昭和初期の両御霊町の思い出
 
 

佐治敬三氏養子縁組改姓の謎を解く

2019年2月9日 更新

佐治敬三氏養子縁組改姓の謎
2.名古屋電燈会社物語
2017年5月13日 講演要旨

異業種ものづくり親子二代の百年
昭和初期の両御霊町の思い出
執筆者プロフィール
執筆者について


 両御霊町というのは、京都市上京区新町通の下長者町通りから下立売通迄の長さ2丁の東側一帯の町名であった。戦争中の強制疎開によって全町内空き地となっていたが、戦後の一時期京都市警察本部の庁舎が置かれていたこともあり、現在は検察庁や京都府警の敷地となっていて一軒の民家もないが、かつては住・職・商混在の家並みがあった。ここで生まれ育った私は、昭和が平成に変わったのを機に家並の復元図の復元を試みたので、一文をまとめてみた。

 中世、町尻小路(新町通)の鷹司小路(下長者町通)と近衛大路(出水通り)間に上御霊神社の御旅所があり、同じく近衛大路と勘解由小路(下立売通)間に下御霊神社があったが、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の都市改造政策で寺町通丸太町下ルに移転した。

 以後、北半分を御霊町または中御霊町、南半分を下御霊町または乗物町(乗り物を作る店があった)と言っていた。幕末、尊王攘夷の風潮に乗じた勤皇の志上の活躍に手を焼いた幕府は、会津藩主松平容保を京都守護職に任命して、無力な存在になっていた京都所司代(二条城の北側にあった)を補完しようとした。
 文久三年(1863)、幕府は下長者町通;新町通;下立売通;西洞院通に囲まれた東西1丁・南北2丁の地域の町屋を強制的に買い上げ、守護職屋敷を設置したので、町は東側だけの片側町になり、明治二年(1869)に合併して両御霊町になった。同じ様な運命にあった町に新町通りの下立売通と丸太町通間にあった腹帯町と春日町がある。(文久四年)元治元年末に新町通りと釜座通間を、丸太町まで延長して守護職御殿屋敷を設置されるに及んで両町は片側町になり、5年後に合併して春帯町となった。

 維新後、守護職邸跡は京都府庁となった。ここは四辺を堀と塀で囲まれていたから、外観は丁度、東西両本願寺のようなものだった。昭和初年当時でも。下立売通に面する一辺と新町通の京都府警本部のある一画を除いて土塀は存在していたが、堀の上に足場を築いて逐次鉄筋コンクリートに改められていった。(土塀のごく一部分30メートル程は、下長者町に面する警察学校の北側に終戦時迄保存されていたが、付近の子供達の遊び場にされて穴だらけになり、危険なので解体されてしまった。)

 大正九年に警察本部の真向かいに移転してきた私たち一家は、上の姉2人以外の男3人、女1人がこの家で生まれ、6人兄弟がこの町内で育って滋野小学校に通った。 幼児期には堀(川と呼んでいた)の橋を渡って、車寄せや前庭を公園代わりとして一日中遊んだものだ。警察の車は西側に車庫があったので、東側の車寄せには車が殆ど入って来ず、親達とすればいつも目が届いて誠に好都合であったに違いない。

昼間の遊びとしては『隠れんぼ』とか『下駄隠し』などが主なものであった。

1.『下駄隠し』は鬼の子供が目を覆っている間に、子供たちが履いている下駄の片方を思い思いの場所に隠した後、 「下駄隠しちゅうねんぼ、橋の下のねーずみが、草履を加えてちゅっちゅくちゅ、ちゅっちゅく饅頭は誰が食ぅた、だーれも食わへん、わしが食た。」 とはやす間に鬼が探し出す。

2.女の子は車寄せのコンクリートの縁石に座って、歌いながら『おじゃみ(お手玉)遊び』 をする。 「おじゃみ、おふた、おみぃ、およお、なっとくりょう、とんきり、おじゃみさくら、おふたさくら、さくら、およさくら、ひとよせさくら、女の髪つかみ、・・・」 男の子は「おじゃみ」が苦手だからしないが、おはじき位なら一緒にすることがあった。

3.時候も良くなった時の夕食後、警察本部の玄関が閉ざされると町内の子供たちが車寄せのコンクリート敷きに集まって、童歌を歌いつつ遊びが始まる。まず、鬼の二人が子供たちの前に向き合って立ち、お互い上方に手を差し伸べて門の形になる。
子供達 「こーこは、どーこの細道じゃ。」
鬼 「天神様の細道じゃ。」
子供達 「ちょーっと通してくだしゃんせ。」
鬼 「御用のないもん、通しません。」
子供達「この子の七つのお岩におふだを納めに参ります。」 鬼 「往きは良い良い、帰りは怖い。怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ。」

