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観測隊・参加歴

※ 時折、思い出すままに書き足したり、写真を追加したりしております。ご了承下さい。


第25次 夏隊 【1983/11〜1984/4】:設営一般
しらせ出航風景
観測船「ふじ」の後継船、「しらせ」・処女航海の隊です。

NHKの連続ドラマ『おしん』が大ヒットし、昼休みの隊員事務室では長寿番組『笑っていいとも』とのチャンネル争奪戦がいつも起こっていました。【世界に広げよう観測の輪!】が25次隊のキャッチフレーズでした。

また、映画『南極物語』もこの年に公開されました。ヒロインを演じた夏目雅子さんには、もっと長生きしてほしかったですね。

マスコミからも注目されて、共同通信社・東京新聞社・NHKから計5名のオブザーバーが観測隊に同行しています。

夏隊の旅程は全て船でした。

【 東京 → フリマントル(西オーストラリア) → 昭和基地(24次越冬隊乗船) → ケープタウン(病人発生の為に、緊急入港。) → モーリシャス(24次越冬隊下船、空路パリ経由にて帰国。) → シンガポール → 東京 】という長い船旅を経験しました。

モーリシャスから先は空き船室があるので各人が個室で生活しましたが、なんとなく寂しくて夜はいつもどこかの部屋に集まって酒を飲んでいました。

私は、設営部門の一大プロジェクト「新発電棟建設」と、昭和基地・みずほ基地に続く第三の基地候補地「セールロンダーネ地域」の予察に参加しました。

昭和基地の夏期建設作業では、太陽が沈まないのをいいことに朝から晩まで働きずくめでした。今でこそ、10日おきに休日が設けられますが、当時は休みは元旦だけでした。

自らが設計したプレハブ配管システムを自らの手で作り上げるという本当に素晴らしい経験をすると共に、設計に対する自信を深める事が出来たと思っています。

セールロンダーネ地域の予察は約3週間にわたり、雪上車とスノーモービルで雪原を走り周りました。山屋の私にとっては、南極の自然の厳しさと美しさを満喫できた素晴らしいオペレーションでした。

今の私の原点が、ここにあります。
 
しらせ飛行甲板上の筆者
昭和基地主要部
越冬隊/機械・通信・調理メンバーと一緒に。
  【南極・第三の基地/踏査隊同行記】神戸新聞掲載記事<文と写真:兼村博共同特派員>




第27次 越冬隊 【1985/11〜1987/3】:機械担当

しらせに曳航されるネラダン号(豪)

往路、氷海に閉じ込められたオーストラリアの観測船「ネラダン号」を救出するというトピックスがあった隊です。

私の年代だと、「宗谷」がソ連の「オビ号」に救出されたというニュースの記憶を持っているので、日本も救出できる立場になったのかと感慨深いものがありました。

航空機によるアイスレーダー観測のために、地上支援隊として約3ヶ月間の内陸旅行に参加しました。

昭和基地⇒みずほ基地⇒やまと山脈⇒ベルジカ山脈⇒セールロンダーネ山脈⇒あすか基地 のルートを辿り、ブライド湾で28次隊を乗せた「しらせ」にピックアップされて再び昭和基地に戻りました。

また、27次隊は、モーリシャスからパリ経由で帰国する最後の越冬隊でもありました。(28次隊からはシドニー経由の帰国に変更された。)

モーリシャス→スイス→ロンドン→パリと駆け足でめぐりましたが、最後のパリでルーブル美術館に行ったものの、時間が遅くて入館出来なかったのは今思っても残念です。



第32次 越冬隊 【1990/11〜1992/3】:設営主任(機械部門チーフ兼務)

イメージ
 (準備中)
設営主任という大役に緊張した越冬生活でした。

まだ若かったので結構つっぱっていたと、今では反省しきりです。

この隊から日常業務にパソコンが導入されました。

一太郎がVer3,ロータス123がR2.1J、エクセルはまだマルチプランと呼ばれていました。ペラッペラの5インチフロッピーディスクのあった時代です。

パソコンのおかげで事務効率は大きくUPしました。調達リストや積荷リスト作成において、徹夜作業から解放されたのは本当に画期的なことでした。
この時にパソコンを覚えることが出来て、本当に良かったと思ってます。

帰路、シドニーへ妻と二人の息子達が迎えに来てくれました。妻も息子達も初めての海外旅行だったので、空港で三人を出迎えた時はホッとしました。JTBの「観測隊員出迎えツアー」を利用したのですが、結構高くついた記憶があります。



第40次 夏隊 【1998/11〜1999/3】:機械担当(機械設備工事指導)

曳航されるオーロラ・オーストラリス号



 トナー島での朝のラジオ体操
実は、これ以前に第37次隊への参加要請もありましたが、家庭の事情でどうしても参加できませんでした。

次に参加要請があったら無条件でOKしますと言って辞退した経緯があり、越冬の覚悟があったのだからと2年連続での夏隊参加になりました。

27次に続いて、オーストラリアの観測船「オーロラ・オーストラリス号」の救出活動に遭遇しました。

同じ経験をしたのは、観測隊参加歴8回を誇る鉄骨鳶の親方「増っさん」だけじゃないかと思います。

トナー島での地学オペレーションにも参加しました。

ここは非常に風の強い場所で、夏オペレーション中に持ち込んだ小型ヘリコプターが機体に損傷を受けたりしました。某ドクターの話によると、ブリザードの時には満タンのドラム缶がゴム毬のように飛んでゆくのが見えたとか。

翌年、41次隊で訪れた時には当時建設した建物は風に吹き飛ばされて跡方もありませんでした。


第41次 夏隊 【1999/11〜2000/3】:機械担当(安全対策指導員兼務)

イメージ
 (準備中)
40次夏隊として基地を離れる際には、越冬隊の皆からは『どうせまた直ぐに来るんだろう!』とヘリポートで見送られました。

3月末に帰国したので、7月の隊員事務室開きまでは3ヶ月。
結局すぐにまた東京での単身赴任生活を始める事になりました。

冬期訓練(3月)には参加できなかったので、41次隊のメンバーと初めて顔をあわせたのは夏期訓練(6月)でした。

当時は、軽い南極ボケ症候群(?)だったかもしれないので、他の皆さんからはちょっと浮いていたかもしれません。

「しらせ」で同室だったのが、関電工の窪田さんです。
同い年で「設備屋」ということもあって意気投合しました。窪田さんは殆ど酒が飲めなかったのですが、帰国する頃にはいっぱしの酒飲みになっていました。私が酒を教えたという事になっていますが、もともと素質があったんだと思います。奥様には、「余計なことをして!」と思われているでしょうが・・・。



第49次 夏隊 【2007/11〜2008/3】:機械担当

満52歳の誕生日ケーキ
第49次南極新聞(しらせ船内)への投稿記事の紹介
『夏作業所感』
『しらせの思い出』




   


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