異業種ものづくり親子二代の百年  
 

佐治敬三氏養子縁組改姓の謎を解く

2019年2月9日 更新

佐治敬三氏養子縁組改姓の謎
2.名古屋電燈会社物語
2017年5月13日 講演要旨

異業種ものづくり親子二代の百年
昭和初期の両御霊町の思い出
執筆者プロフィール
執筆者について


京都町衆としての錺屋

 平安時代から江戸時代中期にかけて京都は政治、経済、流通の中心であると共に、日本最大の工業生産都市であった。

 室町戦国時代には独占的な事業者(座)が形成され、それらの一例をあげると、油座、桶座、檜者座、釜座、雲母座、塗師屋座、材木座、朱座、錫座、大工職、紅粉座、京枡座、金座、銀座(後の江戸幕府による貨幣製造機関とは異なる)などがある。信長や秀吉が天下を取ると、楽市楽座によってそれまでの座特権を否定し、京都町衆の地子銭(税金)を免除したので、京都の商工業は大いに発展した。
 その製品は、織物染め物有職装束などの繊維製品、鎧兜弓矢刀剣などの武具、梵鐘仏像仏具、宮殿神社仏閣などの宮大工建築、家具文房具装身具、漆器食器茶器陶磁器、紅白粉などの粧装品、書画の表層軸装など多岐に渉り、洗練された一定以上の水準を持った製品が確実に生産された。その陰には専門的な技術を持った職人が多数育成され、同業者は良く組織された同業他業の分業協力の実があった。そして同業者達は、同一町内に軒を並べて職人町や商人町を形成し、その様は「毛吹草」「雍州府志」などに詳しい。現在、西陣や室町の繊維街以外は職人町は殆ど残っていないが、郵便番号簿には七十余の関係ありそうな通り名や町名が掲載されている。その中に西錺屋町、東錺屋町という町がある。錺屋(飾り屋:金工職)とは上記武具刀剣、仏具、神社仏閣・・・家具、漆器楽器、書画の軸装などの飾り金具から、 花器、置物、鑑賞物などの美術工芸品にいたるまで関連があり、京都市内に分布していた。

ものづくり錺屋の初代

 明治十九年に滋賀県甲賀郡の農家の次男に生まれた私の父は、小学校を終えると京都の 錺屋(飾り屋)に住み込みの丁稚奉公に上がった。当時の職人や商人の丁稚は、徴兵検査を受ける頃に一人前になり、数年間お礼奉公を務めるのが普通であったから、別家として独立したのは明治三十五年(1902)頃であったろう。分家直後は主家の下請けや主家から廻して 貰った仕事をこなして実力を付け、やがて自らが得意先を開拓して行くのであった。錺屋には注文仕事をこなすだけの職人と、自分の思想を実現して操作した一品物作品を、美術商やパトロンに買って貰う金工作家がある、別家独立後の父は、数物職人でもなく、工芸作家でもなく展覧会の出品作品や注文仕事に勢を出すかたわら、数次に渉って丁稚を雇って後継職人の養成を行っていた。
しかし、大正二年になって所帯を持った父母には長女を頭にほぼ2年置きに総計6人の子供が生まれたので、生活のためには家具屋の注文飾り金具専門となっていった。やがて、長女、次女は師範学校に進学し、父母の期待は私の6歳上の長兄に集まっていった。長兄は手先が器用で図画にも芸術感覚が優れ、父の仕事の手伝いもして後継ぎには最適と思われたのであるが、総代になる程、学業の成績が抜群であった為に、小学校の先生の勧めにより市立第一工業の電気科に入学してしまった。昭和9年から12年にかけては、待望の持家買い取り、長兄の工業学校卒業と名古屋工業高等専門学校電気科への進学、長女の結婚と東京転住、住み込み弟子の金江さんの独立、三女の府一女入学と目まぐるしい変化があった。金江 さんは叔父さんのところで修業した後、なお一層の技術習得を志して父の許へ19歳で弟子入りして来た職人であり、丁稚でものになった者がなかった中で、別家独立後美術年鑑にも載る金工工芸作家となり、現在、有形文化財選定保存技術保持者である。

