室生寺

 「室生寺」は「桓武天皇」が東宮時代に病気になられた時、龍神信仰の室生山で行われ
た祈祷の霊験で快癒されたことを感謝され、天皇の発願で興福寺の僧・「
賢m(けんき
ょう)
」が国家鎮護の寺、室生寺を建立されたということです。都からこの室生の遠隔
地に国家鎮護の寺院を建設されたのはそれだけ色んな意味で室生寺を重要視されてお
られたからでしょう。「宀一山(べんいちさん)」は室生寺の山号です。

 室生寺は現在、「真言宗室生寺派」の大本山ですが、法相宗、天台宗、真言宗の影響
を受けその都度変革すると言う多難な歴史をもっておりますだけに、多種多様な仏教
美術が保存されており、特に、初期の密教美術の宝庫となっております。室生寺は僧
兵を持たなかったことと平安京の都からはるか遠い位置に存在したため、内乱、焼き
討ち等に遭うことがなかったことが幸いでした。
 現在、アジアにも殆ど残っていない密教美術を多く所持する貴重な寺院ですのに
「石楠花」の方が名高いとは残念なことです。
 
 
開創は賢mで基礎固めをしたのが「修円」で両人とも興福寺の僧でした。修円は同じ
興福寺出身の「最澄」から天台の教義を受け天台学をも修めていました。もし、最澄が
比叡山に戒壇を設立したいと願わなかったら修円(興福寺)と最澄(延暦寺)とは親密な
関係であり続けましたのに、この問題が拗れて友好関係が壊れてしまいました。その

状況が変わり、延暦寺から室生寺に僧が入ってくるようになり天台との関係が深ま
っていきました。つぎに、天台密教に代わって真言密教が勢力を伸ばし始め、室生寺
に真言密教の灌頂堂(本堂)が建立されたのであります。とはいえ、興福寺は大和の寺
院の総てを末寺にするくらい実力は侮りがたく、室生寺に対して興福寺の影響は江戸
時代まで続きます。興福寺は真言勢力に対抗すべく金堂(薬師堂)の尊像安置に関して
藤原氏の氏寺・春日社の本地仏の五尊像に変更したのであります。
 春日社の本地仏とは、一宮は釈迦如来、二宮は薬師如来、三宮は地蔵菩薩、四宮は
観音菩薩(十一面観音)、若宮は文殊菩薩です。このように、興福寺の都合の良いよう
に五尊像を改変したのは室町時代と言われますが確たる証拠はありません。ただ、無
理をして安置されていることは事実であります。と申しますのも、金堂内での五尊像
は肩と肩が触れあるような混雑振りのうえ五尊像の像高、様式が相互に異なるところ
が多いからであります。
 江戸時代になりますと五代将軍「徳川綱吉」の母「桂昌院」の力添えで、室生寺は興福
寺の法相宗から離れて真言宗の寺院となりました。真言密教は女人禁制でありますが
女人救済の寺「女人高野 室生寺」と標榜されたのは、桂昌院からの要望というより室
生寺の方で桂昌院に気を使われてのことでしょう。後述の「表門の石標」に桂昌院に実
家の家紋が入っておりますことから想像できます。室生寺が
女人高野になった時多く
の女性は涙して喜んだことでしょう。
 
 室生地域は雨が多く、近くには多雨で有名な大台ケ原があります。昔から
室生は、
大和の東方にあり、東の守護神は青龍という思想と雨が多いということが結びついて
室生山には龍神が住むと考えられて龍神信仰が盛行だったのでしょう。それゆえ、

生寺は雨乞いの行事で寺名を馳せておりました。
 「室生寺の龍穴神」は貴族に列せられ、「龍王寺」という称号が贈られました。
この龍
王寺の神宮寺だった室生寺が、国家鎮護の寺院として歴史の表舞台に出てきたのであ
ります。
 伝説によりますと室生の龍王は、興福寺のある「猿沢池」に住んでいたのがある日室
生の里に移って来たと言われております。

