「薬師如来像のお話」

 「薬師如来」は「東方浄瑠璃世界」の教主で来月掲載の「西方の阿弥陀如来」と相対して
おります。正式名は「薬師瑠璃光如来」で「大医王仏(だいいおうぶつ)」とも呼ばれます。 
 薬師如来は菩薩の時代に立てられた「薬師十二大願」の内、第七願の除病安楽が大き
く取り上げられて広く人々の病気を治し延命にするだけでなく、精神的な苦痛までも
取り除くという至りつくせりのお医者さんです。
  薬師如来は古代では一番信仰された仏さんでした。現世利益が強くあまり難しい宗
教行為を必要としなかったことも人気が出た要因でしょう。
 
  現在なら癌などの病気を除いて医学治療で完治することができますが医学がの未発
達の昔は、病気になれば有効な薬、手立てもなくどうすることも出来ませんでした。
色んな療法を知る由もなく、病気に掛かるのは人の力ではどうにもならない悪霊のし
わざであってそれにはお祈り以外に治療方法はないと考えていたと思われます。
その
意味で病気に対応していただける薬師如来のような強い味方を待ち焦がれていたこと
でしょう。
 古代の寺院建立の発願は病気平癒が多く、国家鎮護の寺院建立は飛鳥時代にはあり
ませんでした。薬師如来を本尊として建立された寺院は個人の病気平癒を祈願したも
のが多く、例えば、「法隆寺の本堂の薬師如来像」は聖徳太子の父君・用明天皇の病気
平癒祈願のため、「薬師寺の本尊薬師如来像」も後の持統天皇の病気平癒であります
し「新薬師寺の薬師如来像」も聖武天皇の眼病平癒を祈願して安置されたものでありま
す。今は眼の病気と言えば緑内症など一部の症状を除いて完治が可能な良き時代です。
いまなら老眼になっても何の気遣いもいりませんがその昔、老眼になり視力障害が起
きれば眼鏡がなかっただけに満足な日常生活を送ることが叶わない重大な病気でした。
後述の「獅子窟寺の薬師如来像」は授乳の霊験が新たかな仏さんとして著名です。昔、
妊婦は仏さんに安産と同時に良い母乳がたっぷり出ることを併せて祈願したものであ
ります。母乳が出ないということは人工乳がある現在とは違って免疫性を持たない乳
児に与えられるものも少ないため亡くなる乳児も多かったことでしょう。それが今で
は母乳は医学的に乳児に良いと分かっていながら乳房の形が崩れるといって人工乳に
頼る時代でもあります。しかし、少子化、共働きの社会情勢を考えると人工乳に頼る
のは一概には悪いとは言えなくなりました。 
 話は変わりますが法隆寺金堂の薬師如来は願いもむなしく開眼供養することもなく
用明天皇は崩御されました。それではなぜ、祈願を聞き入れて貰えなかった薬師如来
を祀るのかと疑問が出て参ります。私見ですが当時は病気平癒と追善の法要の複数の
願いを込めて薬師如来像が制作されたと思われます。例えとして適当かどうかは分か
りませんが私の初詣は最近までずっと0時参りをしておりました。0時になるのを本
殿の前で待機しておりますとマイクから家内安全、商売繁盛、交通安全、病気平癒、
厄除け、良縁祈願など次々とお守りの紹介がありそしてお参りする前にお守りを購入
してお参りされますとお守りの効き目は抜群ですよと聞こえてきたものであります。
さらには、このお宮さんでは日常生活のお祭、社会生活のお祭などの多くの祭りもさ
れますのでこのお宮さんでは何をお願いしても聞き届けていただける有り難い神様だ
なと感心したのであります。古代から我が国では神仏には複数のお願いをするものと
扱われてきましたので法隆寺の薬師如来像も現世と来世を祈願してお祀りされたので
はないのでしょうか。
 
 仏教の伝来は優れた文化の伝来であり、中国から古代の治療法と幾ばくかの薬草が
持ち込まれていましたが一部の特権階級のみが恩恵に浴しました。医学と薬草に対す
る知識がありました当時の留学僧は大変尊敬されましたことでしょう。
 しかし、公的な慈善事業もありました。それは、光明皇后が造られました「悲田院」
「施薬院」「北山十八間戸」であり自ら医療福祉に力を注がれた皇后として有名でありま
す。
 
