1:旧藩士族卒族の困窮と電燈会社の設立
名古屋電燈(株)は明治19年(1986)創業の東京電燈(株)に遅れる事約2年半、送電・点
灯・開業した電燈会社としては神戸,大阪,京都に次ぐ5番目の明治22年(1989)12月1
5日に開業した[設立許可順位は東京電燈の明治16年(1983)2月に次ぐ20年(1987)9
月で全国第2番目]。
それまでの経緯を見てみると、明治維新の廃藩置県,秩禄処分によって下付された金緑
公債も食い潰して、生活の根拠を失った旧藩士族卒族の不満は全国に充満していた。
よって政府は産業資金を貸し下げて適当な産業に従事させる策に出たが、それには規
定の抵当物を差しださねばならず、適当な産業の無かった事と相まって、不満を高める
だけであった。
明治18年(1985)になって新たに着任した勝間田愛知県知事は、しばしば旧名古屋藩
士族卒族の代表と、勧業資金を運用するに足る適当な経営業種の選択を協議していた。
たまたま、旧名古屋藩士丹羽精五郎が東京から愛知県衛生課長に転任し来たり、かねて
研究していた電燈事業の有望な事を説いたが、耳を傾ける者は無かった。
その丹羽精五郎は出張で東京に出た時に工部省技師宇都宮三郎に会い、電燈事業の有
利な事を説かれて自信を得、帰名して宇都宮から推奨された所以(ゆえん)を伝えた。勝
間田知事も東京において農商務省の当局者から利ある事を聞き、大いに心を動かされた。
ここに旧藩士族卒族も県庁側と意見が一致して、抵当差し出しの件については、設立
された新会社の建物,家屋,機械を宛てる事と新会社の株券は会社に供託するとして、勧
業資金7万5千円の貸し下げを受ける事となり、明治20年(1887)春頃、旧藩士族卒族
から委任を受けた総代99名が、開業委託願を愛知県知事に差し出した。勝間田知事は
い
わゆる士族の商法では危険である事から、実業家の一部が別に公募株式を引き受けて
総
資本金を20万円とし、経営体を実業団の人間に委任するように指導して名古屋電燈
会社創立願を提出させ、明治20年(1887)9月22日を以て創立認可指令が出た。
ただし、この経営形態については旧藩士族卒族から不満があり、また実業団も、他の
産業の設立に資金を廻す予定があって余裕が無くなった事から、実業団が脱退する事と
なり、公募株式引き受けの話も消えてしまった。更なる危機は、帝国議会の開設を控え
た政府筋から愛知県知事に、先に貸し下げた勧業資金を直ちに返却せよとの訓令があっ
たのである。
この件については旧藩政時代にあった畳上(たたみあげ)返納法によって、返済期間中
に返済すべき利息累計を拝借金から差し引けば、拝借金全額返済の名分が立ち、残額は
利息無しに所定の期間(士族は30年卒族は50年の年賦)に均等返済する事が出来る上に、
抵当差し出し株券供託の件も不必要となる便法であった。ただし、これでは手取りが利
息分だけ減る事から、あらたに勧業資金1万円を積み増して8万5千円とし、これに対
する累計利息9千4百4十余円を差し引いて、当初の予定資本金7万5千円より少し多
めの資本金を手に入れる事ができた。
更には、旧士族に授産の目的を以て片端通久屋町角に設置されてあった士族就産所が、
成績思わしく無いので整理精算した剰余金があり、愛知県からは補助金2千17円余,旧
尾州藩主藩主徳川義禮および旧犬山藩主成瀬正肥両氏からは寄付金割戻し額相当1千2
百円を、名古屋電燈会社資本金として寄贈される事となった。
2:名古屋電燈(株)の発足
その間に南長島町に建築中の発電所も目標の明治22年(1889)11月3日の天長節に
は完成し、海外に注文してあった蒸気機関,発電機,その他の機器類の据付,電柱の植柱・
架線悉く竣工して開業点火を待つまでにあったが、ドイツ国に注文した白熱電球を積ん
だ汽船がスエズ運河付近で沈没して到着せず、やむをえず開業を延期した。その第2回
目の白熱電球も約1ヶ月半遅れて到着し、ただちに蒸気機関・発電機の試験運転,電球の
点火を行って支障が無い事を確認したので、明治22年(1889)12月25日を以て開業
した。
冒頭に記したように名古屋電燈会社の開業は、明治20年(1887)11月の東京電燈会
社・明治21年9月の神戸電燈会社・明治22年5月の大阪電燈会社・同年7月の京都電燈
会社に次ぐ5番目の開業であって、旧名称南長島町本社所在地は現在の名古屋市中区栄
2丁目2の電気文化会館敷地に相当し、名古屋電燈会社発電所跡を示すプレートが敷地
内の建物壁面にある。
この日の電燈会社の営業規模を見て見ると、点灯数は当時の名古屋市人口15万七千
4百96人,戸数4万8千49戸に対して僅かに四百余個、電柱数391本、資本金7万8
千8百円(旧藩士卒族数は9千名以上であったから、極力端数を整理して1年後の株主
数379人)で発足した。また開業当時の本社事務員はわずかに3名,電機や汽罐の運転
保守にあたる現業員は11名程度であったようだ。
明治23年(1890)4月には旧商法の公布があり、会社はこれを受けて6月に定款を改
正して名古屋電燈株式会社と改称した。4月には陸海軍連合特別大演習があり、世情活
発に動くうちに官庁・銀行・一般民家に満遍なく需要を掘り起こし、開業後僅か1年経過
した同年末日現在、白熱灯灯数1,157個と3倍に達し、23年下半期には年率6分の
株主利益配当金を行った。
翌24年(1891)1月の株主総会で役員に関する制度を改め、社長を置かずに専務取締
役制をとり旧藩士族代表の三浦恵民が、同じく取締役に若松甚九郎他3名が当選した。
発足後まもない明治24年(1991)10月28日の濃尾地震で会社も建物に被害があっ
たが、機器・発電機には被害無く、昼夜兼行の修理で2個月後に送電点灯を開始したと
ころ、災害時に安全なる電燈設備の申し込み多く、震災前より増加した需要に応える
有様だった。ただし会社の損害は1,955円56銭に上り、下半期の株主利益配当金
は年率僅か2分であった。
翌明治25年(1892)3月、劇場,寄席,旧旭遊廓がある歓楽街であった大須一帯が、大
火に見舞われ、石油ランプの危険性を知って電燈の需要が激増し、会社は新発電設備の
発注,電線路の延長に忙殺される事になった。
おりから、京都市では琵琶湖疏水工事が完工し、付帯の水力発電から供給を受けてい
た京都電燈の火力発電設備が不要になったので、譲り受けて移設・据え付け、明治26年
(1893)2月から稼働開始した。しかも、開業当時には 26円52銭/4.54トン であ
った石炭価格が、18円6銭にまで下落したが為に、同年下半期には年1割6分の配当
