唐招提寺のお話

 古都奈良の大寺で更新が遅れておりました「唐招提寺」もやっと出来、私の目標も
最終章を迎えました。
  ところが、これに時期を合わせるように今春「前立腺がんの全摘手術」を受ける羽
目になりました。

  唐招提寺と言えば「鑑真和上」がすぐに思い出され、想像を絶するような艱難辛苦
の末我が国に来られたことは承知しておりましたが、今回鑑真和上の偉大さには驚
愕に近い感動を覚えるとともによくぞお越しくださいましたという感謝の気持ちで
一杯になりました。
 我が国の仏教界に多大な貢献をされました鑑真和上の「和上」と言う呼称ですが、
聖武上皇は「今後、授戒伝律は一に和上にまかす」との詔を出されており当初からか、
「唐律招提(唐招提寺)」に入られる頃からか は分かりませんが、鑑真和上が一般的に
使われておりますので
文中は総べて鑑真和上で統一いたしました。
 
 どうして唐の高僧鑑真和上を命がけで迎えなければならなかったかと言えば、我
が国の律令制度が崩壊するのを防ぐためでありました。
 天平時代は唐に追いつけ追い越せの活気に満ちた時代で輝かしい発展を遂げた裏
で、民衆は生活の苦しみに耐え切れず逃亡する者もいました。農民は収穫物を納め
る義務がありそれは自分たちの食いぶちまで納めなければならなかったのでしょう。それと、天平時代は超インフレの時代で庶民の生活を脅かしていたことでしょう。
それらの苦しみから逃れる唯一の方法は、出家して僧侶になり労役や税は免除され
る特権を利用することでした。
  ではどうすれば僧になれるかといいますと、「戒律」をまもることでした。戒律の
「戒」とは個人が守るべき規約、「律」とは僧が教団生活で守らなければならない規約、
もしこの律を破ると厳しい罰則が下されると言うものでした。
 戒を授かり僧となるには、3人の師と7人の証人(三師七証・
さんししちしょう)
の計10人の僧侶の下で戒律を理解し守ることを誓います。戒を受けて初めて
国家承
の僧侶として認められるのです。ところが、我が国では僧になるための授戒制度
がなく、
戒を受けず勝手に自分自身で戒を遵守することを誓うやり方の「自誓受戒
(じせいじゅかい)」や高僧が得度させ僧になることを許したり、自誓受戒すらせず
自分勝手に寺に入る者まで現れたり、これが社会問題となったのです。
 そこで、僧侶になるのを制限する意味で授戒制度を確立せねばならないのですが
我が国には授戒の儀式を行う10人の僧が居ないということで唐から
授戒伝律の師
迎えることになりました。 とはいえ、
授戒伝律の師を招聘したいのは朝廷であっ
て仏教界では一部の有識者のみだったのではないでしょうか。というのも、仏教界
は言葉の通じない異国の伝戒の師を招くことを良しとしなかったことでしょう。そ
れと、受戒したのち研鑽することが条件であり高僧たちは今さらという抵抗感もあ
ったことでしょう。

 伝戒の師を招聘すると言う大役を、舎人親王により第9次遣唐使に選ばれた2人
の留学僧「普照(ふしょう)」と「栄叡(ようえい)」が命じられ、2人は入唐しました。
しかし、留学生、留学僧は命がけの留学で滞在期間も1、2年と言う短期間ではなく
10年以上の長きに亘ることもあり、帰国のチャンスに恵まれず異国の土となって一
生を終えることもあるというものでした。早期に帰国したいと願っても次の遣唐使
が来るまで10年以上ありそれまでは唐に滞在せねばなりません。ということは授戒
の師を迎えるには10年も経なければならないのを承知で実行するとは、僧を統制す
るのに朝廷は相当手を焼いていた証なのでしょう。
 
当時、朝廷は僧による一般大衆に対しての布教活動は禁止していましたが完全に
は守られていないのが現状でした。

 栄叡、普照の二人が鑑真和上に我が国の伝戒の師として弟子の紹介を懇請しました
がその時の鑑真和上は弟子の中で手を挙げる者は一人もいないだろうと考えたことで
しょう。というのも日本での任務を果たしても無事に帰国できるかどうか分からない
のと、もし帰国出来たしても国からの命令ではなく不法出国のため咎めがあっても評
価されることがないからです。案の定、応募する者はなく、それではと鑑真和上自身
が日本へ渡航することを決心されたのです。来日されたメンバーは僧、仏師、画師な
ど色々な職業の人達も含まれた大団体であったそうですが
命がけの渡日のうえ、2度
と故郷の地を踏めない恐れがある遠く離れた異国の地に、不法出国までして鑑真和上
に随行したことは鑑真和上には想像以上の威徳があったということでしょう。

  鑑真和上の渡航歴をまとめますと
 
1 743年 弟子僧の密告で失敗  
 2 743年 遭難・難破 
 3 744年 弟子僧の密告で失敗、栄叡が官憲に逮捕されたが釈放される 
 4 744年 弟子僧の密告で阻止され失敗 
 5 748年 台風に遭遇し海南島に漂着
 6 753年 第10次遣唐使の帰国に便乗、薩摩国(現在の鹿児島県)に上陸
 初回の渡航から10年目にして無事に達成、
渡航を阻止しようと常に鑑真和上の行
動には官憲の目が光っているのにも
屈せず、しかも高齢ゆえ異国の地で生涯を閉じ
る事が分かっているのに意志を貫かれた鑑真和上の
不撓不屈の精神の凄さは想像を
超えるものです。
  
 
度重なる渡航失敗で鑑真和上は両目を失明、鑑真和上に我が国への招来を熱心に
嘆願した栄叡が死亡するという出来事がありながら、更なる6回目の渡航に挑戦さ
れ無事我が国に入国されましたが常人なら最初から検討すらしないのではないでし
ょうか。   
 普照は20年振りに無事帰国となりましたが
相方の栄叡は道半ばで倒れ彼の地で一
生を終えなければならなかったのは非常に残念だったことでしょう。
 第10次遣唐使の帰国船には、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山にいで
し月かも」と望郷の歌を詠んだ
「阿部仲麻呂」が、大使・藤原清河の第一船に乗船し
たのです。
が漂流して帰国は叶わず唐で一生を送ることになります。
大使の
藤原清河も異国の
地で帰らぬ人となりました。鑑真和上は大使の立場上違法出国に関与することを避
けるため、第一船には乗船せず第二船に乗船されたのが幸いして来日が叶いました。
 藤原清河家から唐招提寺に建造物が施入されているのは、
無事に帰国することを
願っての寄進でしょうか、それとも
故人となったことを知って藤原清河を弔う目的
があってのことでしょうか。

 鑑真和上は仏像、経典、仏具、薬品、食料品など我が国では得られない貴重な
品々を持参されました。仏教だけでなく文化まで持って来られた鑑真和上です。

 754年「聖武上皇」は今後、授戒伝律は一に和上(鑑真和上)にまかすとの詔を出され、
まず最初に東大寺大仏殿前の戒壇で聖武上皇を始め約400人の授戒が行なれました。 
  
 鑑真和上が唐にいたときに授戒させた僧の数は4、5万人ともいわれ、朝廷は僧にな
る数を制限しようとして授戒制度を採り入れたのに鑑真和上は予想に反して多く僧を
誕生させたことでしょう。このことは、
朝廷としては出家する僧を規制する目的だっ
たのが鑑真和上は来る者拒まずでどんどん得度させたので朝廷としては目論見違いで
大いに慌てたことでしょう。
 
