柳生街道のお話

 NHKの大河ドラマ「武蔵」で脚光を浴びました「柳生」から「滝坂の道」のコースを
歩いてみました。コースとしては「剣豪」が歩いた奈良から柳生へとなりますが、奈
良から柳生までの交通機関は、便数の少ない「バス」のみだったため、帰りのバスを
気にすることがないよう逆のコースを選びました。

 朝9時過ぎ、バス停「柳生」に着き、「家老屋敷」を飛ばし、まず「芳徳禅寺」から
「天の石立(いわだて)神社」「一刀石(いっとうせき)」「疱瘡(ほうそう)地蔵」へと回り
ました。天の石立神社からの帰り道で、芳徳禅寺への案内標識がある三叉路で、案
内の無いもう一方の道を取りますと疱瘡地蔵へ行けます。芳徳禅寺からスタートい
たしましたが、まず最初に、家老屋敷を訪ねてから芳徳禅寺
に回るコースの方がベ
ターかも
知れません。
  疱瘡地蔵から「東海自然歩道の阪原峠」を歩きましたが、峠道は急な上り坂があ
ったり、一方、下り坂の一部には落ち葉が積もっていて、石畳の状態が分からず2
回も滑りかけました。雑木林の中を歩くだけで見晴らす場所もなく、カメラを持たず、代わりに小枝の「杖」を持てば安全に歩くことが出来たことでしょう。やっと田
園風景が見える場所に出ましたが案内標識はありませんでした。国道が見えました
のでそれと平行に歩いていくと、やっと案内標識があり「おふじ井戸」から「南明寺」
に着きました。両所とも、人影もなくひっそりと静まりかえっておりました。
 「夜支布(やぎう)山口神社」へは、良く整備された「東海自然歩道」がありました。
夜支布山口神社も無住でした。そこから「円成寺(えんじょうじ)」への案内標識に従
って行ったつもりでしたが行き止まりでした。ここで迷っていては撮影が出来る明
るいうちに「滝坂の道」を通過出来ないのではないかと考え、土手を這い上がって
「国道369号線」に出て円成寺を目指しましたが、国道は峠ではなく上り坂、上り坂
の連続で、車の通行が少なく静かな道でしたが大変疲れました。
  円成寺では風景写真を数枚撮って「峠の茶屋」に向かいました。峠の茶屋までは案
内標識も随所にありしかも歩きやすい道です。4組のハイカーと行き交いました。
峠の茶屋から「地獄谷石仏」への道ですが、それはそれは「獣道」ではないかと思うほ
どの悪路でした。
  次に「滝阪の道」に向かいましたが、「首切地蔵」「朝日観音」「地蔵菩薩」「三体地蔵」「夕日観音」「寝仏」の石仏は、そんなに離れておらずまとまった場所にあり、すばや
く撮影し終わった頃には、午後3時半を回っておりました。
  そこから「柳生入口」の標識を過ぎてバス停「破石(わりいし)」に向かう途中で、急
に足が棒のようになってしまいました。しかし、タクシーも拾えないため循環バス、電車を利用して大阪へ帰宅の途に着きました。
 「滝阪の道の石仏」は総て鬱蒼とした千古の歴史を秘めた原生林の中にあるため、
夕方の撮影では光量不足のためWebに使える写真ではなかったことと滝阪の道の紅
葉には少し早過ぎたこともあり、後日循環バス停「破石」から首切地蔵までを訪ねて
再度撮影に行きました。
 結論としては、健脚の方かハイキングが目的の方は別として、名所、旧跡を希望
される方は阪原峠と地獄谷石窟仏は避けるべきです。もし、どうしても地獄谷石仏
を訪ねたい方は「奥山ドライブウェイ」から往復すれば道もそんなに悪くもなく楽です。   

