2019年2月9日 更新
佐治敬三氏養子縁組改姓の謎
2.名古屋電燈会社物語
2017年5月13日 講演要旨
異業種ものづくり親子二代の百年
昭和初期の両御霊町の思い出
執筆者プロフィール
執筆者について
大正も最後の15年に生まれた私は、ちょうど祖父の数次の年忌に当たっていることから、2、3年おきに佐山村小佐治を訪れていたので、殊更に感慨深いものがある。然しながら、その関心は佐山村に限られていて、他の滋賀県下のものにあまり向けていなかった。 折しも長年の自営業生活から解放されて週休2日の自由が得られたので、かねてからの目的である大野佐治の歴史を知るべく常滑市の図書館を訪ね、それが 佐治奎介氏の著作と判ったが、すでに故人であり、御子息の転居先も判らないとあって、無許可で『 甲賀武士と甲賀知多大野の佐治一族 』の出版に漕ぎ着けた。この件に関しては、その後、ご子息の転居先も判り、無断使用のお咎めもなく、ご兄弟の為にと三冊ご購入も頂いて事なきを得た。 校正なしの格安の自費出版とあって赤字も残ったし、誤記事もあって未だに恥をさらしているが、今回のような機会で弁明させて貰う他、インターネットで訂正しているものを再々訂正して載せておく。
滋賀県および甲賀市の環境についてはいろいろの研究者の研究の結果が発表されていて、代表的な琵琶湖について付け加え述べると、約300億年前に現在の伊賀盆地付に出現した最初の古琵琶湖が東進して、柘植付近から杣川(そまがわ)沿いに北進して、現在の佐山町付近に(佐山湖)を作った。
この地帯および田上(たなかみ)地区には現在の木曽地帯に負けないくらいの美しい樹林が繁茂し、甲賀杣(こうかそま)および田上杣は奈良の都の神社仏閣の建築に大いに貢献した。 切り出された巨材は瀬田川→宇治川→木津川と大廻りして現在の木津地区で陸揚げされ、奈良坂から陸路運ばれたという。 田上杣は一番近くに所在した為に最も利用され、明治時代には全山禿山となった。滋賀県(近江国)ではその他に高島(朽木村 くつき)にも朽木杣が作られ、藤原家の宇治平等院などの造営に用いられた。古代、東海道は鈴鹿峠が嶮岨で交通困難であった時代、杣川沿いが交通の主役であったと聞いている。
飛鳥時代(562→594) に入って諸国の人物・文物の往来も激しくなり、大化の改新以後、班田収授法が制定されたものの、人民に交付する田畑が不足し、制度が履行出来にくくなりつつあった。また、天皇家においては、皇位につけない次三男以下で官職に就けない者が増加するようになった。それ故に、それらの者に新しい苗字を与えて民間に降ろして皇族の増加を防いだ。 これが臣籍降下であって、桓武天皇が平(たいら)の苗字を与えて皇族から除いた桓武平氏や、宇多天皇の時に源(みなもと)の苗字を貰った宇多源氏に始まり、藤原家の摂関時代を経て源平両氏が交代して天下を支配した。ところが、屋島・壇ノ浦の合戦(1185)で平氏一族が滅亡して以後、世は源氏の支配するところとなったが、源実朝が僧公暁によって殺されて源家は三代にして消滅(1219)、以後は足利将軍の武家政治が続いた。 近江の国では、鎌倉幕府の下で近江の国守護職に任じられていた宇多天皇の皇子敦実親王が佐々木姓を名乗り、安土町にある沙沙貴神社を氏神として近江の国を支配するも、足利氏の時代になって甲賀地方を支配する総領家の六角佐々木と、北近江を支配する安土の京極佐々木氏とに分かれた。(ちなみに六角佐々木とは京屋敷のある京都市内の六角通りから名を取り、同じく京極佐々木は京屋敷の所在地の京極通りから名づけて区別しやすくしている。) 