  東大寺の戒壇から離れた土地での受戒希望者のための戒壇を、東方には「下野(しも
つけ)薬師寺(栃木県)」、西方には「筑紫観世音寺(福岡県)」に築かれて天下の3戒壇と
呼ばれました。3戒壇となると唐招提寺には当時戒壇が無かったことになりますが
唐招提寺は私立戒壇です。国立戒壇とは区別されたのでしょうか。下野薬師寺は天皇
を目指した僧「道鏡」が左遷させられたところとして有名です。
  平安時代には比叡山延暦寺に大乗戒壇が創設されて、3戒壇は有名無実化となって
いきました。後には、下野薬師寺は安国寺と寺名まで変えてしまいました。

 何故か同じ天平勝宝8年(756年)に、鑑真和上と東大寺の「良弁上人」が大僧都に任ぜ
られております。仏教界に僧綱のトップである長官が二人もいる事になり、中国の仏
教界の代表の鑑真和上と我が国の仏教界の代表の良弁と言うことなのかどうかは不明
ですがいずれにしても軋轢があったことでしょう。

 大僧都に任じられてから二年三ヶ月後の758年、鑑真和上は「淳仁天皇」から大僧都
の任を解かれ戒律の師に専念してほしいと大和上の称号が授けられました。
政治の煩
わしさから解放して
本来の生活に戻しあげたいと思われたのでしょう。そればかりと
は言い難いですが。それと、鑑真和上は僧の中に朝廷に入り込み政治に関与するだけ
でなく、天皇になろうとする僧も出てくる仏教界の現状を疎んじられたのでしょう。
僧が政治に首を突っ込む現象が平安京遷都の要因の一つになりましたが、官僧
を国家
公務員扱いにしたり、国家が仏教を政治的に保護したところに問題があったのでしょ
う。  

 
 余談ですが「最澄」は、鎌倉新仏教を起こした人材は総て比叡山から出ているという
ことからも人材の育成に大きく寄与されました。ところが、東大寺の戒壇で受戒させ
るために人材を送り込めば優秀な人材は引き抜かれたため南都とは反目していたよう
です。ですから、一日も早く比叡山に戒壇を造ることを願ったのでしょう。
  一方、「空海」は東大寺戒壇で受戒し後には東大寺の別当に就任したくらい南都と
は良好な関係でした。

 朝廷は
鑑真和上の偉大な功績に応えるべく鑑真和上のために天平宝字3年(759年)、
官が没収していた新田部親王の旧邸宅を下賜されたのが
唐招提寺の始まりです。現在
の境内地から見ると広大な敷地を持った新田部親王邸だったようですがどんな建物が
残っていたか詳細は不明です。
 鑑真和上は当初、
設立されたのは戒律を説く学問所で、「唐律招提」と名付けられま
した。
唐で招提とは私寺とか四方からとの意味があるそうです。唐の戒律を教える
寺ということから唐律招提と称されたのでしょう。伽藍が完備していなかったので寺
院とは名乗られなかったのかというとそうではなく鑑真和上は世情の煩わしいことに
は関わらずに戒律を教える事に専念したいというお気持ちから唐律招提とされたので
はないでしょうか。天平時代に寺院を造営するならば金堂を第一に建立しなければな
らなく金堂なくして寺院とは言えませんでした。  
 ともかく、戒律を学ぶ道場としては講堂があればよいと言うことで平城京の朝集殿
が下賜され講堂らしく改造されました。ただ、金堂なら正面の柱間が等間でないのが
通常、講堂の場合は正面の柱間が等間が当たり前なのに対し、元の建物である朝集殿
は柱間が等間であるのをわざわざ両端の柱間だけを少し縮めているのは金堂との兼ね
合いを意識して設計したのではないかとも思われます。鑑真和上が入寂されるまでは
金堂は建立されておらず唐律招提のままでした。
 戒律を学ぶ講堂は朝廷から、食堂は
藤原仲麻呂から、寝起きをする僧坊は藤原清河
家から
施入されましたが仏像の施入はなかったのでしょうか。 
 唐招提寺は
鑑真和上が創建された南都六宗の一つで、戒律を伝える宗派「律宗」の総
本山です。
 南都六宗は後の時代に出来た宗派に比べると末寺の数は極端に少ないです。

 鑑真和上亡き後は弟子の「義静」「如宝」が唐招提寺の伽藍の充実に尽力しており、
金堂、経楼、鐘楼、金堂の仏像などが整備され宝亀10年(779)に今寺になると言う記
録があります。鑑真和上の遺徳を偲んで寄進、施入が行われたことでしょう。
 延暦24年(805)には十五大寺に加えられ私寺から官寺扱いとなりました。 

 
 「五重塔」は寺院開創から時期を経ての建立のうえ伽藍の中心から離れた場所に建立
されており不可解です。東西の五重塔が聳えていたと言う説もありますがどうも東塔
のみのようです。その東塔も
享和2年(802)雷火により焼失後は再建されずしかも礎
石は持っていかれたのか売り払われたのか一つも残っておりません。
 鎌倉地震で「中門」と「千手観音立像」が倒壊しました。千手観音立像は補修されまし
たが中門は再建されずじまいでした。
 
 唐招提寺の所在地の「西ノ京」とは、平城京を朱雀大路で東西に分けた西の半分で右
京全体を指しましたが、現在では隣接する唐招提寺、薬師寺のある界隈だけを指しま
す。西ノ京で創建当初の面影を留めた建造物は唐招提寺と薬師寺に限られたからこの
ような呼び方になったのでしょうか。近鉄「西ノ京駅」は薬師寺の旧境内にありますの
で近鉄線は薬師寺の旧境内を走っております。
唐招提寺を「静」とすれば薬師寺を「動」
といえます。

  余談ですが平城京の右京(西ノ京)には高級役人が住まいし、左京(東ノ京)には下級
役人、一般庶民が住んでおりました。しかし、高級役人が職務上重大なミスを起こし
て降格になったら左京に移住させられることから出た言葉が「左遷」です。時代が変わ
ると左大臣の方が右大臣より格が上というように左上位となりますが左遷と言う言葉
のみが残ったようであります。
 

 唐招提寺は多くの文化遺産と広大な敷地を所有するためか、「唐招大寺」と勘違いさ
れる方があります。今なお天平時代の名残を留めており、しかも都市伽藍とは考えら
れないほど喧騒とは無縁で静寂な雰囲気が漂っていてシーンと静まり返った境内です。

   

  
                  南 大 門


    
     扁 額

  「南大門」は昭和35年の復元です。
 「五間三戸」の大きな門で、現在の唐招提寺には似つかわしくない感じがします。

 現在掲げられている「勅額」は複製で「孝謙天皇」の宸筆である実物は講堂内で拝見
できます。女性と思えないほど力強い行書体です。

 
角飛檐垂木 丸地垂木 


       蟇  股


      三 棟 造    

  短い「飛檐垂木」と長い「地垂木」は古代寺院の特徴です。三棟造は法隆寺東大門、
薬師寺回廊があります。唐招提寺の回廊は薬師寺と同じように複廊だったといわれ
ておりますので回廊は三棟造だったことでしょう。

 

 南大門を潜るとすぐに南大門と接近して同規模の中門が建っていましたが地震に
より倒壊したまま再建されませんでした。その代わりとは不謹慎ですが南大門から
素晴らしい金堂が眺められる恩恵に浴しました。南大門から砂利を敷き詰めた参道
を踏みしめて金堂に向かう時世間の雑踏から解放されることでしょう。ただ、両側
の樹林が金堂を包み込むように成長して金堂の全景が眺めることは出来ませんが、
金堂と自然が一体化した風景に感動を覚え喜ばれる人は多いことでしょう。しかし、
私などは回廊が残っておれば樹林もなく金堂の全景が見通すことが出来、最高の幸
せと思うのですが。
 南大門と中門が接近した例は薬師寺で確認できます。

