3.福沢桃介の「電力を関西へ」(前編)

 
 

佐治敬三氏養子縁組改姓の謎を解く

はじめに

 今日、日本本土には北海道,東北,関東,中部,北陸,関西,中国,四国、九州の各電力会社 
が、だいたい行政上の地方別に配置されて電燈,電力の発送配電を行っているが、日本
に電気事業の勃興した明治中期以降には、地元発電地元消費の群小の電燈会社が各地に
叢生した中に、大都市・大資本を背景に創業されたやや広域的に発電配電する電燈電力
会社が、飛躍的に増大する電気需要をまかなって共存していた。
 しかしながら、石炭に依存する火力発電所には炭価の高騰,低落に振り回され、水力 
発電所では投下資本が甚大となるほか渇水,洪水に悩まされるなど、経営基盤の安定し 
ない電気事業所は次第に合併,吸収を行われるが、乱雑に実行された結果、支配区域は 
東西南北に錯綜して麻糸の乱れるような状態であった。
 その中で、琵琶湖を除いては大規模な水力発電資源の乏しい関西地方が、戦前の電力 
編成や戦後に関西電力に編成されても、北陸や中部山岳地帯からの送電を割り当てられ
ているのには、 明治末から大正・昭和初期にかけて活躍した福沢桃介の努力による所が
大きい。
 私は前作「名古屋電燈会社物語」で、前々作「佐治敬三氏養子縁組改姓の謎」に出て 
来る佐治儀助と桃介とが、名古屋電燈(株)の役員として同席するまでを書いて来た。
 それで今作では桃介の生い立ちから、一地方電燈会社に過ぎない名古屋電燈に入った 
いきさつや、日本を代表する大電力会社を造って「電力王」と称され、生涯の友人として 
「電力の鬼」と称される松永安左エ門を育てた経緯とを、この小史に書く事にする。




1:桃介の生い立ちと就職

 後に福沢諭吉の娘婿となる桃介は、明治元年(1868)埼玉県比企郡吉見町荒子の岩崎本 
家の分家の分家岩崎紀一の次男として生まれた。 
 紀一には受け継ぐべき資産もほとんど無いままに一家は現在の川越市に移住し、小学 
校に入った桃介は神童と言われる程で、後年、電力王,電力業界の奇才,財界の奇才,経 
営の奇才などの称号を受けるのももっともと窺わされる程の才能を発揮した。
 明治16年(1883)に上京して福沢諭吉が主宰する慶応義塾に入学した桃介は、塾の運 
動会での長身・美貌と目立った行動とで以て、来賓で来ていた諭吉の母堂の目に止まり、
諭吉の次女「房」の婿養子候補となった。
 明治20年(1887)、まず福沢の姓を継いで入籍した直後アメリカへ留学させて貰い、 
見聞を広めたりペンシルベニャ鉄道で業務の見習い実習をして、明治22年(1889)に帰 
国後に「房」との結婚式を挙げ、諭吉の口添えによって北海道の開拓や産業振興の目的を
もって設立された北海道炭鉱鉄道(株)に就職が決まり、新妻の「房」を連れて北海道に赴
任した。
 初任給100円という当時としては破格の待遇を受けていたが、会社は業績が芳しか 
らず、社長が高島易断で著名な高島嘉右衛門に交代した所、人件費節約でもって一般社 
員の給料を天引きで引き下げる事になり、桃介も月給を80円に下げられた。
 会社は明治23年(1890)に東京出張所を開設、桃介は売炭係主任として東京へ転任し、
桃介は道内で捌き切れなかった余剰石炭を東京や関西方面に売り捌く事になり、末だ一 
介の小商人であった浅野総一郎(浅野セメントの創始者)や愛知石炭商会の下出民義(後 
に名古屋電燈の副社長となる)とも取引をするようになった。
 高島社長は会社の方針決定とか免職人員の指名にも易断を用いる状態で、一時は桃介 
や後に社長になる宇野鶴太も免職される始末であった。
 政府としても会社の評判の宜しくない状態を放っておけず、福沢諭吉や松方蔵相の意 
見で高島嘉右衛門を平取締役に降格し、井上角五郎(諭吉の弟子で、北海道炭鉱鉄道を 
基盤に日本製鋼所を創設)を専務理事として社長の実権を振るわせる事にした。
 井上は改革の一環として、不要不能の社員七十余名を馘首すると共に桃介・宇野らを 
復職させ、石炭の委託販売を止めて直営とし、汽船をチャーターして直接回漕した。  
 桃介は元来感情に波のある性格であったらしく、気の乗った時には熱心に職務に励む 
が、難事に対してはあっさりと妥協・転身・撤退したり、反骨精神に溢れるなど気まぐれ 
な気性でもあったようだ。
 再入社して東京支店に戻った桃介の働きぶりは目覚ましく、朝早くから出社して午前 
中に事務を片付けると、午後からは得意先回りに精を出し、夜は交詢社に行って社交と 
談話に励んで人脈の構成に努め、将来の独立独歩に備えていた。