◎ 推薦コースとしては
 @ バスで「破石」まで行き、「滝坂の道」「峠の茶屋」を経て「円成寺」まで行きバス
   で「奈良」に戻ります。但し、バスの時間を事前に調べておく必要があります。
 A @の逆コースで、バスで「円成寺」まで行きそこからバス停「破石」へ。帰りの
   バスの時間を気にすることなく楽しめます。
 B バスで「柳生」まで行き「柳生の里」を散策した後、バスで「円成寺」まで行き、
   Aのコースを辿ります。但し、バスの時間を事前に調べておく必要がありま
   す。
 C  バスで「破石」まで行き「滝坂の道」「峠の茶屋」を経て「円成寺」まで行き、円成
   寺を拝観後バスで柳生へ行き、「柳生の里」を散策した後、バスで「奈良」に戻
   ります。但し、バスの時間を事前に調べておく必要があります。
   
    ※
奈良交通<時刻運賃案内>  http://jikoku.narakotsu.co.jp/form/asp/
          ホームページの50音検索では、「近鉄奈良駅」は「き」で、「JR奈良駅」は
     「し」で引きます。

 
 南門 拝観料の200円は箱の中へ    


     本  堂

 「芳徳禅寺」は昔、剣豪たちがたむろした面影を偲ぶべきもなく、静かに澄み切った
境内でした。紅葉の名所としても名高いですが、今年は異常気象の影響か紅葉はいま
いちでした。
  「柳生石舟斎と武蔵」の有名な話「宝蔵院の槍と対決」の掲示板には、大きく“強すぎる、もう少し弱くなるがよい”と書かれていました。現代におきかえるなら、仕事一
筋の人生はあまりにも虚しいし、それでは心身ともに疲れ果てて、仕事の能率も停滞
するであろう。それを解消するには「古都奈良」で、至福のひと時を満喫することだとと、石舟斎さんは言われることでしょう。

   

  「天の石立神社」のご神体が 、宿るのは「巨岩」で、
「神道」も当初は神像もなく、ご神体は「巨岩」「山」
「森」「巨木」で、天の神様が「雷」でした。
 ご神体である「巨岩」は、鳥居に向かった右後方に
安置されております。
 写真の鳥居を潜っていくと「一刀石」に到着いたし
ます。

  

       銘茶「大和茶」の茶畑が柳生街道の一風景です。

  

  「一刀石」の石は、硬い花崗岩で柳生新陰流
の始祖「柳生石舟斎」が天狗と思って切ったと、
伝えられますが、現実には不可能でしょう。し
かし、このような伝説が出来ることは、柳生石
舟斎がいかに優れた人物であったかの裏書とも
言えます。

 

  「疱瘡地蔵」の疱瘡とは今日の「天然痘」で人
類を苦しめた恐ろしい伝染病でした。1980年に
やっとこの世から天然痘根絶宣言が、WHO
(世界保健機関)から出されました。
 昔、子供が不治の疱瘡に掛からないよう、こ
の地蔵さんにお祈りしてお願いしたのでしょう。
  子供の頃、有名なジェンナーの種痘の予防接
種を全員受けたものですが、最近は受けない人

の方が多いようです。このことは天然痘の細菌テロにあった場合被害甚大になる恐れ
があります。現在、我が国でもテロが起こるか分からないだけに心配です。 
 我が国での天然痘の流行は早く天平時代で、当時は豌豆瘡(えんどうそう)、裳瘡(も
がさ)とも言われ、当時の権力者、藤原の武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、字合
(うまかい)、麻呂の四兄弟が相次いで天然痘で亡くなっております。
  「疱瘡地蔵」を刻んである巨岩の横には碑文があり、碑文には土一揆による「徳政」の
関する記事があります。この徳政は 「春日領の大柳生・柳生・阪原・邑地(おうじ)」に
限られていますから一部の農村で行われた徳政でしょう。この徳政は債務の破棄程度
で年貢に関わる徳政ではなかったことと思われます。徳政の現代版なら、多重債務者
の債務を、帳消しにする自己破産の法律と言えましょう。
 徳政の証拠として石に刻んでいるのは、権力者のエゴによって約束を反古される恐
れがあったからでしょう。それと同じく約束を反古されない証文が、
「元興寺」の本
堂の柱に刻まれております。

 


   やっと下界に出ました。

  疱瘡地蔵から「南明寺」に至る雑木林に囲まれた「阪原峠」は、全くの音が消え去っ
た世界で静寂さ漂う峠でした。物思いに耽りながら歩くのには絶好の道といえまし
ょう。お会いした方は、用心のため杖を持ったお二人のみという閑散な峠でした。

