佐治敬三氏養子縁組改姓の謎  
 

佐治敬三氏養子縁組改姓の謎を解く

2019年2月9日 更新

佐治敬三氏養子縁組改姓の謎
2.名古屋電燈会社物語
2017年5月13日 講演要旨

異業種ものづくり親子二代の百年
昭和初期の両御霊町の思い出
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 自費出版本「甲賀武士と・・・佐治一族」に関しての訂正、および、その後新たに得た文献資料によってウエブサイト「佐治敬三氏養子縁組改姓の謎」を更新するものです。



1.佐治敬三氏養子縁組改姓の謎

 サントリー株式会社(旧名:)の創立者鳥井信治郎氏と妻「クニ」との間には、3人の男子が出生し
たが、次男として生まれた故敬三氏(以下敬称略)だけは、佐治姓を名乗っている。

@開高健著 「やってみなはれサントリーの70年」 には、(敬三は次男のはずなのに3男のように
敬三と命名され、小学6年生の時に母方の親類の姓を継ぐ)としてある。

A講談社刊行:日本人名大辞典には、母方の姓を継ぐとだけ書かれてあり、人間図書館佐治敬三
でご自身の発言にもそのようにある。

B佐治奎介著:「佐治史話」には愛知県稲沢在住の佐治儀助の妻「くに」の養子となったと書かれて
いる。

 以上を勘案して、私が刊行した自費出版本 『 甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族 』 では「 クニの実家が稲沢佐治氏であって、小学校6年生の時に故あって佐治姓を名乗った。」 としてしまった。ところが、これが、以下の事実から間違いであることが判明したので、本ホームペー ジを立ち上げて訂正することにした。 その後、もう少し確からしい二三の資料に接したものの、『私の履歴書:佐治敬三』には、実母「クニ」は香川県観音寺市の士族小崎一昌の娘であって、明治41年12月4日に入籍した・・・・との公的な説明があるが、自身の養子経歴に関しては言及されていない。 作家 邦光史郎は伝記小説 『やってみなはれ―芳醇な樽 』でやや具体的にこの養子縁組について語っている。その内容とは「敬三が小学5年生の頃に、ふとしたことから養子縁組を結ぶ運びとなった。相手は名古屋在住の佐治家で、立派な邸宅に住み、なかなかの名家だった。太閤秀吉の異父妹に旭姫という女性がいたけれど、彼女の夫が佐治日向守であった。」としているが、この佐治日向守 は架空の人物で信憑性が無い。

 今回、局外者ながら小著 「甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族 」を自費出版したお蔭で、
稲沢佐治氏の一員(元愛知県副知事佐治正之氏)に接触できたことから真相の一端が窺い知れたが、まず、公刊資料に出てくる鳥井家と佐治家を下記してみよう。

大正14年発行の大正名古屋人名録 サ の部に
    @佐治くに :中区不二見在住で所得税 3、040円、 
同時期の大正神戸人名録 ト の部で
    A鳥井信治郎:壽屋(株)社長,鳥井(名)代表       川辺郡川西村栄根1
と出ている。               (株)は株式会社、(名)は合名会社、(資)は合資会社
昭和11年発行の昭和神戸人名録 ト の部になると、
    B  鳥井信治郎:壽屋(株)社長,鳥井(名)代表,佐治(資)無限社員,所得税 6,589円  
  C 鳥井吉太郎:壽屋(株)取締,鳥井(名)無限社員
    D 鳥井春子  :鳥井(名)無限社員    春子は吉太郎の妻(小林一三の長女)
    E 鳥井道夫  :鳥井(名)無限社員      以上4件住所:川辺郡川西栄根小暮
昭和11年発行の昭和神戸人名録 サ の部になると、
    F 佐治くに:佐治(資)無限社員,所得税 105円 住所:葺合区上筒井6−38
    G 佐治敬三:佐治(資)有限社員,                   葺合区上筒井6−38
とある。 

 ちなみに敬三は大正8年の生まれで小学5年生の頃(昭和4年頃)に母方の親類の姓を継いだが名
目だけで、親子5人は雲雀ヶ丘の邸宅で暮らしている。なお鳥井信治郎の妻 クニは昭和8年8月に病死している。
   また、上記の資料によると、佐治くに と佐治敬三とが信治郎の造った佐治合資会社を共同経営している事になるが、鳥井道夫の年齢は昭和11年で13歳(中学2年生くらい)であり、佐治敬三は17歳(7年制浪速高校在学中)であるから、敬三と道夫の役職は同族会社を構成する為の名義だけのものであったのだろう。