2:闘病と株式取引

 明治27年(1894)7月、日清戦争が勃発するや、政府は大量の船舶を徴発したので民 
間の海上輸送を圧迫し、石炭の価格が暴騰して名古屋電燈(株)の利益を降下せしめた事 
は、「名古屋電燈会社物語」にも記述した。
 その名古屋は従来、九州炭の勢力範囲であったのが、桃介の尽力で北海炭を入れるよ 
うになったものの、運送船が無くて積み出す事が出来ない。
 桃介は直ちに横浜の外人商社と交渉し、ノルゥエーの汽船を3隻チャ−ターして石炭 
輸送に充てたので、地方の工業家は非常に助かったとは前記した下出民義の話である。 
 桃介は更にイギリス船籍の貨物船を購入する手はずを整えるなどして、8月初旬横浜 
港に停泊中の貨物船の受け渡し式に臨んでいる最中に甲板上で喀血、肺結核であった。 
 直ちに北里柴三郎の養生園に入院したが8ヶ月後に退院し、大磯に転地して療養中の 
明治28年(1895)10月には、北海道炭鉱鉄道(株)に辞表を提出している。
 この療養中に始めたのが株取引の研究で、北炭の社員に兜町の株式店に勤めていた者 
が居て株式売買の手ほどきを受け、貯金3千円の中から出した1千円を証拠金として定 
期取引(現在では信用取引という長期清算取引)始めたところ、日清戦争後の経済界の活 
況に乗じて売り買いを演出し、明治28年暮れに手仕舞いした時には、過去一年間程の 
儲けが10万円近くになっていた。
 その余りにも鮮やかな成功ぶりに、「相場師」とか「山師」とか言われるのが常であった 
が、桃介の手法は罫線を注目して上昇過程にある会社の株を買い、株価が十分に利が乗 
ったと見るやカンの良さを発揮して売り逃げる事屡々であり、その裏には株の高低、会 
社の内容、重役の人物、内外時事の影響、市場人気の消長などの研究努力があった。  
 なおも株式取引を続けて連戦連勝しつつあったが、療養の甲斐あって病魔も退散した 
ので、国内各地の観光旅行に出かける他に、明治29年には北海道炭鉱鉄道(株)の井上 
角五郎が上海・香港方面へ出張するので同行する程であった。
 明治30年11月、義父の福沢諭吉が家族連れで関西地方から厳島への旅行するのに 
お供する羽目になり、買い付けてあった株の売り時が気に掛かっていたが、株嫌いの諭 
吉と同道している手前言い出せず、十日ほど経って帰って来た時には以前の儲けが半分 
になったのが唯一の失敗だった。
 このように頭が良いし社交的で暇も金もある若者を世間は放っておかず、明治31年 
(1898)9月には親戚の中上川彦次郎(三井銀行常務理事:母が諭吉の姉)が社長をして 
いる王子製紙(株)取締役に就任したり(当然、会社の株を持っての事であろうが)、利根 
川水力電気の発起人総代となったりした。
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    王子製紙については、視察に来た井上馨との応対に気まずい事があったと言
   うし、利根川水力電気(現在の東京電力佐久発電所)については、翌年出願に及
   んだから水力発電事業に関係した最初と言うべきであろうが、時期尚早とあっ
   て実際に竣工したのは昭和3年(1928)になった。
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 その明治31年10月の頃に、終世の友人というべき義塾の後輩松永安左エ門(世襲
名:幼名は亀之助)に出会った。


3:丸三商会の破綻

 明治32年(1899)、安左エ門は学業を続けるべきかで悩んでいたが、諭吉の紹介で塾
を中退して三井呉服店に就職するが長続きせず、翌33年には桃介の紹介で日本銀行に
入行するがここでも行風に馴染めず、桃介に相談すると日銀なんか辞めて自分の仕事を
手伝えと言う事になり、京橋区三十間堀(現:銀座1〜2丁目付近の裏通り)に丸三商会
を設立、諭吉や房も2万5千円を出資してお目付役に益田英二を送り込んだ。   
 桃介は時に三十二歳、小さいながらも会社の社長とあって、花柳界で持てるままに酒 
に強くなり、女遊びも派手になっていった行状は諭吉に逐一報告されていた。     
 丸三商会は小樽と神戸に支店を置き、安左エ門は神戸支店長という事で神戸に事務所
を構えて活動を開始する内に、アメリカの商社の下請けでシベリヤ鉄道に枕木を収める
大口の商談が成立した。
 ところが間もなく、商社から前渡し金の支払いを断って来た上に、三井銀行も為替の 
取引を停止すると言ってきた。
 その背景には、信用調査を請け負った東京興信所(所長は慶応義塾出身の森下岩楠)が 
「信用絶無、資産僅少」という報告を出す時に諭吉にお伺いを立てたところ、(桃介にも困 
ったものだ)との言葉を聞いたからだという。
 かくして、丸三商会は設立後約4ヶ月で行き詰まって倒産、桃介は事業の失敗と諭吉 
の叱責とで絶望のすえ神戸行きの汽車に乗って家出した。              
 途中、無意識に名古屋駅で下車し、料亭に上がって予て見知っていた芸者を呼んで心 
中を持ちかけたが断られ、再び汽車に乗って大津まで来た時に喀血した。
 5年前の病気がこの所の興奮と疲労とで再発したものと思われ、旅先とあって途方に 
暮れていたが、先年在米中に親しくしていた佐伯理一郎博士が京都の同志社病院で院長 
をしている事を思い出し、京都駅で下車して病院を尋ねた。
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   同志社病院は、同志社の創始者新島襄が、将来の医学部とする構想の基に明治  
  19年(1886)に設立したが明治39年(1906)に廃止され、それより以前に理一郎  
  は上京区清和院町で看護婦学校・産婆学校・産院などを経営している。
   理一郎は海軍から米国に留学中に、フィラデルフィアのペンシルバニア大学で  
  研修しているから、その時に桃介と知り合ったのだろう。
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 1週間ほど入院・療養して元気快復した桃介は東京へ帰ると、丸三商会の整理閉店や 
住居を処分、大森八景園下の貸家への転宅、王子製紙(株)取締役の辞任などの後始末を行 
った後、安左エ門に金500円を渡して別れた。
   