子供一同は、鬼の門をくぐり抜ける。 更にこの続きとして子供達が鬼の門を通 り過ぎた後、帰り道といった風情で二人 の鬼が手を繋いで輪をつくり、子供を一 人ずつ入れて揺さぶりながら問答を吹き かける。
鬼 「責めよ、責めよ、親に何食わす。」 ちょっと反抗的な子が「鯛の骨」などと 答えると
鬼 「この子は悪い子、針の山へ飛んで行け。」 の声と共に激しく放り出されるし、おとな しい子が「鯛の身」などと答えると
鬼 「この子は良い子、大きいなったら 出世せい。」 の声でやさしく放免される。 この童歌は江戸時代に武蔵の国 川越三芳野天神が発祥の地で、全国的に広まったとされており、抑揚や遊び方も各地各様であるようだ。

4.目隠し遊びでは鬼になった子供が両目 を手で覆ってうずくまる。大勢の子が輪になって周りを囲み、歌を歌いながらぐるぐる回る。

子供達「デーンデコデンコ、だーれの隣に誰がいる」
鬼 「〇〇ちゃんの隣に××ちゃん」 当たらなかったら
子供達「一丁ほどとーい遠い。」 当たれば
子供達「よう指した。」 当てられた子供は鬼になるし、当たらなかったら鬼が引き続き鬼になる。

なにぶんにも大勢の子供ががなり立てるのであるから、時には警察本部の宿直さんから「うるさい。」と文句が飛んでくる。その時は 「どうも、おやかましさんでした。」 (子供がよその家に遊びに行った帰りに家人に挨拶する言葉。)

こうした遊びはリーダーとなる子がいたでもなく、全市的に代々の子供達によって伝えられていったようだ。

5.最初に遊び場に到着した子供が 「隠れんぼするもん、この指たかれ。」と か「下駄隠しするもん、この指たかれ。」などと人差し指を立てると、後から来た子供が群がって遊びが始まる。

6.指といえば、指きりの時には 「ギリギリチャンポ銀のかんざし13本、 家みっつ、鍵みっつ、破れた『いかき』 に血ぃ3杯。」という怖い文句で小指を絡ませる。

 春になると、町内の真垣さんの家では、当時では珍しかった雛飾りが飾られて、女の子は勿論、男の子まで呼ばれて五目ずしなどを御馳走になった。その後では女の子がお雛様の道具を使ったままごと遊びをして男の子をもてなしてくれたり、トランプのババ掴み、七並べ、神経衰弱、或は百人一首のカルタ札を使って坊主めくり、銀行屋などで遊ぶことになる。

 夏には、警察本部を超えて府庁まで入り込み、母に作って貰った虫取り網と虫籠を持って蝉取りをした。まだ蝉の正式な名称など知らない歳であったから、形の大小によって、ニイニイゼミを小蝉、アブラゼミを中蝉、クマゼミかミンミンゼミを大蝉とか帷子(カタビラ)と言っていた。日中だけでなく、日が暮れて地中の穴から出て羽化の為に木を登ってゆく地蝉取りにも行った。
 警察本部の西側の車寄せの先の空き地にあるオニヤンマが同じ道筋を行ったり来たりして虫を探している。下長者町の糸屋さんで絹糸のこんがらがったのを1銭で分けてもらってきて、一本の糸を抜き取り、両端に謄写版の原紙で小石を包み込んだものを捻り付け、トンボの行き先に放り投げてトンボ釣りをする。こんな遊びになると小児組はさっぱりだが、6歳上の兄たちの絶好の活躍の場になる。
 当時から野球熱は盛んで、夏の中等野球の時節になると町内の一か所に床机が並びラジオを据え付けて、朝日新聞から配布された点数表を付けながら、平安中学や京都商業の試合に一喜一憂したものだ。小児たちも自然に野球に取り組むことになるが、警察本部の南端のいつも閉まっている通用口の階段のかどっこにボールをぶっつけてフライやライナーやゴロが相手に捕られるどうかで点数を争う階段ベースボールとか、階段下がホームベースで川にかかった橋までの細長い通路での三角ベースボールで遊んだ。
 兄貴達になると、ユニホームやスパイクシューズを揃えて「両チーム」と名付けて本格的に取り組んでいた。日曜日になると下立売通に面した府庁の青銅製の正門が閉ざされるので、その内側が「両チーム」のホームグラウンドになるが、よくも府庁の守衛が黙認してくれたものだ。その一方で、御所(戦前は御苑とは言っていなかった。) の梅林(ウメバヤシ)の芝生でよそのチームと試合をしている時に皇宮警察に見つかると、試合を中止して退散させられた。