  天平時代の金堂と講堂が残るのは唐招提寺だけです。ただ、法隆寺の場合
「東院の夢殿」は金堂と塔を兼ね備えたものですから天平時代の金堂と講堂(伝法堂)が
残るとも言えます。
 宝石箱の金堂と中に納まった宝石(9体の尊像)がすべて国宝指定と言うのは私が知
る限りでは唐招提寺だけです。

 


          金  堂(唐招提寺)(2009.10.03 撮影) 

 「金堂」は天平時代では唯一の遺構という価値が極めて高い建築です。この度10年
という長い歳月をかけての解体修理が無事終わりました。
 昔は前面一間の吹放し
の両脇と中門が回廊で繋がっておりました。回廊は私寺で
あれば単廊が普通ですが
当時、官寺にしか使用されていなかった複廊だったようで
す。
回廊を巡って金堂に誘導されたことでしょう。ただ、金堂は官寺であれば
「裳階(もこし)」付きの重層建築ですが唐招提寺金堂は私寺だったため単層建築なの
に7間堂という大型金堂であります。

 
通常、金堂の柱間は中の間の三つが等間であるのが、当金堂は中央の間から端の
間に向けて逓減しており、中央間が16尺で、11 13 15 16 15 13 11(尺)の7間とな
っております。この形式は金堂を大きく見せる視覚効果があるのと建物の横への力
が端へ端へと掛かっていくので、その力を受け止めるために終端の間を狭くして強
固にする必要上理に適った構造形式です。

 金堂は珍しく白壁の間が全然なく、扉と連子窓だけと大型の扉口が相まって、堂
内は明るい雰囲気となっております。


   総て連子窓(側面)  


       
連子窓と扉のみ(裏側)      

 天平時代の法要は堂の前庭で行う庭儀であり、金堂は聖なる「大型仏壇」という閉
鎖空間でした。しかし、簡単な法要や個人的に礼拝に来られる人々のために、金堂
前の吹き放しは新しい構造の礼堂で、広い扉口、連子窓により堂内は明るくなって
おります。直接尊像と目を合わして拝むことが出来るよう設計されたのではないで
しょうか。他の寺院には見られない前面一間通りを吹き放ちとしたお陰で、雨の日、
盆地特有の猛暑の日などでも快適に仏さんを拝むことが出来ます。これも、
唐招提寺の魅力の一つでしょう。同じ建築様式では室町時代再建の「興福寺東金堂」
があります。
 扉口の高さには疑問がありま すがこの大きい扉口でも千手観音立像の搬出は千本
の手の総てを外してやっと可能となりました。 
 

 堂内で法要を行う場合は金堂の扉は外開きとなりますが庭儀の場合は当金堂のよ
うに内開きとなります。燈籠の手前の内庭を法要の場として活用されたことでしょ
う。
 
 天平時代の特色は金堂の正面の中央間が正方形(幅16尺、高さ16尺)なので、両端
に行くに従って柱間は縦長となります。 

 天平時代からの変化は金堂の両脇に回廊が取り付くことと金堂の間口が長くなり
正面性が強くなることです。法隆寺金堂のように四方から眺められる場合は正方形
に近い建築となります。

 江戸時代に屋根は2.8m高くなり、穏やかな屋根勾配ではなくなりましたが我々日
本人は建物を見る場合まず屋根に目が行きますので上方に向かって反り上がってい
る壮大な大屋根を眺めると豪放磊落な力強さが感じられます。 

 

 上記の左の写真は南大門からで豊かな自然に抱かれた金堂、中の写真はホームページ
に使いました。右の写真は全景を入れたものです。南大門からの屋根が現実の姿を表し
ております。 


   
    扉 絵

 金堂の天井画は華麗
な装飾文様で文様の種
類は多く見事な出来栄
えです。文様は金堂の
内側だけでなく扉の外
側にも華文様が描かれ
ております。通常は扉
は内側に開けられてい
ますので扉絵は見づら
いです。
 大型の宝相華文など
の装飾文様で華やいだ
雰囲気の空間を作って
いたことでしょう。
 唐招提寺は四小間を


   四間一花(宝相華文)

利用して一つの宝相華を描く四間一花で、大型の宝相華文となりますが法隆寺では
一小間に一つの文様を描く一間一花です。これより堂内装飾の華やかな時代に入る
先駆けが唐招提寺金堂といえましょう。
 
金堂の3尊像の光背が天井まで迫っており天蓋を設けるスペースがなかったため、
極彩色で装飾された天井全体を天蓋の役目にさせる考えではなかったのでしょうか。
 天井ではなく壁の荘厳(しょうごん)ですが、官寺は堂内の壁を繍帳で荘厳しまし
た。官寺でない寺院は法隆寺と同じく堂内の壁を絵画で荘厳するか塼仏、鎚鍱仏を
貼り付けて荘厳いたしました。 

  柱の径は正面の最大幅の1割2分が決まりであり、16尺(中央間)×1.2=約2尺
となります。この柱の径は後世には段々と細くなりますので金堂の柱は威厳のある
柱と言えるでしょう。正面の
8本の円柱は古代ギリシャ建築の柱を思い浮かべます。

 


             蟇 股

  左の写真は8本の円柱で壮観な眺め
 となっております。

 基壇は沈下しており当初は5尺くらいの高さがあったと思われるのと二重基壇で
はなかったとも言われております。 二重基壇は法隆寺金堂で見ることが出来ます。

 今回、金堂の垂木の伐採年代が781年と判明いたしましたので金堂の造立はそれ以
後となります。

 


      平成の補強材(白い部分)

 和様の小屋組が明治の修理
で洋風の小屋組に改築されて
いましたが今回は元に戻さず
そのまま利用して新たに平成
の補強材(白い部分)が組み込
まれました。
 古材に掛かる力を和らげる
ための平成の補強材ですが
錚々たるメンバーが考えに考
えて生み出された構造形式で
す。 

 それから、ばらした部材を再度組み立てるのにも木の癖が出ていて苦労されてお
られました。


      西鴟尾(天平時代)


   東鴟尾(鎌倉時代)


      西鴟尾(平成時代)


   東鴟尾(平成時代)

 天平の甍(いらか)と天平の鴟尾(しび)は多くの人々を惹きつけて止まないもので
した。鴟尾はブーツを立てたようで「沓形」と言われる所以でしょう。
  我が国では、仏堂の大棟両端を飾る「鴟尾、鯱(しゃち)」は仏教と共に伝来いたし
ましたがなぜか寺院は鬼瓦一辺倒に変わっていきます。今では、その鴟尾、鯱は一
部の禅宗寺院、子院、塔頭などで採用されておるのみです。それと、鯱と言えば城
の大屋根に飾られていることで知られております。
 唐招提寺の鴟尾は、古代の鴟尾が土中からの遺品だけだったのに対し、棟飾りの
まま残った貴重品でした。西側の鴟尾は1200年もの歴史の重みを背負って金堂を守
ってきましたが、長年の風雪に耐えた痛みが想像以上で、保存のために平成の鴟尾
にバトンを託しました。旧鴟尾は「新宝蔵」でご覧になれます。

  甍といえば瓦、鴟尾のことですが井上靖氏の『天平の甍』とはこの鴟尾からの命
名です。
 
 高さが約120pもある平成の鴟尾の制作は、鴟尾全体の粘土を同時に乾燥させな
いと干割れが起こるため蒸し風呂の中で乾燥させたりその苦労は並大抵ではあり
ませんでした。木材も同じで木肌から木芯までを同じように乾燥させないと表面が
早く乾き縮んで干割れを起こします。寺院の柱は四方から見えますが家庭の柱は見
えない背面に背割れを入れ強制的に干割れを起こしています。

 化粧された大屋根は青空のもと太陽の光をうけて輝き威風堂々とした屋根となっ
ています。


      金堂の斗栱(唐招提寺)