4:破綻後の再出発と日露戦争後のバブル景気

 明治34年(1901)3月福沢諭吉死去、享年68歳、桃介は33歳であった。
 7月、桃介は井上角五郎に勧められて北炭に復職、重役付き支配人として英国の銀行 
から100万ポンドの外債を導入したが、これは民間としては最初のものであった。  
 一方、安左エ門の方は桃介から貰った500円を資金として、神戸に福沢と松永の名 
をかけた福松商会という何でも売り買いするブローカー商売を始めたが、慶応義塾の先 
輩や後輩が在社していた鐘紡に石炭納入の道が開け、石炭販売業を大きく発展させた。 
 明治37年(1904)、日露戦争が勃発するや、日清戦争で領土や賠償金の獲得で味を占 
めた経済界は、戦争が終わった直後から活況を呈した。
 ここに「名古屋電燈会社物語」でも掲載した名古屋電燈(株)の50円払込済みの旧株
の株価を、株価騰貴の例として引用する。
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     名古屋株式取引所定期取引株式値段(当月限平均値概算:小数以下切捨)
 明治
  年  27 28 29 32 36  39   40     41 42 43   44   45
  月  6 11  8  3  1  11 12  1  2  9  8  1  3  7 1  7 1
  ¥  66 73 71 52 72 146 169 252 189 63 60 72 90 117 89 71 65
 大正 
  年  2    3      4    5  6  7  8
  月  1  7  1  7 12  2  7  1  1  1  8  9  11  12
  ¥  56 52 54 48 44 51 52 64 68 77 101 109 111 102
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 明治39年(1906)3月の鉄道国有法により北海道炭鉱鉄道(株)は10月に国有とされ 
て北海道炭鉱汽船(株)となり、その影響か桃介は同月に会社を辞職して本格的に株式取 
引に取り組み、単なる買い付け売り抜けと違って、東京地下鉄道の発起人となったり、 
日清紡・帝国人造肥料・瀬戸鉱山の設立に関係したりした。
 その内、北海道炭鉱汽船(株)に大量の売り物が出たので調べて見ると、同社の重役で 
大株主である雨宮敬次郎・田中平八が12円50銭払込の新株を30円から35・6円 
で売りにだしたものと判ったので、桃介はこの株を買って会社を乗っ取って彼らに一泡 
ふかせてやろうと大いに買い付けた。 12月始めから暮れ近くなって十分に利が乗っ 
たので、気が変わって一旦買い手仕舞いしたが、北海道炭鉱株が益々騰がってゆくので 
一転売り方に廻る事にした。
 明治40年(1907)に入って大発会以後も兜町は買い方全盛で毎日上がるので、さすが
の桃介も追敷き追敷きですっかり腐ってしまった。
 その内に、別筋からの北海道炭鉱株の大量の売り物が現れても市場に騰勢が衰えない 
事から、この売り物が三井財閥からの物であると見抜いた桃介は、1月中頃に三井銀行 
の営業部長をしていた池田成彬にあって確かめ、三井が売る位なら近日下落することを 
確信したので、保険として寶田石油(明治25年:設立された新潟県で石油採掘する会 
社、大正10年1921:日本石油鰍ノ合併)の株を300円位で3、000株買っておいて 
持ち続ける事にした。
 果たして間もなく炭鉱株を始め諸株が大暴落して桃介は一安心する一方、買い方のい 
わゆる成金連中で没落する者多数であった。      
 寶田石油株の方も、一時は90万円程をドブに捨てる覚悟をしていたのが、3・4月 
に増資する話が出て値が騰がり、差し引き15万くらいの利得となったと言うから、ツ 
キとカンの良さは驚くべきであって、300万近くの巨利を手にしたという。
 カンと逃げ足の速いのは桃介の特徴で、上記の帝国人造肥料は新設人気で応募者百何 
十倍という人気株となり、12円50銭払込に対して50円という権利がつき、予定の 
3倍の300万円の資本金で会社が成立したが、桃介は初めから見切りを付けていて、 
いつでも権利株を売り放つ事を条件として発起人を承諾していたので、早々と株の処分 
をすませていた。結局この会社はその後の状勢面白からず、渋沢栄一の大日本人造肥料 
に合併されてしまった。
 また紡績株に対しては、女工使役上人情を押し殺しても経営をせざるを得ない苦痛が 
あるとの観点があり、ことに日清紡は後発会社であるので妙味が無いと思っていたよう 
である(福沢桃介翁伝年表に40年1月専務取締役就任、43年4月辞任の記事あり)。 


5:電気事業への参入

  その点、鉄道や電気の事業にはそのような懸念が無いが、鉄道国有法によって有力 
な民有鉄道が挙げて国有に帰したのを見て関心が薄れて電気事業に注目していた所へ、 
明治40年中にヨーロッパにおいて水力発電が60マイル(約96q)の遠距離送電に成 
功したのを聞き、第1項に挙げた愛知石炭商会主下出民義(後に名古屋電燈副社長にな 
る)に書を送り、名古屋市付近または多少離れていても、水力電気発電で有望な地点が
あれば通報してくれるように頼んでいた。
 たまたま九州佐賀の広瀧水力電気(株)が資本金30万円で創立された際、博多の太田 
精蔵が 30万円6千株の4分の1にあたる1、500株を持て余して桃介の所に持ち込 
んで来たのを引き受けてやった。
 その内に払込金徴収の通知が来たが、世間の景気も悪いし払込をせずに打っちゃって 
仕舞うつもりで佐賀県にある会社に申し送ると、堂々たる紳士にあるまじき事と盛んに 
小言を言って来る。
 それでは一つ実地を見た上で考えて見ようと佐賀へ行って見ると、社長は旧鍋島藩の 
元家老で人品良き人であり、他の重役の牟田万次郎・伊丹弥太郎(後の東邦電力鰹苑緕ミ 
長)も立派な人であったので、安心して払込をする事に決め、広瀧水力電気(株)の大株 
主になり取締役に就任した。
 この激動時代(明治40年)に松永安左エ門は大阪に生活の本拠を移すかたはら、桃介
の手ほどきで始めた株式売買が、売り時の失敗で大損して福松商会は破産、角田町(現
:阪急百貨店の東向かい)の自宅は火災で全焼の憂き目にあっていた。
 広瀧水力電気の大株主になった桃介は、自分の代理に非常勤の監査役として安左エ門 
を送り込み、これに力を得た安左エ門は大阪ガスの代理店となって家庭用にコークス販 
売を始めたのが成功して事業が立ち直った。
 更に、破産前の福松商会が、福岡市の依頼により市内に電気軌道敷設の目論見書提出 
をしていたのが明治42年(1909)に許可されたので、桃介に会社を設立して事業化した 
いと相談した。  
 この出願の時の条件として、43年(1910)の3月に福岡市で第13回九州沖縄八県聯 
合共進会を開催するので、そそれ迄に軌道を敷設せねば5万円の罰金を払うという條件
があり、大阪の今西林三郎・名古屋佐分利慎一郎らの有志に株の引き受けを纏めて来た
から少しでも株を持って欲しいと言うのである。          
 桃介は「5万円くらいの罰金なら出した方が得だ、仮に会社が資本金が60万円で株 
数が1万2千株として、おれがまあ半分持つとすれば6千株だ。1株10円を損すると 
して6万円になる。それなら5万円の罰金を出して辞退しようじゃないか」と言うが、 
安左エ門は「是非とも事業をやらねば面目が立たぬ」と言って承知しない。
 同時に段々調べて見ると、まんざら見込みの無い事業でも無く、八朱(8分)位の配当 
が出来るだろういうので、桃介が社長、安左エ門が専務取締役で福博電気軌道(株)を設 
立し、安左エ門は昼夜兼行で工事を進めた結果、共進会開催の2日前に竣工させてしま 
った。
 これが評判になって50円の株が100円に騰貴し、開業早々1割の配当するなどの 
成功を収め、広瀧水力電気(株)を始め北九州の多数の電燈・電力・電鉄会社を併合して、 
後に東邦電力(九州地区)となる一半の基礎となった。
 このように、広瀧水力電気(株)と福博電気軌道(株)とが順調に立ち上がった事から、 
桃介は「牛に牽かれて善光寺参りしたようなものだ」と福沢桃介翁伝で言っており、虚 
業から実業へと転じるキッカケとなった。


