興 福 寺

 「興福寺」は「法相宗」の大本山です。
  「藤原氏」の氏寺である興福寺のある場所は、「平城京」の正式な方形地域内から外れ
た東側の突出した場所にあり、その地域は「外京(げきょう)」と呼ばれております。
 平城京は「唐の長安城」を模して造営されたのであります。ならば中国の「天円地方」
の思想では「天は丸であり地は角」であることからも城郭は四角にならなければないの
にそれを打ち破ってまでどうして外京(左京三条七坊)が造成されたのでしょうか。現
地を訪ねられたらお分かりになるように外京内でも特に興福寺の伽藍の位置するとこ
ろは平城京より高台にあります。そこで考えられることは、見晴らしの良い場所を選
定したのは防衛上の問題かそれとも藤原氏の権勢を示すためでしょうか。いずれにし
ても、藤原氏が朝廷での実力を誇示した出来事と言えましょう。

  興福寺の前身は「大化の改新」の立役者である「藤原鎌足(中臣鎌足・なかとみのかま
たり)」の病気平癒を願って建立された「山階寺(やましなでら)」から始まり「廐坂寺(う
まやざかでら)」に移ったと言う言い伝えがありますが今のところそれらの所在は確認
出来ておりません。発見されれば大きなニュースとなり世間の耳目を集めることにな
るでしょう。
  まず最初に「中金堂」が鎌足の次男・不比等によって建立されました。ですから、興
福寺の歴史は不比等から始まるとも言えます。このように興福寺は私寺としてのスタ
ートですが不比等は律令政治に多大な貢献をいたしましたので天皇、皇后の勅願によ
り北円堂をはじめ東金堂、五重塔、西金堂の堂塔が建立され私寺から官寺扱いになっ
て参りました。
 それと、不比等の奥さんである「橘三千代」は歴代の天皇に仕え後宮で勢力を振るい
ました。不比等を表の実力者とすると三千代は裏の実力者でありました。三千代の前
身は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)で「橘」の姓を天皇から賜りました。それ
だけに橘は偉大な姓で、三千代の先夫の子・
葛城王も朝廷に願い出て橘諸兄に改姓い
たしました。

 不比等と三千代との娘・
光明皇后は、夫の聖武天皇が東金堂を建立したのに対し亡
き母・三千代の一周忌供養のために「西金堂(再建後江戸時代に焼失)」を建立いたしま
した。この西金堂内には華やかに彩られた二十八躯の尊像が配置されておりましたが
奇跡的に現代に伝えられているのは国宝指定の「八部衆像」「十代弟子像」のみでありま
す。これらの像は脇侍でもなく脇役であります。その端役の「阿修羅像」があれだけ優
れた作品であることから判断できることは、西金堂の今はなき主役だった本尊の「釈
迦如来像」は超国宝級の仏さまでそれはそれは立派だったことでしょう。
 同じことがただの倉である「正倉院」の建物が名建築と言われるところから考えると
創建当初の「東大寺大仏殿」はそれは見事な建物だったことでしょう。
  橘夫人といえば、私の独断と偏見ですが「法隆寺」で一番心惹かれるのは「橘夫人念
持仏像」です。ただ、祀られて居りますのは「阿弥陀三尊像」で釈迦如来像ではありま
せん。
 西金堂に安置された八部衆像と十代弟子像の素材は、金と同価格の漆で制作された
「脱活乾漆造」であります。脱活乾漆造は制作日数を長期間要するのと制作金額が高価
となるため、活気に満ちた天平時代に限られております。これらの脱活乾漆像は興福
寺や東大寺に多くありますことから両寺の天平時代の栄華が偲ばれます。
 脱活乾漆像は漆が固まるまで際限なく手直しが出来ますので写実彫刻にはぴったり
であります。

 平安時代になると藤原氏は朝廷と深い係わり合いを持つようになり中央政界で君臨
し巨大な勢力を握りましたので当然氏寺である興福寺もますます栄えました。
 
さらには、神仏習合の流れによって「春日社」と合併して「春日社興福寺」となり勢力
範囲が拡大され大和一国の荘園を領有するにいたりました。後の源氏政権も大和一国
を支配するくらいになった興福寺の権勢を認めざるを得ず大和の守護を興福寺に任
せたのであります。

 中世の興福寺は大和の多くの寺院を私院化(末寺)するだけでなく、商工業の同業組
合である「座」を統制管理して莫大な利益をあげました。代表的な「座」には「墨座」「そ
うめん座」「油座」「酒座」などがありました。中世の織田信長が開いた「楽市楽座」のよ
うな自由経済ではなく、独占的な市場形態でした。インターネットショッピングの
「楽天市場」はこの楽市楽座からの命名です。現在も大和物産として残っている中でな
んといっても皆さんに知られているのは「大和墨」でしょう。しかし、その墨も墨汁に
取って代わられようとしております。余談ですが東京には座の名残の「銀座」があり、
この銀座名は色んなところで使われております。

 興福寺は落雷、戦乱による度重なる焼失さらには明治の「廃仏毀釈」で甚大の被害を
蒙りました。明治の廃仏毀釈に一番打撃をうけたのは興福寺で、多くの仏具、仏像が
消滅、さらには建物も壊されました。国宝指定の建造物は数少ないですが国宝指定の
彫刻は法隆寺に並ぶ17件にも及びます。もし、廃仏毀釈がなければどれくらい多くの
国宝級の仏教美術が存在したことでしょう。
 「
秋風や  囲いもなしに  興福寺」と子規が詠んだように明治初期の県知事が興福寺
の築地塀は往来の妨げになるから取り除けと言う今では考えられないことまで起こっ
たのであります。

 藤原氏の氏寺として威容を誇った広大な境内地が今はこじんまりとなって奈良公園
の一角にあるように見えますがそうではなくて奈良公園が興福寺の境内だったのです。
廃仏毀釈は興福寺にとっては大変な災難でしたが世界に誇れる庶民の憩いの場「奈良
公園」が誕生したのであります。

 廃仏毀釈時の境内敷地は約7,000坪だったのが現在では相当数の坪数まで寺域を回
復されたとのことであります。現在でも「鐘楼」がなく、奈良を代表する古刹だったと
は到底考えられません。