 我が国では多くの薬師如来像が残っておりますが、中国では少なく韓国でもそんな
に多くないということで何故か不思議な気がいたします。それに、驚くことに薬師如
来の経典といえば、梵語の薬師経はなく漢訳の薬師経があるだけらしいです。では、
薬師如来はどこでお生まれになられたのでしょうか?
 また、誕生当初、薬師如来の像容とか印相が説かれていないため釈迦如来との判別
がし難いのであります。
 
 薬師経には「七仏薬師」を祀るとありますが同寸の薬師像を7体造るのか光背に小薬
師仏を造るのかはっきり致しません。それと、七仏薬師の七番目が薬師瑠璃光如来で
あるのでそれとは関係がないのでしょうか。

  毎月8日は薬師如来の縁日でこの日にお参りするとご利益が割り増しになるという
有り難い一日でお忙しい方はこの日にお参りください。
  それと衆生の要請で直ちに往診していただけるよう古代の坐像から次第に立像が増
えてまいります。
 
 過去の薬師如来、現世の釈迦如来、来世の阿弥陀如来の「三世仏(さんぜぶつ)」とい
われますが現世利益が顕著である現世の薬師如来がなぜ過去の仏さんなのでしょうか。

  右手が施無畏印、左手が与願印で、その左手の掌の上に「薬壷」を乗せておられます
が古代の薬師如来像は薬壷を持っておりません。とはいえ、天平時代の作にも薬壷を
持った像があります。薬壷を持つことは中国の密教僧が翻訳した儀軌に出てくるそう
です。それゆえ、密教と共に広まったのではないでしょうか。特に、密教はヒンズー
教の神々を多く取り込んで尊像としており、それまで如来、菩薩、天部の三ランクだ
ったのが密教の明王が加わってきて如来、菩薩、明王、天部の四ランクになりました。
とにかく、密教寺院の場合堂内に多くの尊像が安置されますので見極めるため薬壷を
持つことが守るべき約束事として普及したのではないでしょうか。
 法隆寺金堂の本尊(東の間)薬師如来坐像、薬師寺本尊の薬師如来坐像は薬壷を持っ
ておりません。が、天平作である法隆寺西円堂の「本尊薬師如来坐像」は薬壷、獅子窟
寺の本尊薬師如来坐像は宝珠を持っております。このように宝珠を持つ薬師如来像も
存在いたしました。薬師如来像は平安時代に数多く造られており一様に薬壷を持つよ
うになります。平安時代以前の薬師如来像が宝珠を持っていたのが後世に薬壷に代え
られたこともあったと思われますが真偽のほどは分かりません。
  
 平安初期には各地で阿弥陀如来を発願したのに途中から薬師如来に変えて造られた
りするくらい多くの薬師如来像が造立されました。それには、怨霊の問題が関与して
いたのでしょう。悔しい思いのまま非業の死を遂げた人々の怨霊が、疫病の流行・天
災を起こすと考えられその怨霊をなだめ鎮めるのにご利益があるのは薬師如来だと経
典にもない勝手な解釈をしてこぞって薬師如来に祈りお願いいたしましたから全国的
に薬師如来が多く造られたのでしょう。ドキッとするような形相であるのは怨霊の祟
りとかライバルの呪詛から逃れるためにお祈りする仏さんだからでしょう。
 
 平安時代には「延暦寺根本中堂の本尊は薬師如来」となりましたので天台系寺院では
薬師如来像が多く造像されました。しかしながら、薬師如来を本尊とする寺院で言え
ば「四国 八十八ヵ所霊場」
ではダントツの第一位でありますが「西国三十三ヶ所観音霊
」、「坂東三十三ヵ所観音霊場」、「秩父三十四所観音霊場」では その名称が示す通り、
現世も来世もお願いできる観音信仰に変わっておりますのには驚きです。 
 「巡礼のお話」をご参照ください。

