地蔵菩薩像のお話  

 今回は信仰の対象において「観音」と人気の双璧である「地蔵菩薩」を取り上げました。
しかし、造像数においては観音をはるかに凌ぎます。
  地蔵菩薩は仏堂に安置されるより各地の寺院境内、村の入り口、峠、あぜ道、四辻、
墓地の入り口や墓地内などの野外に安置され、堂内安置より野山、路傍に多いのは庶
民信仰の表れでしょう。それと、観音は秘仏が結構ありますが地蔵は秘仏にされるこ
とがないのも人気の要因でしょう。
 「とげ抜き地蔵」、「イボ取り地蔵」、「子育て地蔵」、「子安地蔵」、「安産(腹帯)地蔵」、
「田植え地蔵」、「裸地蔵」、「身代わり地蔵」、「縛り地蔵」、「延命地蔵」、「勝軍地蔵」や
この世に生をうけなかった水子の供養をする「水子地蔵」などでこれ以外にも数え切れ
ない程の専門的な名が付いた地蔵菩薩が考案されたのは、それだけ一般大衆にどんな
願い事でも頼める菩薩として認知されていたからでしょう。
 
 「薬師如来」は医師であらゆる病に対応していただけますように現世でも医師は一人
で内科、外科、眼科など30近くの科の看板を出すことが出来ます。しかし最近では、
医療の高度な知識、技術に追いつき医療の向上に努められた方を専門医と認め、その
専門医になるには適正な試験に合格するだけでなく更新が義務付けられているのです。
一旦医師になれば更新もなしに一生医療が続けられる一般医師との差別化が専門医で、
専門医とは専門分野に於いて優れた医療技術を備えた医師としての資格があると言う
ことでしょう。そういうことからいいますと地蔵菩薩は専門医のようなもので専門分
野での救済の役目を担われることが大きな特徴と言えるものでしょう。  
   
 地蔵菩薩は菩薩といえ「声聞形(しょうもんぎょう)」とか「比丘形(びくぎょう)」で托
鉢の僧侶、雲水に似ており違いは宝珠を持っている、瓔珞の胸飾りを着けている、さ
らには、額の中央に白亳があることです。ただ、胸飾り、白亳が無い地蔵菩薩像もあ
ります。服制は通肩です。頭を剃り上げ丸坊主の姿をされていることは我々衆生の身
近に居りますよということでしょう。阿弥陀如来は常に遥か彼方の極楽浄土に居られ
るのに対し地蔵菩薩は自分の身近に留まって居られるのでお願いし易かったので、異
名の地蔵菩薩が多く誕生したのでしょう。
 雲水は網代笠を被りますが地蔵菩薩は何も被りませんので髪の毛が無い菩薩は地蔵
菩薩だと誰でも分かります。中国、韓国では帽子を被った被帽地蔵がありますが我が
国では見当たりません。ただ、路傍の地蔵さんには暑かろう寒かろうと心根が優しい
方が帽子を被せた像があります。

 
 地蔵菩薩のシンボルといえば「錫杖(しゃくじょう)」と「宝珠」であります。
 「錫杖」は雲水が乞食(こつじき)に回る際持ち歩き、錫杖を地面に叩きつけ錫杖の頭
部に付いた金輪同志を衝突させて金属音を出し、家人に雲水が来訪したことを知らせ
ます。今なら呼び鈴ですが呼び鈴では押し売りと勘違いされる恐れもありますので錫
杖を鳴らすのが一番適当な方法でしょう。また、錫杖は猛犬や野獣から雲水の身を守
る護身用武器でもあります。
 錫杖の「錫」とは金属元素の「すず」ですが主材料は錫ではなく一般的には銅に錫と鉛
の合金で鋳造仕上げです。立像ですと身長に近い長さですが坐像ですと当然短くなり
ます。僧侶や在家の方が手に持つ短い柄の錫杖は錫杖を地面に打ちつけ音を出すので
はなく手で振り打ち鳴らすものです。
 錫杖の主材料の銅に錫や鉛と加えますと硬くなりそれだけ反響する音色が良くなり
ますが金属は脆くなります。このことは寺院の梵鐘についても同じことが言えます。 
 地蔵菩薩像の古い制作年代は平安初期で当時、右手は与願印であり錫杖は持ってお
りません。「法隆寺の地蔵菩薩立像」でお確かめください。錫杖を持つようになったの
は各地の悩める者、助けを求める者の救済にくまなく巡行されるようになったからで
しょう。