 鎌倉時代に制作された国宝彫刻24件のうち11件が興福寺にあります。
 県別国宝彫刻分類表をご参照ください。

 興福寺は「慶派の博物館」の様相を呈しております。こんなことを書けばお寺から敬
虔な寺院であって博物館ではないと怒られることでしょう。しかし何といっても慶派
といえば興福寺であります。
 天下第一の仏師と言われた「運慶」はじめ後に慶派といわれる仏師たちは当初興福寺
に属しており華々しく活躍の表舞台に出るまでは南都で天平の名作の修理に従事して
細々と活躍しておりました。作品が最大の教師といわれるだけに貴重な学びが後に大
きく花が開く礎となったことでしょう。それと、公家貴族に愛されたのは京仏師で爪
弾き状態にあった奈良仏師に幸いしたのは時代が平安貴族社会から鎌倉武家社会に変
わったことであります。  
  もし、興福寺、東大寺に壊滅的な被害を与えた「南都焼討ち」がなければ慶派が表舞
台に出る機会はなかったかもしれません。藤原氏そのものは貴族の代表的な存在であ
り彫像の制作はすべて定朝を祖とする京仏師に造像を命じるところを慶派にも任され
たのは興福寺の尊像の修理を手掛けていたことから興福寺と東国武士の応援があれば
こその話でしょう。
 
 南都焼討ち後の興福寺再建の仏像制作に関して当初は京仏師が活躍したのにもかか
わらず現在ある鎌倉彫刻の傑作が総べてと言ってよいほど慶派作品ばかりで、なぜ、
京仏師の円派、院派の彫像が残っていないのか不思議です。もし、残っておれば興福
寺は仏像銀座となっていたことでしょう。

  康慶、運慶、快慶、定慶、湛慶など慶の付く仏師の集団だから「慶派」と呼ばれてい
たのであります。がしかし、「慶」の付く仏師は少なく殆どが「康」の付く仏師で例えば
「法隆寺金堂の西本尊阿弥陀如来坐像」を造像した運慶の第四子は、「康勝」と称されま
した。  


   噴水池


 行基菩薩像

  地下駅である「近鉄奈良駅」の階段を上がって行
きますと、まず眼に飛び込んでくるのは噴水池の
中に居られる「行基菩薩像」と「ひがしむき」の看板
であります。
  「行基」さんは僧であるのに、菩薩という称号を
与えられているのは、社会に尽くされた業績の大
きさを著すものです。
 ひがしむき商店街は興福寺に隣接しております。
この東向商店街の歴史は古く、その昔、興福寺の
門前町として通りの西側にだけ商家が並んだ結果
東向きの商店街が出来たことに由来いたしま
す。

その後、通りの東側である元興福寺の境内に西向きの商家が出来て現在の商店街にな
ったとのことであります。 

 

      「南大門」跡・前方の建物は「東金堂」です。

 「能楽」は「興福寺」で育ったこ
とはご存知の通りです。ユネス
コは2001年5月、この「能楽」を
「無形遺産の傑作」に初指定され
ました。
 「薪御能」は「南大門」跡地の芝
生の上で行われます。また、秋
には「塔影能」が催されます。 

 


     五 重 塔

     
 猿沢池に映る「五重塔」です。五重塔の正面はこ
ちらの面です。そういう意味では、昔は猿沢池か
らはよく見通せたことでしょう。それが今は樹林
のため三重目から上しか見えないですがこの風景
は奈良を代表するもので観光客には喜ばれる眺め
となっております。

 「五重塔」は焼失と再建が繰り返されて室町時代の復古建築であります。塔高50.1m
は五重塔としては「東寺五重塔」に続いて我が国二番目の高さを誇っております。 
 「
」は天平時代には伽藍内から外に出る新形式の伽藍配置となりました最初の塔で
これ以降はこの形式で寺院が建立されるようになります。しかしまだ塔(釈迦)崇拝が
残っていたのでしょうか伽藍の東側に東金堂と五重塔を囲む回廊を設けた塔院という
区域を設けておりました。塔は時代とともに色んな場所に建立されるようになり、ま
すます装飾的な建築となっていきました。
 西塔は建てられずじまいでしたが東が上位ですから最初に東の塔が建立されたので
しょう。
 建築と言えばその時代のものの趣向、技法が採用され「南都焼討ち」後の復興が東大
寺では大仏様の技法が用いられましたが、興福寺は平安時代の約300年が藤原時代と
言われたことを重要視してか何時の場合も和様建築で再建されました。塔の形態は時
代が下ると寸胴に近い形になり重々しくなりますが、本塔は創建時のスマートな古代
の姿を踏襲して見栄えの良い塔となっております。
 奈良公園のシンボルである五重塔も廃仏毀釈時代には売りに出され、「相輪」をスク
ラップにした程度の金額で売買が成立しました。というのも購入者はただ相輪の金物
だけを欲したからです。そこで、五重塔に火を付けて上部の金物だけを回収しようと
計画しましたが、近くの人家に類焼する恐れがあると反対され、無事に残されたとい
う嘘のような本当の話であります。

 五重塔の前庭には多くの鹿がおり、子供だけでなく大人までが鹿と戯れております。 
その昔、ヒット曲に「鹿のふん」というのがありましたね。

 
 

                 東 金 堂 

  「東金堂」は西向き
に建てられておりま
す。戦乱、天災によ
る焼失を繰り返して
六度目の室町時代の
復古建築です。  
  興福寺は飛鳥寺の
ように「三金堂」形式
です。これは、蘇我
氏の飛鳥寺に対抗し
て三金堂形式にした
のでしょう。

 柱の間は端から9・10・14・14・14・10・9尺です。創建当時は中央の柱間の立面
空間が正方形となりますが、再建時、禅宗様などの影響で柱が高くなり、立面空間は
縦長の矩形となりました。 

 
 和様建築の特徴である「白壁」が眼に沁みます。扉は
正面の三間と背面の一間で側面は総べて白壁です。   

 
 創建寺の「地円飛角」の様
式を踏襲して保守的に施工
したのが地垂木の四隅に丸
味をつけて楕円状にしたも
のです。    

 古代では「仏堂」そのものが神聖な空間で
僧といえども入堂出来なく、儀式は前庭で
行われる
庭儀でありました。時代が下ると
仏堂内で簡単な法要が行われるように変わ
り、必然的に、扉が内開きから外開きとな
りました。ギリシャ建築を思わせる「列柱」
は「唐招提寺金堂」と同じですが、唐招提寺
のように開放された空間でなく、当寺では
白壁で閉じられております。古代は白壁で
俗なる喧騒を遮断して扉の前で簡単な法要
が執り行われたのでしょう。