 農作物は自給自足時代であり、農業にとって欠かせない大切な水は、ダムなどの貯
水設備が無いだけに雨に頼らざるをえなかったのです。現代もそうですが雨は
天の神
に祈るほか成すすべもなく、雨乞いは重要な儀式で天皇自ら雨乞いがされ、最初に雨
乞いの儀式を執り行われたのは「皇極天皇」でした。天皇が天を仰いで祈雨をされたら
幸いにも雨が降って農民は大はしゃぎして喜んだらしいですが、もし降らなかったら
皇極天皇の立場はどうなっていたのでしょうか。(皇極天皇時代に天皇の呼称はまだ
なく天皇の呼称が使われ始めたのは天武天皇時代と言うのが一般的であります。)
 旱魃に際して雨乞いの儀式に天皇が関与したことなど今の若者には理解できないこ
とでしょう。 
 あらゆる祈願の中に必ず含まれていたのが「五穀豊穣」で、この五穀豊穣の五穀とは
昔は、「稲、麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、豆」の五穀であったのが近世から「米、麦、粟、
黍(きび)、豆」と変わりました。五穀のうち米、麦以外は雑穀といい、食料が豊かな
時代を迎え、雑穀は家畜、小鳥、ペットの餌となっておりましたのが今日では健康食
品として見直されているようです。粟おこし、黍(吉備)団子はその名の通り粟、黍を
使用されているように見えますが粟おこしも黍団子も材料は現代人の口に叶うよう変
えられております。粟だけの粟おこし、黍だけの吉備団子を一口食べてみたいものです。余り美味しくないと思われますが健康食品として尊ばれるかも知れません。桃太
郎の伝説では人間ではなく犬・猿・雉の食用ということで黍団子が選ばれたのでしょ
うか。
 私は五穀は米、麦、豆しか知りませんが江戸時代頃までは五穀が口に入れば庶民は
大満足だったことでしょう。
 私が給食センター設備の営業をしておりました昭和30年代には、土方(どかた)の弁
当箱を略した呼び名の「どか弁」がありました。その弁当箱で米、330g(2合2勺)を蒸
気で炊いておりました。今の時期330gのご飯を頼む方はまずいないことでしょう。
しかし当時は、多くの方が希望され腹一杯になることで満足されておりました。それ
が今からたった50年の前の話です。さらには、米の量を節約するため麦を加えており
ましたが麦は水に浮くため弁当箱の上面に集まって炊き上がり蓋を取ると麦しか見え
なくて評判は悪かったです。最近は米があまり食べられなくなり主食だった米が副食
と言われるくらいに米の消費が落ちており現代、米の消費量はピークだった昭和37年
の半分となっております。五穀豊穣の雨乞いが理解できるのは我々年配者に限られる
ことでしょう。

 室生寺は奈良県宇陀郡室生村という村に存在するだけに、喧騒の都会とは違い秘境
の世界です。ただし、春の石楠花(しゃくなげ)、秋の紅葉、雪景色のシーズンなどは
一変して人々で大変な賑わいとなります。私は石楠花、紅葉の僅かな時期だけは避け
ることをお勧めしますが、我々は四季折々自然の豊かな国の住民だけに難しいでしょ
うね。石楠花などのシーズンでは開門が早朝の6時となり早朝拝観者や撮影者にとっ
ては心憎い気配りですが念の為拝観の際には一度電話(0745-93-2003)確認をしてから
お訪ねください。
 室生寺は奈良県と
三重県の県境にあり、近鉄名古屋駅から室生口大野駅までの所要
時間は2時間程度です。


  室生寺は平地が少ない傾斜地をあるがままに利用して殆ど手を加えておらず、山岳
寺院の典型的な伽藍配置です。石段を駆け上がらないと行けない段状の敷地に金堂、
本堂、五重塔が散在しております。
 境内の自然豊かな清浄な空間が堪能できることは自然を愛する日本人にとっては何
にも代えがたい癒しの空間と言えることでしょう。   