小学校から中学校・専門学校へ

 次男の私はどちらかと言えば不器用で、長兄ほどには期待されていなかったものの、小学生時代から自転車を買い与えられて、彫金屋、メッキ屋、材料屋への使い走り、得意先(主として夷川の宮崎)への納品に、丁稚替りに走り廻った。また日曜日で長姉、次姉が日直にあたった日には、炊き立ての弁当の送り届けに携わったものだ。そのおかげか、当時の京都の北半分の地理や民家のたたずまい、町内の雰囲気には今でも脳裏に残っているものがある。 また、毎週のように自転車で京都駅へ出かけ、蒸気機関車を一時間ほど眺めている鉄道少年であった。
 昭和13年、私の京一中入学。昭和15年、弟が同志社中学入学とあって、4人の教育費の重圧が父母にのしかかってきた。とりわけ昭和16年7月に、七七禁令として知られる奢侈品禁止令が公布されてからは、飾り仕事は極端に少なくなったが、子供たちが成長してきたので踏み切った母の産婆開業が「産めよ殖やせよ」の時流にのって盛業し、困苦に打ち勝つことができた。京一中在学中は、スポーツや同好会に入らずに、淳信舘や自家での読書を専らにした。家には美術書、姉達の教科書や兄の電気工学書が残っていたので、判らないながらも反復読書理解に務めた。
 また、戦争に突入してから刊行された航空朝日を創刊当初から購読して、今度は航空少年となって行った。英数を苦手とする私は、高校入試に失敗して専門学校に挑戦することになり、京都には電気関係の学校がなかったので、松ヶ崎の高等工芸学校の精密機械科に入った。入学して間もなく大日本飛行大日本飛行協会の予備校生の募集があり、高等工芸からから大挙応募した中の一人となった。もっとも、危険を予感していたのか飛行科は京一中の先輩の右橋さんだけで、残りは非公募の整備課に押し掛け応募だった。学校の授業の無い土曜日の午後と日曜日には、大津の天虎飛行訓練所で整備実習を受け、航空少年に磨きをかけた。昭和19年には戦局利にあらず、私達は勤労動員に駆り出され、岐阜各務原の川崎航空機に赴いた。工場では主として治具設計に配属され、学校の授業が僅か1年2か月であったにもかかわらず、即戦力として大いに役立ったと思う。昭和20年1月の徴兵検査には甲種合格 したが、理工科学生であったので卒業まであと3ケ月となった6月に残りの授業を受ける事になり、勤労動員を解除されて京都に帰った数日後に、工場は爆撃されて廃墟になった。 8月の終戦後も戦時中の授業短縮措置が続けられ、9月末日に京都工業専門学校と名を変えた母校を卒業した。

社会人への巣立ち

 日本全体の産業が拒絶状態に陥って企業の倒産、工場の閉鎖、人員の整理が相次ぐ中に、日本輸送機は戦中戦後も炭坑用蓄電池機関車の需要が活発で、社員の募集を行っていた。 学校からの連絡で同社を訪れて採用された私は、11月から入社して初めは設計課で産業車両の設計にあたった。2年目からは治工具工場で工作機械修繕管理やゲージの設計を行っていたが、ゲージや精密測定について全く未知であった事を感じた。そこでゲージ職工の話から機械工業の試験研究機関の関西での権威とされる大阪府工業奨励館(現・大阪府産業技術総合研究所)の存在を知り、その方に紹介してもらって奨励館を尋ねた。雇員として機械科助手に採用されたが給料は大幅にダウンした。
 当時の産業界の花形は、自転車とミシンであって、奨励館では東京の機械試験所やミシン 業界と共同で研究し、シンガーミシンの寸法測定結果を持ち寄って、ミシンの機能的寸法や ハメアイ寸法の規格統一を行っていた。これが完成後は全国のミシン製造関連会社のアームベッドと部品の互換性が完全に確保され、品質の向上と大量生産が可能となり、貴重な外貨の稼ぎ手となっていった。私は規格統一図面の製図作業に参加後、機構の解析に着手した。 手回し計算機を回し、三角関数表と首っ引きでの数か月であった。この作業での収穫は、各要素の動きを細分して積分してゆく作業は、後に関係するレンズの収差計算と同様の根気が必要であり、また各要素のタイミングを的確に捉えてみれば捉えて組み立てれば完全な縫い調子が得られる事は、発動機の点火時期の設定に通ずるものがあると知らされたのであった。