 

 
    維 摩 居 士 像

 「維摩居士(ゆいまこじ)」は豊かな学識を身に秘め
た在家の人でしたが、悟りを開いて聖者になられま
した。
こめかみあたりには血管が浮き出て、頬がこ
、額に細かい皺を刻み、眉をしかめた年老いた病
人であるのに毅然たる態度には驚きです。釈迦の代
理で維摩を
見舞いに行くことを全員が躊躇するのに
「文殊菩薩」だけが手を挙げました。これは、その時
に文殊が見舞いにいった場面で、維摩が身体の不調
をおして見舞いに来た文殊菩薩と
問答を交わす緊張
の一瞬を表しております。
 衣の襞は後述の「法相六祖像」の彫りが異常に深く
なっているのに比べて自然で控え目なものになって
おります。  
  枯れた左手には何か持物を執っておられたのでし

ょうか。
 「台座」は「宣字座」で、中央に見事な獅子のレリーフが刻まれております。
 維摩居士と文殊菩薩が法論している有様を現したのが「維摩経」で、法隆寺五重塔の
「塔本四面具の東面」には、聴衆に異国の人々を集めての有名な法論場面が表現されて
おります。その場面には「椅子を運ぶ獅子」という珍しい像もあります。これは、見舞
い客である文殊菩薩が獅子座に坐っておられますことから文殊のために運んで来たの
でしょうか?  

 
  
     文 殊 菩 薩 像

  「文殊菩薩」は「三人寄れば文殊の智慧」と言われますよ
うに智慧第一の菩薩で、弁舌爽やかな維摩居士と丁々発
止の法論を戦わせました。
 「文殊菩薩像」は「維摩居士像」に対して若々しい姿で、
姿勢正しく精悍な態度で坐り、いかにも知恵者らしい

りりとした英知に富んだ表情であります。澄んだ瞳、聡
明な
顔の肌は艶々としており、老若の形相が鮮やな対照
を見せております。
 
頭上に蓮座梵篋を乗せ、の上に袈裟を付けておりま
すが、
の胸元には下シャツの衿を出すという若者らし
い今風のオシャレです。さらには、
足のすねを前に出し
ております。
 左手には
如意でも持っていたのでしょうか。「台座」は、
維摩の「角形」に対して「円形」の「獅子座」です。

「釈迦如来」の脇侍は「文殊菩薩」と「普賢菩薩」ですが、文殊は「獅子」、普賢は「象」の上
に乗ります。台座の
獅子は開口しております。

 同じ「もんじゅ」でも高速増殖原型炉「もんじゅ」は、訴訟騒ぎを起こしており、文殊
さんにとって迷惑この上もないことです。
  文殊菩薩像の最高傑作であるこの像に、お祈りすれば東京大学の合格は・・です。

 

  
  広目天像(興福寺)

  「広目天像」は「東金堂」の須弥壇に安置されております。
 東金堂は堂名の通り興福寺の東側に西向きに建立され
ておりますので通例通りの東南西北の守護神とはなりま
せんが当初からこの配置だったのでしょうか。
 四天王の持物に関して記載されているものは『陀羅尼
集経(だらにじっきょう)』という経典だけでその経典に
基づいて制作されたのが東金堂の四天王像です。通常、
広目天といえば経巻と筆を持っておりますが、右手には
少し判別し難いですが羂索(青矢印)を執り、左手には広
目天以外が手に執る「戟(げき)」を執っております。戟と
は先が三つ(緑矢印)に分かれているもので分かれていな
い一つのものは槍です。「持国天」は右手に宝珠、「多聞
天」は右手で宝塔を捧げております。
 天平時代はスマートな体格ですが平安時代になると
長短躯で
亀の子のように縮めた首、目をむき、体格は重
量感のある筋肉質で、守護神にふさわしい威容です。
裳裾が棚引かず動きも鈍いですが
まさに仏敵と闘う寸前

の迫力で今にも動きだしそうであります。   
 身体は正面を向いておりますが顔は左内側を向いており、その逆となっているのが
多聞天で両像は見詰め合うように造像されております。
 「邪鬼」は身体が柔らかいのではなく重量感のある四天王に踏みつけられているため
身体が二つ折りになっております。苦しみに耐える三本指の邪鬼の姿は哀れみを誘い
ます。

 

    
     波 夷 羅 像

  「十二神将像」が像高120p程度の像でありますのは
本尊に前に安置されますので本尊に差し支えないよう
小さく造像されたのでしょう。     
 表情、身振りがバリエーションに富む像です。ほぼ
完全な姿で保存されておりますので心ゆくまでじっく
りとご覧くださいと言いたいところですがスペース的
な問題で像同士が重なり合うという不適切な配置のた
め少し見づらいです。
 頭上には「十二支」を付けており、「波夷羅(はいら)
像」の頭上には「辰(龍)」を付けております。それは、
ひょうきんな顔をした辰です。
 腰裳の動きで、行動の激しさを表現しておりますが
波夷羅は動き始めた瞬間を表しているのでしょう。
 
阿修羅像に比べると頑強な体付きでいかにもガード
マンらしく仏敵もこの勇姿では近寄りがたいでしょう。
  膝には面らしきものが付いておりますのと奇抜なア

イデアのブーツ(沓)を履いております。こんな豪華な沓を履けるのは戦士では無理で
将軍クラスだったことでしょう。
 
十二神将と十二支とは一定しておらず各十二神将像によって異なります。 
 東金堂の尊像はあまり目立ちませんが、四天王像、十二神将像など不朽の名作が揃
っております。

  


     法 隆 寺


         国 宝 館

  「廃仏毀釈」で壊された「食堂(じきどう)」跡に建築された「国宝館」です。国宝館は
以前ありました建築様式、左側の建物が細殿、右側が食堂という建物が二つ並んだ
「双堂」形式で復元されました。