 中国の建築様式の移入で、
建築技術はめざましい発展を
遂げました。その遺構が、天
平末に完成した金堂です。三
手先、軒天井、軒支輪、二軒
垂木など、素晴らしい多様な
斗栱となりました。
  天平時代まで、三手先・二
軒は金堂などの重要な建物に
用いられておりましたが、和
様での三手先はこれ以降だん

だんと姿を消していき、鎌倉時代になって中国から請来した禅宗様建築が採用されて
おります。三手先が廃れると堂の名称が金堂から本堂へと変わっていきます。


        伝 法 堂(法隆寺) 


           脇  間

 天平時代の建築の特徴は、縦の線が強調され、縦の線である柱が太く、横に走る長
押などが細いことです。当金堂は後世の改築で縦横厚い材となって重苦しい感じとな
りましたがまた一面がっちりとした安定感のある印象となりました。
 「法隆寺伝法堂」は横の材を細く(その代わり奥行きはあります)して縦の線を強調し
ており天平時代の建築様式そのものです。

 

 すべて国宝と言う「金堂」内の9体の尊像について述べますと
 薬師寺は銅像が主にあるのに唐招提寺は木彫像が主であるのは経済的な問題がある
ためと思われます。ただ、天平末期と言えば光仁天皇の時代で国家財政の立て直しの
ため緊縮財政の最中であったのに、本尊の盧舎邦仏坐像は莫大な費用を要する脱活乾
漆造で造像されており、唐招提寺に対しての厚遇は異例です。

 盧舎邦仏坐像を挟んで安置されている千手観音立像、薬師如来立像は、盧舎邦坐像
の脇侍としては像が大きすぎて不釣り合いなため3尊は単独で祀られたのでしょう。
梵天・帝釈天、四天王像は3尊に比べると余りにも小さ過ぎるのは須弥壇のスペース
から割り出されたのでしょう。 
 盧舎邦仏坐像、千手観音立像、薬師如来立像とを比較いたしますと像本体の高さに
は大変ばらつきがありますが台座の高さを加えてみますと
 盧舎邦仏坐像・・像高305p+台座の高さ203p=508p
 千手観音立像・・像高536p+台座の高さ 53p=589p
 薬師如来立像・・像高337p+台座の高さ121p=458p となりばらつきは少し小さ
くなります。

 次に材質の違いですが
 「脱活乾漆造の盧舎邦仏坐像」から「木心乾漆造の千手観音立像・薬師如来立像」へ、
さらに「木彫一部乾漆造の梵天・帝釈天立像・四天王立像」そして「新宝蔵に安置され
ている木彫像」へと進みます。天平時代では木彫像が姿を消していたのに木彫像一辺
倒になる平安時代の先駆けとなる木彫像が多く所有されております。平安時代には木
彫像が盛んになるのは仏像の制作費の削減すなわち発注元が朝廷だったのが寺院へと
変わったので当然の結果であると考えられます。それと、我が国には良質の彫刻材・
桧が豊富だったことも影響しているのでしょう。 

 脱活乾漆の技法は中国から学びました。「金」と同価格と言われた材料「漆」の確保と
秀れた仏師の技の融合が、世界的にも名高い仏像を生み出しました。感動と興奮を与
える脱活乾漆像は中国、東南アジアには皆無なのに対し古都奈良には多数存在してお
り世界遺産そのものです。何故、金と同価格になるかと言いますと「張子の像(脱活乾
漆像)」の素材である漆がひび割れするのを避けるため高純度の漆を必要としたからで、
恐れ多い「仏像」だけに表面のひび割れは絶対に避けなければなりませんでした。
とはいえ、現実には脱活乾漆像の表面にはひび割れが起きております。
 脱活乾漆像は、漆が乾燥するために日数が掛かるので制作期間が長く、しかも制作
費用が高額のため、造像されたのは天平時代に設けられた官営造仏所である
「造東大寺司」などに限られます。ところが、唐招提寺は鑑真和上の私寺であるため、
官営の「造唐招提寺司」は設置されなかったのに大型の「脱活乾漆造の盧舎邦仏像」が造
像されております。
  余談ですが今年(2009)、同じ脱活乾漆造の阿修羅立像(興福寺)が東京、福岡で公開
され大変な人気で「阿修羅ファンクラブ」まで誕生すると言う熱狂ぶりです。仏像のフ
ァンクラブ結成は初めての出来事でしょう。

 天平時代、「木彫像」が少ないのは霊木信仰時代のため「一木造」でなければならず素
材(原木)以上の大きな仏像は制作出来ません。ところが「脱活乾漆造」は巨像の制作が
可能で、国家鎮護目的の巨像制作の要求に応えることが出来ました。 
 大型の仏像を造像するには「銅造」「塑造」もありますが銅造の銅は東大寺の大仏で日
本国中の銅が消費されてしまいました。一方、塑造の方は大型過ぎて焼き入れが出来
ないので壊れやすく、焼き入れせずに長持ちさせるためには大変な手間をかけなけれ
ばならず難しかったのです。   

 

 金堂に祀られている盧舎邦仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像は経典には見当た
らない3尊仏の配置ですが千手観音立像は阿弥陀如来の脇侍ですので阿弥陀如来の代
役と考えれば「過去の薬師如来立像」、「現在の盧舎邦仏坐像」、「未来の千手観音立像
(阿弥陀如来像)」となり、過去、現在、未来の「三世仏」となります。
 平安時代ともなると観音と言えば千手観音一辺倒の時代ですから阿弥陀如来の代役
に千手観音像を安置されたのではないでしょうか。

 上記の3尊と「講堂の本尊・弥勒如来坐像」とで、「東の薬師如来立像」、「南の盧舎
邦仏坐像」、「西の千手観音立像(阿弥陀如来像)」、「北の弥勒如来坐像」となり、これ
は東西南北の「四方仏」です。三世仏と四方仏の両方が存在する貴重なお寺です。

 それと、金堂の3尊は天下の3戒壇すなわち、東側の薬師如来立像は「東方の下野
薬師寺」、中央の盧舎邦仏坐像は「東大寺盧舎邦坐像」、西側の千手観音立像は「西方の
筑紫観世音寺」を表しているのではないかと言う説もあります。

 


          盧 舎 邦 仏 坐 像

 「盧舎邦仏坐像」は3.05mもあり、
「脱活乾漆坐像」としては最大のも
ので量感に溢れる素晴らしい尊像
です。
 「薬師寺の本尊」に比べて目尻が
上がり男性的で厳しい表情になっ
ております。
 それと「衣の襞」は大波、小波の
繰り返しの「翻波式衣文(青矢印)」
で、弘仁・貞観時代(平安初期)の
仏像様式に影響を与えました。
 「唐招提寺像」共通の「頸」があり
ません。胸幅はがっちりとした堂
々たる像で「大仏」といえる風格が
ある像です。なお、「大仏」とは、
立像の場合、像の高さが丈六
(1丈六尺・約4.8b)以上、坐像
の場合は立像の半分の8尺
(約2.4 b)以上の仏像を言います
が、この大仏の総称を使うかどう
かはお寺の判断によります。
  手の指の間には水鳥の水かきの
ような膜があり「縵綱相」と呼ばれ