  以上が前回までに私がインターネットのウエブに所載した記事の一部であるが、ノンフィクション作家 北 康利氏はこの程、「最後の大旦那佐治敬三」に氏独自の見解を示されたので、それに啓発されて以下のように更新する次第である。

  既刊の資料(山口瞳・開高健共著:やってみなはれ、みとくんなはれ)や(邦光史郎著:やってみなはれ:芳醇な樽)によると、
      1899年(明治32年)   鳥井信治郎は20歳で鳥井商店を起こした。
      1906年(明治39年)   赤玉ポートワインを製造販売する。    
      1921年(大正10年)   株式会社壽屋を設立
      1923年(大正12年)   大阪府三島郡島本村山崎にウイスキー醸造所を建設し、ウイスキー
                       原酒の醸造を開始した。
      1928年(昭和3年)   横浜市鶴見区にあるカスケードビールという名のビールを醸造販売
                       していた日英醸造株式会社鶴見工場が、関東大震災による被害によって
                       経営が悪化し競売に掛かっていたのを67万円で落札し、ビール業界に
                       打って出る事にした。
                         これは、莫大な醸造費用と長期の熟成期間を必要とするウイスキー
                       部門の損失をすこしでも軽くする為であった。
       1929年(昭和4年)  しかしこの年、壽屋と鳥井家に重大な危機が訪れた。

 まず、既存のビールメーカーが大瓶33銭であるのに対し、オラガビールと名付けた壽屋のビールは、それよりも安い大瓶27銭で売り出したにもかかわらず、さっぱり売れなかった。
  更には、経理担当者からの『早く売ってくれないと資金繰りが付かない!』との悲鳴にも似た声におされて、熟成不十分なまま不安を残しつつ虎の子のウイスキーを売り出したが、世間の評価を得られず多量の売れ残りを出してしまった。
  この時が壽屋最大のピンチであった。運転資金が欠乏し、おりしも世界大不況の年とあって金融機関も手を出さない状況の中で会社倒産の危機を打開するためには、知人・遠戚・縁故者 で、資産がありながら係累の無い者を頼りとする他に策が無かった。
 それに当てはまりそうなのが名古屋在住の 佐治くに であった。この頃、すでに 佐治くに から資金を受け取る代わりに、そのお礼として次男 敬三を養子として差し出す密約があったようだ。この密約は、鳥居側の資金がショートすることによって実現されることとなった。 然しながら、鳥居クニにとっては、佐治くに の援助によって壽屋が危機を脱する成り行きになったことが気に食わなかったため、家庭内では波風が立った。信二郎が3人の息子を連れて、山陰地方に湯治旅行に行った時も、妻クニは参加していない。

 彼女の資産状態は、大正14年発行の『大正名古屋人名録』 サ の部によると

    @佐治くに:中区不二見在住で所得税 3、040円 とある。
無職ながら、名古屋電燈(株)専務取締役であった亡夫 佐治儀助から相続した株式の配当金にかかる所得税だけでこの金額であるから、多分、資産総額はこれの数百倍あったであろう。

  一方、同時期の『大正神戸人名録』 ト の部では

  A  鳥居信冶郎;社長 鳥居(名)代表 川辺郡川西村栄根1

とだけ出ている。
  造酒部門のB壽屋(株)、営業、管理部門の鳥井(名)の社長や代表者であるにもかかわらず、所得税も記載されない資産状態であったようだ。

 そのような状況下、昭和4年版『神戸市商工名鑑』に
    J営業品目:有価証券取得及譲渡 出資額:80萬円 商号:佐治合資会社
      代表者名:佐治くに 営業所:葺合区上筒井通6丁目20 電話葺合:1335