  
       迷 企 羅 像

 「迷企羅(めきら)像」は、厚さがたった3pの桧板に
半肉彫りされた「十二神将像」の中でも秀逸と言われる
ものです。通常は沓を履きますが全くの素足です。
「阿修羅像(後述)」でさえサンダルを履いておりますの
に。
 十二神将は
薬師如来の眷属で武将像らしく焔髪、眼
は大きく見開き、口はかっと開き、激しい動きを表現
しております。が、鬼気迫る守護神というより大きく
広げた
左手と左足を正面に向けるという無理な体勢で
踊っているようにも見えます。それと、「甲(よろい)」
を身に着けないで肩から紐で吊るした簡単な衣を着け
ております。威嚇のため蛇が鎌首をもたげたような格
好の握り拳を挙げておりますのがかえっておどけた動
きに見え、これでは闘う神に相応しいとは言えず仏敵
も笑いがこみ上げ攻撃の手を緩めることでしょう。
 右手には何か武器を持っていたのでしょうか。
  薄い板での立体感を出す工夫として身体を斜めにし

たり、手を身体の前に置いたり後ろに置いたりしております。
 彩色が退色して木目が現れており大変味わいのある感じとなっております。
 一体一体ずつ頭から足先まで色んな造形が施されおり意表をつくアイデアの十二神
将像となっており板彫の彫刻では最高傑作といえるものでしょう。
 どこか分かりませんが薬師如来の台座の腰板に飾られていたのかも知れません。
  元興寺に安置されていたのが興福寺に移安されたとの説があります。

 
               千 手 観 音 立 像

  「千手観音立像」は「食堂(じきどう)の本
尊」でした。食堂は明治の廃仏毀釈の際取り
壊され、その後跡地に建設された「国宝館」
に尊像が安置されております。
 天平作の「東大寺三月堂本尊不空羂索観音
像」に似ていて、天平時代の面影を留めるこ
とは、南都復興の現れの一つでしょう。  
  高さ5.20mの
堂々とした像容であるのに
バランスが良く取れています。制作者は不
明ですが
多分高い技量を持った慶派の仏師
が造ったことしょう。
 鎌倉時代の古都奈良の仏像が優作ばかり
なのは「師匠は優れた作品」と言われるよう
に、南都に優れた天平彫刻があればこその
話でしょう。しかし、ただ優れた作品があ
ればよいだけではなく、その作品を師匠に
してそれを超える作品を、
うまく造り上げ
る技量の仏師が、慶派には多くいたことが
第一の要因として挙げられます。 

 
 
     山 田 寺 仏 頭 

 「山田寺仏頭」は「山田寺講堂の本尊」にありました
ものを日中に堂々と奪取してきて「
東金堂の本尊
据えたのであります。かつてのライバルだった蘇我
一族の「
蘇我倉山田石川麻呂の追善供養に建立され
た寺院だから奪取したのではなく薬師如来像が白鳳
時代の傑作だったゆえ標的にされた悲劇でしょう。
更なる悲劇は応永十八(1411)年の火災で現在の頭部
のみの仏さんになってしまいました。
 開眼供養が685年と記録に残るわが国最初の「薬師
如来像」です。
氏寺でこれだけ大きな銅像が造られ
るほど我が国には銅がふんだんにあったのでしょう。
 白鳳時代には珍しい巨像で、鼻は鋭角的で写実主
義になる過渡期の作品ですが、時代は顔が
面長から
丸顔に変わる過程の筈ですがもう既に次の天平様式
の丸顔です。 

 白鳳時代の特徴である眼の下瞼が直線になってはるか遠く眺める様相で瞑想してい
るようにも見えます。それと、上瞼が目頭で下瞼を通り越す「蒙古襞(もうこへき)(
矢印
)」がはっきりと見てとれる貴重な像です。
 
丸顔は膨らんだ球体の如く若々しさにあふれる像です。この健康的な表情は衆生の
病を治す医師・薬師如来の表現にはぴったりで、誠実な若先生というイメージです。
 観光ポスターによく使われる像で、多くの人々を魅了する像として有名です。

 

   

 
         玄ム像(跪坐)  

 
     行賀像(左膝を立てて坐る)

  「法相六祖像」は2体ずつが同じ坐り方であるのは、南円堂本尊の両側に安置されて
いたからでしょう。正座のような
跪坐(きざ)が2体、胡坐(あぐら)のような跌坐(ふ
ざ)が2体、左膝を立てて坐るのが2体あります。
 法相六祖像は
運慶の父康慶、殆ど削っていないまるで絵画のような彫刻「定朝
様」に対し豪快に削り込んだ意欲的な作品で仏像世界を一変させました。
 
京仏師が公家貴族好みの「定朝様」の踏襲に明け暮れして居る時、主に古仏の修理を
するという制作活動において輝やかしい天平美術を学んだ康慶が、京仏師に対抗して
造られた法相六祖像であります。その意味では記念すべき貴重な作品と言えます。そ
れと、平安から重んじられるようになりました「儀軌」も祖師像には関係がないことか
ら康慶が独創性に富んだ理想像を彫り上げたのでしょう。
 三百年も続いた定朝様でその代表作「平等院の阿弥陀如来像」を見慣れた当時の人に
は新鮮な驚きをもって賞賛されたことでしょう。しかし、公家貴族の中には悪い評価
を付けた者もいたらしいです。顔の表情はリアルで、
生き生きとした素晴らしい表現
で、衣文は深い彫りで流れるような表現です。実在の人物をモデルにしたかと思われ
るような肖像彫刻の異色作で目を見張るばかりの迫力です。
前代の公家貴族の好む仏
像ばかりを作っていた京仏師に比べ新しい挑戦が出来た奈良仏師は幸せでした。天平
時代の造像も仏師の個性が発揮出来たのと同じように。
 仏師名は前代は願主が記載するものでしたが鎌倉になりますと堂々と仏師自身が誇
りを持って記入するようになりました

 「行賀像」は顔に血管と皺を刻み衣には渦文を付けており、凄いのは肉体を考慮せず
の大
胆な彫りこみで、素人の私には惚れ惚れする作品です。
 「玄ム(げんぼう)像」はキリスト教でのお祈りのような外縛印(げばくいん)で他の像
のように柄香炉をもっておりません。阿倍仲麻呂と唐へ行き法相を学んだ優れた僧で
したが政治の世界で活躍し出世いたしましたことが仇になって最後は筑紫へ左遷とな
りその地で没しました。  

 先月(2006/01)興福寺国宝館に確認に参りましたら上記の行賀像と玄ム像の両像は
生憎陳列されたされておらず、いずれかの時期にお出ましになることでしょう。

 