るもので後世になると縵綱相がない如来像が多くなります。
  左足を上にしている「両足首」を衣で隠している珍しい様式です。 
 江戸時代の修復で金箔を貼るのに赤漆(ベンガラ漆)が使われたため金箔が剥がれ
特に胸の辺りが赤くなっているのが識別できておりましたが、今回の修理で赤漆が
剥ぎ取られ当初の黒漆の肌色となったそうです。
 「台座」は現存最古の魚鱗葺の八重蓮華座で、整った形をしていて見事です。
 「光背」は珍しい千体仏を付けた「千仏光背(緑矢印)」で、現在、残っている化仏
864体のうち332体が創像当時のものと言われております。 
 千仏光背といい後述の千手観音といい名前通りの「千」あるのは珍しいと言えます 。 
 盧舎邦仏坐像の背後にある来迎壁は、土壁であったのが木製壁に変わっており、
柱と来迎壁に二千体の仏が描かれていたらしいのですが今は確認できません。光背
の千仏とを合わせると三千仏となります。
 三世三千仏とは過去の薬師如来、現在の釈迦如来、未来の阿弥陀如来のそれぞれ
に千仏が居られると言うことです。

 

 天平時代後半ともなりますと国家財政が破綻した影響で、造像が国家的な事業から
私的な事業に変わったため今迄のように仏像の制作に厖大な資金を消費することは出
来なくなりました。結果、高価な素材である漆による脱活乾漆像の制作は不可能とな
り、そこで素材が高品質でない不純物を含む漆でもよく、しかも漆の使用量が少なく
て済む「木心乾漆造」が考案されました。

 

 「千手観音立像」は5.35mもある巨大な
像です。「木心乾漆造」では最大の像でし
かも千手を持つ最大の千手観音像です。
 正式の名称は「十一面三眼(さんげん)
千手千眼観音菩薩」で三眼とは両眼と額
にある縦の一眼(青矢印)のことです。
 「千眼」は千本の手の掌に墨書きで「眼」
が描かれております。
 千手観音は字のとおり「手」が千本ある
のが正式ですが、大変手間が掛
かるので、本像と「葛井寺の本尊」の両像
だけが経典に忠実に千本の手があり、
それ以外の千手観音像は、四十二本の手
で九五八本の手が省略されています。
 「千」の数は極限の力を表し、後の時代、
観音像といえば「千手観音像」といえるく
らい流行します。 
  救いを求めるあらゆる衆生を千の眼と
千の手で見つけ漏れなく救いだすという

           千 手 観 音 立 像

慈悲を最大限に表現しています。
 千本の手の重量を支えるため下半身をがっちりとさせてバランスを取っておりま
す。
  TVで修復のため千手総てを外す、気の遠くなるような作業を見ましたが地震で
倒壊した時の修理は困難を極めたことだったことでしょう。
 頂上仏は釈迦如来で、菩薩面が5、瞋怒面が3、大笑面が1で、正面には観音の
象徴である阿弥陀の化仏を乗せております。 
 光背は頭光のみですが小脇手がまるで身光の役目をしているようにも見えます。

 台座が低いのは平安時代の様式ですがこれ以上台座が高すぎると他の2尊像との
釣りあいがますます取れなくなることも事実です。  
 財政的に厳しい私寺ですから建物は施入されたりしておりますが仏像に関しては
施入された記録はありません。
 高い制作費の盧舎邦仏坐像、手が経典通り千本ある巨大な千手観音立像の制作が
なされたのは仏教界に輝かしい足跡を残された鑑真和上の寺ならばこそ出来たので
しょう。 

  

 「千手観音立像」の「持物(じもつ)」について記述いたします。
 唐招提寺の千手観音立像は間近に見る事が出来ますので眼を凝らしてご覧ください。
千手観音立像は通常我々は正面からしか礼拝出来ないことを考慮して、正面から持物
が眺められるように配置されておりますので心ゆくまで満喫ください。この貴重な文
化財である千手観音立像を拝観するだけで唐招提寺を訪れる価値があります。
 千手観音は大悲観音とも呼ばれます。ただ、大悲観音は観音菩薩の総称としても使
われ、観音菩薩を祀ってある堂は大悲閣、大悲殿などとも呼ばれます。
  手にする一つひとつの持物には効能書きがあるのですが難しくて理解できません。
要するに千手観音は菩薩の持つすべての願いに対応していただけるということでし
ょう。 

 

20.錫杖 
21.化仏
22.月精摩尼
23.宝印
24.五鈷杵
25.法輪(金輪)
26.宝経
27.青連
28.白蓮
29.宝鏡
30.宝剣
31.宝箭
32.鉄鈎
33.葡萄
34.鉄斧
35.宝鐸
36.胡瓶
37.数珠 
38.施無畏印


           千手観音立像

 

 1.三叉戟(戟鞘)
 2.化仏
 3.日精摩尼
 4.宮殿
 5.宝珠
 6.独鈷杵
 7.宝篋
 8.紅蓮
 9.紫蓮
10.五色雲
11.宝螺
12.宝弓
13.髑髏
14.傍棑
15.白払(払子)
16.楊柳
17.玉環
18.軍持
19.羂索

 千手観音は大脇手が42手、小脇手が958手の筈ですが平安時代以降は大脇手42手だ
けとなります。42の大脇手のうち中央の大脇手4手は、観音本来の胸前の「合掌印」、
その下にある禅定印には「宝鉢」を持っており、残りは38の大脇手に持物を持たせてあ
ります。
 本像は大脇手42と小脇手911とで953本となり1000本には47本足りません。過去の修
復の際に47本を取り付けることが出来なかったのではないでしょうか。
 千手とは千本の手と言うことではなく広大無辺の功徳があると言うことです。 

 中央の「合掌印」ですがインドでは合掌して「ナマステ」という挨拶があります。我々
の日常語の「今日は」ではなく、あなたを敬いご挨拶を申し上げますと言う意味で、
「テ」はあなたにと言う意味らしいです。
 それから、仏教の「南無」とは 「ナマス」からきているとのことで、ですから南無仏、
南無阿弥陀仏というようになるのです。
 中央の「宝鉢印(ほうはついん)」ですが「宝鉢」は禅宗の托鉢行脚をされる雲水が持っ
ておられる托鉢用の鉢として皆さんお馴染みです。 

 「四天王奉鉢」とは四天王が釈迦に鉢を奉献した
ということです。
 各天王が鉢を差し上げようとしましたが鉢は
一つで充分だと釈迦は神通力で各天王が差し出し
た四つの鉢を一つの鉢に纏められたのが釈迦の左
手にある鉢です。僧侶の持ち物である「三衣一鉢
(さんねいっぱつ)」の一鉢はここからきているの
でしょう。