を実施する事ができた。
この情勢から益々需要が拡大して送電能力の欠乏が見られるとあって、同26年10
月の株主総会で資本金8万円余を倍額増資して16万円とする事になった。 この新株
は実際には明治29年3月に全額払込済みとなるのであるが、それを当て込んで機関室・
電気室の増築,事務室の新築および新汽機・新発電機の発注となった。
翌27年(1894)8月1日、日本は清国に対して宣戦布告して日清戦争が始まった。市
内では動員された軍隊の出入激しく世情騒然とする中に、連戦連勝の報に祝賀会が頻繁
に挙行され、電燈の需要が益々増加したが、注文してあった発電機類が順次到着して年
内に据付も終了した為に、いささかも支障が無かった。
しかしながら、開戦以来兵士や物資の輸送に汽船の徴発せられるもの続出して、石炭
の輸送や入港が不自由となり、炭価は 26円97銭/4.54トンにまで上昇した上に、
下記の愛知電燈(株)との競争が影響して利益が減少し、下半期の株主利益配当金は年率
9分に低下した。
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名古屋電燈(株)創業よりの発電設備:南長島町本社第1発電所(明治37:1904 廃止)
年月 原動機 台数 汽罐 発電機 出力 送配電方式 備考
明 22(1889 12月 スチームエンジン×2 80HP×3 25kw×4=100 kw 直流250V 3線式 創業時
明 26(1893)2月 スチームエンジン×1 100HP×1 25kw×2= 50 kw 同上 京都電燈不要品
明 27(1894 12月 スチームエンジン×1 70HP×1 25kw×2= 50 kw 同上 増設品
明 28(1895 12月 スチームエンジン×1 70HP×1 25kw×2= 50 kw 同上 増設品
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3:愛知電燈(株)の設立と合併
開業以来の名古屋電燈の経営が、士族の商法の譬え通り営業方針が余りに堅実なるを
不満とする企業家が、対抗する電燈会社を設立する意見があり、その企画に賛同する高
橋頼造(名古屋市助役),小塩美之(市会議員)らが、小塚逸夫(県会議長)の主唱のもとに中
島郡選出の県会議員を中心とする発起人たちが創立準備が進行中であった。
一方、大須の旧旭遊廓は点燈申し込み第一番を競うほどであったが、先の大須の大火
で廓内の一部を焼き払われ、いまさらながら石油ランプの危険を実感した楼主達は、今
後石油ランプの使用は全廃する事を決議すると共に、大口需要先であるとしての団体割
引を名古屋電燈(株)に申し込んで断られたので不満を持っていた。
よって新しい電燈会社発起人たちは、壽楼楼主佐治儀助・福岡楼楼主角田幸右衛門両氏
と交渉し、旭遊廓を有力な供給先として開業すれば事業の伸展も難しくないとして、明
治26年(1893)10月30日に電燈営業の件を出願、明治27年(1894)3月7日認可さ
れたので3月24日創立総会を開き、資本金15万円の愛知電燈(株)が発足した。 次い
で開かれた役員会で小塚逸夫・佐治儀助・白石半助・岡田利勝(後に小塩美之に交代)らが取
締役に当選し、専務取締役には小塚逸夫が成った。
愛知電燈(株)は愛知郡那古野大字広井(名古屋市中区下廣井町)に発電所(後の名古屋電
燈第2発電所)の建設に着手し、明治27年(1894)11月に第1期工事が落成したので旭
遊廓とそれに通じる電線路沿町に送電点灯し、明治29年(1895)3月7日に残りの工事
が完成した。 その設備機械は下記の通りであった。
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明治年 原動機 台数 汽罐 発電機 出力 送配電方式 備考
27(1894) ※2汽筒スチームエンジン×1 六百燈用1台 交流 ※は凝縮器
29(1896) 1汽筒スチームエンジン×2 2台 30kw×2= 60 kw 直流 (復水器)付
※2汽筒スチームエンジン×1 25kw×2= 50 kw 直流
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日清戦争(明治二十七・八年戦役)は明治28年(1895)8月21日に終結するが業界はな
お活況を呈し、愛知馬車鉄道(株)は電力の優秀性を認め、名古屋電気鉄道(株)と名称を
変えて自前で火力25馬力発電機十数台を据え付けて電車を走らせる程であった。
電燈事業も需要益々増大し、28年12月末における名古屋電燈(株)点灯数5,738
個であったのに対して、同時期の愛知電燈(株)の点灯数は不明であるが(同社後期工事
竣工直前の29年2月における点灯供給数は1、670灯である)、石炭価格が30円
3銭/4.5トンにも達したにもかかわらず点灯料金を値下げして、愛知電燈(株)に対抗
した。
これより先の同年11月の日本電気協会第八回総会で、このように名古屋市内で2つ
の電燈会社が並立して競争する事は、商売上の不利や技術上の危険が少なくないとして、
両社が合併するように決議した。
その決議をもって来名した委員の働き掛けを受けた両社は、色々な紆余曲折があった
ものの、明治29年(1896)1月23日の名古屋電燈(株)臨時株主総会で対等合併案が可
決され、名古屋電燈(株)の資本金16万円に愛知電燈(株)の資本金15万円を加え、更
に19万円の増資を行って総資本金50万円の新しい名古屋電燈(株)となり、愛知電燈
(株)からは取締役に小塚逸夫・佐治儀助が、監査役に白石半助・小塩美之が入り、社長含
みの専務取締役は三浦恵民であった。
4:交流発電機の採用
名古屋電燈に買い取られた愛知電燈の発電所(名古屋電燈では創業当時の南長島町発電
所に次ぐことから第2発電所と称した)中に、エジソン式直流発電機4台とホブキンソン
式交流発電機1台が設置されてあった。この交流発電機は名古屋電燈には無かった物で、
高電圧で送電するゆえに送電ロスが少なく遠距離送電が出来る事から、熱田方面まで送
電点灯するに至った。また、蒸気エンジン(レシプロ式)は復水器付で高能率であった。
石炭価格の高騰に悩むのは名古屋電燈に限らず各地の電燈会社に共通する問題であり、
その中に明治23年((1890)に京都市(着工当時は京都府)の手により開通した琵琶湖疎水
を利用し、明治24(1891)年5月に完成した蹴上(けあげ)水力発電所の成功を見て、こ
の頃までに五指を数える水力発電会社があった。