  


    鮮やかな朱色の「太鼓橋」


         室 生 川

 室生山は龍神を祀る聖地として崇められており、人々は室生川の清流で禊をして身
を清めた後、神々しい気持で礼拝されたことでしょう。この室生川が毎日、飲用して
いる水道の水源・淀川の支流とは知りませんでした。大阪市の水道が美味しいのは龍
神の霊験水が含まれているからでしょう 。
 太鼓橋のたもとにある創業300年の歴史を誇る「橋本屋・橋本旅館」で、美味しい山菜
料理を頂くのが楽しみの一つという方も居られます。 

 

  「表門の石標」には「女人高野室生寺」とありますが、これは「女人禁制の高野山」に対
してでした。 
 「桂昌院」の実家本庄家の家紋「九目結文(ここのつめゆいもん)(緑矢印)」です。


  吽形の仁王像


  阿形の仁王像

 「仁王門の石標」には「女人高野 大本山室生寺」とあります。

 

       石楠花の「鎧坂」              新緑の「鎧坂」

 自然石が積み上げられた急坂の「鎧坂(よろいざか)」です。この坂を上がりきると
面の台地に
華麗な「金堂」、その前庭の東側に「天神社」、西側に「弥勒堂」があります。
鎧坂の両側はあでやかな薄紅の石楠花 、目にもさわやかな新緑、真っ赤に燃える紅
葉、シーンと静まり返った白の雪景色と四季折々に変化する鎧坂です。 

  
金堂の西側の階段を登ると「本堂」、さらに階段を登ると「五重塔」、その五重塔の西
側を上がると「奥の院」へと続き、階段を登らなければどこへもいけません。


                     金 堂(懸造の金堂) 

 「金堂」の周囲は杉木立で囲まれていて超広角のカメラでないと金堂の全景が撮影で
きません。
 「法隆寺金堂」のように仏像収蔵庫的な「正堂」だけだったものが、後の時代に礼拝空
間の「礼堂」が必要となり、増設する礼堂の場所が崖や傾斜地、池などの制約がある場
合はどうしても懸造(かけづくり)形式にせねばなりませんでした。
このような段差のある場所に建築せねばならないほど室生寺は地理的なハンディがあ
りましたがそれが反って日本人好む風雅な金堂となったことでしょう。庇を葺き下ろ
して礼堂としております。
 懸造の建物には、「東大寺二月堂」「清水寺本堂」「長谷寺本堂」などがあります。ただ、
正面に舞台のような大きな縁を持っている場合は「舞台造」とも言われます。
 中世には根本堂、薬師堂、本堂といわれてきましたが真言宗に改宗した頃から灌頂
堂が本堂と称されるのをうけて金堂と改称されたのでしょう。
 板敷きの床になる過程の建物で、本来基礎からかさ上げして実施するのが金堂の場
合はかさ上げするのではなく地表に板を敷いたような床構造になっております。
 古い案内書では尊像が近くで拝観できると記載されており、以前は外陣まで入れた
ようであります。現在は東側面から入り廻縁を右繞礼拝できるようなっております。
  天平時代までの土壁と違って総べて「板壁」、垂木は「地角飛角」と日本様式です。  
 主要部材は桧ではなく「杉」というのは多雨の地域のことを考えての選択でしょうか。


         柿葺の屋根


       礼堂部分

 屋根は「柿葺(こけらぶき)」で、柿葺屋根の微妙な曲線は本瓦葺では絶対に成しえな
いものであります。本瓦葺の場合コーナなど屋根が変化するところにはそれ専用の瓦
が必要となるのに対して、柿葺の場合は専用の瓦は必要なく、建築途中でも屋根の軒
反りなどは自由に変更出来、どんな形の屋根でも思いのままに造れる利点があります。
また、ふっくらとほどよく古びた柿葺屋根の金堂は、周りの風景とマッチしてしっと
りと落ちついた気品漂う建物となっております。このことは「桧皮葺」でも同じことが
言えます。