     四天王奉鉢

 千手観音に向かって右上の持物から説明いたします。
  1.三叉戟(さんさげき)・・槍と違って穂先が三叉の形状になっているもので仏法
   の敵、煩悩を打ち砕く武器です。
  2.化仏(けぶつ)・・仏が姿を変え衆生を救済します。
  3.日輪・・太陽には三本足の烏が住んでいたことでしょう。三本足の烏と言えば
   サッカー日本代表選手の左胸に輝いております。
  4.化宮殿(けくうでん)・・化宮殿は当初のものと言われており創建当初の金堂の
   屋根勾配はこの化宮殿のように穏やかな屋根勾配だったのではないかと議論さ
   れ貴重なものとなっております。寄棟造の化宮殿です。正面の前一間は金堂と
   同じく吹き放ちとなっており、金堂を真似て作られたのではないでしょうか。
  5.宝珠・・如意宝珠のことで意のままに願い事がかなうと言う「打ち出の小槌」の
   ようなものです。その宝珠は龍の体内からではなくマカラの脳から取り出した
   ものとも言われております。蓮華の台座の上に乗せられております。地蔵菩薩
   の持物として著名です。孫悟空が持っていた武器の如意棒はよく知られており
   ます。 
  6.独鈷杵(どっこしょ)・・金剛杵とも言います。しかし、金剛杵は杵全部を差す
   との意見もあります。乳木を炊いての護摩などの儀式に用いられるのは三鈷杵
   です。独鈷杵は後述の増長天立像が右手に握っております。 
  7.宝篋(ほうきょう)・・梵篋(ぼんきょう)とも言います。経典を納めた聖なる箱
   です。
  8.紅蓮(ぐれん)・・赤色した蓮華です。 
  9.紫蓮・・紫色した蓮華です。
 10.五色雲(ごしきうん)・・手鏡のような雲がデザインされております。雲と言え
   ば阿弥陀如来の来迎図でしょう。
 11.宝螺・・法螺貝のこと。仏の説法が法螺貝の音の如く広く響き渡ったとのこと
   です。
 12.宝弓・・弓のことで31の宝箭は矢のことです。
 13.髑髏・・気味の悪い持物ですが釈迦の一番重要なシンボルである釈迦の舎利を
   表しているのでしょう。髑髏杖を持っております。つい最近まで、我が国は土
   葬時代だったのに今では世界では例を見ないほど遺骨崇拝国となっております。
 14.傍牌(ぼうぱい)・・仏法の敵を防御する盾のようなものではないかと思います。
   表面は龍の顔を表現したと言われますが髑髏のようにも見えます。
 15.払子・・獣毛などを束ね柄を付けたもので僧が使う法具です。当初はほこりや
   ごみを払う道具であったのが煩悩を払う法具となりました。
 16.楊柳・・先を叩き潰して歯ブラシ、爪楊枝として使われたのでしょう。
 17.玉環・・円環が二つ繋がっているだけで効能は分かりません。
 18.澡瓶(そうびょう)・・「軍持(ぐんじ)」とも言います。口が細くなった水差しで
   す。
 19.羂索(けんさく)・・網と紐で助けを求める衆生を必ず漏れなく救済するもので
   す。  

 これより千手観音に向かって左側の持物を上から説明します。
 20.錫杖・・錫とは金属の錫ではなく材料は銅製で鋳造仕上げです。錫杖といえば
   地蔵菩薩ですが托鉢に回る僧侶が持っていてお馴染みです。
 千手観音の左右にある前述の三叉戟と錫杖とで左右対称を強調するとともに像全
体に安定感が加わっております。
 21.化仏(けぶつ)・・仏が姿を変えて衆生を救済されます。
 22.月輪・・月精摩尼(がっしょうまに)とも言います。月には兎が住んでいたこと
   でしょう。中国では月のことを玉兎(ぎょくと)とも言います。
 23.宝印・・角印をもっており中に卍が刻まれております。
 24.五鈷杵・・独鈷杵(一鈷杵)、三鈷杵、五鈷杵があり穂先が分かれている数のこ
   とです。
 25.金輪(きんりん)・・持物の多い中で「金輪」が最高の持物でしょう。金輪は釈迦
   如来が太陽のように我々の日常生活に無くてはならない存在でしたので、太陽
   を図案化してシンボルとしたものです。法輪・宝輪・輪宝とも言います。
    また一説には武器が法輪となったとも言われます。法輪の輻すなわちスポー
   クが千本ある「千輻輪」が最高、最強の法輪ですが現実には制作上不可能で彫刻、
   絵画にもありません。法輪には周囲に鋭い凶器が付けられておりこれを忍者が
   使う手利剣の如く投げて使うものです。仏教では法輪が煩悩を打ち負かして進
   むや仏法の敵を破って進むと言われています。       
 26.宝経・・経篋とも言います。経典のことですが経典を箱に納めずに手で直に握
   っています。 
 27.青蓮・・紅、紫、青、白の蓮華があります。青蓮華は仏教では尊重されており
   ますが目にすることはありません。
 28.白蓮・・白色した蓮華です。
 29.宝鏡・・鏡と言えば我が国では天皇即位の際に必要な「皇室の三種の神器」の一
   つです。「法隆寺西円堂」は鏡を奉納することで知られております。
 30.宝剣・・煩悩を断ち切る武器です。
 31.宝箭(ほうせん)・・箭とは矢のことです。 
 32.鉄鈎(鉤)・・かぎ形の武器と三鈷杵の武器が組み合わさったものです。
 33.葡萄・・葡萄は粒が多くあるので多産の象徴でしょう。多産の象徴といえば鬼
    子母神は石榴を握っております。
 34.鉞斧(えっぷ)・・斧、鉞(まさかり)のことです。
 35.宝鐸・・鈴ですが演奏に使われたのでしょうかそれとも読経の際使われたので
  しょうか。
 36.胡瓶(こびょう)・・上部に霊鳥カルラの頭が付いた水差しで西域から伝えられ
   たデザインなのでしょう。
 37.数珠・・お経を唱えるときの回数を数えるのに使います。現在では意味が大き
   く変わっております。
 38.施無畏印・・苦しみ、悩み、病気などを取り除いていただける印で仏の印では
   一番多いものです。

 

        薬 師 如 来 立 像

 「薬師如来立像」は3.37mの「木心乾漆造」で
す。 
 如来には絶対に無ければならない「白亳(び
ゃくごう)」が何故かありません。白亳のない
如来像は弘仁・貞観時代に多く見られ、
「新薬師寺・神護寺の薬師如来像」も同じです。
 太ももの量感を表す「Y字型衣文(水矢印)」
は弘仁・貞観時代の特徴です。
 左手の掌(緑矢印)に3種類の銅銭が塗り込
まれております。その銅銭とは「和銅元年
(708)初鋳の和同開珎」「天平宝字四年(760)初
鋳の万年通宝」「延暦十五年(796)初鋳の隆平
永宝」です。和同開珎と隆平永宝では鋳造に
88年もの開きがあり、新銭が出来るたびに当
像に納められたいうのは考えにくく、以前か
らお寺で保管されていた和同開珎、万年通宝
と造像当時に鋳造された隆平永宝と一緒にし
て塗り込まれたのでしょう。となりますと、
本像の制作時期は隆平永宝初鋳の延暦十五年
を遡り得ないことになります。 
  右手の掌に薬壺を持っていないので「釈迦
如来」といわれた一時期もあったようです。
  現在背負っている「光背(青矢印)」が「薬壺」
を表しているという説もあります。ただ、

光背の身光が像に対して大き過ぎて不釣り合いとなっておりますが頭光は合ってお
り他の仏像ものの転用とは一概には言えないと思われます。当像用に造られた補作
と考えるのが妥当かも知れません。   

   

 平安時代には木彫像が盛んとなりますが我が国では良質の木材が豊富にありこの
点では中国、韓国とは事情が違います。
 唐招提寺の木彫像は鑑真和上と共に来日した工人によって造像されたとのことで
すが我が国特産の桧をどう評価したのでしょうか。
 「木彫一部乾漆造」の乾漆使用は、髪の毛や細かいところだけでなく削り込んでの
補修や干割れの修理などに積極的に使用されております。

 「梵天立像」は「木彫一部乾漆造」でこれから
まもなく仏像が木彫全盛時代となります過渡
期の作品です。
 本尊を意識して造像されたらしく似通って
おります。
 顔は鼻翼が幅広く沈うつな表情、体躯は堂
々たる姿で、大陸的エキゾチックな風貌です。
それゆえ、鑑真和上に随伴した工人の作品と
伝えられております。
 「帝釈天立像」とは違い袈裟を着けており、
袈裟にはY字形衣文(赤矢印)、大袖には渦文
(青矢印)があり、これらは弘仁・貞観時代に
流行した文様ですが寺伝では天平時代作と伝
えられておりますので天平の最末期の作品で
しょう。
 貴重な対葉花文様(紫矢印)が袈裟の下のエ
プロン状のところにあり目視できますのでど
うぞご覧になってください。
 「台座」は天部の場合「岩座」ですが天部の中
でも高位のものは、菩薩用の「蓮座」と天部用
の岩座の中間と言う意味なのか蓮の葉を伏せ