応仁文明の乱を経て室町幕府の勢力も弱くなり世は群雄割拠の戦国時代となったが、尾張の織田信長のもとに集まった人士の中に近江の国から来た滝川一益がいた。彼の生地や経歴は判然としないが、尾張や北伊勢のあたりを放浪しているうちに信長の家来となり、永禄十年(1567)ころから北伊勢の攻略に成功した。これによって六角義賢のけん制が困難となり、信長は足利義昭を奉じて上洛し、天下布武を目指して活動する事に成る。 足利義昭と信長の仲が険悪になり、各地で反信長勢力が決起して信長は窮地にたたされが、滝川一益は他の諸将と共に、これらに立ち向かって戦った。 即ち、天正元年(1573)の越前朝倉攻め、北近江の浅井(あざい)攻め、天正二年(1574)の伊勢長島の一向一揆攻め、天正三年(1575)越前を占拠していた一向一揆の征伐 長篠の戦い等であった。 信長は伊勢長島の一向一揆掃討後、一益に長島城と北伊勢五郡の支配権を与えたが、早くから織田家にいた明智光秀や虫ト秀吉らよりも多い領地を与えられる事になった。 天正十年(1582)、織田軍は甲斐の武田を攻め、一益は天目山に武田勝頼を追い詰め、自害させた。論功行賞で一益には信濃のうち二郡と上野(こうずけ)国一国を与えられ、上野の厩橋城(うまやばしじょう)を本拠地とし、「関東八州の御警護」と「東国の儀御取次」の役を命じられた。 武田攻めを完了させた信長は京都に入り、本能寺に泊まったが、明智光秀の謀叛により本能寺で横死した。この知らせが関東に伝わると、占領して間もない一益の領国は動揺し、信長の死を知った相模・伊豆・武蔵の大部分を領有する北条氏が上野国に攻め込んで来た。 天正十(1582)一益は信長の譜代衆と上野衆(こうずけ衆)を率いて一旦、北条軍を神流川(かんながわ)で撃退したが、翌日、態勢を立て直した北条軍と交戦し、一旦、北条軍を破り追撃に移ったものの、上野衆の戦意が薄く北条軍に反撃されて大敗した。一益は後退して関東経営をあきらめて本領の伊勢へ帰還したが、明智光秀は虫ト秀吉に討ち取られており、一益の織田政権下での地位は失墜していた。 織田信長の後継者を決めるべく、清洲会議が開かれ、信長の次男信雄と三男信孝が候補に上がった。一益は伊勢支配の頃から関係の深い信孝を推すが、光秀討伐の功労者 虫ト秀吉が推す嫡男信忠の嫡流三法師君(二歳)に決まり、信孝は後見人と為る事になった。以降、秀吉方と滝川一益方には微妙な勢力争いが残った。
天正十一年(1581)、 一益配下の伊勢亀山城の城主・関 盛信父子が秀吉方に寝返り、秀吉に拝謁する為に京都に向かった隙に一益は亀山城を再び取り戻し、家老格の佐治新助をいれた。 佐治新助は小佐治氏の統治する伊佐野の出身で、伊佐野は現在、平野・和野と合併して水口町和野となっている。
佐治という姓はこのような歴史を源として、佐治新助、儀助、やがては敬三へと繋がっていく。
・今日の世界的地位を築くまでのサントリーウィスキーが存在するのは、この3人がなくしては成り立たなかった。
・また、サントリーの前進である壽屋が倒産の危機にあった際、佐治くに が投資をしなければ今日のサントリーはありえなかった。
私の本 『甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族 』では諸事情により書けなかったが、特に強調したいのは、この2点である。 このように修正を含めて述べる機会が与えられ、非常に感謝しています。 最後の言葉 まだまだ、修正箇所はあるかもしれませんが、時間がそれを許してくれず、これが私の精一杯です。皆さま、ありがとうございました。 (H.30.1月)
|