 八月も半ばの16日は大文字の送り火である。この夜は警察本部の屋上が開放されるので、浴衣を着た子供達は夕方から屋上に上ったり家に戻ったりして、大文字の点火を持つ。やがて大人達も上ってきて、定刻の瞬間に方々から歓声が上がる。平常は狭い町屋で暑苦しい夏の夜を過ごしてきた町内の人達にとって、風の吹き渡る警察本部の屋上は、この上ない納涼の席であったに違いない。8月22.23日は地蔵盆であって、我が家の門口の横にある地蔵尊が、毎年交代で受け持つ家持さんの角先にまつられ、子供達にはキャラメルやお菓子が振る舞われる。床机に座って年上の子供は本将棋に興ずるが、小児には手が出ないので、挟み将棋、蛙飛び、ひょこ廻り、将棋倒しなど、遊び将棋をすることになる。
 両御霊町では地蔵盆の日に、一日中、タクシーを仕立てて行楽に出かけるのが恒例であった。行く先は、南禅寺・八瀬遊園・植物園・金閣寺などであった。当時のタクシーはもちろん外車であって、シボレーとかフォードが多かった。車体がそんなに大きくなかった上に、両外側にステップがあったから、車内幅は相当に狭かっただろう。その代わりに、後席の床と前席の背もたれとのL字部分の一部を90度引き起こすと、前向きに座れる補助席が二つ忽然と出現し、子供たちはこれに座らされた。

 京都の町並みは平安京以来、1丁4万1区画(方形割という)が基本となっていたが、これでは区画が大きすぎて町町家が建ち並ぶのに適当でないと考えたのか、豊臣秀吉は縦町が半丁間隔(矩形割という)になるように改造した。中京区の多くはそうなっているが、上京区では滋野学区がそうした区画の北限に位置する。その中央に府庁がデンと構えているのであるから、その周辺に交通の流れができ、新町通りには色々なものが通る。
 府庁の出水入口に出入りする自動車、荷物を積んだ荷馬車の馬は歩きながら糞を落としてゆくが、小便の時には立ち止まって滝のように流す。中立売署から裁判所へ往復する手錠に繋がれた容疑者の列(親達は『博打で挙げられた人や。』と言っていた。)、滋野校の小使いさんが犬のように首輪をつけて散歩に連れ出した猿、玄米パンのホヤホヤと言いながら数人が自転車を押して売り歩く。相国寺か妙心寺の禅僧はオーオーと声をあげながら間隔を空けて托鉢の列を作り、首から明暗と書いた深編み笠姿の虚無僧は単身で尺八を吹きながら来るが、これは東福寺近くの明暗寺から来るらしい。
時々、中央部が背が高くて2〜3人の座席があり、前後に蓄電池箱を積んだ黒色凸部のシルクハットのような電気自動車が通った。長ずるに及んで島津源蔵さんが新町今出川の日本電池の工場への往来に乗っていたらしいと知ったが、この文を読んだ同級で源蔵さんの孫娘の鈴木さんから相違ないとの確証を得た。

