に紛れようとしている。影の部分は、細かな垂線も加えられて円錐の表面から光を奪うように描き込んで行くことになるのである。

 ところで描線は、原則的に次のような傾向がある。

 すなわち描こうとするものが物質であるならば、その表面を描く線は長いストロークを持つ。逆に空間であるなら、それは短くなる。

 また使用する直線の種類では、物質の描写には垂直線と水平線が使われ、空間の場合には、それに斜線が加えられる。

 光によっては物質の表面が強調されるが、影の部分は、物質の表面に短い三方向の描線が重ねられて闇に沈む。

  こうした原則に沿って、円錐と空間そして影が描き込まれて行くのである。

 やがて円錐の表情が描かれてデッサンは完成する。



                             

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第四章 円錐を描く

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