名古屋電燈でも増大する電燈設備需要の増大に処する為に、明治29年1(1896)1月、
名古屋市水主町3丁目に第3発電所建設の許可を得、建設に取りかかろうとした。たま
たま、明治30年(1897)8,9月の頃、堀尾茂助・松永安左衛門氏らによる庄内川利用
工事の計画があり、これに手を加えて水力発電を行う議が起こったので第3発電所建設
を凍結して研究したが、あまりに低落差で採算が取れないとあって計画は撤回された。
しかも戦後の不況期で石炭価格が下落傾向にあり、従来でも十分に利があったこと故、
当分火力発電で行くという方針になり、火力発電所の建設許可認可の再申請をした。下
記に名古屋電燈会社史から明治33年(1901)末の電燈料金(16燭光:半夜灯1ヶ月:
単位円)を示すが、主要都市中では京都の次ぎが名古屋であり、水力発電による地方都
市が低価にある事が判る。
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東京 大阪 京都 神戸 名古屋 岡崎 岐阜 奈良 和歌山 津 姫路 岡山
1.80 1.30 1.00 1.55 1.18 0.75 1.10 1.25 1.10 1.15 1.20 1.10
尾道 馬関 松江 徳島 高松 土佐 博多 長崎 静岡 横浜 品川 八王子
1.20 1.40 1.15 1.05 1.05 0.90 1.10 1.50 1.15 1.70 1.68 0.75
新潟 仙台 米沢 青森 小樽 札幌
1.10 1.12 0.75 1.30 1.50 1.50
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第3発電所は明治34(1901)年6月に第1期目の工事が竣工し、設置した新鋭の蒸気
エンジンと高圧交流発電機により石炭消費量は大幅に節約されたので、34年7月24
日限り第2発電所を廃止するに至った。よって名古屋電燈の営業成績は飛躍的に増大し、
戦後の産業不振にもかかわらず、株主利益配当金は、明治34年(1901)上半期の年率1
割1分2厘から36年(1903)上半期の年1割4分になった。
ここにおいて、前記第8項に述べた新株未払金全部を37年3月までに徴収し、第3
発電所の第2期拡張工事に着手、日露戦争開戦の興奮まだ冷めやらぬ明治37年(1904)
5月に完成したので、第一発電所の発電休止して全部の送電を交流式に改め、7月には
本社の水主町への移転を果たした。
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名古屋電燈(株)水主町新本社第3発電所(水主町発電所)設備機械
明治年 汽機 台数 汽罐 発電機出力 送配電方式 備考
34(1901) ※2汽筒スチームエンジン×1 175HP×3 300kw×1 2相交流2,300V 第一期工事
37(1904) ※2汽筒スチームエンジン×1 175HP×1 300kw×1 2相交流2,300V 第二期工事
38(1905) ※3 スチームタービン×1 300HP×2 500kw×1 2相交流2,300V 第三期工事
※3 スチームタービンの採用は本邦電気会社中最も早い部に属し東京電燈より半年早かった。
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初期(明治29年:1896)に認可申請して許可された名古屋電燈の電燈供給区域は、名
古屋市・熱田町・瑞穂村の一部・御器所村・古沢村・千種村・那古野村・八幡村・寶田村・枇杷島
村・杉村の全部およびその他周辺の一部であったのが、ここにおいて廣路村・鍋屋上野村・
瑞穂村の各一部を加える事になった。
5:日露戦争(明治三十七・八年戦役)前後
日露戦争の開戦は明治37年(1904)2月であったが、その数年前から両国開戦の機運
は高まりつつあり、日清戦争後の状況からも戦後に、財界好況によって事業が勃興し電
燈の需要も激増することが予想されていた。また後述のように、東海電気(株)の攻勢に
対抗する必要もあり、業務拡張の計画を立て置く可しとして、明治37年(1904)1月2
3日に臨時株主総会を開会して、資本金50万円を倍額増資して100万円とする事を
可決し、払込金は38年4月から40年1月の間に4回に分けて徴収し、第4期の拡張
工事その他の費用に充てる事にした。
既に第1第2の発電所は発電を休止していたので、第3発電所を水主町発電所と改称
して着手していた第3期拡張工事は、38年12月竣工(上記水主町発電所第三期工事設
備機械参照)、27日から500kwの送電を開始し、同発電所の発電容量合計1,100
kwに達した。 この設備汽機ではスチームタービンを使用しているが、東京電燈南千住火力発電
所より約半年早く、本邦初設置であった。
増資決行にあたっての予想は正しく的中して、明治38年(1905)以降の電燈数と電力
数は
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明治38年 上期 下期 39年 上期 下期
電燈 17,192 19,441 25,100 30,062
電力 44台178馬力 83台308馬力 122台502馬力 158台617馬力
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と飛躍的に増加した(電燈の初点灯は22年の400個余、電力は35年に夜間送電にて1台)
ここにおいて、会社の発電能力および送配電能力は精一杯となり、39年1月24日
の株主協議会を得て、第四期拡張工事竣成まで電燈電力共に新規の申し込みを一切謝絶
するに至った。
しかるに39年2月から電燈供給規程を改正して、半夜燈および三時燈の区別を廃止
して全部を終夜燈とする実質的な値下げしたのは、全国的に煩雑で不利不便な料金を整
理する機運に乗じたのであり、同時に料金そのものも大巾に値下げをして、次項に記述
する販売競争に堪えんとしたのであった。第四期拡張工事は順調に進んで明治39年1
2月27日から送電を開始した。その設備機械は次の通りで、水主町発電所の合計能力
は1,600kwになった。
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明治年 汽機 台数 汽罐 発電機出力 送配電方式 備考
39(1906) スチームタービン×1 300HP×2 500kw×1 2相交流2,300V 第四期工事