6:豊橋電気・名古屋電燈への関与

 これより前、明治27年(1909)設立の豊橋電燈(株)は、牟呂水力発電所と補助の火力 
発電所の合計出力80KWでもって営業していたが、明治39年(1906)豊橋電気(株)と改名 
して新しい発電所の建設を検討していた。 
 (以下、杉浦雄司寄稿:東三河の水力発電史と今西卓の業績:より) 此の年は豊橋に
市制が実施された年であり、日露戦争戦後の軍拡の一環として陸軍が計画していた新設 
団を誘致するには電燈・電力の増強が必須とあって、豊川水系巴川上流作手村見代に発
電所を建設する事になった。
 工事は突貫工事で進められ、第15師団が開庁する半年前の明治41年(1908)5月に 
見代発電所(出力250kw:後に350kw)と豊橋市までの25kmの送電線および受電変電所が竣 
工したものの、日露戦争後の大不況に遭って工事費に要した多額の資金の都合が付かず、
破産寸前の状態であった。
 この経営危機を打開すべく三浦碧水(豊橋町の初代町長:豊橋電燈発起人の一人)が福 
沢桃介に大量の株式の取得と取締役への就任とを頼み込んだ結果、豊橋電気(株)は危機 
を脱する事が出来た。
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 日露戦争の戦中・戦後の経済伸張を受けて、名古屋電燈(株)が東海電気(株)の買収と
長良川水力発電所建設工事の資金に充てる為に、明治40年(1907)1月の臨時株主総会
で従来の資本金100万円を一躍増資して625万円とすると決議した事は、前稿「名
古屋電燈会社物語」にも書いておいた。
 この時点は戦後好景気の影響で一般株式市価が最高潮に達した頃で、増資割り当てを
控えた名古屋電燈(株)の50円払込済み旧株は、一時294円の最高値を唱えたものの、
翌2月には株式市場が大恐慌となり、会社の株価も約120円余と前月の半額以下とな 
るに及んだから、資本金総額を525万円に訂正し、新たに増資するのは400万円8
万株とした。
 この内、5千株は鈴木久五郎(好況時の株式取引で大儲けして大成り金:ダイナリキン:の称 
号を得た)が引き取るとの内諾を得てあったのが、明治40年2月の株式界の大暴落で 
久五郎は引き受けるどころでは無くなり、5,000株の新株が浮動株(持続的に所有さ
れず株価次第で常に市場で売買されている株式:固定株の逆)となってしまった。
 ここにおいて、この浮動株を桃介が買付け引受けるように下出民義は勧めたが、当時、
桃介は名古屋電燈(株)についての知識が無かった為か、すぐには承知しなかった。
 翌41年(1908)春、東京における三井銀行支店長会議に出席する為に、旧友にして名 
古屋支店長である矢田績(やだせき)が出京した際に会談して [名古屋市将来の発展性、
名古屋電燈の前途有望にして財産状態が相応に良好あるにかかわらず会社の発展思わし
く無い事、為に同社の株式の市価が比較的低位にある事] を説き、既に愛知県下の豊橋 
電気に出資している以上、名古屋市の名古屋電燈(株)に出資すれば自他共に利益となる
事多大であろうと説いた。
 「名古屋電燈株式会社史」では、「当時桃介が電気に関する学識が深からず、また名古
屋の地理が木曽川の恩恵に浴すること大いなるに思い及ばず、同河川がいかなる発電能
力があるかを詳知せず、名古屋電力が競争会社として存在する事も知らなかった」とし 
ている事から、桃介は矢田、下出両氏に依嘱して各方面に渉る調査を行うやら、福沢事 
務所の技術職員を工事中の長良川水電現場に派遣した結果、長良川水電事業が完成すれ 
ば年率1割7、8分の配当も見込まれるとあって、定期取引(現在の信用取引)市場で新 
株1万株程度を下出民義の手で買い付ける事とした。
 当時、名古屋電燈の総株数は10万5千株に過ぎず浮動株は至って少なかったから、
1万以上の実株を引き取ろうとすれば影響が大きいとあって、下出民義の苦心は少なか 
らざるものがあり、50円払込済みの旧株の時価が60円から65円を唱えていた頃、 
浮動株になっていた新株1万株以上を入手した。
 その間、会社に面白くない噂さがあって一時買い付けを手控えたり、旧株が90円位 
に騰貴したころを利食いした事もあったが大部分は実株で引き取ったので、明治42年 
(1909)3月27日に株主名簿に登録され、6月の前半期末で5,390株の大株主とな 
ったので、会社は矢田績らの勧告をいれて7月21日の取締役会決議で顧問に推薦し、
更に定款を改正して設置した相談役に10月23日に就任させたが、1年間の報酬が僅
かに500円であった。
 この前後、前記の広瀧水力電気(九州電力)・豊橋電気・福博電軌軌道・大阪の泉尾土地
の大株主などの他に、高松電気軌道(株)・高松瓦斯(株)の創設,日本瓦斯株式会社(松永
安佐エ門と共に資本金300万円で創立した青森・新潟・長野・千葉・前橋・高崎・和歌山・
姫路・高松・呉・今治・下関・門司・小倉・博多・大牟田・八幡・佐世保・熊本・鹿児島・満州安東
県・大倉組等の各瓦斯会社の持株会社)の社長などを務めているから、株取引の儲け以外
の資金力と信頼性は相当な物があった。 
 それというのも、桃介には広い人脈と岩崎久弥と言う有力な後盾があった。
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   岩崎久弥は慶応元年(1865)12月、三菱財閥の創始者「弥太郎」の長男として生
  まれ、福沢諭吉の慶応義塾で学んだ後、明治19年(1886)渡米して3年間をペン
  シルバニア大学に在学し、明治24年(1891)に帰国後、三菱社に副社長として入
  り、明治26年(1893)社長に就任、三菱財閥第3代目の総帥となった。
   この時期、諭吉の長男一太郎と次男捨次郎とが明治16年(1883)から明治21
  年(1888)までを米国に滞在し、同様に桃介も明治20年(1887)から明治22年
  (1889)まで滞米していた。
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 このような因縁もあって、明治42年(1909)1月12日、桃介が岩崎久弥男爵に資金 
の調達を頼みに行った時に、久弥は同じ慶応元年9月生れの捨次郎(後に時事新報社社
長)とは特に親しく、「捨さんの兄弟だからまさか悪い事はすまい」と桃介からの資金調
達の依頼に引き受けて呉れたので「自分には一生に2人の大恩人がある。その一人は福 
沢諭吉先生であり、他の一人は岩崎久弥男爵である」と語っている(福沢桃介翁伝より)。 

