そもそもデッサンに特別な方法がある訳ではない。心を表現するために必要なことは、方法にかかわる事ではなく、この命を生ききることであろう。したがってこで述べることは、自分のデッサンに行き着くための一つのきっかけに過ぎない。誰一人としてそれに縛られてはならないのである。そのことを念頭において進めて行こう。

    1、 描線

  描線とは心の動いた跡と考えることが出来る。 描くという行為だけを唯一の表現手段と決めて、デッサンを制限して考えるならば、描線は心の動きそのものとして捕らえることが出来るだろう。

 私のデッサン論はこの意味で描くと言うことに徹したもので、それを越えるものではない。つまりここでは塗る行為や着色、刷り込みなど、他のいかなる技法も含まれないのである。

  なぜそうするのかを、以下少し書いてみよう。

  デッサンの主眼は、心を表現することにある。ところがそれを表現するためにはどうしても手段が必要になる。しかしいかなる手段も、心そのものにはなり得ず、どうしてもそこに隔たりが生まれるのだ。そのために、この手段を出来るだけ制限しようというのである。

  これを具体的に見るために一輪の花をデッサンする場合を考えてみよう。私がこの花をデッサンするのは単純に目に見える外観を写し取るためではない。それならカメラで撮影するするだけで十分その用を足すことが出来るはずである。

 問題はそこにあるのではない。大切なことは、その花から影響を受けた私の心の方にある。すなわちデッサンとは、この場合、目の前の花を写し取るのではなく、その花によって投じられた心の波紋を描くのである。

  この心の波紋を表現するためには、様々な表現の方法がある。例えば言葉がある。この場合、一輪の花に対する感動を言葉で表す。しかし言葉は決してその心をそのまま写し取ることが出来ない。「美しい」と言っても、それがどう美しいのか、心の感動はそのまま言葉の中に取り残されている。

  それと同じ問題が絵画という表現方法の中にもある。言葉に比べればより自由に心を伝える事が出来るが、それでもそれが表現手段ということに変わりはないのである。

 花に色をつけた。

 例えばそれが赤色だったとしよう。無限にある赤色のバリエーションの中から、心に沿う一つを捜し出してそこに色を乗せる。しかしそこに一つの色を定着させたとたんに、色は固定される。心は決してそこに止まる訳ではないのに、固定された色は、そこに一つの決めつけられた表現をし続けることになるだろう。色は心の波紋をそのまま捕らえることは出来ないのである。

  描線にもまた同じことが言える。紙に一つの描線を定着させたとたんに表現は固定する。心は既にそんなものを置き去りにして先に進んでいるのである。

  表現手段は何であれ、全てこのような問題点を持っている。複数の表現手段を併用すれば、より正確に心を定着出来るかもしれないが、逆にそれだけ心を固定する足かせになるという欠点を持つことになる。

 心をそのまま捕らえようとするなら、この足かせを全て取り払わなければならない。そのとき初めて心は自由に波紋を広げて行くだろう。しかしそれでは表現は失われてしまう。一輪の花による感動は、私の心の中で閉ざされたままになるしかないであろう。

  そこで私はこの足かせを最小限に止めようとしたのである。デッサンとしての表現手段から、取り去れるものは全て取り去ると、そこに残るのは唯一つ描線のみとなる。それも出来るだけ細い線、論理的には面積のない位置だけを示す点が一列に並んだような描線。

  それだけが心と表現の間を隔てる異質のものとなる。心を表現に変えるためのぎりぎりの手段がそこに残るのである。

  結局こうして、私は表現手段を、描くという唯一つの方法に限定したのである。この限定は、表現を狭めるためにあるのではなく、むしろそのことによって心の問題をより鮮明に描き出せるのではないかと言うのが私の考えなのである。

  そうすることで描線は、心の動きそのものとしての資格を得る。後はその描線に自分の心を乗せることが出来るかどうかの問題になってくる。それは既に手段の問題ではなく作者の力量にかかわる問題となるだろう。

  いかに心の線を引くか、作者の努力はその一点に絞り込まれる。

 そこでは登山家がより高い岩山を上へ上へと登って行くように、デッサンが一つの純粋な行為となって現れてくるのである。


  2、筆触法と直線

 デッサンの第一歩はまずよく見るということから始まる。徹底的に対象を見つめることで、その物に対する既製概念や思い込みを取り除き、よりリアルな物と自分との触れ合いを体験する必要があるのである。

  そこで私は、自分の握っている鉛筆の先端で、対象の表面をくまなくたどって行くというイメージを繰り返す。そうする事によって、物の形を空間の中で、体験的に捕らえることが出来るのである。私はこれを筆触法と名付ける。

 この筆触法と言うのは、あくまでもイメージの上での作業であるが、心を描線に乗せるためには重要な働きをする。

  鉛筆の先に心を集めて、その表面をなぞって行く。あたかも小さな蟻が対象の上を歩いて行くように上から下へ、前から後ろへと移動して行き、その奥行きや高度感を体験する、そうすることによって、心にある余計な概念を取り除き、心がデッサンする対象そのものに密着して行くようにするのである。 そうしながらこのイメージによる鉛筆の移動をそのまま紙面の上に再現して行く。まず見ることから始まった作業は、筆触法によって視覚イメージが描線に変換されて行くのである。

 筆触法について、もう少し具体的に言えば、自分が一匹の蟻になったと想像するのである。蟻になった自分が対象の上を歩いて行く。壁をよじ登り、斜面を滑り降り、その匂いを嗅ぐ。表面にある山や谷をくまなく巡り、全身でデッサンの対象を捕らえようとする。その柔らかさや暖かさ、様々な質感を蟻になった私が体感して行くのである。

  イメージの上ではそれは一匹の蟻であり、現実にはそれは私の持っている鉛筆の芯の先に外ならない。

  筆触法と言うのは、このように、私の心を一つの現実的な描線にする工夫と言うことが出来るだろう。

  こうして私は、対象と、空間との関係を自分の全身的な感覚で捕らえるのである。

 この物と空間の関係をより具体的に体験するためには、描線に直線を使うことが望ましい。なぜなら直線が、物と物の関係を表す最小限の表現であり、そこには無駄を差し挟む余地がないからである。


  直線には大きく分けて次の3種類が上げられる。すなわち垂直線、水平線、そして斜線である。

 垂直線は強い意志と高さが表され、水平線は世界と広がりがイメージされる。そして斜線は動きと奥行きが表される。  

  これらの直線を組合わすことによって、様々なイメージを表すことが出来るのである。

  私のデッサンには常に直線が基本に据えられる。その理由は先に述べたように、それが物を表す最も効率のいい方法だからである。一切の無駄を廃せば、そこには直線しか残らない。逆に言えばそれが最もその物の特徴を表す線だということが出来よう。

  そうすると、先に示した三方向の直線のみならず、曲線もまたその考え方から生まれてくる。

 常に蟻は直線に歩いている。それがたまたま曲がった物の上を歩けばそこに曲線が生まれる。角張ったものの上を歩けば角度が生じる事になる。 蟻が物の裏側に回り込んだ時、私の視界から蟻が消え入る一瞬、そこに点が生まれる。そんな点が無数に並び、一本の線を作る。いわゆる輪郭線が現れる。  

  デッサンには直線だけではなく、様々な形の描線が現れるが、それは決して逡巡した跡ではなく、あくまでも無駄のない直線で描いた結果と言えよう。この場合デッサンは、直線というただ一つの線で成り立っていると言えるのである。 


             
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第二章 デッサンの方法

筆触法
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