 警察本部の前庭で遊んでいる内に家へ帰ろうとして、自動車の前を横切った時に片方の靴が脱げ、急に戻ったので車と接触して倒れたことがある。早速、母親と共にその車で赤十字療院へ向かって診て貰ったがたいしたことは無かった。母親は看護師と産婆の資格を持っていたが、病弱と6人の子供の世話のために家庭内にあったので、子供の病気の時には良く目が届いた。蓄膿症の治療や扁桃腺の手術には赤十字病院を利用したが、ちょっとした病気にはかかりつけの医者が人力車で駆けつけ、風邪などの気味がある時には、郷里 滋賀県甲賀郡の製薬会社の配置薬を利用するなど使い分けしていた。ある夏の日のこと、いつものように眞垣さんの玄関の土間へふらりと入って行った。(この土間には台秤が置いてあって、本人は幼い時のことで覚えがないが、その前でウロウロしているとよく小便を漏らしたと姉達から言われたものだ。)その日は妙に身体がだるかったのか、暫くして家へ帰ったのだが後は意識が無く、気が付くと府立病院へ入院していた。その頃の子供にとって非常に危険な病気「疫痢(急性の赤痢)」にかかったのであって、午前に口に入れた氷のかち割りが悪かったのだろうとのことだった。これ以後、胃腸の病気らしいとなると飲みにくいヒマシ油を飲まされて、腹中の掃除をされたのは閉口だった。
自動車事故はともかく、川に落ちたことは、町内の子供なら大抵、一度や二度はある。川といっても深さは20センチメートルであるから、生命にかかわることは無い。 私の体験からすると、岸の縁石を走っている内に川に向かって身体が傾斜し出し、落ちまいとすればする程、川に乗り出していってポチャンということになる。年上でおっちょこちょいの子供は、前庭から助走して幅跳び横断を試み、向こう側に着岸できずに着水してしまう。
 この川は御所から流れてくる。慶長頃の文献によると、小山郷というから今の北山大橋と北大路橋の間で加茂川から取水して南下した御用水が、上御霊神社の西南角を東流後再び南下し、相国寺の周りを廻って今出川御門に達している。その主流は今少路と言っていた東西通に沿って東流したから今出川通と呼ばれるようになった。寺町通に至ってから南下して中川または京極川と名を変え、二条通を東流して鴨川か高瀬川に合流したようである。(この川筋が後の京都電鉄の路線になった。ちなみに下立売通の烏丸・堀川間には大正15年7月まで渡り線の電車が走っていた。)
今出川御門から御所に入った流れは普通「瓢箪池」と言っていた近衛家の池泉や京都御所・仙洞御所の庭園を流れた後、南端の「九條さんの池」から丸太町へ流れ出る。 明治になって琵琶湖疏水が出来てからは、蹴上の向かいにある九条山浄水場から、御所水道という特別の送水管で源水を今出川御門まで送ってきていたが、現在では源水の水道悪化により、地下水を使用している。
 一方、その一分流は、皇居警察の北側から土堤の外側に流れ出た所で、逆サイフォンの入り口に落ち込んで烏丸通をトンネルで横断していたが、ここは私の姉が溺れそうになった危険な所だった。再び地上に現れた水流は、護王神社の北側を涼しげに流た後、民家の立ち並ぶところは暗渠内を通って新町下長者町の中立売署の角から堀に流れ込み、府庁の4周を巡ることになる。 新町通りは下長者町から下立売までかなりの勾配があるので大部分の水流は勢いよく南下して下立売通を西へ向かうが、下長者町通を西へ向かう支流はよどみがちで水流も少なく、西桐院通を南下して上消防署の向かい側で本流と合流する。合流点は下立売通を横断するトンネル水路の入り口で深さもあり。鼠取りにかかった鼠を始末するのに格好の場所であった。この水流は西桐院通;椹木町通を暗渠で通過し、椹木町橋の下で堀川に放流された。これから下の方にかけては、堀川を遡ってきた丸太材を扱う材木業者が多かったが故に、寛永頃から春日通が丸太町通になり、その中心は西堀川丸太町であったという。幕末の文久三年(1863)、椹木町橋にあった冷泉井堰から二条城の北を通り、千本通りを南下して西高瀬川に結び、嵯峨方面からの水運を図ったようで、私の子供の時にはまたその水路の痕跡が残っていた。

 私達一家が大正9年に引っ越してきた当時は川もきれいで鰻が住み、魚も泳いでいたらしいが、昭和初年の私の小児期には川も段々、汚れていた。護王神社のところまではそれこそ清流が流れていたが、新町までの暗渠沿いには民家の他に風呂屋や料亭がある。新町通りに入ると赤十字療院や精錬工場(生糸や絹布をアルカリで煮て柔らかくする工場)がある。その頃の下水道は皆無であるから、これらの排水が流入したとは容易に考えられる。かくて、川は相当な流速があったのに、汚れた綿とか緑色の房のような水藻が川面を覆うようになり、年に2〜3回刈り取っていた。
 後年、ようやくヒューム管や土管を各町内の道路の下に埋め、下水や雨水をまとめて堀川へぶちあけるといった簡単な下水道(ただし、水洗便所はなし)ができるに及んで、川は邪魔でもあり、役割も無くなって下立売通と護王神社の北側に痕跡を残しながら全部が埋め立てられてしまった。(下立売通には現在も空堀として存在するが、護王神社の北側は自動車のパーキング場になっている。)