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この間、石炭の価格は明治37年(1904)12月に28円/4.5トンであったものが、
38年(1905)9月に 58円と倍以上に値上がりした為に利益の増加は薄く、明治36
年(1903)上半期以来の配当金は年率1割4分を維持していたが、ここへ来て炭価もよう
やく下落始めたので、39年(1906)下半期に1割6分の好配当を実施し得、株価も大幅
に上昇した。
6:明治時代末期の電名古屋電燈(株)を巡る電気業界
明治39年(1906)から45年(1912)にかけて経済界に大変動があり、電気業界もそ
の影響をもろに受ける事になる。ここに名古屋電燈(株)の50円払込済みの旧株の株価
を示すと
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明治年 27 28 29 32 36 39 ------ 39 40 ----- 40
月 6 11 8 3 1 10 11 12 1 2 9
平均値万円 66 73 71 52 72 111 146 169 252 189 63
明治年 41 42 43 -- 43 44-- 44 45 大正年 2 3
月 8 1 3 7 1 7 1 7 10 10
平均値万円 60 72 90 117 89 71 65 50 48 45
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この明治時代末期に名古屋電燈(株)に幾多の難問が襲いかかっているので、項目を
細分化して解説を加えて行く事にする。
6−1:名古屋瓦斯(ガス)株式会社の創設
名古屋におけるガス事業は明治29年(1892)に山田才吉(美濃炭鉱kk取締役)らが
発起人となってガス管埋設の為の道路使用許可を得たが、日清戦争後の恐慌にあって計
画を中止した。
明治39年(1906)11月5日、日露戦争後の好況期に、奥田正香(味噌・醤油製造・名
古屋商業会議所会頭)らが新たに瓦斯会社の設立を出願するに際して、山田才吉らと協
商して経営に任ずる事となり、山田才吉,奥田正香,伊藤由太郎(愛知銀行,名古屋電燈取
締役),白石半助(名古屋電気鉄道社長),佐治春蔵(陶器商:佐治タイルの創始者)らに、
東京瓦斯(株)系の実業家渋沢栄一,淺野総一郎ら31名が発起人となって名古屋瓦斯(株)
の創立を出願し、明治40年(1907)10月27日から事業を開始し、社長には奥田正香
がなった。
当時の電球はエヂソンの発明した竹を炭化した繊條から進化した木綿繊維炭化繊條で
あったのに対し、ガス燈は初期の黄色の還元炎燈こそ光力が弱かったが、明治27年
(1894)に輸入されたガスマントルの使用は約5倍の光力アップとなり、電気モートルが
国産されていない当時はガスエンジンの方が簡便有利とされており、その上、突然の停
電により電燈電力共に供給が絶たれる事から、名古屋瓦斯(株)の設立は電燈事業に対す
る脅威であった。
6−2:水力発電電気時代の始まり
明治20年(1887)創業の東京電燈,21年(1888)の神戸電燈,22(1889)年の大阪電燈,
同年の京都電燈,名古屋電燈など初期の発電所が火力発電で発足したのに対し、明 治2
0年竣工した京都疏水を利用して蹴上(けあげ)発電所が商用の水力発電事業が成功した
のは、明治24年(1891)であった。以後、第1期工事完了の明治30年(1897)まで、直
流,単相・二相・三相交流とりまぜて合計1,760kwの電燈・電力を、京都電燈や京都電鉄に供
給した。
これから10年を経過する明治39年末までの間に竣工した電気供給事業総数89箇
所中、水力発電所の数は過半数の55箇所に上ったが、大部分は少水力・大落差の中小河
川で地元発電地元消費の小電燈電力会社であって、高電圧・大電力の水力発電所が出現し
たのは明治40年(1907)竣工の東京電燈駒橋発電所(15,000KW:送電電圧55,000V:桂川水
系山梨県都留市古川渡→大月市駒橋)であった。
名古屋電燈も明治30年の庄内川水力発電利用計画があったが、低落差の為に実現せ
ず、東海電気という外部からの導入によって実現する事になった。
6−3:東海電気株式会社の合併
明治30年(1897)、岡崎市で近藤重三郎らの衆議院議員5名が発起人となって岡崎電
燈合資会社が発足し、額田郡と西加茂郡の間を流れる郡界川の岩津村(現岡崎市)日影で
出力50kwの水力発電をもって「岡崎電燈は後に現在の中部電力(株)に所属したが、岩津
発電所は現在も出力130kwで稼働しており、同電力内で最古最小の発電所である」岡崎
地区における電燈販売を開始した。
会社は成績良好(4項の各電燈会社の電燈料金表を見れば、岡崎電燈のそれは業界で
最低である)とあって、西加茂郡小原村川下に矢作川の支流田代川の水力を以て水力発
電を起こすべく、明治32年(1899)4月、資本金5万円で社名を矢作川電力(株)とする
別会社を創立した。
同年7月、営業許可を得たが34年(1901)1月の発起人会で社名を三河電力(株)と変
更し、3月に事務所を岡崎電燈会社内に置いて創立総会を開会、直ちに発電所の工事に
着工、翌35年(1902)7月、小原発電所が竣工した。 その設備機械は、
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明治年 水車 馬力 台数 電機出力 送配電方式 備考
39(1906) ペルトン式150馬力×2 100kw×2 3相交流3,450V 有効落差37.6m
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同時に瀬戸町の変電所も竣工して電燈および電力の供給を開始したが、名古屋市の東
郊に進出する事を計画し、35年(1903)2月に愛知郡千種町に電燈・電力供給を、名古屋
市内に電力供給する旨の出願に変更して3月に認可された。
同社としては名古屋市内にも電燈を兼営したく同年10月に出願したが、名古屋市内
は名古屋電燈(株)の電燈供給区域であったが故に不許可とされたので、電力供給の名目
でひそかに電燈供給をする方法に改め、資本金を10万円に増強して12月から千種町
に電燈.電力供給を、37年(1904)1月から名古屋市内に電力(と電燈と)を供給した。
電燈料金を徴収するにあたっては、5燭光を25ワット,10燭光を35ワット,16
燭光を56ワットに換算するなどワット数で表示して電力料名目で徴収した。また電気
事業取締規則で電気需要家1戸に1個の電気計量器を取り付ける事が必要であったのに
