立方体のデッサンは基本的に三方向の直線によって成り立つ。すなわち垂直線、水平線、そして斜線である。

 垂直線は空間の中にこの立方体が存在する意志のようなものを感じさせる。空間の中に、このものの存在を宣言する。混沌の中から個を生み出す力がそこにはあるのである。垂直線によってまさに存在がこの世に産み落とされるのだ。蟻はこの垂直線をよじ登る。その存在の大きさに対応してよじ登る労力は左右される。まるで岩山を登るように、その存在が大きければ大きいだけ自分の持っている力をそこに注ぎ込まなければならない。その力は立方体という存在の大きさに比例するのである。

  この垂直線によって生み出された存在の力に対して、水平線はその存在の大きさを決める。言わば生み出された命に形を与える働きをするのである。水平線は立方体を世界から浮き上がらせる。そのものの持つ力を立方体という形の中に押し込め、個として成立させるのである。

 更に水平線は立方体を取り巻く空間の世界をもあらわにして行く。水平線によって広がりが与えられ、そこに世界が姿を現すのである。

  立方体の立面を水平になぞって行くと、やがてその面の境界にたどり着く。そこから更に90度折れて水平線は奥に向かって進んで行くだろう。見る者から遠ざかるにつれて水平線は高さを失って行く。遠くなればそれだけ存在の力が小さくなり、垂直線が弱められるのである。 

  そこに斜線が現れる。斜線はこのように垂直線と水平線の合成された結果として表れる。斜線は実際は水平線なのである。その水平線が存在の力の影響を受けて、斜線に変化する。

 それを裏返せば、斜線が世界に奥行きを与えたことになるのである。斜線は世界に強弱を付け加え、そこに奥行きを生み出す。

 更にこの斜線の働きには、デッサンの中に私(作者自身)を引っ張り込む力がある事を見逃してはならないだろう。

 斜線の一方は遠ざかり、その度に存在の力を失って、最後には消失点に行き着いてしまう。しかしそのもう一方はどこにつながって行くのか。言うまでもなくそれはデッサンの紙面を通り越えて、真っすぐ私に向かっているのである。斜線は消失点から私に向かって伸び、私に至ってその存在の力がピークを迎える。デッサンは明らかにこうして私から生み出され、また私以外から生み出しようのないものなのである。

  私のデッサンは必然的に私そのものにつながっているのである。

 斜線は否応無く作者の心をその世界に引っ張り込み、世界を秩序付ける。秩序付けるという意味は言うまでもなく、作者(私)を基準に据えた位置付けの事であり、人はこのように決して自分以外の基準で絵を描くことは出来ないのである。

  斜線はこの様に、物と世界の関係をあらわにする。世界の変化が斜線によって生み出される。そこには動きがある。空間に生み出された個としての存在が活動し始めるのだ。言わばそれは、存在が命を吹き込まれて呼吸し始める様なものだろう。

  立方体のデッサンはここで基本的な作業を終える。しかし無論これで完成した訳ではない。ここからいよいよ立方体の表情や、それを取り巻く空間、そして光と影、そして音や味わいまでも描き込まなくてはならないだろう。そのためには様々な直線を組合わさなければならないのである。

  立方体を取り巻く空間もまた直線によって描かれる。

 空間は方向性を持たない。そこには何も遮る物がないために、どの方向にも自由に動くことが出来る。したがってそこでは全ての直線が使われる。イメージの中の蟻は、空間の中で激しく動き回る、そこにはエネルギーが満ちあふれているのである。その力はまだ混沌としていて一つの方向を持たないのだ。したがって描線は短いストロークで縦横斜めと動き回る事になるだろう。

  空間には何もないのではない。むしろそこは無限の可能性が秘められている場所なのである。そして基本的にそこは闇であろう。なぜならそこは光を受けて輝く何物も存在しないからである。光は空間の中に吸い込まれるしかない。まさにエネルギーに満たされた混沌がそこにあるのだ。

  光は存在が現れて初めてその意味を持ち始める。立方体が生まれることで、初めて光はそこに明暗を生み出すのである。

  この明暗が世界を区分する。立方体は闇から浮かび上がってくるのだ。 闇が混沌であるのに対して、光の当たった部分は、そこにそのものの秩序が浮かび上がる。

 実際のデッサンでは、秩序(立方体)を先に描き出す。その時、光と闇はまだその意識の中には入って来ない。つまり、画面は全てに光が与えられた状態として描かれるのである。

 やがて、その次に光と闇が問題になった時、描写としては光を描くのではなく闇の部分を描き進むことになる。

 影を描くことで光が浮き上がってくる。その描線は言うまでもなく様々な方向から重ねられるのである。しかし影は先に述べた空間とは違っている。光がやって来ても、物が浮かび上がって来ない闇とは違う事に注意しなければならないだろう。そこには既に秩序が生み出されているのだ。ただ光がやって来ていないと言うだけのことなのである。光がやって来ればその量に応じて物は姿を現すのである。 