   吽 形 像


    阿 形 像

 「金剛力士像」は仏教寺院の門の左右に安置され伽藍の守護神で筋骨たくましい門番
ですが本像は堂内の須弥壇守護のため須弥壇上に安置されておりました。門内像は南
向きのため風雨に晒されやすいですが本像の堂内安置でしたから無事に今日までこの
雄姿を伝えることが出来ました。  
 「執金剛神」から二体の「金剛力士」が生まれましたがなぜか執金剛神像は好まれず金
剛力士像が多く造られております。二体ですから「二王」とも呼ばれ庶民に一番親しま
れる仏像です。後には「仁王」と書くことが多くなりました。

 かっと見開いた眼は、「玉眼(ぎょくがん)」で睨む方向に目の玉を膨らませておりま
す。そのため、憤怒像らしく恐ろしい目付きとなっており
ぐっと睨み付ける眼は迫力
満点であります。
  玉眼とは主に鎌倉時代に用いられ、材料は水晶を使用しているので、潤いのある眼
となります。さらに本像では
眼に朱を入れ血走った眼にしております。写実主義に徹
した鎌倉時代ならではでしょう。
 「東大寺南大門像」は8m以上もあるのに本像は1.6mほどなので親しみが沸いてく
る像で人々を惹きつけております。
  浮き出す血管、
筋肉もりもりの逞しさ、浮き出た肋骨などの表現は量感にあふれ、
筋肉質の人間をモデルにしてよく観察されたことでしょう。
左右に腰を引いて裳裾が
大きく
ひるがえし躍動感にあふれております。丸坊主ではなく頭髪の髻を着けていた
のが
天衣と同じように欠失したのでしょう。
  補彩とはいえ鮮やかな色彩に彩られた華やかな文様を今もなお認めることが出来価
値の極めて高い像です。目を凝らしてご覧ください。

 「
阿形像の右手は180度回転しておりそんな無理な体制で闘うには不利だと思われ
ますが慶派の名工が考えたポーズにはそれなりの考えがあったのでしょう。どうか、
皆さんも像を眺めながらお考えください。
 左右対称に造像された両像ですが阿形像は俯きかげんですが「吽形像」は逆にボディ
ビルで鍛え上げたような厚い胸を張りどうだと威張っており猛々しい様相となってお
ります。左右対称のバランスがよく取られているうえ憤怒像は脚が短いのが通例であ
りますがすんなりと伸びたスマートな脚であります。ただ何故、厚手の腰裳を着けて
いるのか少し気になります。 

 「寄木造」の特徴は素材の肉厚を薄くして像の干割れ、反り、歪みを抑えることでし
たが本像は彫刻の彫りが深く素材に厚みが要求されたことでしょう。しかしこれら表
現の激しさは人々の心を魅了して大いに持て囃されたことでしょう。

 

 「十大弟子」、「八部衆」は釈迦如来の眷属として造像されており「法隆寺の塔本四面具
像」も同じです。十大弟子、八部衆ともに現世利益が説かれていないためか天平以降の
造像はありません。ただ、十大弟子の「阿難と迦葉」は禅宗寺院で本尊に釈迦が祀られ
た時脇侍として安置されます。それと、八部衆の一部は平安時代には「二十八部衆」の
一員として現れます。古代の八部衆像といえば「興福寺」と「法隆寺」の二ヶ寺しか存在
しない貴重な神像です。
 興福寺の十大弟子像、八部衆像は漆を素材にした脱活乾漆造であります。
 脱活乾漆については「脱活乾漆像」をご参照ください。  

 八部衆は「天」「龍」「夜叉」「乾闥婆(けんだつば)」「阿修羅」「迦楼羅(かるら)」「緊那羅
(きんなら)」「摩睺羅迦(まごろか)」の八種の神のことですが仏名には異名があります。
例えば、興福寺の八部衆では天に「五部浄(ごぶじょう)」、龍に「沙羯羅(さから)」、夜
叉に「鳩槃荼(くばんだ)」、摩睺羅迦に「畢婆迦羅(ひばから)」を当てております。   

 
  
       迦 楼 羅 像  

 「迦楼羅」とはサンクリット語のガルダ、ガルーダを音写
したものです。空想上の巨大鳥で鳥類の王者と言われてお
ります。鷲を神格化したものと言われるとおり顔は鳥の様
相です。八部衆で他の像は人間らしい顔に角があったり獅
子冠などの被り物をしたりしておりますがこの像だけ鋭い
嘴を持つ鷲の頭をした鳥人間で表現されておりますが私は
何となく親しみが沸いてきて好きな像の一つです。全身が
黄金で輝いているので金翅鳥(こんじちょう)とも言われま
す。ビシュヌ神の乗り物で全身が鳥というのを「雲崗石窟」
で見かけましたが我が国では人身鳥頭しか私は不勉強なの
で知りません。
 前述の「龍」を常食としており天敵と同じ仲間の八部衆で
あるとは不思議な縁ですね。この問題を解決し仲直りさせ
たのが釈迦如来であります。  
 鳥の顔をしておりなんとなく天狗のイメージがあります。
迦楼羅から天狗の一種である「烏天狗」が生まれたのではな
いかといわれております。烏天狗の容貌は鳥頭で人身は山
伏の格好をした姿、剣術に秀でていて「牛若丸」に剣術指南
をしたとされております。 
 「甲」は厚手で立派な割に体躯は痩身で「阿修羅像」と同じ
く猛々しくないためガードマンらしくありません。 
  迦楼羅はインドネシア共和国の国鳥でしたが現在は「ジャ
ワクマタカ」と交代。
インドネシア国営航空会社、ガルーダ
・インドネシア航空は名称変更せず営業を続けております。

 
迦楼羅像(雲崗石窟第12窟)
 

 我が国には国章が存在しませんが迦楼羅はインドネシアとタイ国の国章で迦楼羅は
それだけ東南アジアでは崇拝されているということでしょう。

 

 
     阿 修 羅 像 

  「阿修羅」とはサンクリット語のアスラを音写した
ものです。六道の阿修羅道の主で我々衆生が阿修羅
道に生まれ変わったしても善神阿修羅ですからもう
闘争し続けることはないでしょう。
 「八部衆」は普通「沓」を履いているのに「板金剛」と
いわれるサンダルを履いております。それと武装し
てい
なければならないのに上半身は条帛と腰裳だけ
の裸形で「甲」を着けておりません。
 三面六臂(三つの顔と六本の手)の像ですが均整の
取れた姿となっております。
三体の仏像を組み合わ
せたものとも言われており、脇の二体の顔の表情が
違っておりますのでお確かめください。
 顔はつぶらな眼差しの童顔、筋肉質の腕ではなく
しなやかな細い腕、まるで
美しい少年少女の面影で
す。
 手と足といい何故こんなに細く表現したのか永遠