 脇侍は「日光・月光菩薩」、「八大菩薩」で、眷属は「十二神将」です。日光菩薩、月光
菩薩の像容は日輪、月輪を持つのでありますがそれを持たない菩薩もあります。八大
菩薩の中には「薬王、薬上菩薩」がおられます。この八大菩薩は通常言われる八大菩薩
とは違うようであります。また、薬王、薬上菩薩は「阿弥陀25菩薩」のメンバーでも
あります。「法隆寺金堂の本尊(中央)釈迦如来」の脇侍は薬王・薬上菩薩ですが本尊は
まさか薬師如来ではないでしょうね。そうなれば、東の間の本尊薬師如来像とだぶっ
てしまいます。

 一日24時間を十二神将で割り、一神将が2時
間交代で衆生の守りに付くとのことであります。
十二神将は常に衆生に目を向けていただいている
ことになります。すなわち、薬師病院は年中無休
で24時間営業ということになります。
 平安時代になりますと十二神将像の頭上に十二
支が付くようになります。余談ですが、十二支を
時間的に言えばの子(ね)は午前0時で正子(しょ
うし)と言い、午(うま)はお昼の午後0時で正午
というのは皆さんご承知の通りです。南北に走る
線を子午線といい、その子午線を通る時刻を0時
としたのです。 

 

   
   薬師如来坐像(法隆寺金堂)

  
      仏 頭(興福寺)

  「興福寺のお話」をご参照ください。

 

  
     薬師如来坐像(薬師寺)

    
    薬師如来立像(唐招提寺)

  「薬師寺のお話」をご参照ください。  「唐招提寺のお話」をご参照ください。

 

  
   薬師如来坐像(法隆寺西円堂)

    
    薬師如来立像(室生寺) 

 耳の病気を治す医師・薬師如来坐像(峯
の薬師)です。後述の大講堂の薬師如来坐
像と並んで本格的な丈六像です。西円堂は
鎌倉時代の再建ですが薬師如来坐像は天平
時代の制作です。写真の錐を耳に当てお祈
りいたしますと耳の病が治るそうです。 
 

 「室生寺のお話」で薬壷の文様が薄肉
彫りの「蟇股」であるのと眷属の十二神
将で薬師如来だろうと記載いたしまし
たがさらには光背に七仏薬師が描かれ
ておりますので釈迦如来ではなく薬師
如来で間違いないと思われます。
 「室生寺のお話」をご参照ください。 

 

 
    薬師如来坐像(新薬師寺) 

   
   薬師如来坐像(法隆寺大講堂)

 「新薬師寺像」は国宝指定でしかも眷属の十二神将像も国宝指定という豪華な顔ぶ
れです。天平時代の創建当初は七仏薬師だったらしいですが今は一仏も存在いたし
ません。     「新薬師寺のお話」をご参照ください。

 

 「神護寺」は「高尾山」の自然の懐に抱かれており訪れた時はオフシーズンだったのと
朝9時前でしたので拝観者は私一人だけでした。参道の途中では「清滝川」のせせらぎ
が聞こえておりましたが山門を潜ると鳥の声も聞こえず全くの無音の空間で玉砂利を
踏む足音のみでした。澄んだ空気を腹一杯に吸い込みながら金堂へと向いました。高
尾山と言えば紅葉の名所として名高く観光シーズンなら大変な賑わいで日本人にとっ
て自然が何よりのご馳走なんでしょうね。
 名物の「かわらけ投げ」で癒しの一時を過ごすのが予定のコースでありますが私は先
を急ぎましたので楽しめませんでした。残念!

   
 「清滝川の高尾橋」を渡ると参道入口で途中では急な石段が続きますがほどなく「山門」です。白い立て看板の手前に石標がありそれは最古の「下乗石」です。     


            山 門(神護寺)
  「山門」は「二王門」でなく「二天門」で、
  四天王の「持国天・増長天像」が安置されて
 おりました。

                                            

 
    山門から境内を望む

 
       金 堂(神護寺)

 

   
   薬師如来立像(神護寺)  

 「薬師如来立像」は弘仁・貞観時代の傑作として著
名ですので、紅葉もいいですが是非ご覧になってく
ださい。これから述べます弘仁・貞観時代の特徴を
良く伝える仏像は、京都ではここでしか拝観できま
せん。
 山門の開門は午前7時ですが「金堂」の開扉は午前
9時です。早めに訪れて山内を散策されて身も心も
洗われた後本尊を拝まれてはどうですか。
 像は「桧か榧?」の一木造、素木のままで漆箔も彩
色もされておりません。「二重円相の光背」は像に対
して少し小さめです。大粒の螺髪であるのと「肉髻」
が異常に盛り上がっております。それと、如来に必
要な肉髻にあるべき「肉髻朱」と額にある「白亳」も見
当たりませんでした。
 右手は施無畏印ですが左手は肘を大きく曲げて
「薬壷」を掲げておりますのは病に苦しむ衆生に直ち
霊薬をあげますよとの合図でしょう。「厳しい顔立
ち」もこれから患者に薬を与え治療に掛かる緊張の