7;桃介の名古屋電燈(株)入りと株主総会における混乱

 明治43年(1910)1月28日、名古屋電燈(株)定時株主総会は役員改選し、取締役に 
三浦恵民、佐治儀助、近藤重三郎が重任、木村又三郎、福沢桃介、伊藤由太郎が新た取締役 
に当選、29日の取締役会で三浦、佐治両取締役が常務取締役に当選した。
 この後の5月26日の取締役会で常務取締役佐治儀助が辞任して取締役に戻り、福沢 
桃介が常務取締役に昇格した後、桃介は残務を整理する為か山陰の浜田電気(株)創立に 
参画したり高松瓦斯(株)の経営権を日本瓦斯(株)に譲渡したりした上、前半期末(6月 
30日)までに取得した名古屋電燈株が1万20株に達し筆頭の株式所有者となった。 
 福沢常務の名古屋電燈(株)における初仕事は、前稿「名古屋電燈会社物語」第6-8項 
から第6-10項にかけて所載した名古屋電力(株)と合併案件(8月3日に既に両当事者 
の間で調印されていた)を、株主総会で提案・承認させる事と取締役および監査役を増員 
する事であった。
 残暑厳しい明治43年(1910)8月下旬、名古屋に到着した福沢常務は、中区東陽町の 
東陽館における臨時株主総会に臨もうとしていたが、ここにおいて名古屋電燈の株主の 
中に、福沢常務その他の新分子を歓迎して電友会という組織をつくり会社の刷新発展を 
期そうとするものと、多数の新分子を俄に重役中に加える事は会社の基礎を不安定にす 
る危険があるとして愛電会という原案に反対する者たちの組織とがあり、両会共に本部 
と市内各所に事務所を置くやら議決権行使代理委任状の収集に苦心し、総会開会前1週
間の両会幹部は碌々睡眠の暇も無い程東奔西走していた。
 当時の名古屋市長加藤重三郎,名古屋商業会議所副会頭上遠野富之助および三井銀行 
名古屋支店長矢田績の3氏は深く憂慮して、株主総会前日から両会の幹部間に斡旋して 
妥協させようとし、8月26日の開会当日は午前6時から銀行集会所に会同して妥協を 
図ったが纏まらず、開会予定の午前9時の東陽館会場には両会が各個に別室に控え所を 
設けて気勢をあげ、不測の事態に備えて警官も出張するなど物々しい状態であった。 
 この間にも妥協の交渉が行われ、また株主から提出された委任状の考査にも手間取っ 
て、午後1時15分になってやっと開会の運びになった。
 いよいよ常務取締役の福沢桃介が総会会長席に着いて開会すると、名古屋電力(株)を 
合併する件と資本金を725万円とする事と此に伴う差益金処分の件についてはスンナ 
リと可決されたが、定款を改正して「取締役を10名以内、監査役を7名以内にする」 
という会社原案に対し、愛電会系の株主からは「取締役を8名以内、監査役を6名以内 
にすべし」という動議が提出され、懸命の回避説得も及ばず決選投票が行われた。
 これを開票すれば争議が将来に残す恐れがあろうと一旦休憩して、加藤市長および矢 
田支店長は妥協を呼びかけたが聞き入れられず、やむなく開票したが、委任状に重複あ 
る為決定に到らず、他日精査する事にして福沢総会会長に取締役1名だけを指名・選任 
する事を委任し貝塚卯兵衛が当選、午後11時15分閉会して長い1日が終わった。  
 投票調査会は8月27・28日の両日に開催され、仔細に調査した結果、会社原案に 
賛成と修正案に賛成とが全く同数の39、680株となり、定款により総会会長が採決 
する権利を持つ事になったが、桃介は此を行使せず当分旧来のままとしたので、両会と 
も会長の真意を了解して確執を解消した。 