対しては、社員の案出したブリキ製の簡単な計量器を各戸に取り付けて対応した。
以後の三河電力(株)は、明治三十七・八年戦役(日露戦争)終了後の明治38年(1905)
2月、矢作川の上流巴川に水力発電所をおこす計画を出願、3月に資本金15万円を増
加して総計25万円とし、10月に「東海電気株式会社」)と再変更した上、猛然たる勢
いで拡張を重ね、覚王山以東で名古屋電燈が架線してない街地があれば抜け目なく架線
して供給区域とし、更に大曽根・阪上町方面に電線路を延長した。
東海電気がこのように名古屋電燈に張り合って競争したのには、名古屋電燈の料金が
終夜燈1ヶ月10燭光で85銭,16燭光で1円20銭であるのに対して、東海電気の料
金がそれぞれ65銭,1円4銭と安いからであった。これに対する名古屋電燈側は架線の
関係で自社の配線区域内では従来の料金を以てし、両社の配線区域が交錯する所では東
海電気と同一料金として競争した。
このままでは、配電線の架設その他において技術上危険と認められるものが在る上、
競争の結果利益を削がれ、業績良好なるも屡々無配当を重ね、たまたま配当するも年率
5朱(分)を超えないとあって、両社の幹部間に合併しようとする機運があった。
ところが、(6−8)項で後記する名古屋電力が。東海電気(株)を合併して名古屋電燈
との競争に乗り出そうとして、両社の幹部間(東海電気の筆頭取締役近藤重三郎は名古
屋電力の筆頭大株主でもあった)で合併仮契約を結んで、明治39年(1906)11月25日
の東海電気臨時株主総会に付議するにまでに到った。
しかしながら、東海電気の株主は名古屋電燈との合併の方を有利とする意見が大多数
であったが為に、この提案は否決されてしまった。
よって東海電気では、同年12月12日に名古屋電燈取締役との間で、名古屋電燈と
の合併仮契約を締結調印し、同月16日の両社の臨時株主総会に各附議議した所、いず
れも原案を承認したので合併仮契約が確定された。
その契約条項は、東海電気(株)の資本金25万円(5千株全額払込済み)に対して名古
屋電(株)の新たに発行する(金50円全額払込済み)株式5千株を交付するほかに、1株
につき25円 総計25円×5,000=12万5千円に合併費用2万5千円を上乗せし
て東海電気に支払うと言うのであるから、東海電気(株)の株主に取っては名古屋電力と
の合併条件よりも遙かに有利であった。
翌40年(1907)3月、名古屋電燈で臨時株主総会を開いて合併案件が付議可決された
が、資本金総額125万円の会社となるので会社の規模も大きくなり、職員数は39年
末の64名から40年6月には144名に増えた事ゆえ、7月の定時株主総会で役員増
員を図り、旧海電気側から取締役に近藤重三郎,監査役に田中功平が当選した。
かくして、会社は初めての小原水力発電所と瀬戸および工事中の巴川発電所(750kw)と
千種変電所を手に入れる事になるが、これらの施設が竣工して使用開始したのは明治4
1年(1908)2月11日の紀元節当日であり、東海電気から水力発電工事を継承して以来
ここまでの支出金は27万8千円余であった。
6−4:長良川と木曽川:名古屋電燈自前の水力電気事業
名古屋電燈の水力発電事業の狙いは木曽川水力発電事業の開発であって、内々調査に
係っていたのであるが、明治39年5月になって突如として長良川水力発電の提案があ
った。
この水力発電の歴史は明治28年に遡る。東濃旧岩村藩藩士小林重正は、この年京都
市で開催された第4回勧業博覧会視察の為入洛した際、琵琶湖疏水を利用した水力発
電事業を見て感奮し、岐阜市に戻るや有志の人々の醵金1,000円を得て長良川や飛騨川の
水流に沿って踏査し、3箇所の地点のうち郡上郡嵩田村(現:郡上市美並町)大字上田から
武儀郡洲原村(現:美濃市)大字立花に至るのが最も有利であるとした。
それからの重正は専門技術者に依頼して電気・土木上の設計・測量を終へ、工費予算を
約19万円,発電出力を3,000kwとし、地元村民との間に協調して水量使用の承諾を得た
上、発起人らと岐阜水力電気(株)を起こすべく奔走した結果、明治30年(1897)に岐阜
県知事から許可された。
しかしながら、日清戦争後の反動不況期(6項の株式時価によると、明治32年の株
価は額面すれすれの52円である)に入って株式募集が容易で無く、再三起工延期願い
している内に、37年(1897) 2月に許可取り消し,水利使用権自然消滅となった。
明治39年(1906)になると日露戦争終結後の好景気(6項の名古屋電燈株価参照)で各
種事業が勃興する機運が起こるや、先に小林重正が水力発電を企てた時に設計や測量に
携わった野口遵(後に鴨緑江水系に大規模の水力発電所をいくつも造り、日本窒素肥料
株式会社の創始者となった)はドイツ国ジーメンス電気会社の技師で同社の機械を新規
の事業会社に売り込むのが仕事であったが、小林重正から長良川水力電気事業の許可が
取り消された事を聞き、名古屋電燈に昔の計画を持ち込んだ。
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当時、会社では冒頭に記したように、内務省名古屋土木出張所長工学博士原田
貞介に相談した所、木曽御料林によって畜水される木曽川は、出水時にも落差に
変動少なく、水力発電事業に極めて適していると力説されたるを以て、秘密裡に
嘱託技師安藤光太郎に水路の実測をさせるやら、取締役佐治儀助も隠れて木曽川
筋に屡々出張し、地元民と折衝しつっあった。
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このような事情であったので、木曽川に着手する前提として長良川水力発電事業も良
かろうと重役間で決意するも、株主総会の決議を経なければ動けない状態にあり、しか
も事は急を要するとあって、小林重正からジーメンス電気会社に長良川水利使用権を継
がせ、同社は小林重正を代理人として長良川筋水力電気用水路新設願を岐阜県知事に提
出したのは明治39年(1906) 3月26日で、名古屋電力(株)が同一地点における水利使
用権を岐阜県知事に出願する1ヶ月程前というきわどい所であった。その後、名古屋電
燈では5月26日の臨時株主総会で長良川水電の出願に加名して共同出願の手続きを採
り、同年12月岐阜県知事はジーメンス・名古屋電燈側に許可を与えた。
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他方、同年の明治39年(1906)9月22日、名古屋電燈では取締役佐治儀助名