が出現した。
 つまり、昭和4年に佐治くには神戸市に住居を移して壽屋(株)に80萬円を提供し、佐治合資会社(代表者佐治くに)を設立した事になる。この佐治合資会社の営業品目は有価証券取得及譲渡とある。しかし、それまで無名であった 代表者 佐治くに が一般株式取引市場で取引を行ったとは考えられないので、この出資金の使徒は壽屋(株)に向けた金融機関の融資に対する担保金に充てられたものと考えられ、壽屋は倒産の危機を脱した。
 また、昭和6年には、倒産寸前の壽屋に伏見宮殿下が壽屋の山崎工場に立ち寄られた。このイベントにより、信二郎は大いに力と元気を得て、ウイスキー工場の経営に努め、世界的なウイスキー工場に立ち上げていくことができた。 このように重要な役割を果たした 佐治くに については、両家に直接の交流が無かったと 考えられる事から、双方に別個に繋がりのある第三者が存在して橋渡しをしたのかも知れない。

 その一人としてまず挙げられるのが、Dに記した春子の実父である小林一三である。春子が信治郎の長男吉太郎に嫁いだのは大正8年の事であるが、その数年前から両家に交流があった。 また小林一三は、明治30年から同40年まで三井銀行名古屋支店に勤務しているから、当然に名古屋電燈(株)専務取締役の佐治儀助および夫人の 佐治くに とは面識があった筈である。

 さらに、小林一三との関わり合いは、偶然かも知れないが、佐治合資会社および 佐治くにの所在地 葺合区上筒井通6丁目20 にもある。

 大正7年(1918)、小林一三は箕面有馬電気軌道を阪神急行電鉄と改称して、大正8年(1920) に神戸線を建設したが、当初は目的であった三宮への高架乗り入れが運輸当局の認可が得られなかった為に、神戸市電の上筒井停留所に接続する所・・・現在の中央区坂口通2丁目・・・にター ミナル駅を設けた。大正 11年、神戸線が三宮に乗り入れられてからは、新設の西灘−旧神戸間が盲腸線となったので上筒井駅として存続し、昭和15年に廃駅となった。 (加えて、明治42年から名古屋電燈(株)新取締役に当選した福沢桃介【後に大阪送電→大同電力を歴任】が、経歴や財界活動からして関係者であったかも知れない。)

 こうして危機を脱した壽屋であったが、翌年のウイスキー原酒の仕込みは行えず、昭和6年産は欠品となってしまった。昭和7年になって鳥井信治郎は社内の反対を押し切って、やっと収益が出始めて工場を拡張中の「オラガビール」と、売れ行き好調の「煙草喫みの歯磨き:スモカ」を売りに出した。 その結果、「スモカ」は洋酒メーカーの壽屋が行わなくてもよい事業であるとの判断で、売却にすぐ買い手がついた。 また、ビールは誰でも簡単に作れることから競争も激しく買い手のある内に手放した。しかし、手間も費用もかかるウイスキーは誰も手を出さない。だが、そのうちにきっとウイスキーの時代がやって来る。いまウイスキーをやめたら、貯樽中の原酒が全部、無駄となり国家的な損失になるという信治郎の考えがあった。                                 

 昭和8年には業績好調の傍系事業{スモカ}を売却し、お荷物だった「オラガビール」が大日本麦酒に250万円で買い取られ、昭和11年発行の『昭和神戸人名録』ト の部に

    B  鳥井信治郎:壽屋(株)社長、鳥井(名)代表、佐治(資)無限社員、所得税 6,589円
    C  鳥井吉太郎 壽屋(株)取締、鳥井(名)無限社員 信治郎の長男
    D  鳥井春子 鳥井(名)無限社員、 春子は吉太郎の妻,小林一三の長女
    E  鳥井道夫 鳥井(名)無限社員、 通夫は信治郎の三男

と記載されている。この事から、鳥井信治郎が直系の壽屋(株)社長,鳥井合名会社代表者であると共に、佐治合資会社の役員となり、長男吉太郎を跡継ぎに、三男通夫を補佐役としたことがわかる。
 そして『 神戸市商工名鑑 』では佐治合資会社の出資額が
  昭和7,10年版: 80萬円
  昭和12年版; 90萬円
  昭和16年版: 95萬円
と増資に向かっている事から、佐治合資会社と鳥井合名会社とは、原資の調達や資産運用に提携していたようだ (今日でも、壽屋やその後身のサントリー株式会社は非上場の同族会社である)。
  そして昭和11年発行の『 昭和神戸人名録 』 サ の部に
   F 佐治くに:佐治(資)無限社員,所得税 105円 住所:葺合区上筒井6−38
   G 佐治敬三:佐治(資)有限社員, 葺合区上筒井6−38