  「宝珠」の正式名は「如意宝珠」で日本の「打ち出の小槌」、西欧の「アラジンの魔法の
ランプ」のようなもので思うままに願うこと総てが叶えられる「珠」のことです。「如意」
と言えば「孫悟空」の意のままに伸縮自在の如意棒はよくご存知のことでしょう。
 宝珠は「竜王」の脳から取り出したといわれております。
 「法隆寺夢殿」、「興福寺北円堂」には優作の「宝珠露盤」と言うものがありますがここ
での宝珠は如意宝珠ではなく仏舎利を納める舎利塔に似ているための名称でしょう。
 宝珠といえば如意宝珠と法輪を持つ「如意輪観音」ですが「法隆寺金堂の吉祥天像」も
左手に宝珠を持っております。

 「勝軍地蔵」だけは甲冑を身に着け手に剣を取り、中には馬に跨る像もあります。戦
場に出向く当時の武士たちが勝軍地蔵に連戦連勝の祈願をしたため広く信仰されたよ
うです。けれども、武士たちは勝利を願ったことは勿論ですがそれよりも家族の元へ
無事に帰還できることの方を強く祈ったことでしょう。
 勝軍地蔵は「矢取り地蔵」、「矢拾い地蔵」とも言われます。
  
 「六地蔵」は釈迦入滅後の無仏の時代、天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道輪
廻から迷える衆生を救い出す役割を担った菩薩です。この場合地蔵は一体で六種の地
蔵となり六道で衆生を救済いたします。すなわち、六道の総てで対応するわけで六道
のそれぞれで救済している姿を六地蔵として現したものです。

 天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道で最悪の所、地獄に堕ちるのは生前中に
善を積まなかった不心得者で、皆さんのように積善を心がけた方は閻魔大王に呼び出
され閻魔帳を覗いて判決を受けることもなく浄土に赴かれることでしょう。
 地獄に堕ちてしまえば救いようがありません。地獄の向かう亡者を娑婆と地獄の境
界で「地獄の十王」が亡者の生存中の業の履歴が記された閻魔帳によりどの地獄に送る
かを評定して判決いたします。その裁判で被告の弁護をするのが地蔵菩薩であります。
十王の中の裁判長が「閻魔大王」でありますが閻魔大王は地蔵菩薩の化身であると言わ
れるようになります。そうなれば、判決を下す裁判長と被告を弁護する弁護士が同一
人物となりますので無罪が期待され、もう一度娑婆に戻れる可能性があることから地
蔵菩薩が庶民に信仰されたのでしょう。この信仰は民衆に地獄に対する恐怖観念を植
え付けた結果、貴賎を問わず地獄を大変恐れたことも一因でしょう。
 地蔵菩薩を熱心に信仰したお陰で冥界から生き戻った話が多く『今昔物語集』に出
ております。
 現代でも、先生が生徒の成績、出席状態などの評価を記したものが俗に閻魔帳と言
われ生徒には自分の評価がいかなるものか気になることでしょう。
 「地獄」とはインドの古語であるサンスクリット語の音写で「ナラカ」となりそこから
「奈落」となったのであります。舞台の地下室を奈落と言うのはここからきております。
これを漢訳にすると地獄となり地獄とは「地下にある牢獄」の意味であります。