義で、木曽川筋読書村(よみかきむら:現木曽郡南木曾町読書)から田立村(た
だちむら:現南木曾町田立)に至る電気用水新路開設願を、両村役場を経て長野
県知事に提出したが、添付書類の一部に不備があったので取り戻して整理中、10
月29日になって名古屋電力(株)が関清英・大沢辰次郎・島崎広助(馬籠出身の島
崎藤村の次兄で、母方の生家である妻籠宿本陣・庄屋の島崎本家の養子となる)の
3名を代表として、大桑村から田立に至るほぼ同様の電気用水新路開設願を出願
してきた。
共願となった2件に対して長野県知事は佐治儀助側の再提出日(11月24日)
が関清英ほか2名の出願日よりも遅れているとして、翌40年(1907)2月25日、
名古屋電燈の願書を不許可とする指令を送付して来て、関清英ほか2名の出願を
許可した。
会社はこれを不当として弁護士3名を代裡人に選定し、4月30日に不許可指
令取消の請求訴訟を行政裁判所に提出した所、41年2月20日になって審理の
末、名古屋電燈の先願権を認めた勝訴の判決があった。
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6−5:長良川水力発電事業
元に戻って明治40年(1907)、未だ好景気の余波が残っている3月に開会した名古屋
電燈臨時株主総会は、従来の資本金100万円を増資して125万円とし(5月5日を
期限として払込完了した)、東海電気(株)の合併資金に充てると同時に、同日更に資本
金400万円を増資 (総資本金525万円となるが払込完了は明治43年10月になっ
た) して長良川水力発電所の建設資金とすると共に、40年(1907)5月、名古屋電燈は
かねての契約に基づいてジーメンス電気会社との共同出願を解いて単独事業とし、ジー
メンス電気会社は発電所所用の諸機械の納入契約を得る事になった。
ここに名古屋電燈株式会社資本金の推移(括弧内は払込完了年)を示すと、
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明治 22 26(29) 29(34) 37(40) 40(40) 40(43) 43(44) 44(大正8) 大正8
¥ 7万8千 16万 50万 100万 125万 525万 775万 1,600万 3,300万
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上記増資を決議した3月の臨時株主総会直後から財界は不況に突入し、7月の増資金
400万円(8万株)の第一回払込(12円50銭×80万=100万円)があった後は、
引き続いて払込金を徴収するのは困難である状況であった。
それでも明治41年(1908)6月、起工式(水路の建設工事竣工は42年12月)を挙
げた長良川水電工事は同年上半期までに30万円余を支出し、さし当たっての株主利益
配当金の支払いと今後の工事経費の捻出に苦慮する事になる。
まず明治41年7月9日開会の臨時主総会の決議を得た上、会社の全財産を担保とし
て明治生命保険から30万円,東京海上保険から20万円の計50万円を借り入れ、地方
銀行からの小口借入金12万余円の返済と株主利益配当金13万5千を支出すると、長
良川水電工事に当てられるのは約25万円にすぎず、完成までにはなお150万円を必
要とした。
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ところで、この50万円借入の頃より株主中に、会社の重役に不信任抱く者と
信頼する者との2派が生じ相争う形勢であったが、たまたま従業員の中に社金1,
800円余を横領する者があり、本人および関係保証人で弁償させる事件があっ
て、41年7月30日開会の定時株主総会は大いに紛糾した。
はたして、8月7日になって株主の一人平井直矩が、50万円借入時の臨時株
主総会招集の通知中、借入金の費途に関する記載が無いのは商法違反であるとし
て、決議無効宣告を請求する訴訟を名古屋地方裁判所に提訴して来たので、会社
も常務取締役三浦恵民他が応訴したが、同年11月18日に敗訴の判決があった。
よって12月17日に名古屋控訴院に控訴したが、翌42年4月27日、同院
も第一審判決を支持、本件控訴を棄却する旨の判決を言い渡した。
さればとばかりに、6月10日、大審院に上告した所、同院では既に判決例が
あるとあって、42年10月19日、原判決および第一審判決を破棄し、被上告
人の請求を却下した。
訴訟合戦はこればかりでは無く、41年10月3日、八木元三他85名の株主
が、過去五年間に渉る業務状況を調査せしむる為の検査役選任の件を名古屋地方
裁判所に申請するに到り、裁判所は利害関係の無い者3名を選定した。
その結末は裁判所が申請代理人を召還し、口頭にて報告書のの内容を示して公
開されていないが、会社の財産状況に欠陥が見られず、重役その他による不正の
跡も無く、商人と結託して会社に損害を与えた事実も無いと記載してあったと伝
えられている。
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資金不足に陥った事を受けて名古屋電燈の重役会では、翌42年(1909)7月、工場財
団抵当権の設定登記を終えたる上、明治生命保険と東京海上保険とから各60万円,明治
火災保険からの30万円の計150万円を借り入れ、同時に上記した前年の借入金50
万円を返済したので手取りは100万円だった。
いざこざがあったものの、42年2月には発電所および送電線の工事に着手し、42
年12月の水路の建設工事竣工、2,500kwの発電機3台を据付け(うち1台は予備)、西
春日井郡金城村大字児玉に名古屋市内外に配電する児玉変電所を置くなどして工事は4
3年(1910)2月25日に竣工、3月15日から送電を開始したが、41年6月の起工式
以来のここまでの所要月数は1年半というハイスピ−ドであり、支出金は水路,線路,地
所,建物,機械,什器など一切を含めて246万7千円余であった。
このようなスピ−ド工事でありながら、煉瓦で堅固に造られた発電所本館,外構物,水
路橋などは、現在も優美な外観を保ちながら現役の発電所として機能しており、国の登
録文化財に登録されている。
6−6:関西聯合共進会
名古屋市が市制を実施し名古屋電燈が開業したのが共に明治22年(1889)で、当初の
市域の面積が1平方里(約256平方キロメートル)に満たないのが、周辺を併合編入して