   
       梵 天 立 像 

た形の「荷葉座」が用いられます。しかし、この時代はまだ蓮の葉は刻まれておらず、
受座、反花、框座になっております。 
 金堂に梵天・帝釈天を祀ることは天平時代まででそれ以降はあまりお眼に掛かれ
ません。

 


         増 長 天 像

 「増長天像」は右手に金剛杵、左手は腰に当
てるポーズです。寺伝では天平時代の作とな
っておりますが広袖の先を絞る(青矢印)のと、
裳裾が垂れないのが天平時代で長い裳裾が垂
れる(赤矢印)のは次の平安時代からです。と
ころが、「多聞天像」が宝塔を右手で捧げてお
りこれは天平様式で、平安時代からは宝塔を
左手で捧げるようになります。このことから
天平時代と平安時代の境くらいに造られた像
でしょう。
 大陸的な風貌で兜は被らず宝髻というのは
仏敵も幼稚な武器しかない和やかな時代だっ
たからでしょう。
 増長天像(187p)は千手観音像(535p)、本
尊の盧舎邦仏像(304p)、薬師如来像(336p)
と比べて脇役とはいえ像高が低すぎます。
しかし見方によっては3尊が大き過ぎるとも
言えます。なぜこのような像高の差が出たの
か歴史の謎には興味が尽きません。
  顎が膨らんでいて我が国では見られない顔
で鑑真和上に随伴した工人の作品なのでしょ
う。他の三天が閉口(吽形)なのに本像のみが

開口(阿形)です。 
 持国天、広目天が冑を被るのに増長天、多聞天は整えられた宝髻です。その他色
々と各像の形状を変えており見応えのあるものとなっております。 

 

 「戒壇」とは3段の壇で形
成されているからと言われ
ております。
 僧に資格を与える授戒の
儀式を執り行う神聖な場所
です。
 古都奈良で戒壇が存在し
たのは「東大寺」とここだけ
です。
 戒壇は創建時からあった


            戒  壇

ものとする説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)に初めて造られたとする説とがありま
す。
 しかし、草創時に戒壇の造立があったならば朝廷や仏教界で話題になり何らかの記
録が残った筈です。
 比叡山延暦寺に弘仁13年(822年)、大乗戒壇を開設され、戒壇が重要視されなくな
っていた鎌倉時代に、
戒律の復興と釈迦に戻れとの運動が起き、授戒制度を復活させ
るために戒壇が造立されたと考えるのは穿った見方でしょうか。
 江戸時代に、廃れていた戒壇を将軍綱吉の母「桂昌院」が錺(かざり)金具や荘厳具な
ど絢爛豪華な装飾を施された建築に再建されましたので、それらの金物が盗難に遭い、
その上犯人による証拠隠滅を図るための放火で焼失しました。


       サーンチー第一塔(インド) 

  仏塔はインドの 「サーンチーの仏塔」
を参考に造立されたとのことです。

 


       鐘  楼

 

 「鐘楼」は創建当時は「楼造」で二階
建ての建物でした。
 現在は四本柱のシンプルな構造と
なっているのは時代の流れでこのよ
うな構造でも鐘楼としての耐久性が
ある技術革新があったからです。
 東の鐘楼、西の経楼で配置として
は法隆寺とは逆です。

 


              講  堂

  「講堂」は平城京の「東の朝集殿」が下賜された建物で、平城京の宮廷建築の唯一の
遺構です。朝集殿とは儀式に出席する貴人が着がえたり待機する場合に利用された
建築で扉もなく簡素なものだったそうです。  
 移築の際、日本建築を仏堂に適したものに改変、「切妻造」を「入母屋造」に、また
正面の「柱間」は等間の各13尺だったものを両端の間だけを11.4尺に改造しました。
 金堂なら分かりますが講堂の場合は柱間は等間となるのが通例ですので、講堂と
金堂を兼ね備えたものとして改造されたのでしょうか。  
  鑑真和上が戒律を教えておられた頃は講堂のみでそれゆえ寺院と称されなかった
のではなく戒律を学ぶ場所・講堂があれば充分とされ、寺院の伽藍を必要とされな
かったのではないかと考えます。いずれにしても、鑑真和上を慕って戒律の教えを
乞いに多くの人材が集まったことでしょう。
 天平時代の講堂といえば当講堂と「法隆寺伝法堂」だけです。平安時代に至っては
「法隆寺大講堂」のみです。それには後世の本堂が古代の金堂と講堂を兼ねたものと
なっているからです。
 鎌倉の改築は再建に等しいほど大掛かりなもので全く違った建築となっており現
状からは当初の姿は想像できません。
 金堂とは違い三面僧坊との繋がりが重要で背面に僧坊への三か所の出入り口があ
ります。  
 基壇は埋没した50pを上げて130pとなりました。

 鑑真和上の弟子が講堂の梁が折れるのを夢 で見て鑑真和上の入寂が近いことを
知ったと ありますので、当時は講堂が重要な建築で金堂はまだ存在していなかっ
たのでしょう。


  13尺の柱間    11.4尺の脇間


  飛檐垂木   地垂木

  左の写真は柱間が13尺の等間だったのを両脇間を11.4尺に縮減したものです。
  右の写真は鎌倉時代の改変で地垂木、飛檐垂木ともに角垂木となりしかも飛檐垂
木が長くなっています。金堂の斗栱と比べると一目瞭然です。

 
       鬼 瓦

 
     三か所の出入口(背面)

 


          鼓  楼 

 「鼓楼」は境内唯一の2階建
て建物です。
 創建当時は「鐘楼」に対峙す
る「経楼」でしたが、鎌倉時代
に経楼の跡地に鼓楼が建築さ
れました。
 校倉造の経蔵がありました
ので経楼と呼ばれたのかそれ
とも2階建ての建物だったの
で経楼と呼称されたのでしょ
うか。
 鼓楼の名称通りの「太鼓」を
置かれた形跡はありません。

鑑真和上が持参された「仏舎利」を安置されたので「舎利殿」とも呼ばれておりました。
写真の奥(東側)にある建物を「礼堂」と言うのは舎利殿に対してで、礼堂から拝むため
東側にも出入口があります。
 2階は経蔵として使われたので盲連子窓で、1階は舎利が祀られているので通常の
連子窓となっております。普通、廻縁と高欄は2階だけなのに、1階にも設けてある
のは1階が仏舎利を安置した重要な処だったからでしょう。
 和様建築ですがただ、大仏様の頭貫木鼻のみがあります。

 
      東側出入り口

 
    「大仏様」の木鼻


   蓮 子 窓(1階部分)


          盲 蓮 子 窓(2階部分)

 「舎利」を安置した1階部分は
普通の連子窓となっております。

  2階部分は「連子子」が隙間なく詰まった
 「盲連子」となっております。


      団  扇

 鼓楼の2階から行われる「団扇(うちわ)
まき会式」は中興の祖「覚盛上人」の遺徳を
偲んで行われることはマスコミ報道でご
存知の通りです。ハート型の団扇は千円
で販売されておりますので拝観記念にど
うぞ。
 我々には「団扇まき」として知られて

おりますが正式名は「梵綱会(ぼんもうえ)」で、昔、法要中の覚盛上人に蚊が止まって
いるのを見て弟子僧が叩き殺そうとしたのを、蚊に血を与えるのも布施行であるとい
っていましめたとのことです。上人の死後、上人の遺徳を偲んで法華寺の尼僧が蚊を
追い払うために団扇を寄進したという故事が始まりと言われております。団扇とはい
えこの形状では風を起こすのは難しいことでしょう。

 

