もらいもの画像展示室 |
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高橋慶史さんの「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」に掲載の「突撃師団ロードス」ではロードス島の各地で撮影された写真が掲載されています。今回は現在の撮影現場の様子をグーグルストリートビューで見てみようという「突撃師団ロードス特集」企画です。 高橋さんから大判の画像をお借りしたのですが、HPのデータ容量の関係であまり大きな画像は掲載できませんでした。 |
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「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」P8 『ロードス島の聖ヨハネ騎士団の城塞前で、ギリシャの民間人と立ち話するドイツ軍とイタリア軍の兵士。イタリア兵は第50歩兵師団「レジーナ」の黒シャツ大隊(CCNN)所属であろう。向かって右側2番目のドイツ兵は「クリミアシールド」を佩用しており、旧所属が第22(空挺機械化)歩兵師団であることがわかる。裏書の日付は1943年7月2日とあるが、それにしても彼らは何語で話しているのであろうか?』 何語かはともかくとして(笑、場所は「Marina Gate」の内側、ロードス旧市街の広場「Hippocrates Square」での撮影で、子供たちが寄ってきて緊迫感はなく民間人の服装も綺麗なので、「イタリア軍と共同するドイツ軍」という設定の宣伝写真かな?。よく見ると右側の「クリミアシールド」佩用のドイツ兵は士官用のベルトをしているように見えるがどうだろう。 なお、『第22(空挺機械化)歩兵師団』という訳については意見が分かれるところで、この師団は空挺降下するわけではないので(空輸自動車化)くらいでよいのでは?と愚考しています。まあ翻訳の仕方しだいですからお好みで。 |
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「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」P14 『聖ヨハネ騎士団の城塞の前を行進する戦車大隊「ロードス」第2中隊所属のIV号戦車G型の縦列。9両までは確認できる。戦車大隊が輸送された直後のお披露目パレードのようで、1943年7月頃の撮影である。まだこの時点では、砲塔シェルツェンには砲塔番号が描かれていない。』 先ほどの「Marina Gate」の場所から城壁沿いの海岸道路を北上しているところ。画面中央に見えるのは特徴ある「スレイマンモスク」の尖塔で、現在でもよい目印となっており、位置関係に注意。 |
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「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」P16 『砲塔番号222、すなわち戦車大隊「ロードス」第2中隊の第2小隊所属のIV号戦車G型で、車体番号83882もはっきりと確認できる。後部機関室にジェリ缶が満載されている。おそらくは1943年8月のイタリア軍との戦闘直前の1943年8月の撮影であろう。』 背景に見えるのはロードス騎士団長の城で、城塞西側の路上での撮影と思われるが、道路沿いの木立がすっかり成長していて見通しが悪く、ストリートビューでは正確な場所を特定できませんでした。よく見ると城壁の上部の形状が独特で、現地に行けばワンチャンあるかもしれません。(笑 |
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「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」P51 『以下の3枚は個人アルバムの写真で、1944年以降に戦車大隊「ロードス」を撮影した非常に珍しいものである。正面に見えるカンボキアーロ地区におけるギリシャ正教の教会で、戦車大隊「ロードス」が宿泊所として駐留していたようである。』 広場の木は70年間ですっかり大きくなって、現在では正面のギリシャ正教会の建物が隠れるほど。当時山の斜面には多くの建物が見えますが、グーグルマップで見ると現在は建物の基礎しか残っていない様子です。当時は修道士たちの宿舎だったのかもしれません。 |
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「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」P52 『前ページ写真のアングルを180度変えたもので、大隊本部として接収した建物前で訓示中の指揮官を捉えた写真。車体番号84944のIV号戦車G型は、ダークイエローにダークグリーンのスプレーによる二色迷彩が施されているようだ。別写真により砲塔番号が「234」であることがわかっている。』 ギリシャ正教会の建物は綺麗に整備されていますが、周りの建物は一部事務所などに使われている以外はこの建物を含めてけっこう荒れているようです。 |
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「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」P52 『同じく大隊本部前で撮影されたスナップ写真。手前のメルセデス・ベンツ170VカブリオレB型には大隊旗が掲げられており、左フェンダーに戦車部隊の戦術マークが確認できる。向かって左側に立つ将校は、どうやら上の写真で訓示をしている指揮官らしく、右胸ポケット下には「ドイツ黄金十字章」を佩用している。戦車大隊のグラーフ・フォン・デア・シューレンブルク中佐の可能性もあるが、確証はない。』 大隊の駐屯地はロードス島のど真ん中の「Eleousa」で、島のどこにでも最短時間で駆けつけることができると考えられたのかもしれないが、現在での細い山道なので、戦車兵の苦労が偲ばれます。 |
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「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」P53 『総統誕生日の1945年4月20日に行われた祝賀パレードで閲兵する装甲擲弾兵旅団「ロードス」指揮官のオットー・ヴァーゲナー大佐(写真中央で右手を挙げている将校)。向かって左から三番目の戦車服の将校が戦車大隊長と思われるが、前述のシューレンブルク中佐かどうか確証はない。』 この祝賀パレードの場所はロードス新市街の市庁舎前の広場で、港の入り口の観光スポット「ロードス島の巨像」のすぐ近く。広場右手の劇場前に整列した兵士は、一番手前は黒服の装甲車両搭乗員のようで、そう向こうにはイタリア兵が整列しています。 |
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「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」P53 『同じく1945年4月20日に撮影された写真。イタリア軍楽隊が吹奏しているようであり、ひな壇にはロードス駐留のイタリア軍将校、ギリシャ正教司教などが並んでいる。一般市民は特別配給を期待して参列しているには言うまでもない。』 広場右手の劇場前から市庁舎正面のひな壇に並ぶ偉いさんを映した一枚。よく見るとひな壇前にいるのは水兵と海軍士官のようにも見えるがどうだろう。中央の軍旗は上の写真でも中央後方に小さく映っています。 |
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