20年後の明治42年(1909)3月には2.6倍に膨張し、戸数人口数48,049戸15
0,7496人から87,391戸389,761人と2倍以上の発展を見た。
名古屋電燈の電燈電力事業も供給区域・供給戸数の拡大著しく、明治42年(1909)12
月末日現在電燈数54,937個で開業当時の137倍、電力は417台1,145馬力
で5年前の27倍であった。
ことに31年(1898)10月より着手した熱田湾築港工事が着々進捗し、40年(1907)
6月に熱田町を名古屋市に編入して熱田港を名古屋港と改称したこともあって、愛知県
と名古屋市とを全国に宣伝せんと、愛知県知事深野一三、名古屋市長加藤重三郎,名古屋
商業会議所会頭奥田正香の3氏が奔走し、名古屋市鶴舞公園内の1万坪の地に於いて、
三府二十八県聯合愛知県主催の第10回関西聯合共進会を開催する事になった。
会場には各種の産業館や余興場が設置され、その頃から流行しだしたイルミネーショ
ンで飾られる予定であり、周辺の旅館・料亭などの電燈需要の増設申し込みも多大であっ
たから、深野愛知県知事からは共進会開催までに長良川送電が必ず開始されるかどうか
を確かめられること数回に及んだ。
当時ガス燈は、なお電燈に対して有効な競争相手であったので、不確実な長良川発電
所からの送電を待つて萬一送電不成功の場合は、県・市の面目丸潰れとなるから、設計を
変更してガスイルミネーションにすべしとか名古屋電力(株)が明治40年(1907)1月か
ら着工している木曽川八百津発電所の竣工の方が早いのでは無いかなどの声が上がり、
(ちなみに奥田正香は名古屋電力,名古屋瓦斯の社長であった)深野知事もそのつもりが
あったが、加藤市長は断固として名古屋電燈が担当する電気イルミネーションを支持し
ていた。
会社は42年後半期になると昼夜兼行で工事を急ぎ、一切を43年(1910)2月25日
までに完工、3月1日からの逓信省技師の出張検査も14日に決し、開会前日の3月1
5日、共進会会場に加藤市長も臨場して待ち受ける午後7時半に一斉にイルミネーショ
ンが点火するという劇的な成功結果となった。
このような慌ただしい中で、明治43年(1910)1月28日の定時株主総会役員選挙で
は、三浦恵民,佐治儀助,近藤重三郎(元東海電気取締役:40年7月より当社取締役で
あったが43年3月6日,在任中に死去した)の3取締役が重任、木村又三郎,福沢桃介,
伊藤由太郎の3氏が新取締役に当選、29日の取締役会で三浦,佐治両取締役が常務取締
役に選任された。
6−7:名古屋瓦斯株式会社
第10回関西聯合共進会会場における各展示館のイルミネーションは当初午後12時
を限って点火を終了し、売店飲食店興行場は電燈またはガス灯で終夜点灯するきまりで
あったが、後に警備上の理由で各展示館も終夜点灯に改められた。
この会場に設置された電燈数は25,834燈であったのに対し、瓦斯燈は僅かに961基であ
ったが、当時の瓦斯燈はマントルや点灯装置の改良進歩により、光力で木綿繊維炭化繊
條の白熱電球に優っていたから、共進会会場でも広範囲に照明する必要のある所では
150燭光から2,000燭光までの電気弧光(アーク)燈を132基使用して対抗したのであった。
また会場には瓦斯館を設ける他、機械館の各機械の原動力にもガス発動機と電気モー
トルを使用するもの半々といった状況であった。
その背景として、(6−1)項に揚げた名古屋瓦斯株式会社(現在の東邦ガス株式会
社)の創立以来、名古屋市で優秀な成績を収めた会社の首脳部の奥田正香・山田才吉らは
、41年に豊橋瓦斯(株)・浜松瓦斯(株),42年に岐阜瓦斯(株)を設立した他、同年中に
地方有志者と津島・一宮・半田・仙台・小樽などに各瓦斯会社を共同で設立し、43年に奈
良瓦斯(株)を設立したから、名古屋市は全国ガス事業の中心地のような観があった。
(今日ガス器具製造会社が名古屋市に多数あるのはその名残りか)。
その後も名古屋瓦斯系列の瓦斯会社が各地に設立されたが、明治41年(1908)発明の
タングステンフィラメント白熱電球は照明効率が驚く程良くなり、明治45年に国産化
されるとガス灯の利用は漸次減少し、更に小型電気モートルの普及により、ガスは調理
や暖房の利用に道を求めてゆく事になった。
6−8:名古屋電力株式会社
ここ迄に度々登場して来た名古屋電力(株)とは、名古屋市周辺の群小電燈会社や大口
の電力需用家に、電力を供給するべく設立された電力卸売り会社である。
明治29年(1896)、(関信賢:名古屋市の企業家)は、岐阜県加茂郡飯地村に木曽川か
ら取取水し、湖南村に発電所を設ける案を立て、翌30年、名古屋市山口理三郎外3名
を名義人として水利権使用願を岐阜県知事に提出したが、山口理三郎がある事件に関係
した為に計画は立ち消えとなった。
ここに於いて関信賢は、設計の手直しや出願の変更を再三試みる内に、35年になっ
て湖南村下立字五岩ノ瀬の上方から取水し、八百津町丸山または諸田に発電所を置く計
画を立てたが、出願人関信賢,淺野平兵衛,児玉荘太郎他数名中で意見が一致せず破談に
なった。
よって児玉荘太郎は、岐阜県選出の衆議院議員兼松熈(ひろし)に諮った所、兼松熈は
紛争を緩和したうえ東京の資本家の意向を聞いてまわり、名古屋に来て愛知県知事深野
一三,商業会議所会頭奥田正香と会見し協議した。
奥田正香は東京資本家の意見に賛同し、市内の主要動力使用者その他の工業家・実業
家を招待した会合で兼松熈を紹介した所、三浦恵民(名古屋電燈常務取締役),伊藤傳七
(東洋紡績の前身三重紡績の社長のちに貴族院議員),神野金之助(名古屋電鉄社長),岡谷
惣助(金物商の9代目:岡谷鋼機の前身:明治29年創立の旧愛知銀行初代頭取),伊藤治
郎左衛門(松坂屋)瀧兵右衛門(尾張紡績)の諸氏会合の末、名古屋側も資本金の半額を拠
出する事を主張した。
そこで資本金総額を500万円とし、東京側から岩田作兵衛・雨宮敬次郎(共に甲武鉄
道:後の官有中央線:などの創立者),久米民之助,三浦菊次郎,奥田正香,上遠野富之助
(かどの:日本車輌株式会社),斉藤恒三(三重紡績),白石半助(名古屋電鉄),渡辺甚吉(岐
阜市の素封家:初代岐阜市市会議長)らの錚々たる連中に、名古屋電燈から三浦恵民も
加わって発起人となり、明治37年(1904)7月27日、岐阜県加茂郡飯地村字川平から
同郡八百津町諸田に至る電気用水路新設願を岐阜県知事に提出し、明治39年(1906)6
月23日に許可があった。
名古屋電燈から常務取締役の三浦恵民が発起人に加わったのは、名古屋電力(株)から