とあって、佐治くにの資産が激減している。このことから、数年前に 佐治くに が資産を処分して得た資金は、持参金として鳥井家に提供され、佐治合資会社が設立されていたことがわかる。この合資会社は鳥井信治郎と共同経営をする形となり、同時に養子の佐治敬三(17才)は有限社員として参加している。
 ちなみに信治郎の妻 クニ は日支事変勃発翌年の昭和8年8月に腸チフスで病死している。

 さて、準戦時体制の中で、サントリーウイスキーは人々の嗜好に合い、業績も向上して工場も増築増産となった。しかも、ウイスキーは西洋好みの海軍に重宝がられ、指定軍需工場となったから、資材や原材料に困らなかった。そのような中で、上記のように佐治合資会社も増資して責を果たしている。

 万事好調の中に、昭和15年の9月に生来病弱であった長男の吉太郎が急死した時には。次男の敬三は大阪帝国大學の科学科に在学中であった。翌16年には大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発し、その末期の昭和19年9月9日に 佐治くに が死去したが、『 神戸市商工名鑑 』が昭和16年版をもって一時中断しているので、佐治合資会社のその後はわからない。
 敬三は終戦後復員して昭和20年10月に寿家に入社し、昭和22年には父の代役を勤めるようになった。昭和31年9月に佐治合資会社と同じような営業品目で壽不動産株式会社が設立されているが、現在でも非上場のサントリーHD株式会社の資本金は700億円で、寿不動産株式会社 (鳥井家:佐治家系の持ち株会社)がサントリーHD株式会社の89.33%を保有するとあるから、これが鳥井合名会社と佐治合資会社の後身であるのだろう。

 ここで、このように重要な役割を遂げたであろう 佐治くに とその連れ合いである佐治儀助および稲沢佐治氏について述べる。 稲沢佐治氏の先祖は、甲賀佐治の本流 (甲賀市甲賀町 小佐治土着の豪族)が支配する隣村伊佐野在住の佐治新助に始まる。( 同地からは、応仁・文明の頃に大野佐治の祖である佐治駿河守宗貞が出たが、時代が相違する。)
戦国時代の元亀・天正の頃、青雲の志を抱いた新助は、尾張に出て同郷 ( 旧甲賀郡大原村 )の先輩である滝川一益を頼った。一益が織田信長の重臣として大名・大大名として重用されてゆくにしたがって、新助も一益の家老格として各地に奮戦していたようだが、本能寺の変で信長が自害した後に、重臣連中は羽柴秀吉派と反秀吉派に分かれて反目する事になる。
 反秀吉派の柴田勝家は秀吉と賤ヶ岳の合戦に続き越前北之庄城にて抗戦籠城の結果、自害。滝川一益も伊勢長島で反旗を揚げて抗戦し、佐治新助が任された亀山城は篭城半年にして落城したが、その奮闘を賞されて命は助けられた。