 昔は衛生状態、病気に対する手立ては共に劣悪で何の処置も講じないまま乳児を亡
くした辛い現実は、母親にとってなによりの悲しみだったことでしょう。さらには、
親より先に亡くなったわが子の冥福を祈る事が「逆縁」で、この逆縁は一番の親不孝と
言われ、その親不孝の子供は『地蔵和讃』にあるように地獄である「賽の河原」で鬼
に苛められ苦しみを受けるのです。その鬼の酷い仕打ちから父親、母親恋しと言う我
が子を助けだすことが出来るのは地蔵菩薩だということになり、子供の守り本尊とな
ったのでしょう。昔、子供は大切な労働資源であり、多産が当たり前でそれだけ多死
だったことでしょう。
 最近は長生きする人が増えつつあるのに反しまだ働き盛りの60歳代で亡くなる方も
目立っており逆縁が増える傾向にあります。
 地獄の入り口での救済で「泣く子も黙る恐ろしい閻魔大王」に変身したり亡くなった
子供の救済の役割まで担う「あどけない子供」に変身したり地蔵菩薩は八面六臂の活躍
と言えます。  

  私事ですが5年前に父親が亡くなってお墓を造ることになり
幼児でこの世を去った弟の冥福を祈って我が家の墓に並んで可
愛らしい童子形の地蔵菩薩をお祀りしました。頭がつるつるで
赤いよだれかけをしており幼い子供のようでお地蔵さんが弟の
身代わりのように見えます。
 関西では8月24日、「地蔵盆」の行事をよく見かけたもので
我が家の並びにお地蔵さんがお祀りしてありました。何かの事
由で地蔵菩薩はどこかへ移安されました。子供たちは地蔵盆は
お菓子などが貰えるので楽しみしておりました。地蔵盆は宗教
的な行事ではなく子供にとっては楽しいお祭でした。
 子供の守り仏と言えば「鬼子母神(きしもじん)」がありますが
関西ではあまり馴染みがないですね。  


 延命地蔵尊(興福寺)

  「新薬師寺」には裸形の地蔵菩薩像があり俗に「おたま地蔵」と言われ男性のシンボ
ルが付いているらしいです。また、「伝香寺」にも裸形の地蔵菩薩があり仏の三十二
相である「陰蔵相(おんぞうそう)」(馬陰蔵相ともいう)が表されている珍しいもので
すが秘仏で普段は礼拝できません。しかし、これらの地蔵菩薩は通常はきちっと衣
装を着け服装を整えておられますので誤解のないように。 

 

   
    地蔵菩薩立像(法隆寺)

 「地蔵菩薩立像」は平安初期の作と言われております
ので地蔵菩薩像が造られるようになった頃の像です。
初期の地蔵菩薩像の典型で左手には宝珠を持っており
ますのは後世の地蔵菩薩像と同じですが右手が与願印
で後世の多くの地蔵菩薩像が錫杖を持っているのとは
違っております。
 「金堂」の背面に北向きに安置されておりましたのが
新しく建立されました「大宝蔵院」に移され大変拝観し
易くなりました。
 地蔵菩薩立像は唯一の国宝指定の地蔵菩薩であり現
存最古の遺構でもあります。
 奈良県の大三輪神社の神宮寺・「大御輪寺(おおみわ
でら)」
から明治時代に移されたもので大御輪寺から移
された仏像には「聖林寺の十一面観音立像」があり、ど
ちらも国宝指定であります。
 後に地蔵菩薩といえば錫杖を持つのが定型となりま
したのでこの地蔵菩薩にも錫杖を持たしたのか台座の
右手下に当たる所(青矢印)に穴が開けられております。

  

 

  
         本 堂(十輪院)

 「十輪院」の寺名の由来は
「地蔵十輪経」によるもので
す。元興寺、奈良町に隣接
しており歩いて回れる距離
です。
 「本堂」の前庭には何故か
岩がドンと構えております
が本尊が石仏であるとの意
思表示でしょうか。境内は
花が咲き乱れて庭園の中に
建つ仏堂という情景です。
 本堂は「石仏龕」の礼堂と
して造立されたものです。

  「寺院建築−鎌倉時代」をご参照ください。

 「石仏龕」は覆屋で覆われております。見事な龕でそこに彫られた像は
堂内で管理されていただけにきれい
な形で残っております。石仏龕では
現存最古の遺構と言われる伝統の石
仏です。
 中央の「地蔵菩薩立像」は右手で与
願印を印し左手は胸前に挙げて宝珠
を持っております。
 地蔵の右には宝珠を捧げた「弥勒
菩薩」、左には施無畏・与願印を印
す「釈迦如来」で、この配置は過去の