一瞬を表しているのでしょう。薬師如来は薬壷をもっているからといっても薬剤師で
はなく「大医王仏」といわれるお医者さんです。
 弘仁・貞観時代の仏像は肥満気味の傾向がありますが本像も肥満体で堂々としてお
ります。
 大衣が水に濡れて太股に密着したような量感を表現するのもこの時代の特徴です。
 当時の照明と言えば灯明で下からのゆらゆらと揺れる光に照らされた本尊はそれは
それは恐ろしいほど形相だったことでしょう。当時、仏像は拝むもので眺めて美術的
価値を評価するものではありませんでした。が、現在は仏教美術として観賞できる有
り難い時代です。それゆえ、国宝指定が始まったのであります。

 

 

  「獅子窟寺」は大阪府交野市にあり奈良県、京都府の境に位置しております。
 山登りのハイキングコース上にあり途中の眺望は大阪には珍しく風光明媚です。ハ
イキングを兼ねて訪ねられましたら至福の一日が約束されます。
  「薬師如来坐像」を拝観するには事前予約が必要です。お茶とお菓子の接待をしてく
ださいましたうえ急須を置いておきますのでお茶をのみながらゆっくりご覧ください
と言って下がられるという心配りには大変感激いたしました。
 獅子窟寺の電話番号 072-891-6693

 
       山 道      

 
     展望台からの眺望

 車で近くまで行けますが駐車場(獅子窟展望台と隣接)は駐車台数は2台くらいでし
かも難路を登るには四輪駆動でないと難しいことでしょう。それ以上に楽しくおしゃ
べりしながら歩くハイカーの中を押し分けて進むには度胸がいることでしょう。とい
うことは車では楽しい思い出が残らないということになります。京阪・河内森駅、私
市(きさいち)駅から少し住宅街を歩きます間もなく山道です。ゆっくりのんびりと訪
れてください。展望台を始め獅子窟寺からの眺望は素晴らしかったですが獅子窟寺か
らさらに登ると明石海峡大橋などが望めるとのことでした。

 

 


      本 堂(獅子窟寺) 


     収蔵庫(獅子窟寺) 

  創建当時は大寺院だったのが大阪の役で焼亡して往時の面影を残すものは何もあり
ませんが、山里にぽつんと建つ本堂はこじんまりとしていて親しみが感じられ自然と
手を合わすことになることでしょう。

 
   薬師如来坐像(獅子窟寺)

  「薬師如来坐像」は「本堂」ではなく「収蔵庫」
に安置されており収蔵庫へは事前申込者しか立
ち入ることが出来ません。
 弘仁・貞観時代の作ですが顔付きは穏やかな
天平様式です。「榧」の一木造で翻波式衣文の彫
りは鋭いものがあります。
 薬師如来が薬壷を持たず宝珠を持つものがあ
りその宝珠を持っておられます。説明では薬壷
が宝珠に代わったのでないかとのことですが私
は仏師が弘仁・貞観時代の厳しい作風を好まず、
お顔を優しい好青年のようにするだけでなく当
時流行の薬壷を持つことを避け宝珠を持たした
のではないかと考えておりますが。
 両足首を大衣で隠しておりますのは「唐招提寺
の本尊盧舎邦仏坐像」と同じ様式です。

  左手を持ち上げているのは通常と異なりますが前述の神護寺像も同じ様式です。
 正面や、横から像の近くまで寄って充分にご覧くださいと勧めていただけるので、
翻波式衣文がはっきりと確認出来ますのはめったにない経験です。
 授乳の霊験が著しい仏さんで昭和の初め頃まではお参りに多くの方が見え霊験のお
陰でおっぱいがたっぷり出たと感謝されましたとのお話でした。

                                      画 中西 雅子