  光は一つの方向性を持ってやってくる。影はその方向を指し示し、立方体に様々な明暗のトーンを作り出す。

 この段階では、光の量の変化がイメージの中に現れる。立方体の上を這う蟻が全身で光を感じているのである。光を失うごとに温度が失われ、闇の密度が高くなって行く。それはやがて深い闇につながって行くだろう。

  一方、立方体の置かれている地平がある。

  この地平は、デッサンの上では、さして重要な問題となってくるものではない。それはただ立方体のある世界として位置付けられたものであって、立方体を描くという時の単なる条件付けとしてのみ意味を持ってくるものである。

  それは空間の一つとして取り扱われる。

  もし仮に地平に個性を持たせたとした場合、例えばそこが草原であったり、森であったりしたとしたら、そのとたんに立方体を描くというデッサンは別の意味を持ち始めるだろう。それは全く別のデッサンになってしまうのである。

  デッサンに違った要素が入ってくるとそれだけ無駄が生まれる。つまりそれだけ表現と心のギャップを広げることになるのである。

  デッサンがこのギャップを少しでも埋めようとする努力であるなら、地平は空間のレベルに置くしかない。

  無論それでは絵にならないために、最低必要限度の意味を与えなければならない。それが漠然とした地平となる。

  実際私達は心に一つのものを感じる時、それ以外のものは実に曖昧なままで置かれていることに気づくだろう。心はそのように動いて行くのである。そのものがどこに置かれているのかと考えてしまうのは頭脳の働きによる。頭脳の働きに身を任せてしまえば、冒頭で書いたように既にデッサンとは違ったものになってしまうだろう。

  したがって地平はほとんど具体性のない場として描かれるのである。

  個性を持たない広がりは具体的な何物にもならない代わりに、立方体を支える心の色合いや気分を表すようになる。描線は心のままに方向を変えながら比較的長いストロークで描かれる。しかしそこでは心持ち斜線の方が他の線よりも優位に立っている。そうすることによって地平の広がりよりも奥行きが強調される。無論、奥行きよりも広がりを強調したければ水平線をより強く描くことになる。

 いずれにせよこの場合、垂線は心の変化を伝える描線となる。広がりと奥行き、すなわち水平線と斜線を折り込みながら垂線を加えることで混沌とした心の姿を正確に捕らえようとするのである。

  こうして立方体のデッサンは、ほぼ完成する。心はそこから再び立方体そのものの上に帰って行く。

  立方体は心の色を映した地平の上に垂直線を強調させて立っている。その事によって自らの存在を世界から際立たせているのである。その背後にはエネルギーで満たされた混沌たる闇が広がっている。

 再び心の蟻がこの立方体の表面を這い上って行く。この峻厳な立方体の壁面に取り付き、何とも言えない高度感を経験しながら壁面のわずかな歪みに対しても身を添わせながら這い上って行くのである。上へ上へと登って行くとやがて黒い空が現れる。そこに立方体の頂がある。

 下には、はるか彼方に地平が空のように広がり、その背後にはどこまでも底のない闇がある。蟻は立方体の存在の境界線上を奥に向かって進んで行く。蟻の姿は次第に闇の中に紛れて行き、やがて立方体の向こうの面に曲がり折れて見えなくなる。こうして蟻になった私の心は、立方体の存在を隅々まで感じて行くのである。

 蟻の動きに対応した描線が立方体に一つの表情を与えて行く。このとき、垂直線と水平線だけで描き出されていた立方体の表面に、心を写す斜線が加えられる。立方体を成り立たせている基本的な直線を消さない程度に、様0々な描線が各面を巡り、立方体に心の色を写して行くのである。

 立方体はこうして、心の世界を写すデッサンとして定着される。描線の集積はそのまま心の動きを忠実に捕らえており、それをなぞる事で、その心を再現することが出来るのである。あたかもレコード盤の溝を針がなぞって行くように、デッサンの描線は様々な心の音色をかもし出す。  確かに描線は心の軌跡として画面に現れる。

 しかしそれは定着した時点である堅さを持ち始めるだろう。たとえ表現手段を最大限に切り詰めても、結果としてそれは変わることがない。

  いかにデッサンを心と直結させたとしても、心そのものになることは出来ないのである。

  結局また、新たなデッサンが必要になってくるのだ。心の表現を試みるものは、こうして、いつまでもデッサンをし続けて行くことになるのである。

  それはまたこういう言い方も出来るだろう。

 すなわち、デッサンという行為によって、ぎりぎり行ける所まで行けばそこに何があるのか、つまりそこには、人間を越えた神の領域に至る入り口があったのだ。しかしデッサンによってその門に入ることは出来ないだろう。デッサンは人間の限界を数歩たどってまた降りてくるしかない。こうしてまた新たなデッサンを続けることになるのである。

                            

第三章 立方体を描く

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