       石 仏 龕(十輪院)

釈迦、現在の地蔵、未来の弥勒と過去、現在、未来の三世仏となっております。すな
わち、釈迦入滅後弥勒菩薩が釈迦の代役をするまでの無仏の時代に衆生の生活を守る
役目を果たすのが地蔵菩薩であるとの経典通りの配置となっております。
 左右五対づつの冥界の十王、不動明王、聖観音、四天王、金剛力士など所狭しと刻
まれております。
 石仏龕の写真はお寺の許可を得て絵葉書から転写いたしました。

 


                本 堂(帯解寺)


   「寺務所」の前に「腹帯」のサ
 ンプルが展示されている風景
 には思わずドッキリいたしま
 した。

  「子安山帯解寺(おびとけでら)」で帯解寺の寺名は珍しいです。多分、 我が国でも
唯一の寺名でしょう。奈良市内にあり鉄道、車共至便です。
 寺伝によると「文徳天皇に御子がなかったので、春日明神に祈願したところ、明神の
お告げあり、本寺の地蔵菩薩に祈願せよと教えられた。早速、この地蔵尊に祈願した
ところ、清和天皇がご誕生になった」とあります。後述の「野上神社」での春日大明神と
は春日明神のことで春日明神と地蔵菩薩とは本地垂迹関係にあります。
 皇室ゆかりの格調高い伝統寺院ですが現代では庶民にも親しまれる寺院となってお
ります。訪れた時、2組の参拝者があり1組は幼い子供連れでもう1組は妊婦と母親
連れでした。この2組は子育て祈願と安産祈願のためお参りに来られたのでしょう。

  
     地蔵菩薩坐像(帯解寺)

 「地蔵菩薩坐像」の前で本来住職が座られる所
にどうぞと勧められ案内してくださるお坊さん
は脇に控えて説明されるという初めての経験で
した。
 地蔵菩薩坐像は左足を踏み下げております半
跏踏下げの像です。この様相の地蔵菩薩は岩座
に座るのが通例です。
 安産、子育ての祈願をする「腹帯地蔵」の特徴
は、腹部に裳の上端の布や結び紐を表しいかに
も腹帯をしておりますという姿です。
 通肩で額に白亳、胸には瓔珞の飾りを着けて
おります。
 右手には錫杖、左手には宝珠を持っておりま
すが宝珠は手に直に持つのではなく持つのは蓮
華座でその上に大事に宝珠を乗せております。
 地蔵は菩薩であるので蓮華座に座るのが当た
り前ですが何故岩座に座られるのか分かりませ
ん。

    
   弥勒菩薩坐像(中宮寺)

 上記の地蔵菩薩が半跏踏下げのスタイルをとる
のは須弥山の兜率天で修行中の「弥勒菩薩」の半跏
思惟のスタイルを真似たものであろうと言われて
おります。
 といいますのも前述した通り釈迦入滅後の長い
無仏時代が過ぎるとリリーフの弥勒菩薩が下生し
て衆生の生活を守っていただけるわけですが長い
無仏の時代、中継ぎとして我々のために釈迦の代
わりの役目を担ったのが地蔵菩薩であります。そ
ういう関係から同じスタイルになったのではない
かと言われております。

  

 


               若 草 山  

 「野上神社」は若草山山焼きが無事終了
することを祈願する神社で山焼きはここ
から始まります。
 野上神社は若草山山麓にあり若草山入
口から50m程の所にありますが、春、
秋のシーズンしか入れないことと入山料
として150円要します。
 神仏習合の名残が見える貴重な石碑で
すのでぜひご覧ください。

 入山出来る期日は「奈良公園管理事務所 0742-22-0375」でお問い合わせください。


        石 仏(野上神社)
  青の枠内の刻銘は「南無春日大明神」

 地蔵菩薩を本地仏とする神は多いですが春日大明神もその一つです。春日大明神が
地蔵菩薩の生まれ変わりと言われるのは本地垂迹説によるものです。

 