受電して電燈・電力を一部の消費者に電燈・電力を供給する電力の小売販売するつもりで
あったが、株主中に有力な反対者があるだけで無く、取締役が株主総会の許諾を経ずに
同一部類に属する他会社の発起人になるのは商法違反であるとの意見が監査役の中から
起こったので、三浦常務取締役は発起出願人から脱退し、既述のような明治39年出願
41年着工の長良川水力発電工事に踏み切ったのであった。
明治39年(1906)11月に電気事業経営許可の指令下付を受けた名古屋電力(株)で
は、万全を期して相談役に明治財界の大物渋沢栄一男爵と馬越恭平,雨宮敬次郎の3氏
を据え、同年10月開会の創立総会で取締役に奥田正香,岩田作兵衛,兼松熙,上遠野富
之助,白石半助,斉藤恒三,相良恒雄、監査役に神野金之助,渡辺甚吉を選んだ後、社長に
奥田正香、常務取締役に相良恒雄が当選した。
6−9:名古屋電力株式会社の悲運
重量級の役員と多額の予定資本金で発足した名古屋電力(株)であったが、第1回の払
込があった頃から日露戦後の好況の反動としての大不況(6項の名古屋電燈株価推移表
参照)は名古屋財界の一方の雄であった小栗銀行も破綻して、代表者相良恒雄は名古屋
電力の常務取締役を辞任(後任は桂二郎)する程で、水力発電工事を1年半の間中止し、
明治41年(1908)1月7日になって発電所の地鎮祭および水力工事起工式を挙行した。
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この間に名古屋電力では、明治39年4月に長良川水利使用権を、同年10月
には大桑村から田立村に至る電気用水路解説願を出願したが、いずれも名古屋電
燈との競願となって敗れ(6−4項参照)、同年中に京都大学の田辺朔朗,大藤高彦,
青柳栄司の3博士に調査を依頼し、40年1月に出願した木曽川筋福島町字和合
から大桑村字竹尻に至る駒ヶ根水力水利権を獲得しただけで前途多難を思わせた。
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木曽川初めての水力発電所水路開削工事は、もろい箇所では屡々土砂崩れが生じて埋
没したし、反対に延長2,300メートルに亘る第一隧道には驚くべきほどの頑強なる
地質が存在して、削岩機の電源とする為に支流旅足川(たびそく)に木製水樋を架けて小
型水車発電し、最新式の削岩機を使用しても一昼夜に1尺(30cm)の掘削量しかなか
った程であった。
場所によっては湧水甚だしく、降雨出水の際には坑内の貯水が8尺(2.4メートル)
にも達するし、取水口は土砂で埋没したり根底から洗い流される他、物資材料の運搬路
は木曽川沿いの山腹を行く小道があるのみで、これまた土砂の崩壊と橋梁の破損とに伴
う修理工事に休む暇も無いありさまであった。
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後に造られた丸山ダムによって、これらの用水路,運搬路,取水口はすべてダム
湖に沈んで眼にする事は出来ないが、上記の運搬路を含んだ国道418号線は、
取水口のあった川平から上流の笠置発電所までの間が現在車輌通行不能で、かっ
ての運搬路もかくやと思われる狭小路であり、その有様をウエブサイトの「国道4
18号線」で検索できる。
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明治41年(1908)1月7日の起工式以来、名古屋電力(株)の八百津水力発電工事は悪
戦苦闘を続けていたが、5ヶ月遅れた41年6月に起工した名古屋電燈(株)の長良川水
力発電工事が竣工して関西聯合共進会会場に送電した43年3月15日になっても、工
程進捗率八分程度であるのに工事費が意外に膨らみ、その時点での払込済み資本金42
5万円では到底まかない切れず、工事を続けるには増資か巨額の借入れをしなければな
らない状態であった。
6−10:名古屋電力株式会社との合併
名古屋電燈としても名古屋電力の八百津発電所が完成すれば、長良川発電所の2倍近
い電力が名古屋市およびその周辺に流れ込んでくるので、電燈・電力の販売競争が激化す
るのは避けられないとの思いがあり、名古屋電力の兼松煕,名古屋電燈の福沢桃介両氏は
それぞれの重役および大株主を説いて両社合併の話の細目ををつける事になる。
明治43年(1910)7月、愛知県知事深野一三,名古屋市長加藤重三郎が仲介者として、
両社の当事者の間で合併合併に関する覚書を取り交わし、8月3日に合併契約書に調印
した。
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当時の名古屋電燈(株)の重役陣の中で、明治43年(1910)1月28日の定時株
主総会役員選挙「8ページの(6−6)項参照」で常務取締役に選任された佐治
儀助は、6月1日の取締役会で、常務取締役を福沢桃介に譲るために辞任し筆頭
取締役の地位に戻っていたが、名古屋劇場(株)御園座,中央製氷,東海印刷などの
各社の取締役をも勤め、名古屋商業会議所の議員であった。
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この合併案件と定款改正は、43年(1910)8月26日、中区東陽町にあった山田才
吉経営の東陽館で開催された株主総会にかけられるが、開会前からただならぬ雲行きで、
午前9時開会の目途がたたず、午後1時15分に常務取締役福沢桃介が会長席に着き開
会された。
合併案件は容易に可決されたが役員増員の定款改正は人数で議論が紛糾して結論が出
ず、午後11時50分一旦閉会し、8日30日に再開した総会で投票にかけるも同数引
き分けとなった。
11月18日の臨時株主総会でやっと人数を折半して収拾され、福沢桃介はこの混乱
の責任を取って、11月25日に常務取締役を辞して兼松煕に譲る事になる。
こうして、未完成の木曽川初の水力発電事業と自社の倍近い名古屋電力株を引き継い
だ名古屋電燈(株)は、利益率の低下,株価低落傾向を招いてしまった。
この苦境を打ち破る為に、大正2年1月、取締役に下がっていた福沢桃介が常務取締
役に再任され、大正3年12月に社長に就任、持論の「一河川一会社主義」で木曽川水
系の開発 に進んでゆくのであるが、 この「名古屋電燈会社物語」の後編として、
「福沢桃介の電力を関西へ」を記述したので参照してください。
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