の謎でしょう。筋肉隆々の体質がこのように変わってしまってこれではガードマンと
しても不適格ですね。悲しみに耐えるような悲愁を帯びた顔貌でこれほど神秘性に富
んだ像はないでしょう。もし、慶派が作れば憤怒相の阿修羅像になったことでしょう。
 本像は眉を少し寄せて何か苦悩しているようで闘いに明け暮れした鬼神のイメージ
とは程遠くどうしてこんなに優しく造られたのでしょう。荒ぶる悪神から善神に変身
する決意の瞬間を表現したものでしょう。その証がそっと手を合わせた温もりのある
合掌でしょう。
 頭髪は今流行の茶髪ともいうべき、珍しい金髪で
毛筋を丁寧に彫刻しその一本一本
に金箔を貼ってあります。近寄って確かめてください。
 
当初は鮮やかな赤色の肌、顔でありましたが阿修羅には赤い肌は似合わないように
思えます。

 
 阿修羅像(雲崗石窟第10窟) 

  阿修羅像の第三手は何かを支えるポーズですが左右の
手で「雲崗石窟像」のように日輪(太陽)、月輪(月)を捧げ
持っていたのではないでしょうか。
 「脱活乾漆造」で像の内部は空洞のため、身長の割りに
大変軽いこともありますが何度も火災に遭いながらも無
事に運び出されたのはそれだけ尊崇されていたからでし
ょう。
 
阿が省略されて修羅とも言われますが像名だけは言葉
の響きを大切にする我が国では使われません。一方、阿

が省略されたのが「修羅場」「修羅の巷」であります。
 修羅場とは阿修羅と最高神の「帝釈天」との血で彩られて壮烈な決闘場面を表します
が常に戦いをする暴れん坊の阿修羅を象徴しております。
 像から受ける
爽やかな印象は日本人の感性にあっており眺める人を虜にしておりま
す。
「東大寺三月堂の月光菩薩像」と並んで奈良の観光ポスターの常連でありますがな
ぜか、単独尊としては造像されておりません。
 東大寺の月光菩薩像は様式から判断すれば「帝釈天像」と考えられます。あの貴婦人
のような月光菩薩とこの阿修羅が闘っても壮烈な場面修羅場とはならないでしょう。
両像ともどうしてこれほど美しく清らかに造られたのでしょうか。これらの神秘は誰
もその謎解きは出来ない歴史のミステリーでしょう。阿修羅は「邪鬼」より恐ろしい姿
でなければなりませんのに。
 
巨石を運ぶY字型の「橇」を「修羅」といいますが阿修羅が帝釈天と闘ったという故事
からで「大石」を呉音で読むと「たいしゃく」となりこの大石を動かせるのは(阿)修羅で
あると言うことから命名されたらしいです。しかし、大阪府藤井寺市の古墳から発掘
された「木橇」は1500年前に使用されていたものでその頃、個人的に仏教を信仰されて
いたのかも知れませんが公の仏教伝来以前であり、阿修羅という神は未知だったと思
われます。それと、阿修羅が修羅と略されますのは仏教伝来より時間が経ってからの
ことです。さらに、「大」の呉音読みは「だい」であって「大仏、大日如来、大黒天、
大徳寺」などであり、また、「石」は「温石(おんじゃく)」というようにジャクである筈で
すのに難しい話です。

 帝釈天といえば「男はつらいよ」の柴又の帝釈天が有名ですね。  
 
貴乃花がこの阿修羅像に似ていると騒がれた時期がありましたが一日も早く阿修羅
像の如く多くの方に愛される貴乃花に戻り相撲界の刷新に尽力されることを願うばか
りです。時代は貴乃花を必要としておりますだけに昨年の状況(2005)は惜しまれます。  

 

 
     鳩槃荼像

  「夜叉」とはサンクリット語のヤクシャを音写したもので
す。財宝と富をもたらす神でインドでは盛んに民間信仰を
集めたようです。以前は傍若無人な態度の悪神だったのが
仏教に取り入れられてから善神に変わりました。
 「邪鬼」も夜叉の一族で「十二神将」も「十二夜叉大将」と言
われる通り夜叉一族であります。 
 
 興福寺では夜叉に「鳩槃荼」を当てております。興福寺の
八部衆像では珍しく「鳩槃荼像」だけが焔髪で目を吊り上げ
たいかつい顔の憤怒相で少しは恐ろしさが感じられる像で
すが、姿態は仏敵を威嚇できないほど痩身でこれでは仏敵
も退散することはないでしょう。
 
 奥さんである夜叉女(ヤクシー)は半裸で魅力あふるる官
能的な姿ですがこのような表現が出来るのは開放的なイン
ドならではでしょう。この夜叉女と鳩槃荼像を並べると
「美女と野獣」そのものでしょう。

 我が国では、夜叉は悪鬼と考えられ悪いイメージが強いです。その一例としては
名作『金色夜叉(こんじきやしゃ)』があります。

 
      ガンダルヴァ(インド)

  「乾闥婆」とはサンクリット語の
ガンダルヴァを音写したものです。
ガンダとは香という意味で乾闥婆は
肉を食せず香を栄養にして生活して
いるといわれております。獅子冠を
被る音楽の神です。
 興福寺の「乾闥婆像」はあどけない
少年そのものであります。獅子冠を
かぶっておりますがエキゾチックな
顔容ではなく清楚にして清清しい小
顔のうえ痩身ですから恐ろしさは微

塵も感じられません。瞋目で瞑想しているように見え余計に優しくなっております。     

 
      キンナラ(インド)

  「緊那羅」とはサンクリット語のキンナラ
を音写したものです。漢訳で「人非人」すな
わち「人と非人」で、人かどうかということ
ですが非人とは八部衆をも総称しておりま
す。
  人身馬頭で表される音楽の神で美声の持
ち主であります。
 
  興福寺像は一角三眼でありますが優しさ
と気品に満ちており可愛らしい少年そのも
のです。     

 「摩睺羅迦」とはサンクリット語のマホーラガを音写したものです。ニシキヘビのよ
うなウワバミのことでこのウワバミを神格化したものです。緊那羅と同じように音楽
の神です。
 興福寺では「畢婆迦羅」を当てております。像は着甲で髭のある老人という他の少年
らしい像とは違いますがウワバミのイメージではなくほっそりとしたプロポーション
です。  