 下水道と言えば、両御霊町と裏ん町の境目には、どこから来てどこへ流れてゆくのか判らぬ幅三尺ばかりの水路があって、家庭の生活排水が流されていた。普通には滅多に見えないが、路地の突き当りの隙間から覗いてみると、裏ん町の板塀との間に異臭を放った汚水が見えた。表通りの軒下にも小さい側溝があったから、屋根から樋伝いに落ちた雨水がここに集まり、果ては川に流れ込むか地中に沈み込んでいたのであろう。道路はいずれも土道で、自動車の通行によって凹凸になり、雨が降った後は凹面に水が溜まって、どこからか飛んできたアメンボがスイスイと泳ぐことになる。
 下立売通はもっと車の往来があったから、それこそ算盤道といった状態であった。上消防署には、子供達の分類で大・中・小の3種類の消防車があって、大の消防車はソリッドのゴムタイヤにチエンドライブという時代ものであったから、こんな車で算盤道を走ればどんなに激しい振動であっただろうと思う。

 府庁の前の下立売通は、電車が通っていただけあって道幅が広くて電柱などの障害物も少なかったから、車の通行の殆ど無い正月三が日は絶好の凧揚げ場になった。凧は滋野校正門前の文林堂や近所の一文菓子屋で買った、徳島産の印の付いたやっこ凧の小が1銭、普通が2銭であった。形の変わった扇凧になると、小が5銭、普通が10銭であったと思う。幼い子供は1銭のやっこ凧で新町通りを走るだけだが、年長の子供は府庁の前の凧揚げ場で西風に乗せながら、豆粒のように見える迄、凧あげに興じていた。もっとも、そこ迄あげるのが苦労であって、大勢の凧上げをする子供の凧糸に引っかからないように上げるのは至難の業であった。

 昭和初年頃はラジオが普及し出し、レコードが販売され活動写真が盛んに興行されるようになった。地味で堅実な両御零町では、流行歌を歌えば親に叱られるし、活動写真といえば時たま中立売署のグラウンドに支柱と白布で作った映写幕で映される野外映写会を見る程度であった。折から、満州事変・上海事変と戦火があがり、子供達の歌にも軍国詞が登場してきた。

 さて、大正年度最後の十五年二月生まれの私は、早生まれとして昭和七年四月に滋野尋常小学校に入学し、「ハナ、ハト、マメ、マス」で始まる国語読本を使用する最後の小学生であった。ちなみに、徴兵検査も終戦の年の二月に受けている。
 御霊町の我が家は、同じく御霊町の山内さんの借家であった。その聞き取りや大きさについての記憶は定かではないが、大体次のようなものであった。
仕事場には押木という作業台が2台あって来客の応対にもあたり、後には姉達の練習道具としてオルガンが置かれた。2階の表の間には、虫籠(ムシコ)の窓があり、それに向かって屋根が傾斜していて、子供でも先の方へ行くと頭がつかえる程だった。 普通なら物置にしかならない所に壁紙を貼り、机を置いて勉強部屋にしてあった。こんな間取りであるから、両親とも6人と父の弟子の宗さんの計9人が寝起きしていれば非常に狭苦しかっただろうと思う。父の職業は錺(カザリ)金具の製作で、特注のタンスの金具や室内装飾金具、床の間の置物などを造っていた。天理教本殿内陣の金物を受注した時には、偉い人がこの狭い家に来たと父から聞いた。この時の実績で、正倉院御物の曝涼の拝観を許されたが、火気厳禁の尊厳な場所なので、羽織袴で懐中電灯の照明だったとの事である。
 昭和4年には世界大恐慌があり、日本はいわゆる「大学は出たけれど」の文句が流行る不景気の真っ最中であった。子供が表へ遊びに出かける時にも無心者がくるから戸締りをしておくように注意された。そんな中で父の努力により、上長者町室町西入の土地付き一戸建ての家を買って昭和9年に移転。これを機に弟子の宗さんも別家独立した。現在の有形文化財選定保存技術保持者 金江宗観氏である。

 今度の家は中立学区だったが、私と3番目の姉は引き続き区外生として滋野校に通い、弟は中立校に新入生として入学した。
 しかし、入学式には1日行っただけで、兄や姉の通う滋野校に行きたいと転校してしまった。3人の小学生が通う道筋は新町通りを南下するから、当然、両御霊町を通ることになるが、ちょっとでも距離を短縮する心理から赤十字支部の正門を入って府庁との境目の木戸を抜け、府庁旧本館と警察本部西側との間を通り、府庁正門から下立売通へ出るコースを取った為、両御霊町の家の前を通る事は無くなってしまった。一つには旧知の人に挨拶しながら通るのが億劫であったからかも知れない。

 そして、卒業、進学する内に戦争に突入となった。6人の兄弟姉妹は、就職・結婚・兵役・勤労動員などにより全員が京都を離れている間に、文久三年の強制買い上げ以来、82年間、片側だけ残っていた両御霊町は、再びの強制疎開で全町の町屋が永久に消えてしまった。