 
鼓楼       「東室(北側)」  「礼堂(南側・手前側)」


         馬 道

 桁行19間の僧坊を分割して、10間を「東室(ひがしむろ)」、8間を「礼堂」に転用さ
れております。礼堂とは鼓楼を礼拝するところからの名称です。
 僧侶の住まいの僧坊が法要の空間に改造されるのは法隆寺、元興寺でも見られま
す。これらの3寺院とも利用されたのは東室で東上位と関係があるのでしょうか。
ただ、法隆寺の場合西室も仏堂化しております。 
 礼堂と東室の間の1間が馬道(めどう)で字の如く馬が通る通路のことです。馬を
必要とする者の建屋なら理解できますが馬とはあまり関係がない寺院では理解でき
ません。多分、馬には関係なく細長い建物の途中を横切る通路のことを馬道といわ
れるようになったので、僧房の建物などを分割して利用する際に建物と建物の間の
空間にも馬道の名称が借用されたのでしょう。
  馬道(めどう)から派生した言葉が面倒(めんどう)で、馬が馬道を通ることを嫌が
って面倒だったからでしょう。馬道から見える建築は講堂です。
 東側と南側に向拝を設けております。
 低く造られた切目縁はベンチ代りとなって、寛いでいる方を見かけるのは
唐招提寺ならではの風景でしょう。    


    「唐招提寺銘」の瓦

 
        鬼  瓦

 


        経  蔵

 「経蔵」は唐招提寺の創建以
前に存在しました
「新田部親王邸」での唯一の遺
構と言われ、「校倉造」では
「正倉院」より古く現存最古の
貴重なものです。
 桁行3間、梁行3間の構造
です。
 当初の切妻造を寄棟造に、
一軒だったのを二軒に改造さ
れております。
  建築用材は良質とは言えな
いものが使われております。 

 経蔵ですが経典が納められていた証拠は無いと言われておりますが鑑真和上の時
代には経楼(鼓楼)が出来ておらず鑑真和上が持ってこられた経典が納められたので
経蔵と呼ばれたのではないでしょうか。 
 校木の積み重ねの壁構造形式となっております。巷間、校倉造の特徴は、乾燥状
態の天候になれば校木が収縮して校木間に隙間が出来、内部と外部の空気の入れ替
えが進むのに対して湿度が高い天候になると校木は膨張して湿った空気が内部に流
れ込まないように内外を遮断すると言われたこともありましたが、実際には屋根の
重みを支える柱がないため校木にもろに屋根の荷重が掛かり常に校木同志は密着し
ていたのだと思われます。古代の屋根は瓦に厚みがあるものだけに重いものでした。  

  「校倉」の形状はよく見られますと校木は大面
取りしたもので三角形ではなく六角形となって
おります。
  「鼠返し(青矢印)」は日本古来建築にも見ら
れ、周囲の台輪の外側を下向けに折られており、
古代の高床式倉庫に食料を保存した場合鼠が柱
を伝って上がってくるのを防ぐことから鼠返し
と呼ばれました。また、水きりのためでもあり
ます。
  新田部親王邸時代は米倉として使用されてお

り鼠害から守るため鼠返しが付けられていたことでしょう。
 一昔前までは民家の天上裏を鼠がよく走っていたもので、鼠による食物被害は甚大
なものでした。     


            宝  蔵

 
   美しい文様の「鬼瓦」

  「宝蔵」は創建当時に建築されたもので心去りの良材で造営されております。
 鑑真和上が持参された仏舎利が祀られていたという重要な建物です。
  校倉造が2棟もあるだけでなく経蔵、宝蔵ともに国宝指定という価値ある建築と
なっております。

  


       芭 蕉 句 碑


       旧 開 山 堂

 「松尾芭蕉」が「鑑真和上」を偲んで詠んだ句「若葉して御めの雫拭はばや」です。
 句碑は自然石に彫られております。
 「旧開山堂」は句碑の右にある階段を上がった所に存在します。

 

 

 
   御影堂は屋根しか見えません

 
      御影堂入り口

 「御影堂(みえいどう)」は「興福寺旧一乗院門跡の宸殿」が初代の奈良県庁、裁判所
として流用されるのを経て安住の地唐招提寺に移築されました。移築をしたのに建
物がしっかりしているのには驚嘆されることでしょう。柿葺から銅板葺に変わって
おります。
 「鑑真和上坐像」が安置されていますので「御影堂」と言います。
 頑丈な土塀で囲まれているのはお寺にとって重要な尊像と建築を守るためでしょ
う。   


     右近の橘、左近の桜
 庭は右の写真のように眺めることが出来ます。


 「鑑真和上坐像特別開扉」が多くの人で賑わいますのは鑑真和上の誕生日を挟んで数日間しか開扉されないからです。

 


           鑑 真 和 上 坐 像 

 前述のとおり「鑑真和上」は幾多
の苦難の末、日本への渡航が6回
目でやっと目的を達せられました。
途中盲目となりながらの
初志貫徹
は我々凡人には理解ができないほ
ど強靭な意志と強い使命感をお持
ちだったのでしょう。
 それなのに、なぜ「僧綱(そうご
う)」から「大和上」になられたのか、
鑑真和上が権力機構にとって余り
にも偉大すぎて煙たくなったのか、
それとも、当時の僧が僧本来の宗
教活動から逸脱して朝廷に入り込
む現象に幻滅を感じて、唐招提寺
に救いを求められたのかも知れま
せん。
 在日中も最初は歓迎されました
が色々な軋轢があり大変な余生を

送っておられたと想像されますのに何とも穏やな顔をされており優しさと気品に満
ちておられます。
 来日後10年の76歳で遷化(高僧が亡くなること)されましたがまさに結跏趺坐して
禅定印で崇高なる瞑想をされて居られるが如く生きいきとしたポーズで、御年76歳
には見えないくらい恰幅の良いお姿です。偏衫の上に袈裟を着用されておられます。

 鑑真和上の弟子僧「忍基」が講堂の梁が折れるのを夢で見て師の遷化が近いことを
悟り性急にこの鑑真和上坐像を造像したと伝えます。中国では仏堂の梁が折れる夢
をみると高僧が亡くなる前兆であるという言い伝えがあるのでしょう。
 我が国で肖像彫刻の最高峰と評される鑑真和上像は見事な出来栄えでこれこそ写
実主義の頂点を極めた作品です。ただ惜しいことに、鑑真和上像は鑑真和上の命日
を挟んでの数日間だけしか拝観出来ません。
  鑑真和上が入寂されましたのは天平宝字7年(763)の5月6日ですが当時は旧暦
で、旧暦の命日は新暦では毎年変わりますのでそこで分かりやすくするため一か月
を足したものとしましたので、鑑真和上の命日は新暦の6月6日となります。多く
の場合旧暦を新暦に直すとき便宜上一か月プラスして行います。

 

 

  奈良市内に存在する古都名刹で、この
ような豊かな風情があるのは当寺だけで
す 。
 緑に囲まれた木漏れ日の道を歩いて行
くと「鑑真和上御廟」の門が左側に見えま
す。


         
境  内  

       


  
鑑真和上御廟の入口で、趣きのある
 土塀が築かれております。


  御廟への細い道で
両脇の苔の絨毯は
 美しく映えております。  


      鑑真和上御廟

 

 境内の奥まった所にあり荘厳な佇まい
の世界です。
 鑑真和上御廟は「鑑真和上御影堂」の東
側に並んでおります。
 花生けには麗しい花が活けられており
毎日献花されていることでしょう。

 
  「不明門(あかずのもん)」は「不浄門」と
も言われ、得度を受けて僧侶になるため
に潜る「南大門」でも、人生の最後に出る
ときは不明門と厳しく定められておりま
す。滅多に用いられることがないので
不明門と言うのでしょう。
 南大門の西側に並んで建っております。

 
         不 明 門

 

 

 

                                                   画 中 西  雅 子