立方体、円錐とデッサンを進めて来たが、最後に球体を取り上げる。

  世界は球体と円柱と円錐で出来ているとセザンヌは言った。私はこのうちの円柱を立方体に置き換えた。私の考えでは円柱はこの場合世界を説明するには少し曖昧なのである。セザンヌの単純化は円形が意識され過ぎている。これでは世界が物質を生み出すダイナミックな構図を描くことが出来ないのだ。あるいはこの物質の世界という限られた世界観で考え出されたものかもしれないが、私はそれでは満足出来ないのである。 ともあれ私の考えでは、世界は立方体と円錐と球体とによって単純化出来るのである。

  世界は最初、混沌の闇の中にあった。そこは何もない空間の世界、無が広がるばかりであったのだ。

 そこから存在が生まれる。無のエネルギーが動いて物質を作り始めたのである。存在は大きさと位置を持つ。それは三方向の直線が作り出すのだ。すなわち垂直線と水平線、それに斜線である。その三種の直線で作られた物質、立方体こそ存在の芽生えにふさわしいだろう。

 生み出された存在は、やがて意志と指向性を持って世界に働きかけるようになる。そこに 迷いと試練と生命力にあふれた時代がやってくる。円錐はまさにそんな世界を象徴しているのである。

  そして次に球体がやって来る。

 しかし球体は、これまでの立方体や円錐とは根本的に異なった次元に存在する形態なのである。                        

 まず球体には、これまでの垂直線や水平線や斜線と言った三直線がほとんど意味をなさなくなる。それぞれに独自の方向性を持っていたこれらの直線は、その方向性そのものを失ってただ一つの直線に融合してしまうのである。

  球体はどこから見ても常に同じ形をしている。どこから見ても同じ形をしていると言えば、その見える形は円以外にはない。そして円は完全に満たされた図形なのである。

  実際の所、球体は満たされている。そしてこの満たされたという意味をデッサンの中で問うならば、先に述べた三直線の融合という所に行き着くであろう。

 では三直線の融合とはどう言うことか、まずそのことから考えてみることにしよう。

  球体はどこから見ても同じ形をしている。そのために、例えば天体の写真を見た時、どこが上でどこが下なのか分からないように、まず垂直線と水平線の位置を特定することが出来ない。

 奥行きはどうか。球体を見ている私の方が常に手前であり、そこから遠ざかる空間を奥行きと呼ぶ以上、奥行きは確かに存在するだろう。しかし垂直線も水平線もどちらも特定出来ないために、奥行きが存在した所で斜線もまた確定
させることが出来ないのである。

 こうして、球体に対する三つの直線はどうしても特定出来ないことになるだろう。そこにあるのは不確定な一つの直線なのである。これは三直線の融合としか言いようがないであろう。

 筆触方で見てみると、蟻は球面の上をただ一直線に歩いて行く。しかし蟻にとってはそこに何の方向感覚も生まれて来ない。

 もし重力の作用を言い出したら方向感覚は確かに存在するだろうが、今は地球の上というような小さな次元から見ているのではなく、ただ形態に対するデッサンを試みようとしているのである。ここでは重力のような、特殊な条件は捨てられている。

 立方体や円錐のデッサンに重力的な表現があるのは、単にその形態から受けた心の作用である。その意味で言えば、立方体や円錐などは、形態そのものに、心の中に重力を作り出す力があるのだ。一方、球体にはそのような重力感覚をもたらす要素が希薄なのである。

 かくして蟻はただ歩き続ける。しかし蟻には、自分が今球面の上を移動していると言う事実を認識することが出来ないだろう。

 なぜなら、蟻にとって球体の大きさに関係なく、自分がその上を歩いていると言う事を、周囲を見て理解する事が出来ないからである。

 蟻が目にする風景はどこまで行っても変化しない。いつまで経っても円の中心にいるばかりで、たとえどう曲がってみても、球面に目印がついていない限り風景が変わる事はないのである。結局蟻は自分の足が動いているのを見るばかりで、自分が球体の上を移動している事は知り得ないのである。蟻はもはや球体とただ一つの関係しか持ち得ない。すなわち球体の上に立つというただそれだけなのである。

 このような関係を作り出す球体には一体どのような意味が隠されているのだろうか。   

  実際の描線はしばらくおいて、この球体の秘密を探ってみよう。

 筆触法によって蟻の心を得ることは以上の事から難しい。そこには退屈しかないと言うことは容易に想像が付くはずである。

 ところでこの退屈はどこから来るのか、一体あの激しい円錐の運動から何が起こったのか。

  球体の上を蟻が歩くのを、外から見ると、蟻自身には見えなかった変化が見えてくる。

 上下左右の判断は出来ないけれども、蟻は球面を確かに移動して行く。円の真ん中を通り、やがて蟻は球体の裏側に回り込む、そこに一つの点を残して蟻は完全にその裏側に消えてしまうだろう。しばらくすると、その反対側から蟻の頭が見え始める。その瞬間にも、蟻は一つの点に見える所があるだろう。円錐の場合にもそうであったように、この蟻が点に見える地点は、無数にあって、それらは一列につながっている。そこに直線が出来る。実際には存在しないのに、そこに線があるように見える。いわゆる輪郭線がそこに現れるのである。しかも円錐の場合とは違って、球体の輪郭線は完全な円をしているのである。この輪郭線はどの方向から球体を眺めても変わることはないだろう。

  無数の点が一列に並んで出来た円、それはどう言うことなのだろう。円錐の場合それは一直線に並んだ。そこには斜線が出現したのである。しかし円の場合、斜線はどこにも現れて来ない。その理由は、円の上の点は全てが、実は最高の地点を占めているからなのである。