     春日山石窟  

 「春日山石窟」は「滝坂の道」での「首切り
地蔵」から近距離にあります。「六地蔵」の
初期の作品でないかと言うことで訪ねまし
たが金網で防護されておりまして拝観も撮
影も満足にはいきませんでした。現在は四
地蔵ですが右側が破損しておりそこに二地
蔵菩薩があったのではないかと言われてお
ります。


   地蔵菩薩立像(春日山石窟)


     菩薩立像(春日山石窟)

 


 首切地蔵


    地蔵菩薩(右脇侍)


     地蔵菩薩

  上記の地蔵菩薩は「滝坂の道」にあります。「柳生街道のお話」をご参照ください。

  

 


      宇陀路  室生(道の駅)

 「安産寺」は無住の寺院で室生
村中村区の管理となっておりま
す。拝観、お参りには村のご奇
特な方が収蔵庫を開けて拝観さ
せていただけます。ですから、
事前に申し込みが要りますがご
奇特な3人の方が担当されてお
られますので無理は聞いていた
だけそうです。

  国道165号線を走ると北側に入る案内標識がありますがその標識は少し道路より入
り込んだところにありますので気を付けていないと見落とします。
  「宇陀路 室生(道の駅)」を目標に行くのが良いでしょう。道の駅には安産寺への
看板(赤矢印)がありますし看板を見ながら後ろを振り返ると高台にここですよと
「子安地蔵」の大看板が出ております。

 安産寺と「室生寺」の間は「やまなみロード(無料)」を通れば15分程度です。


        安 産 寺


      収 蔵 庫

   
  地蔵菩薩立像(安産寺)

 「安産寺」は山懐に抱かれた緑こんもりの高台にあり
ひんやりと頬を撫でる風は一服の清涼剤でした。
 「地蔵菩薩立像」は「室生寺金堂の地蔵菩薩像」が宇陀
川に流れているのを救い上げて現在の位置に安置した
とのことですがこの流出に関しては複雑な事情がある
ことでしょう。
 地元では地蔵菩薩を「子安地蔵」と称しておられます。
お茶をいただきながら子安地蔵にまつわる話をたっぷ
りと聞かせてくださいました。
 地蔵菩薩立像を見上げたとき目線が合い大変涼しい
眼差しで身体つきは凛としており、そこはかとない気
品あふれる容貌でした。
 榧の一木造で彩色は退色して確認は難しいです。服
制は如来の偏袒右肩です。
 左手は宝珠を持ち、右手は与願印ですが右手の掌は
外に向けず像の方に向けております。この両手の形は

「法隆寺金堂の吉祥天像」と同じです。
 何と言っても珍しいのは「沓」を履いておられることです。衆生の救済に回らない時
代なので錫杖を持っておられないのに沓を履いておられるのは錫杖を持たずに行脚に
出ておられたのでしょうか。
 研ぎ澄まされた漣波式衣文は仏師の創意と工夫が感じられる様式で、この様式は室
生寺金堂の本尊に似ており同一の作者だろうと言われております。
 「室生寺のお話」をご参照ください。
 像を目と鼻の先の距離でグルット回りながら拝観できます。国宝指定にでもなれば
ガラス越しの前面拝観のみになると思われますので本当の魅力が味わえるのは今だけ
かも知れません。
 問合わせ先  室生村観光協会 電話 07459-2-2315 

 

 

 

 

 

 

 


 文殊菩薩立像


  釈迦如来立像
  (室生寺)

 

 

 

 

 

 


 薬師如来立像

 

十一面観音立像
  (室生寺)
 
 地蔵菩薩立像
 (安産寺)
(三本松中村区)

 
     蟇 股(金堂)  

  天台系では本尊薬師如来の脇侍は観音菩薩と
地蔵菩薩であり室生寺金堂の尊像がそうです。
現在の室生寺金堂の地蔵菩薩立像は秀作の大型
光背に対して小さ過ぎますが安産寺像ならぴっ
たり合うとのことです。そこで、そのような配

置に並べてみました。ただ、本尊は寺伝では釈迦如来立像ですが金堂の「蟇股」の文様
が「薬壷」ですから「薬師如来立像」だろうと言われております。しかしそれでは、左の
尊像が「薬師如来立像」ですので薬師如来立像が2体となり都合の悪いことになります。