8:名古屋電力(株)合併に伴う後始末

 名古屋電燈(株)と(株)との合併案件には、交換比率を1:2とする事になっていたが、
名古屋電力(株)の払込済み資本金は、1株の額面金額50円(42円50銭払込済み)の 
ものが10万株であるから総額425万になる。
 その為に名古屋電燈では、11月1日に額面50円で42円50銭払込済の新株(第 
2新株と称し、明治40年3月に400万円を増資した際の物を第1新株として区別し 
た)5万株を発行して名古屋電力株10万株と交換し、資本金を525万円から775 
万円とした。
 またこれにより、差額金225万5千円の利益を得たので、旧株および第一新株所有 
者に対する配分、名古屋電力の解散費および旧株主分配金、合併関係諸費用、小栗銀行破 
綻により生ずる損金の補填、株主配当準備金その他に充てて処分した。
 こうして合併に関する諸条項を完了した11月18日、臨時株主総会を開いて定款の 
改正と監査役の増員を決議して、元「名古屋電力」重役中から取締役に上遠野富之助、兼松
熙、斉藤恒三を、監査役に神野金之助、桂二郎の諸氏が当選、就任した。
 常務取締役として事実上の社長であった福沢桃介は、もともと名古屋電燈を経営する 
気が無かったので、11月25日、常務取締役を辞任して兼松熙に譲って平取締役に戻 
った直後、取締役をしていた豊橋電気(株)の社長に就任した。
 更に翌明治44年3月に浜田電気冠野田電気鰍フ取締役社長に、同年10月には博 
多電燈軌道椛樺k役就任・唐津軌道会社の創立などをしている。
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   この結果、名古屋電燈は名古屋電力の払込資本金で建設した木曽川第一発電所  
  (大正6年から八百津発電所と称したが本稿では始めからこの称呼を使う)の送発  
  電設備を、半額の212万5千円で手に入れた事になるので、差額の212万5  
  千円が利益になり、その中から名古屋電燈の株主に配分、名古屋電力の旧株主へ  
  の割戻し、合併に関する諸費用、小栗銀行破綻による損金処理、配当補充金に充て  
  残務処理を終了した。
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 旧名古屋電力が(吸収)合併に追い込まれた原因の八百津発電所の建設は、「名古屋電 
燈会社物語:6−9項」にもある通り、当初の工事予算400万円を費消しても完工せ 
ず、なおも名古屋市内外の配線設備、県内外に大動力を供給する為の設備などに巨額の 
資金を必要とする事が見込まれるので、合併後約半年の明治44年(1911)4月8日の臨 
時株主総会で、従来の資本金総額775万円(15万5千株)に825万円(16万5千
株)を増資して1,600万円(32万株)とする件と、取締役を1名増員すると共に常務
取締役の上に社長を置く事を決議した。
 これより先、会社は名古屋を代表する大会社として成長したからには社長を置く必要 
に迫られ、名古屋市長加藤重三郎に就任を打診していた所、内諾を得たので6月28日 
開会の定時株主総会において加藤重三郎が取締役に選任せられ、続く取締役会で社長に 
当選、重三郎は名古屋市長を辞任して名古屋電燈(株)取締役社長に就任した。
 増資の件については、新株式の内15万5千株は同年7月1日の株主に、持ち株1株 
に対して1株を割り当て、残り1万株をプレミアム月付きで公募したところ、9月5日 
の申込期限までの応募株数が5万308株に達し、入札最高金額のプレミアムは15円 
20銭であった。
 その内から60円20銭以上の金額を示した申込者(平均申込価格60円24銭)に対 
して新株を交付する事になり、1万株で10万2千420銭の差益金があった。
 新株式は12月1日第1回限って12円50銭を徴収し、翌年3月新株券を発行して 
から6回に分けて払込金を徴収し、大正8年9月に株式額面金額の払込を完了した。


9:木曽川第一発電所(八百津発電所)

 一方、合併年の翌年の明治44年(1911)6月には木曾川水系最初の八百津発電所水路 
工事が一旦竣工したが、通水試験した際に一部崩壊したので約30万円を追加して修理 
し、10月10日に漸く竣工・通水再開となった。
 10月30日には電気工事も完成して逓信大臣に竣工届けを提出し、11月5日から 
逓信省技師前原市助、坂本充稔の出張検査が行われた。  
 11月14日、第2号発電機の速度調整器試験中に水車の回転速度が急激に増加した 
ので、発電所の技術係員は速度調整器を操作して停止させようとしたが成功せず、よっ 
て坂本技師は他の技術員にゲート・バルブ閉鎖を命じて見守る時、轟然たる異様の音響 
と共に水車の外皮が破裂して水流は発電所所屋に溢れ、最初の一撃で脳震盪を起こした 
坂本技師は逃れる事ができず、第4号水車のピット内に流されて死亡した。
 その他にも発電所付きの社員に死者1名・負傷者3名を出した此の事故は、急速にゲ 
ートバルブを閉鎖した為に水圧鉄管内を落下して来て行き場を失った水流の運動エネル 
ギーが、圧力エネルギーに変換されて衝撃波を生じるウオーターハンマー(水槌現象)で 
水車外皮を破壊したものであった。
 八百津発電所の事故が会社に到着するや兼松取締役と社員らが直ちに現場に出張し、
応急処置を施すと共に、無傷であった水車及び発電機各2台の検査を受け、11月30 
に仮使用証を下付せられ、八百津から荻野変電所(北区安井1あたりか)まで43.4kmの送 
電線路および名古屋市内に配電する南武平町の変電所も使用許可証を下付されたので、 
翌明治45年1月13日から営業運転を開始した。
 八百津発電所(60,000ボルト 7,500キロワット)は、以後の鬼怒川(大正元年12月:66,000ボルト 
51,400キロワット)、 桂川(大正2年6月:77,000ボルト 32,000キロワット)、 猪苗代(大正3年11月:  
115,000ボルト 35,000キロワット)殆ど同時期に竣工したが、それらより2〜3年前に着工した
先駆的な工事であり、電線支持物として初めて鉄製送電鉄塔を使用した。
 八百津発電所に当初設置の機器は、モルガンスミス社製マッコミック横軸二重タービン水車4,200馬力 
4台、横軸回転電磁型三相交流6,600ボルト2,500キロワット発電機4台(いずれも常用は3組で 
1組は予備)の合計出力 7,500キロワットを変圧器で60,000ボルトに昇圧するものであった(こ 
れらの機器は大正11年〜13年に、水車は電業社原動機製造所製4,600馬力のものに替え、 
発電機は芝浦製作所でコイルを巻き替えて1台の出力が 3,200キロワット になった)。
 更にこの発電所の特徴は、木曽川の洪水を避ける為に水車と発電機が置かれている機 
床面を洪水面より高い所に設置している為に、4台の主水車の放水口と平水面との間に 
約7mの落差があったので、大正6年、水密性の小屋の中に、1本の横軸に4個の小水 
車を連接して、出力1,200キロワット発電機1台を廻す放水口発電所が造られた。
 こうして木曾川水系で初めて建設された大規模の水路式発電所であり、導入された 
外国性機器を国産の機器に改良・置換した点で歴史的に画期的な物がある事から、その 
遺構は国指定の重要文化財となり、旧八百津発電所資料館として保存されている。