 そもそも円錐に現れた輪郭は、垂直線がふもとに行くに従って、その高度を切り取られて行ったからであった。そこに斜線が現れたのである。ところが円の場合、高度を下げるような垂直線は一つもないのだ。球体の存在を示す垂直線はくまなく世界を覆い尽くして、しかもその全てが完全に伸び切っている。これはどう言うことなのだろう。

 つまりこう言う事である。

 円錐の頂点はただ一つの点しか持たなかった。そしてその頂上は何者もそこに乗ることの出来ない峻厳な地点であった。人は決してその上には立ち得ない、まさに神の世界と人の世界の境界点、円錐はそのような世界を予告していたのであった。

 ところが球体の輪郭に現れるそれぞれの点とは、驚くべきことに全てがこの円錐の頂点だったのである。

 球体の表面を造る一つ一つの点は、全てが等しく円錐の頂点に相当する場所だったのである。

 誰も立ち得なかった円錐の頂点、その頂点が無数に集まって球面が造られていたのである。

 蟻は今、その頂点が無数に集まった地平に立っているのである。

  円錐の世界では。身を削るようにしてたどり着こうとしていた地点。そして誰も行き得なかった世界。それは神の領域を示していた。

 結局、球体は円錐の世界から見た神の領域そのものだったのである。

  それは宇宙そのものの姿と言うしかない。それ以上もそれ以下もない、全ての存在を一つにしてただあり続ける世界、その一つという概念さえ持ち得ないトータルな世界。

 つまり、立方体も円錐も一切を包含した神=宇宙そのもの、それが球体の示す世界だったのである。

  三つの直線が融合すると言うことは、このような大きな意味を持っていた。そしてそこに現れたのは一本の直線ではなく、無数の点だったのである。直線が消滅して点だけが世界を構成する。それはまだ物質の生み出されていない初期宇宙とも符合する。神の世界はその裏側で混沌とつながって行くのである。

 そこに球体の上を歩く蟻のあの退屈感の秘密があったのである。

  この球体に対して、どのような描線が引けるのだろうか。

  筆触方を用いても、表面を這う蟻の心の変化はつかみ難い。そこには退屈という感覚ぐらいしか見いだすことが出来ないのである。

 しかしこの退屈は、決して次元の低い退屈ではない。それは完全に満ち足りた状態を示しているのである。

 次元の低い退屈は、それ自体が苦悩となって自分を腐敗させてしまうが、ここにある退屈は、全てを達成した退屈である。もはや何一つとして、追い求めなければならないようなものはない。必要なものは常にそこにあるのである。蟻はもはや歩く必要がないのである。ただそこに座っているだけで全てはうまく流れて行くことを知った。自分が何かをする必要はなく世界はただ全てによいように動いているのだ。自分もまたこの世界の一部であって、結局自分と言う存在が世界から孤立していると思っていたのは夢のようなものだったことが分かってくる。

 実際球体の上にいる蟻はどう動いても円の中心から抜け出すことが出来ない。つまりそこでは球体と蟻=私という区別は全くつかないことになるだろう。すなわち球体の上では私という個は失われ、球体と一つになるのである。

 私を捨てることの出来たものだけがここで満ち足りた至福を味わい続けることが出来るのである。それは天国であり達成された世界であり宇宙のあるがままの姿なのである。あるいは神の領域とも言えようか。それはどんな呼び方をするにせよ、全て同じことを言い表しており、呼び方にこだわる必要はない。 

 いずれにしても、この球体の上に乗れるものは、円錐をよじ登って頂点を極めたもの以外にはない。

 仮に、自分に対する執着を捨て切れないものが球体に取り付いたとしたら、そのようなレベルではただ退屈の中で身もだえして苦悩し続けるしかないだろう。ここにはやって来れないのだ。

 本当の所やって来れないと言うのは間違っている。

 人は生まれた時から既に、この球体の上にいるのだ。ただそれを知らないためにこの退屈を苦悩と勘違いしてしまうだけのことなのである。 ただ知るだけで、退屈とは至福であることを理解するだろう。すると彼は常に宇宙の中心にあって揺るがない自分の存在を見ることが出来るのである。

 まさにそれは、筆触方で体験する蟻の姿そのものなのである。

 その蟻が移動する。そこで得られる描線の方向は定まらない。ただ心のままに任せて、頭脳の操作から自分を解放させることで、定まらない描線の方向をまず受け入れなければならない。

 頭脳の操作から解放すると言うのは、描線が心そのものになるということを意味する。

 そしてその心は充足感で満たされ、強過ぎも、弱過ぎもせず、気負いも緊張もない自由な描線がそこに現れる。様々な方向から球体の表面をなどるように描線は引かれ、引きたい時に引き、止めたい時に止める。何をしようが、自分の行いを心のままに任せて、それを見守り続ける。

 デッサンが出来ようが出来まいが、球体が歪もうが崩れようが、口を出さずにただ心の動くままにさせて見守り続けることが、球体のデッサンに必要な唯一つの心得だと言えよう。

  いつ完成するのか、それは心だけが知っている。どんなに理想的な球体が描けても、心がだめと言えばそれはだめなのであり、白紙のデッサンであっても、心が良しと言えばそれで完成する。

 心の為すことを為し、心が良しとすることを良しとする。

  そこに徹し切れた時、球体のデッサンは完成するのである。

  決してそこに退屈はない。到達した心の世界があるのである。

  そしてこの球体を取り巻く世界には、地平が現れて来ない。

 球体はただ空間の中に浮かんでいる。それはまさに宇宙そのものの姿を映しているのである。


 
 六、おわりに

  デッサンについてこれ以上書くべきことはない。

 世界は立方体と円錐と球体からなると言う考え方からすれば、既に世界をデッサンし終えたのである。

                    

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第五章 球体を描く

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