 柿葺の建物は「桂離宮」「如庵」などがありますがやはり京都に多く存在いたします。
  柿葺の材料は椹(さわら)それ以外に杉、栗があり、厚さは約3ミリ程度の板で、
この柿板を積み重ねて葺く建築工法が柿葺です。「柿」板は素材を割ってつくるため、
「桧」では繊維が絡んで割りづらいため使用しないということです。  
 「柿葺」は、寿命の短い桧皮葺よりさらに短く維持管理が大変です。
 余談ですが、「柿(こけら)落とし」の柿とは「かんな屑」のことで、建物、舞台のかん
な屑を落としきれいにしてから劇場を開場したことから、劇場の初開場のことをいい
ますが「催し物」の初日を言うこともあります。
 現在はこけらもかき(果物)も同じ柿の字となっておりますが字を拡大すれば少し違
うのが分かります。


     連子窓の唐戸面

      大 斗 肘 木
  「斗栱と蟇股の話」をご参照ください。

 


              蟇 股と薬 壷

 「礼堂の蟇股」には「薬壷」が彫刻
されています。昔、「金堂」は「薬
師堂」といわれていた名残でしょ
う。なお、仏像の撮影は駄目です
が蟇股はOKとのことですが堂外
からの撮影となります。

 

 

   
     薬 師 如 来 立 像 

 「本尊」は「伝 釈迦如来像」といわれておりますが、
金堂の「蟇股の薬壷」と本尊の前には「薬師如来の眷
属」である「十二神将像」があることから考えますと、
昔は「薬師如来像」だったことでしょう。
 材質は「桧」でなく、「榧(かや)」の一木造で、後
述の「十一面観音立像」、「釈迦如来坐像」と「新薬師
寺本尊」も同じ素材です。
 新薬師寺本尊は「翻波式衣文(ほんぱしきえもん)」
ですが、本尊は「漣波式衣文(れんぱしきえもん)(
矢印
)」という様式で、翻波式では太く丸みのある大
波、細く鋭い小波の繰り返しですが漣波式は大波、
小波、小波と規則的な一つのパターンで構成されて
いて、この様式は室生寺だけにしか見られない珍し
いものです。
 太股の量感を衣文で表現するのは弘仁・貞観時代
の特徴です。しかし、面立ちは藤原様式に移る過渡
期の作品で、弘仁・貞観像の厳しさよりも優しく穏
やかなものとなっております。   

  「延暦寺薬師如来像」の「朱衣金体」の影響を受けたといわれており、衣の彩色はベ
ンガラ彩だったようで後世の補色ですが朱の名残が伺えます。肉身部は黄色彩色だ
ったらしいですが現在は彩色が褪色して下地の黒漆があらわれて黒い肉体となって
おります。
  それと腹部の二条の線(紫矢印)は延暦寺、室生寺の仏像だけで造像当時は天台宗
の影響が強かったので天台風の仏像となったのでしょう。
 白亳が目立つほど大きく、右手は大きいが手首は長くしなやかです。

  「板光背」は最初に造られた作品であるのに、出来栄えは最高傑作と言われるほ
ど極めて価値のあるものです。それだけに、板光背だけでも一見の価値があります。光背は平らな板に見事な絵模様が彩画されており七仏薬師も描かれております。
 木の特徴を見極めた漣波式の流麗な衣文、精緻に彩画された大きな絢爛、華麗な
板光背などの様式を総称して、室生寺様といわれ室生寺独特のものであります。ど
うして、都から離れた室生の山里に漣波式衣文、板光背の新様式などの独創性に富
んだ
室生寺独自の文化が誕生したのでしょうか。