 

  
  迦 旃 延 像      須 菩 提 像

 「釈迦」には多くの弟子がいましたが中
でも高弟10人が十代弟子と呼ばれ尊敬さ
れておりました。十代弟子は
異国の羅漢
でありますが像は我々の身近で見かける
ような顔で
、モデルにした人物はどんな
経歴の持ち主だったのでしょうか

 像高は
150p程度の像で当時の人の身
長に近い寸法だったことでしょう。
 服装は偏袒右肩、通肩で
老若を皺と法
衣の襞の数をもって表しており、老体像
の場合は皺と多くの襞を刻んだ法衣で表
現しております。
 阿修羅と同じ板金剛といわれる板草履
を履いております。
  「迦旃延像」は144pと低くなっており
それがかえって畏れ多いという印象より

優しく親しみを与えております。
 顔の額にくっきりと現れた皺、眉をひそめ、肋骨が数えられるほど痩せた胸、痩身
などから粗衣粗食に耐えながら悟りを開こうとする修行の厳しさが感じられます。

 何かの持物を捧げていたのでしょう。

 胸には乳首が現れており、写実の天平とは言え古都奈良では珍しいです。
 弁舌をしているような口ぶりですが師匠である釈迦の教えを広めているのでしょう。
 「須菩提像」
は迦旃延に比べ瑞々しい丸顔で若さゆえか苦行の様子が見られないし女
性的に見えます。そっと立って静かに説法を行っているのでしょう。

  

 
     龍 燈 鬼

 
     天 燈 鬼   

 「天燈鬼」、「龍燈鬼」が像高は78pしかないので恐ろしい鬼ではなく微笑を誘う可愛
らしい鬼です。
 「邪鬼」が仰向けにされ踏みつけられ、「仏法の興隆」を邪魔する者はこんな目に合う
ぞと言う見せしめから
罪が減じられて仏の灯明を守る役目が与えられましたのでこの
ような「像」となったのでしょう。手の指も今まで三本指だったのが五本指になってお
ります。

 天燈鬼は阿形で口を大きく開け、手と肩で支える「燈籠」の重荷に耐えながら横目で
燈籠を注視しております。彩色は「朱」が主となっております。 
 
三眼で可愛らしい二本の短い角を付けております。
 
肩からの布を胸前で結び腰にはフンドシの上に獣皮を巻いております。
 彩色が剥げ落ちて木目が現れている興趣ある像となっております。
 
  龍燈鬼は燈籠が気になるのか上目づかいに頭上の燈籠を睨んでおりますが両足を開
いて大地をがっちりと踏みしめて安定感があります。眉毛は銅板、眼と牙は水晶、龍
の背鰭は皮製で
色んな材質の材料が使用されております。彩色は「青」が主です。身体
に着けているのは
ふんどしだけという粗末な服装です。下唇を鼻まで上げているのは
燈籠の重さに耐えかねているからでしょうか。
 
臍の辺りで五本指の左手で身体に巻きついた竜の尻尾を捕まえ右脇で竜を押さえつ
けておりますが、竜は口を大きく開いて逃れようと抵抗を試みているようです。
 頭と燈籠の間には
霊芝雲のようなものがあります。

 ポーズは天燈鬼の「動」、龍燈鬼の「静」です。彩色は阿形が朱、吽形が青で、現在ど
こでも見られる赤鬼、青鬼のはしりでしょう。 
 
筋骨隆々の鬼が踏ん張らなければならないほど重い燈篭の材質はなんでしょうか。
 
このようなユーモラスな奇抜な構図を考え出す仏師は優れた想像者で慶派ならでは
の発想でしょう。     


          仮 金 堂

 「仮金堂」は「薬師寺の旧金堂」
を講堂の跡地に移築したもので
す。
  仮金堂の前の「中金堂」は解体
再建中で
再建に使用される木材
は主にアフリカ産のケヤキであ
りますがカナダ産の桧も使われ
るとのことで木造建築の素材調
達もグローバルなものとなりま
した。

 中金堂とは東金堂、西金堂の三金堂が建立されました故の名称です。
 中金堂は明治の廃仏毀釈で県庁舎となったとのことです。  

 


     西金堂跡


          薪能金春(こんぱる)発祥地

 「北円堂」と「西金堂」は隣接しておりました。父のための建物、北円堂と母のための
建物、西金堂を近くに配置をしたのは親思いの光明皇后の配慮でしょう。 

 
         北 円 堂
 
    宝 珠 露 盤

  地垂木(縦長の六角形)

  北円堂は残念ながら春秋のわずかな日数しか公開されません。公開日時について
は分かり次第お知らせいたします。最近は公開日数が少し長くなりました関係上ゆっ
くりとご覧になれますので日にちを合わせてお出かけください。建物の概観は少し離
れますが何時でも柵の間から垣間見えます。
 当初は円堂と呼ばれておりましたが
平安時代に南円堂が建立されましたので北円堂
と呼ばれるようになりました。同じことで南都とは京都に対比された奈良の呼称で、
奈良は京都の南にあるから南都と称されるわけです。

 北円堂は鎌倉時代の再建ですが、興福寺では現存最古の堂で、天平時代の律令政治
の立役者である藤原不比等の追善を営むために建立されたものです。

 建物は鎌倉時代には珍しい八角円堂で、屋根の軒に特徴があります。それは三軒
(みのき)で、通常は地垂木と飛檐(ひえん)垂木の二軒(ふたのき)の構成であるのに対
し、飛檐垂木が二つもあります(後述の「南円堂」に写真を掲載しておりますのでご参
照ください)。平安時代に、地垂木の断面が円から楕円、角と変化しましたが、当堂
の場合は六角形です。平安時代四百年のうち、三百年は藤原時代と言われましたこと
から建物、仏像が再製される場合は、藤原時代の様式で実行されることが多かったよ
うです。ですから、
垂木も地円飛角の伝統を守り地垂木を縦長の六角形にしておりま
すし不比等の廟堂ということか扉も古代の様式の内開きです。
 屋根に乗っている燃え上がるような火炎宝珠露盤も素晴らしいもので見応えのある
ものとなっております。

 