10:苦悩する名古屋電燈(株)の経営と福沢桃介の常務再任

 長良川水電の竣工と名古屋電力との合併による販売電力に余裕を生じた名古屋電燈は、
明治40年(1906)春の大恐慌からようやく立ち直った産業界の需要に応えるべく、名古 
屋市および周辺にとどまらず、名古屋電気鉄道(名古屋市内の電者交通を経営し後に名
古屋市営に移される),瀬戸電気鉄道(大曽根瀬戸町間),愛知電気鉄道(神宮前から常滑町
および秋葉前間),尾張電気鉄道(押切町から犬山)などの私鉄、愛知織物,帝国撚糸,三重
紡績半田工場などの紡績業、日本車輌,愛知セメントなどの製造業、犬山電燈,一宮電気, 
稲沢電気知多瓦斯などの電力業など隣接する他県にも送電を開始する情勢であった。
 明治37年(1904)以来、本社事務所は中区水主町(かこちょう:現在中村区名駅南3 
に変電所と水主町のバス停留所がある)の第3発電所と同一場所に置いていたが、水力 
発電事業の発展と共に発電所を廃止するに到り、既に上記第8項で記したように、名古 
屋電力と合併後は資本金も会社の組織も複雑となり役員や職員も増えたので、強いて同 
所に事務所を置く必要も無くなった。
 そこで、市中央部の中区新柳町・南桑名町・南長島町に渉る地(現在:白川公園内の名古
屋市科学館のあたりか)を価格 ¥71,744、敷地面積690坪で購入し、木造4階建本館建坪
450坪の他、水主町から移築の別館、倉庫、その他を建築し45年5月移転したが、建築費
総計は7万余円であった。
 貯蔵できない余剰電力の消化は電力業界の宿命であって、名古屋電燈ではガス燈との 
競争の為に、明治45年(1912)1月から、最も需要の多い十燭光一燈一ヶ月の料金85 
銭を80銭に値下げするやら、外交員を設置して販路の拡張するなどしたが、大正元年 
(1912)11月現在電気供給出力総計1万8千8百馬力の内、7千8百馬力の売れ残りが 
あったのに対し、名古屋電力の合併によって増資して資本金が1千6百万円(明治44 
年12月末で払込済資本額が9百81万円)にまで昇り、利益率は年5朱(分)に低下し 
た結果、45年前半期の決算では配当補充金から繰り入れてようやく年9朱(分)2厘を 
配当する事になった。
 従って名古屋電燈(株)の株価も低落し、45年(1912)6月の50円払込済みの株価は 
61円を示しつつ前途はなおも低落する模様(第4項の名古屋株式取引所株式値段参照) 
であったので、新株式に対する第2回以後の払込をして貰う状態で無く、ちょうど前作 
「名古屋電燈会社物語」第6−5項の明治41年頃の資金借入状態と同じ状況であった。 
 この苦境を脱する為に、販売区域を拡張して余剰電力を販売し、収益を増加せんとし 
たが、それにも巨額の資金を要するとあって、明治44年以来セール・フレーザー鰍ニ 
の間に外資借入の交渉を持つも意の如くならなかったので、福沢取締役は十五銀行と交 
渉し、会社が明治45年3月に同行から210万円を借り入れるのに力を貸した。
 やり繰りはこれだけでは足らず、同年の大正元年(1912)9月には先年明治生命保険梶@
他2社から、従前借入の150万円以外に30万円を借り増して、この難局を僅かに乗
り越えたのであった。 
 しかして、明治45年前半期決算を附議する定時株主総会を前にして、株主の間には 
会社の前途を憂って経営方法を一新する要ありとの声が高く、福沢取締役が社長をして 
いる豊橋電気の整理をして立ち直らせたり、相談役として関係する九州電燈鉄道鰍ェ良 
好な成績を収めている事から、福沢取締役に今後の本社の経営を一任すべしとの意見が 
あるばかりか、監査役間にも会社の業績不良なる上は社長以外の重役は賞与金を辞退す 
べしとの意見があった。 
 このように刷新の機運が高まったので、明治45年(1912)6月27日開会の定時株主 
総会を前にして、生え抜きの三浦惠民と1年前になったばかりの兼松熙の両常務取締役 
が常務辞任を届け出て取締役会の承認を受けた。
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   さて、福沢取締役は明治45年(1912)5月の衆議院総選挙に千葉県郡部から   
  政友会公認で出馬し当選、総裁の西園寺公望は日露戦争以後、長州閥の桂太郎   
  と交互に内閣総理大臣を務め(桂園時代)、立憲政友会は 381名の議員中 214名   
  (立憲国民党:94、中央倶楽部:31,無所属:42)を擁して絶対多数を占める西園寺   
  内閣の与党であった。
   大正元年(1912:7月30日から改元)12月5日、第2次西園寺内閣は陸軍   
  の2個師団増設の要求を拒否した為に協力が得られず総辞職したので、桂太郎   
  が組閣する事になったが、世論は軍と長州閥の横暴に反発し、12月19日憲   
  政擁護聯合大会が行われのが護憲運動の始めとされ、福沢桃介はその運動の急   
  先鋒であった。
   12月21日に第3次桂内閣が組閣され、桂首相が後を継いだ。     
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 一方、名古屋電燈鰍ナは、12月26日限りで取締役一同10名、監査役6名が辞任 
を申し出でて任期満了となり、同日開会の定時株主総会は新たに取締役7名、監査役3 
名選出の議決を行い、指名を桃介に一任した。
 よって桃介はポケットから用意した紙片を取り出し、新取締役に加藤重三郎、福沢桃 
介、佐治儀助、貝塚卯兵衛、田中新七、兼松熙、下出民義、監査役に木村又三郎、渡辺龍夫、 
後藤幸三を指名したが、議場に無用の騒ぎを起こさせないように、殆ど聞き取れない程 
の早口で読み上げて無事に総会を閉じ、翌日の取締役会では加藤取締役を再び社長に挙 
げる事になった。