 薬師如来から釈迦如来に改名されましたが堂内にはもう一体の薬師如来像がある
ためでしょう。真言密教では薬師如来が本尊でもなんら問題もありませんが天台密
教の本尊・薬師如来に対抗しての改名ではないでしょう。 

 
        
      十一面観音立像

 「十一面観音像」も本尊と同じく榧の一木造です。
下町娘をモデルにしたようで頬がふっくらしてなん
となく親しみがわき、慈愛溢れる菩薩らしい像です。
 「華瓶(けびょう)」は注ぎ口(緑矢印)が付いた珍し
いもので親指と中指で艶かしい持ち方です。インド
で必要とした水筒(水瓶)の名残でしょうか。 
 腹部に二条の線があるのは本尊と一緒です。
 顔の「白亳」、胸飾り付「瓔珞」での腹部にある「輪
宝(紫矢印)」は何となく大き過ぎるように見えます。
この大きな輪宝は妊婦の安産祈願を表しているとも
いわれております 。
 衣文は漣波式衣文でなく翻波式衣文です。
 なで肩ではありませんがこぼれそうなほっぺ、細
い伏目と小さいかわいらしい口唇、しなやかな手な
ど「女人高野」にふさわしい優しさと品格のある清浄
無垢の像といえましょう。

    ※ 地蔵菩薩については「地蔵菩薩のお話」の安産寺をご参照ください。

     

 

  「軍荼利(ぐんだり)明王」は「天
神社」の隣にあり
苔むした石仏
なっております。
 一面八臂の軍荼利明王で庚申祭
の本尊とのことです。


                 弥 勒 堂 


  金堂        弥勒堂   

  「弥勒堂」は素朴で飾り気のない建物で周囲の樹林に溶け合っております。近い将来
国宝指定になることでしょう。
 須弥壇の下から籾塔・木製宝篋印塔が37387基も出てきたとのことです。膨大な数
からすると庶民も加わり五穀豊穣を祈願されたのでしょう。法舎利以外に籾を一粒か
二粒を入れられたのは五穀豊穣を願ってのことでしょうかそれとも、肉舎利として籾
を選ばれたのでしょうか。 


       釈 迦 如 来 坐 像 

 「釈迦如来像」は榧の一木造です。
 膝高がありしかも膝幅が広くどっし
りと座っておられいかにも男性的な像
です。
 頭部の「肉髻」は高いうえに「剃髪」と
いう珍しいものです。それとも、螺髪
が取れてしまったのでしょうか。
 「白亳」が当初はあったのでしょう。
 「衣文」は翻波式のうえさらに「渦文
(青矢印)」と「三角の襞(緑矢印)」など
があり賑やかな装飾です。翻波式衣文
は先を平にして鎬だっておらない大波、
小波は、はっきり区別が付くくらい大
きさに差があります。
 賑やかな衣文でありますが煩瑣感は
なく装飾性にも優れた像となっており
ます。

 釈迦如来象は「撫仏(なでぼとけ)」です。昔、多くの仏像は撫仏といって、悪い病気
を治してもらうため、悪い患部と仏像の同じ部位を撫でながら祈願すれば完治すると
いわれておりました。その証拠に膝の悪い人が多かったのか、膝のあたり(赤矢印)が
黒く光っております。この膝に多くの悩める者がすがったことでしょう。四足だった
人間が二足歩行ではどうしても膝に支障が出るのは宿命でしょう。
 隆々たる肉体の大変な美男子で、女性の心を虜にしたイケメンの仏さんで今も女性
を魅了し続ける見応えのある作品を堪能してください。   


         本 堂(灌頂堂)