生涯仕事としての精密測定

 ミシンの仕事が終わって精密測定専門に携わる事になった私の許へは、大阪はもとより近畿一帯から測定依頼が押し寄せてきた。戦前戦時中の熟練した測定者が復帰しなかったことにより独力で測定法の会得に務める一方、奨励館所蔵の専門書を熟読して研鑽に努めた。 その中に、大学や工業高専の精密工学の先生方の講義ノートの種本であり、測定専門書の部分引用にされていた英国人F.H.Rolt著の洋書があった。京一中時代に苦手としていた英語であったが、同僚と共に休日や勤務時間外に読破を試み、一年ほどかけて第一巻を全訳したのが結婚後間もない昭和28年であった。そして、これまで全訳刊行されていなかった 事から、著者の承諾を得て謄写刷りの私家版「ゲージ及び精密測定」として頒布した。もとより採算を度外視した刊行であって相当の持ち出しとなったが、全国の精密測定従事者に 知己を得ることができた。これに力を得てその後は毎年一軒ずつ論文や解説書を技術雑誌に発表するに至った。一方、精密測定依頼をこなしてゆく内に、戦時中酷使した上に爆撃を 避けるために疎開してあった精密測定器は、数が減少した上に衝撃を受けたり、傷ついたりして精度が極端に悪化していることが判ってきた。幸い機械科内には、工作機械の精度検査を受け持つ部門があったので、その手法を取り入れて測定器の修理整備を実施し、また、 新人の部下をつけて貰って余裕も出たので、真直度、平面度、直角度などの形状測定の分野に手を付けた。この工業奨励館の思い出としては、卓球、庭球、登山、スキー、音楽鑑賞などに興じて、遅ればせの青春を謳歌出来た事であった。然しながら、老逐化した測定器は いくら手入れしても精度の回復には限度がある事から、庁舎の新築を機に新しい測定器の購入を予算化して貰うことができた。
 その頃、家庭内の事情として弟が失職中であり、私自身も機械工作の習得年齢の上限に近いことから、弟と共同して精密測定器の修理政策を業とすべく、昭和32年に大阪府職員を辞して自営独立し、長坂製作所の看板でものづくり二代目の道に踏み出した。

一からの出発

 初めは知り合いの会社の一隅を借りていたが、自前の作業所、機械を持つ必要を感じ、 なけなしの貯金をはたいて大阪市城東区で建坪9坪、二階建て小屋程度の住居を購入した。 翌34年には、第2回の技術師試験があり、何らかの恩恵があるかと思い、受験した。 工業奨励館での知識、経験がものを言って難なく合格したが、実習や機械工作の修練に生き甲斐を感ずる性格から、せっかくの資格を生かせないでいる。中古の工作機械を逐次設備してゆく内に、ズームカメラや電動計算機のカム生産が当たり、素人工も一人雇い入れ、弟も結婚した矢先、発注先が倒産して42万円もの不渡り手形を抱えることになった。この苦境は、素人工に辞めて貰い、弟は父の仕事を継ぐ事になって京都に戻り、手形の後始末をやりくりすることで乗り切った。
 以後は、一品物の機械の製作を引き受け、年中無休でガムシャラに働き抜いた。中年からの工作体験とあって手早く加工することはできなかったが、機械設計、機械加工、仕上げ工作を一人でやり通す態勢であったから、前後の関係を考えながら合理的に丁寧に作業を進めることができ、おかげで発注者の満足のゆく機械を納入することができた。
 こうして制作した測定器の中から、一般的な商品となる品物も溜まったので、大阪万博のあった昭和45年の国際見本市に出品してみたが、知名度の無い超零細企業とあって商売 としては成り立たなかった。その後、二人の子供も大きくなってきて、今までの工場兼住居 では狭くなり、転居を考えるに至った。たまたまミノルタカメラのオプチカルベンチで少々まとまった金額が手元に残ったが、世はいざなぎ景気の余韻で不動産価格が日に日に高等する時代で、このままでは泡と消えるのは必至であると思い、もう少しましな家に転居する 資金の一部に充てることにした。もっともローンの返済には確実な収入を確保せねばならず 昭和47年夏に自営業を廃業して甲南カメラ研究所に就職した。

中途からの会社勤め

 甲南カメラ研究所は古き良き時代には、自由出勤、勤務時間無視の風習があったが、この頃には世間並みの出退勤時間であるものの週休5日制であったのが有り難かった。土・日曜になると不動産物件を捜し歩き、翌昭和48年2月に寝屋川市で今までの約2倍の建坪の家を購入し、収入の心配もなく、住居転入、工作機械移転、材料工具購入など実施できた。 甲南カメラ研究所での私の仕事は他企業からの依頼のあった光学機械の開発とあって自営の場合と変わりなく、仕事の形態も設計。工作、仕上げを一人で済ますやり方を押し通した。 仕事にもようやく慣れたのも束の間で、10月に中東戦争による第一次石油危機が勃発、 石油を始めとして諸物価が暴騰し、世の中は不景気に見舞われた。折悪しく中途撤退を余儀なくされた部門の仕事もあって、赤字となった会社の経営を立て直す為に、見積もりから 完工まで研究員個人の責任で利潤を挙げることを求められるシステムが採られるようになった。こうなれば自営業の方が気楽かと、昭和51年1月に不景気ながらも退社して、長坂製作所を再開した。この年に長男が大阪府立高専・機械科を卒業しているが先行き不安とあって跡継ぎは断念せざるを得ず、住宅機器関連部品の製造会社に就職した。