 


         地蔵菩薩と十王像(臼杵石仏)

 「臼杵石仏(後述)」の「地蔵菩薩と十王像」です。中央の「地蔵菩薩像」は半跏像で右手
は施無畏印で左手に宝珠を持ちます。「舟形光背」には補色どうかは分かりませんが彩
色が見て取れます。「十王」は左右、上下二段に衣冠の服装で胸前で笏を両手で持って
裁判官らしい様相です。左側の一王は少しずれて彫られておりますが自然石の形状に
よる制約です。しかし、この配置の方が趣があって面白いと思いました。
 地蔵菩薩と冥界の十王の石仏としては現存最古の遺構と言われております。十王の
うち閻魔大王はどれでしょうか?笏を持つのは閻魔大王だといわれますがここでは十
王全員が笏をもっております。
 像の大きさですが裁判官の十王像の方が弁護士の地蔵菩薩像より大きいなら分かり
ますが逆で弁護士像の方が大きいのは、地蔵菩薩を信仰する方は無罪になること間違
いなしと言うことでしょうか。
 この石仏は丹念に彫り上げられしかも一番きれいな状態で保存されておりましたの
には感銘を覚えました。

  

 

 「臼杵石仏」は昔々に訪れましたが当時は仏教美術に余り興味もない時代で記憶は乏
しいものです。当時の面影はもっと広大なスペースだと思っておりましたがまとまっ
た適切な配置でよく整備されておりました。紫矢印が「臼杵石仏の石標」がある入り口
です。そこから少しあがると「ホキ石仏第二群(青矢印)」です。そこから僅かな階段を
登ると「ホキ石仏第一群」です。そこからは「山王山石仏」、「古園石仏(赤矢印)」でこん
なに手軽に回れるとは想像もしなかったので拍子抜けでした。覆屋が出来ており磨崖
仏というより建物に納まった石仏のようでした。
 国宝指定の石仏としては唯一のものでありますのに訪れる人の少なさには驚きを感
じました。


              ホキ石仏第二群

 「ホキ石仏第二群」は向かって右側から入っていきます。龕の番号は順路とは逆につ
いております。ですから、最初に第二龕が目に飛び込んできます。


     阿弥陀三尊像(第一龕)


    九品の阿弥陀如来像(第二龕)

 観音菩薩像は阿弥陀の化仏はありません。左手には宝瓶、華瓶を持たず蓮華を
直に持つ様式です。     

  九品の印相が判別出来ないくらいに
  破損しております。

 


     如来三尊像(第三龕)


       ホキ石仏第一群

  阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来と
 いう珍しい配置です。     

    「ホキ石仏第一群」の最初は地蔵菩薩と
   十王像(第四龕)ですが後掲です。

 
      如来三尊像(第一龕)


     如来三尊像(第二龕)

  薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来で過去、
 現在、未来の三世仏ですが左側(東側)から
 ではなく右側からです。

  薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来
 が並んだ配置で何を意味するのでし
 ょうか。


        地蔵菩薩と十王像(第四龕)(前述)

 


       如来三尊像(山王山石仏)

 阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来らしいですがこれこそ三世仏ですね。
しかし、釈迦如来だけが何故大きく造られたのかは分かりません。

 


         大日如来像(古園石仏)

 大日如来を本尊に多くの密教の尊像が祀られております。


    大日如来像



    仏 頭(大日如来像)

  昔の記憶で残っていたのは仏頭が下に置いてあったことでし
た。現在は創像当時のお姿に戻っておりほっとしたのか穏やか
で安らぎを感じさせる顔をされておりました。
 興福寺から頂いた卓上カレンダーの今月(2005.06)の写真は
偶然にも「仏頭(旧山田寺)」です。興福寺の仏頭と同じように仏
頭はあちこち痛んでおりますがそれは長い風雪をくぐり向けて
きた歴史の重さを表しているのでしょう。この像の場合は仏頭
だけの方が心に焼きついた想い出になるなどと言えば、篤い信
仰を持って今日まで守ってこられた地域の方々に不謹慎者とし
て非難されることでしょう。



  仏頭(興福寺)

 

  

            画 中西 雅子