 真言密教のお寺になる
と、一山の中心堂宇は「金
堂」から「本堂」に変わりま
した。    
 本堂の建物は和様、大仏
様、禅宗様の混交(淆)とな
っております。屋根は「桧
皮葺」であります。桧皮葺
の建物には我が国特有の
「神社」がありますように、
日本古来の重要な建物の大
部分は桧皮葺で、「京都御
所」などがあります。それ
だけに古く、桧皮葺、柿葺
から「瓦葺」、そして「日光

東照宮」の「銅板葺」が誕生いたします。「瑞龍寺」には「鉛板葺」の仏殿があります。
  現在、桧皮葺屋根の材料である桧皮が不足しており、深刻な問題となっております
のはご存知の通りです。
  「本尊如意輪観音像」は「観心寺(大阪)」、「甲山神呪寺(かぶとやまかんのうじ)(兵
庫)」とで日本三大如意輪観音といわれておりますが、本尊は残念なことに「秘仏」でご
覧になれません。如意輪観音は密教寺院で多く造像されました。
 鎌倉時代後期に建立、この場所には創建当初の本尊を祀るお堂(本堂、金堂)があっ
たらしいです。本堂では真言密教の重要な儀式である「灌頂」が行われます。灌頂には
結縁灌頂、受明灌頂、伝法灌頂があります。真言密教では灌頂があり戒壇を必要とし
なかったので南都仏教とは軋轢が起きなかったのでしょう。
 屋根の隅の反りは厳しく禅宗様の建物を見ているようであります。板壁で周囲に縁
を廻らしております。木立の囲まれて静かに佇んでいる優雅な本堂です。


     板壁        桟唐戸 

 

     大仏様の木鼻

   妻飾は禅宗様の虹梁大瓶束 

 桧皮葺の屋根に草が茂っていて生きた「草葺」の屋根にもなっております。日本人にとっては堪らない情景でしょう。昔、ありました「上土門」はこんな感じの中に花が咲いていたのでしょうか。

 

 

        
        柱昌院のお墓

 「表門の石標」には「桂昌院」の
実家の家紋(緑矢印)があります
のと、「灌頂堂」の隣に桂昌院の
お墓までがあります。
 桂昌院は五代将軍「徳川綱吉」
の母で悪法「生類憐みの令」で人
間を無視したので評判は芳しく
ないですが仏教に厚く帰依され、
古都奈良の寺院の維持に大変な
貢献をされました。古都奈良が
今日あるのは桂昌院のお陰とも
いえましょう。

 



       五 重 塔  

 室生寺では最古の建造物と言われます
がどうして本尊を祀るお堂より先に「五
重塔」が建立されたのでしょうか。
 高さは16.2メートルで、屋外の五
重塔では我が国最小の塔で、弘法大師の
一夜造りの伝えがあります。塔高は通例
の五重塔の高さの三分の一で設計されて
おります。下から見上げて目を動かさず
に全景が見える姿は女人高野に相応しい
塔高といえましょう。
 女人高野ゆえ女性の拝観者が圧倒的に
多いと言うことですが、鮮やかな自然と
渾然一体となった堂塔が自然の一風景と
なっており、この室生寺の象徴的な景観
が女性にとってたまらない魅力となって
いるのも要因の一つでしょう。
 真言密教では「多宝塔」ですが、女人高
野では五重塔が似合っております。下か
ら見上げる五重塔は何ともいえない風情
があります。石段が仏像の裳懸座のよう
に見えます。

 1998年の台風7号で、樹齢650年の杉の巨木が、五重塔に倒れ掛かり大きな被害を受
けましたが関係者のご努力によりまして、「可憐な五重塔」が復元いたしました。
 屋根の広がりが異常に広いうえ逓減率が小さいので、大きく広げた屋根となってお
ります。普通なら重苦しく見えるのにそんな感じもなく鬱蒼たる木立に溶け込んでい
て軽快な優しい屋根となっております。桧皮葺ならではで本瓦葺であればこんなやさ
しい眺めにはならなかったことでしょう。
 まだ、朱塗りである塔は見上げる、見下げるの両方の眺めが楽しめます。さらに、
左右の石楠花を愛でながら石段を登れば最高の眺めとなります。    