研究機械の開発

 再開後の事業はミノルタカメラのベンチ製作や新規の得意先からの仕事もでき、昭和53年末からの第二次石油危機も乗り切った。そして新しい工作機械を設置してからは、難しい仕事も容易くこなせるようになり、大阪工業試験所やウエスト電機向けの一連のMTF測定器(レンズのコントラストをフーリエ級数理論により測る機械)、その他を制作したが、 精密測工作の上に光電変換、コンピュータへのインターフェイス接続、モーターの自動制御等の複雑な機構を組み入れたものであった。また、大阪府立大学の研究用機械の他に、大阪市立大学医学部や奈良県立医科大学には、機械と光学的手法を取り入れた事により医学界には目新しい人工関節の研究機械を作った。以上の機械はすべて口頭によって発注仕様を受けたのであるが、設計、材料仕入れ、工作、仕上組み立て、調整納品を一人で賄う態勢であったから、必要且つ十分な機械を短期間に供給できた。そして税務でも青色申告を自己申告で処理するなど、18年間は瞬く間に過ぎ去った。
 その間、長男は心酔するキリスト教の名古屋地区教務責任者となるために名古屋の建築工務店に転職して行った。機械金属関係の会社から異業種への転職とあって一から始める羽目になったが、祖父および父親譲りの努力と根気を発揮して二級建築士試験に合格した。引き続き一級建築士試験に挑戦中であるが、現場作業を手掛けるのではないから、ものづくり 三代目となることは途絶えた。一方、娘夫婦と孫3人の二世帯同居であったので流石に狭くなってきた。また私も齢70に近くなったので終の棲家となる庭付き一戸建て住宅を共同で建てることとした。それに当たっては、徐々に仕事量を減らし、設備工作機械と在庫の工具、材料は光学材料の仕入れ先であった近所の大阪光学工業K.K.に運んで預かって貰い、平成6年10月に37年間(-2年間)に渉った長坂製作所を廃業閉鎖した。

余生と生き甲斐

 これより先、32年間公私ともにお世話になった大阪府立大学の先生からパソコンの手ほどきを受けていたので、暇に任せてキーを叩き、自称「随筆小史」として「小野組と三井組」 他幾編かを書き上げ、パソコンの操作設定に熱中した。然しながらものづくりに徹してきた 身には、機械製作現場から離れるには忍び難いものがあったので大阪光学工業に入社して機械工作を続けることにした。またこの頃、枚方市に土地を求め、二世帯同居の新居を娘夫婦と共同で建築、移転した。光学系の計算は京一中時代から得意であったし、「ゲージ及び精密測定」の翻訳刊行では光波干渉の知識を吸収し、自営時代には多数の光学器械を設計製作した経験から、大阪光学工業では長年使って愛着のある古い工作機械でレンズ周辺の金具を制作して、レンズ周辺の金具を制作して、レンズの付加価値を高めたり光学器械の新製品開拓に努めている。
 振り返ってみると、父の時代には主家に丁稚奉公しながらの錺屋職の技術を習得し、弟子を育て分家させるところまでは来たが、二人の息子は専門学校教育を受けさせて貰い、家業を継ぐ事なく別の方面に向かった。私の場合、機械製作作業を直接指導して貰うことがなかったので、会社や研究所の在社中に職人さんの作業をよく見るとともに、機械工作の本を読んで工作法を会得した。自営後はこうした工作法を実践するのに懸命であったのと前述のように経営の危機があっての後は、経済上昇期で求人難の時節柄とあって、職人を雇って工場を拡大することを断念して文字通りのワンマン工場の道を辿った。納期の厳守や得意先の 開拓に寧日なき状態であったが、父の毎日を見知っているだけに苦労とは思わなかった。
 その父は昭和40年に79歳で死亡する半年前まで仕事をしていた。私は職住が同じ場所でなく同様の経過を取れそうにないので、目下、勤務の余暇に執筆中である「私の仏教史物語」を書き終えた後、一部着手済みの「工業技術者の為の光学の知識」を続けて執筆したいと思っている。

2003.5月