 その後の新助家は、尾張国稲沢の地で代々医者として続いてきたが、幕末、明治初期に長男儀助と四男 周三郎が名古屋に出て、儀助は大須観音付近で古着屋を営んでいた。(以下、『名古屋電灯株式社会史』、『東邦電力社史』、『明治・大正・昭和:名古屋神戸人名録』による。)
 この付近には旧旭遊郭 ( 後に中村区に移転 )があり、大口需用者であった楼主たちが電燈料割引を名古屋電燈(株)会社に迫って断られたので、明治27年に有志が発起人となって愛知電灯(株) を設立した。会社は小規模の火力発電でもって発足し周囲にも販路を求めたが、猛烈な販売競争に音を上げ、明治22年創業の名古屋電燈(株)が、明治29年にこれを対等吸収合併した。 儀助の持ち株は56株で、50株以上の大株主23名中21位であったが、他の4名の役員と共に名古屋電燈(株)の取締役に列した。
 その後は古参の役員が次々と退陣する内に各期に連続して取締役に当選。 『 明治名古屋人名録 』によると、この間、名古屋劇場(株)御園座、中央製氷などの各社の取締役を勤める他、東海印刷監査役、名古屋商業会議所の議員でもあった。 明治43年6月に常務取締役に当選。その6か月後には同時期に取締役に当選した福沢桃介に常務取締役を譲って取締役に退き、以後は桃介の良き補佐役として木曽川の水力発電開発に努力した。
 大正6年7月26日、名古屋電燈(株)の取締役として在任中に病気にて死去。会社は2日後に葬儀を執行して哀悼した他、その功績を称えるべく経費15,000円をもって朝倉文夫氏に青銅座像製作を依頼した。その除幕式は名古屋電燈(株)から分立した木曽電気興業(大同電力の前身)が最初に建設した賤母(しずも)発電所の竣工日 大正9年3月7日に、発電所敷地内の遊園で挙行された。(この青銅像は戦時中に金属供出され、現在は台座と刻文だけが残っている。) 儀助は先妻との間に長男栄太郎を儲けたが、離婚して くに を後妻とした頃から、稲沢佐治の人々とは疎遠になったので くに と結婚に到った経緯は不明である。 くに の旧姓は岬(兵庫県南あわじ市に同姓多し)といい佐治儀助と結婚して佐治姓となった。
 やがて、儀助は大正大14年発行の『 正名古屋人名録 』から消えたが、儀助の先妻の長男栄太郎と後妻 佐治くに が登場。栄太郎は市会議員、庭石商、名古屋劇場御園座取締役で所得税779円と出ている (役職や不動産を相続したのだろう。)佐治くには所得税3,040円とだけある。ここに大正2年10月発行の「名古屋電燈(株)概要」中の株主名と所有株数に、

  @福沢桃介17,560、A佐治儀助14,550、B木村又三郎11,944、C奥田正香7,850
   D兼松煕4,601、 E田中新七4,440、 FL.D.ヒレス4,020、 G加藤重三郎3,801   以下略

とあり、この名古屋電燈の株式を相続処分して前記佐治合資会社の出資金としたものか。

 稲沢佐治の人々の間で伝えられている話では、前出の四男周三郎は加藤姓に改姓(養子縁組か)し て中区東古渡町で時計商(加藤時計製造所)を営んでいたが、大正7年に義弟小栗信治に譲った。長 男勝太郎(明治18年生まれ)は貿易商として海外に商圏を広げ、大正10年加藤商会を株式会社に 組織して社長に就任した後は、東郊住宅,野上機械工業,中央放電気,尾陽土地建物、名古屋劇場御園 座、愛知県農工銀行、名古屋観光ホテル、和合ゴルフクラブなどの取締役、三河水力電気、中央信託他 の監査役、各種協会の評議員、会長、理事長、シャム(タイ)国の名誉領事を兼ね、所得税で1万980 円を納付する多額納税者として記載されている名古屋財界の有力者であった。
 加藤商会は内外の商品輸出入に携わる貿易商であり、東京や神戸にも支店があって鳥井信治郎の 壽屋と取引があったと思われる。それで、儀助が死去してから数年後に、敬三を儀助の未亡人の所 へ養子に迎える話があった時に「くに」側の後見人となったらしく、敬三が小学5年生の頃(昭和4 年頃)に名古屋に行って養子縁組の「お目見え?」をした所、立派なお邸であったとの話があるが、これは加藤勝太郎邸であったのであろう。
 加藤商会は昭和6年(1931)、現在の中区錦一丁目(堀川に架かる納屋橋の東川岸)に地上3階地下 1階の本社ビルを建てた(登録文化財旧加藤商会ビル)。戦前戦中の一時期、一部にタイ国領事館が 置かれていたこともあるこの建物は、戦後数人の持ち主を経て現在は名古屋市が所有し、その近代 文化的価値が評価されて国の登録有形文化財となり、堀川ギャラリーとして周辺散策や文化の発信 基地となっている。(名古屋散策ウェブサイト参照)

 結局、養子縁組に到った事情と佐治「くに」の神戸へ移ってからの個人的な動静は、当事者がすべ て故人となった現在では窺い知れず謎のまま残る事になるが、敬三氏が稲沢佐治の数人と対面した 際に、血縁は無いものの遠い親戚として認識するなどの会話があり、また、甲賀市甲賀町小佐治の 常楽院の改修や稲沢市北島の定福寺の屋根吹き替え工事に寄進されている。

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