 
    相  輪

  
   相輪(室生寺)            サーンチ第三塔(インド)

  水煙の代わりに「受花付き宝瓶(赤矢印」)で、その上にあるの
は「八角形の傘蓋(さんがい)(緑矢印)」と珍しい形式のものです。
インドの傘蓋が我が国では輪と変わりましたがインドの傘蓋の
面影を残したのがこの八角形の傘蓋でしょう。 

                 

 白色に塗られた軒裏、白い軒先の厚さは極端に厚くひときわ際立っていて、明るい
感じに仕上がっております。軒は「地円飛角」です。 


        三 重 目


       初 層

 3重目以上の横連子が中央で開いていますが、中央が開くのは平安時代以降です。
 「初層の柱」は建物の大きさに対して少し太すぎるようです。組物の部材
「大斗」「肘
木」「巻斗」が同一寸法であるのは「元興寺五重塔」と同じです。部材の寸法を同一とす
るには柱間が一番狭くなる最上層に合わさざるを得なく、しかしこれでは、初層で
は小さく弱々しくなりどうしても柱を太くする必要があります。
それと、室生は雨
多い地域で桧皮葺も通常の半分しかもたないといわれるだけに雨風による木部の腐
食を考慮して柱を太いものにされているのでしょう。 
 中備の間斗束、連子窓がありませんので白壁が目立っております。 

  

      シダ群落地

 天然記念物の暖地性シダ(羊歯)の群落があります。 「イヨクジャク、イワヤシダ、
オオバハチジョウシダ」などの珍しいシダがあるらしいですが不勉強で分かりません
でした。
 「奥の院」への参道の最後は急坂ですが、整備された僅か400段の階段です。是非奥
の院まで登り参詣してください。
  途中は「シダの群落地」、無明橋の下には「賽の河原」などが老樹の杉林の中にあり、
閑寂なところです。色んな思いに浸りながらどうぞ。


                   無 明 橋

 無明橋は上からの撮影で帰りの風景です。この無明橋を越えると左の急坂が始まり
ます。

 
           位 牌 堂


  眼下の室生村

 懸造の「位牌堂」です。懸造の舞台には休憩場所が設けられております。その舞台か
ら見下ろすと深山の木々の僅かな隙間から上記の「室生村」が見えるだけで絶景かなと
はいきません。奥の院界隈は厳粛そのもので華やいだ雰囲気ではありません。 

 


         御 影 堂

 「御影堂(みえどう)」は鎌倉
時代に建立され、「弘法大師」
をお祀りされております。
 宗派によっては「ごえいど
う」といいます。御影堂は「開
山堂」とも言われますが、「唐
招提寺御影堂」、「法隆寺聖霊
院」などがそうで、鎌倉時代
になると、大規模な堂となり
重要視されます。その影響で
肖像彫刻が盛んになります。
室生寺での開創といえば賢m
が居られます。

 奥の院御影堂は三間堂、瓦棒付の厚い流板(ながしいた)の二段葺きです。四方は中
央に扉、両脇は白壁となっております。露盤は石造という珍しいものです。
 縁が廻っておりますが屋根の出をこれ以上深くするわけにいかず、縁に雨が掛かる
のを防ぐため斜め板が置かれております。
 左上方に石造の七重塔が見えます。

 

 4月終わり頃から5月の初めには淡いピンク色した石楠花が咲き誇っております。
石楠花は女人高野らしいおとなしい上品な花で、多くの人を楽しませております。
その株数は三千株とも五千株ともいわれております。秋の紅葉、冬の雪景色もまた
一段と綺麗でしょうね。
 澄みきった空気の境内では四季折々に変わる花が楽しめ、身も心も洗われ日々の
疲れが癒される室生寺です。 

 

 

                            画 中 西  雅 子