11;大正の政変と名古屋電燈鰍フ低迷

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   大正2年(1913)1月17日、全国記者大会が開かれ、憲政擁護、閥族打破を決   
  議、19日には板垣退助、立憲国民党の犬養毅、立憲政友会の尾崎行雄らが発起   
  人となって憲政擁護大会を開き、憲政擁護・桂内閣弾劾の決議案が採択された。
   1月20日、これに対して桂首相は桂新党を立ち上げて政局を乗り切ろうと   
  し、1月30日、立憲国民党からは83人が脱党して桂新党(後の立憲同志会)   
  に参加したが、2月10日、政友会の尾崎行雄は議会で政府を激しく糾弾する   
  演説を行い、犬養毅らと共に第一次護憲運動を展開、議会外の数万の民衆のデ   
  モの応援もあって、2月11日に第3次桂内閣は53日の短命で総辞職するに   
  到った(大正の政変)。
   2月12日、薩摩閥の山本権兵衛海軍大将に組閣命令が下され、立憲政友会   
  は19日の総会で支持を表明したので、桃介は尾崎行雄、岡崎邦輔、菊池武徳、   
  竹越与三郎ら此れを不満とする29人と脱党して政友倶楽部を組織した。     
   反政府側になった桃介は3月15日の帝国議会議場において、「日本郵船の   
  著しい発展には政府からの莫大な補助金が注ぎこまれており、その蔭に政府高   
  官は多額の賄賂を受けている」と演説している。
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 大正2年1月27日の名古屋電燈且謦役会は福沢桃介を常務取締役に互選し、同氏
の推薦する九州電燈鉄道鰍フ支配人であった角田正喬を支配人に任用する事を決した。 
 2月1日から就任した角田支配人は、供給燈数を精査して収益計算の基礎を確立し、 
また、電気料金の未徴収金が13万1千余円に上っていたのを、集金人の給料を取り立 
て戸数に対する成績歩合制にするとか、領収証の取扱いが放漫であったのを現金同様に 
心得させ、更に、集金人が徴収した現金は会社に戻って収納していたのを、取引銀行に 
預けさせるなどの合理化に努めた。
 一方、供給燈数約12万燈の大部分が低燭光であったのを、極力10燭光以上の高燭 
光燈の普及に務め、大正2年9月25日は会社創立以来25年に当たるとあって、従来 
からの需要家には記念品、増設希望者には福引き券を配布し、支配人以下の職員には責 
任燈数を割り当てて勧誘販売した結果、記念大拡張期間の1ヶ月で1万2千9百余燈, 
2年度後半期間で3万5千余燈の増加があった。
 社内的には、在庫品の整理、経費の節約、社長を除く重役一同の賞与金の辞退(年額報 
酬を3百円とする)などして、角田支配人が就任した当時は利益率が5分以下に下がる 
形勢にあったのを、大正2年後半期の決算に際しては年率7朱(分)6厘の株主利益配当 
をする事が出来るまでに復活した。
 大正2年9月16日、加藤社長と兼松取締役は稲永新田疑獄事件に関係したとされて 
会社の職務を続ける事ができなくなり、重役会は福沢常務取締役を社長代理として業務 
を執行させ、福沢常務が不在の場合は下出取締役に常務代理をすることを委託した。
 さらに12月になって、加藤重三郎は社長および取締役を兼松熙は取締役を辞任の申
し出があり承認され、翌大正3年(1914)12月1日の取締役会は、互選を以て福沢常務
を社長に挙げ、下出取締役を常務に選任した。
 こうして福沢常務の再任、角田支配人の来任によって広く改善事業を実施された結果、
業績は日に日に上がっていったにもかかわらず、名古屋電燈鰍フ株価は50円払込済み 
の旧株1株が、額面以下の47円85銭にまで低下した。
 此について名古屋電燈株式会社史では、会社の財務状況、業績などの情報開示につい 
て少しも隠し立てする事が無かった為に、世人が会社の収益が意外に僅少であるのに驚 
いたものであろうとしている。
 前稿「名古屋電燈会社物語:6−3項」では、大正3年までの名古屋電燈鰍フ株価を略 
記したが、改めて大正1−8年間の株価の一例を次記する。
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大正年  1 2 3 4    5    6      7    8
 月   7 10 10 1 5 10 1 6 12 1 4 7 11 2 6 10 4 5 7  8  9 11 
平均値¥ 62 48 45 54 52 59 64 62 70 68 72 77 72 78 75 80 83 96 91 101 109 111 
 ---------------------------------------------------------------------------- 
 ともあれ、当時名古屋電燈鰍フ社長であった福沢桃介は、十分な資金を獲得する為に
東京方面の銀行と交渉し、大正2年9月まず丁酉銀行(ていゆうぎんこう:十五銀行系の
子会社、後に十五銀行と合併) から先ず150万円を借入れ、翌3年3月更に400万円 
を同行から借入れて、前年度の150万円および先年(大正元年9月)明治生命保険鰍ル 
か2社からの借入金180万(第10項参照)の合計330万円を弁済し、その差金70 
万円を会社の運営資金に充当した。 
 一方、400万円の借入金に対して会社は工場財団を設定して担保としたが、債権者 
側はなおも福沢桃介個人の保証を要求してきたので、桃介は自分の財力をもってすれば 
200万円が保証出来る限度であるが、天災地変により会社の財産が滅失しない限り会 
社の為に保証の責任に応じようと、丁酉銀行との間に締結した金銭消費貸借契約証書に、
「保証人福沢桃介ハ本件債務ヲ約定ノ如ク履行スルコトヲ保証ス。但シ会社ガ不可抗力ニヨリ資力欠損 
シタル場合ハ保証ノ限リニ非ズ」という一札を入れて、福沢桃介個人が会社の借入金に対する 
保証人となった。
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   これまでの記述の主たる根拠としてきた 「名古屋電燈株式会社史」の本文
   はここで終わっているが、本稿の目的とする福沢桃介の「電力を関西へ」は
   緒に着いたばかりである。
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 ただ、資料分は大正8年(1919)まで続いているし、名古屋電燈鰍フ株価は、大正3年
(1914)8月の第一次世界大戰開戦により上記10月のそれを底として上昇し、会社は危
機を脱した。
 これ以後の:福沢桃介の「電力を関西へ」は後編で記述する事にする。