 「北円堂内の尊像は、鎌倉の仏教美術の一級品は興福寺にあると言われている中で
も、
鎌倉彫刻の貴重な文化財の宝庫と言えるところです。  

  「彌勒菩薩像」、「無著・世親像」は運慶の子息たち並びに弟子たち鎌倉彫刻界を君
臨した運慶一族が、統率者運慶の監督の下に、競って技をふるった作品です。運慶も
50歳代で円熟の極地にあり、それに運慶と技量が拮抗するくらい腕達者の仏師が、一門に多く存在したからこそ造像出来たのでありましょう。
 
最高の仏師は誰かと問うと殆どの者が運慶と答えるほど著名である運慶の最晩年の
集大成と言うべき鎌倉彫刻の精華を目の当たりに出来ます。

 脇侍と四天王は惜しいことに行方知れずですが現在、四天王像は平安初期の作品が
安置されております。この四天王像は大安寺に安置されていたのが移仏されたもので
あります。
像容は首がなくずんぐりとした肥満体で、しかも、平安時代の特徴である背面に垂れ
る裳裾は相当重そうであります。それでもガードマンとしての役割を果たそうとする
姿はユーモラスな感じがいたします。  


       彌 勒 仏 像

 本尊の彌勒仏像は、桧材ではなく桂材
で造像されております。
 菩薩像ではなくもうすでに如来像になっ
ていて、八角形の裳懸座に結踟趺坐してお
られます。
 弥勒菩薩は釈迦入滅から56億7千年の
後に我々の前に如来の身代わりとなって現
れ、悩み多き我々を救済する仏さんであり、
兜率天に居られるはずですが、将来如来に
なられることが決まったおりますので菩薩
でありながらもう既に如来形で表されるの
でしょう。
 偏袒右肩で優しさと気品に満ち深い落ち
着きのある像で、運慶一門の実力が充分発
揮された傑作となっております。
 
運慶も晩年ともなると老境に入り昔を懐

かしんだのかそれとも新しい作風への挑戦なのでしょうかダイナミックな彫りではな
く穏やかで控え目となっていました。興福寺は藤原氏の氏寺だけに藤原時代の様式に
近付けたのでしょうか。肉髻は低く、眼は流行の玉眼でなく彫眼で古様です。
はいえ、運慶も初期の作品と言われる「円成寺の大日如来像」には玉眼を用いておりま
す。しかしその後の運慶は如来、菩薩像には玉眼を採用しなくなったようであります。

 

 

    
       無著菩薩像

 兄弟の 「無著(むちゃく・むじゃく)・世親(せしん)菩
薩」は、インドの大乗仏教唯識派の大家で、この唯識派
の思想から法相宗が誕生しました。遠い異国の人の肖像
は、写実性を重んじたのか眼は玉眼です。動きのある像
は誤魔化しやすいですが、静かに立ち尽くす像で観る者
に感動を与えるのはむずかしいものです。写実の極致と
言える肖像で、肖像彫刻の最高傑作の一つです。
 
法相学の最高峰にあった無著、世親が居られる北円堂
は興福寺の重要拠点と言えるものでそれだけ不比等の偉
大さの証でしょう。
 素材は桂材で眉間に皺を寄せ、硬い志を秘めてじっと
凝視する顔ですが老人の優しさが窺えます。左手の掌に
宝篋を乗せ右手をそっと添わせており僅かに右下に視線
があります。
 本尊に比べ衣文の彫りは深いです。インドの高僧を想
定して造像されたと思いますがただこの装いではインド
の気候風土を考えると汗疹が出来て大変です。 

 古代から魅了し続けてきた本像と阿修羅像は現代でも多くの人を惹きつけ立ち去り
がたい尊像だとおっしゃいます。どうか、北円堂の春・秋の開扉期間に合わせてお出
かけくださり心ゆくまで寛ぎの時間をお過ごしになり日々の疲れを癒されますように。

 


        南 円 堂

 奈良時代は「東塔」「西塔」の2塔方
式でありますのに、西塔は建築され
なかったようで、その予定場所に
「南円堂」が建てられました。
 本尊は「不空羂索観音像」で、不空
羂索観音は春日大社の本地仏という
ことで正面には「注連縄(しめなわ)」
が飾れております。
 庶民信仰の南円堂は西国三十三所
観音霊場の第九番目札所で、お参り
する人で連日賑わっております。
 左横にあります「一言観音」もお参
りされる方が多くおられます。
 
南円堂には運慶の父・康慶による

不空羂索観音像、四天王像、法相六祖像など鎌倉の見応えのある尊像が安置されてお
りますが残念ながら開扉されることは殆どありません。ただ、法相六祖像だけは国宝
館に飾られております。正面の唐破風の向拝は当初にはなかったことでしょう。

   南円堂の前庭の両側に藤棚がありますが
 それは
観音の浄土・補陀落山には藤の花が
 咲いている由来によるものです。

   「北円堂」と同じように垂木は
 「三軒(みのき)」です。
 
   
       三 重 塔

 平安時代に創建された「三重塔」は和様化の
現われで初層には周り縁が付くようになった
初期の建築です。再建も
平安時代の建築様式
で施工されております。
  各重の「桁行・間口」の逓減率は、「五重塔」
の初重、四重、五重が、この三重塔の初重、
二重、三重に採用されており、初重目と二重
目の桁行・間口の逓減率が大きくなっており
ますのが、写真でお分かりになることでしょ
う。このことは、
五重塔を意識したかそれか
裳階を意識したのかどうでしょう。法起寺
(ほうきじ)三重塔も法隆寺五重塔の初重、三
重目、五重目の形をそのまま用いて造られて
おります。  
  この三重塔も五重塔と同じように「廃仏毀
釈」時代には壊されかかったようですが。
  南円堂の西側の低い土地にあるため人目に
つきにくいので見過ごさないよう是非お訪ね
ください。
 

 

 
      猿 沢 池

 少し濁った猿沢池の周りには多くの人が三々
五々に散策を楽しんでおられます。幼い子供た
ちは亀や鯉に餌を与えて喜んでおり、ほほえま
しい光景です。また一方、「采女(うねめ)」と言
う女性が天皇の寵愛が途絶えたことを悲しみ入
水自殺した悲しい物語もあります。
  池には竜が棲むという伝説があります。が、
もうすでに、竜は水中から竜巻となって飛び出
して、室生にお出かけになったとのことであり
ます。 池の向こうは「奈良町」です。

 

 

             画 中西 雅子