 


     おふじの井戸

 
        

  「おふじ」と言われておりますが2字の決まりで「ふじ」が正式名でしょう。おふじと
は親とか目上の方の呼び方で、他人が呼ぶ場合は「おふじさん」となります。柳生但馬
守が馬上から、この井戸で洗濯をしていたおふじさんと問答をしたとのことですが、
どんな秘話を交わして、ロマンスが生まれたのか知りたいですね。但馬守がおふじさ
んに、魅力を感じたのは知性の輝きだけでなく、多分、おふじさんが薄化粧の日本美
人だったので、但馬守が一目ぼれをしたのでしょう。
 物事を考える雰囲気として、中国の諺に「馬上、トイレの中、枕を使って横になっ
て居る時」が理想とあります。それで、但馬守は賢く馬上から問答をしたのでしょう。
現代の馬上は車上で、物事を考えるどころか、危険極まりない携帯電話でメールを
やっている不届き者がおります。

 

 

 


    垂木・舟肘木


    「東海自然歩道」 

  「南明寺」は軒は一軒、斗栱は舟肘木という簡素な構造で、村里に相応しい美しさ
となっております。「垂木」の断面は上辺が直線で、下辺が円の変形楕円で始めて見
る形式でした。鎌倉時代なら角垂木の筈です。楕円の垂木は
「興福寺 」で見れま
す。扉は「板唐戸」で鎌倉以降の様式です。
 ここからの「東海自然歩道」は、よく整備された道で大変歩き易いです。たまに聞
こえるせせらぎの音以外は静かな世界で、不気味なほど静まり返っており、一枚の
枯葉が路面をかすかに揺れ動く音を聞いたのは、久しぶりというより忘れがたい体
験でした。


   夜支布山口神社

                     拝 殿

 
      神 殿


        田 園 風 景

  「夜支布山口神社」の神殿は、春日大社の第四殿を移築したとのことですが、それま
では拝殿の後の森が神聖な地域で「ご神体」が宿られたのでしょうか。神社にはどなた
も居らっしゃらず、尋ねることが出来ませんでした。

  

  豊かな自然に囲まれた「円成寺」では、苑池からの写真を数枚撮影して
次の訪問先の峠の茶屋に急ぎました。
「円成寺のお話」をご参照ください。

  「峠の茶屋」では、先を急いで来たので昼食抜
きだったため、500円の「蕨もち」を頂きました。
客は私一人で、「峠の茶屋」では御年寄りがどう
ぞと、お茶を出して貰えると思っておりましたが、ポットによるセルフサービスでした。
 「茶代」と言えば「心付け・チップ」のことでした。今では日本茶もコーヒーと同じように有料
のものが多くなりましたが、昔、お茶は無料の
代わりに、その行為に対して気持だけのお礼が、心付けとなったのでしょう。「茶」と言えば、

お茶にしましょうと言って、コーヒーを飲んでいたり、茶を入れないのに茶碗と
言っていたりしていて、不思議な使い方をしますね。

  峠の茶屋から「地獄谷石仏」への道は、まるで「獣道」のようで、もっとひどい箇所
もありましたが、手ブレ写真で掲載出来ませんでした。すれ違う道幅もなく、当然
出会うハイカーも居ませんでした。少し寂しく薄気味悪い道でした。健脚の方はど
うぞ。もし、訪ねたい方は「奥山ドライブウェイ」から「地獄谷石仏」を往復するのが
安全で楽です。 昔、「遍路」は辺鄙な道の「辺路」と言われたように水杯をして「遍
路」の旅に出ました。当時の辺路は、案内標識もないこれよりひどい道をだったこと
でしょう。しかし、この道は私には現代版の「辺路」だと思えました。おしゃべりし
ながらのハイキングが出来ず、孤独なハイカーにとっては理想の道かも知れません。

  

 「地獄谷石仏」は写真の影でお分かりの
ように鉄格子で保護されております。
 「辺路」を辿っての拝観だっただけに少
しがっかりもしましたが、不心得の者か
ら文化財を守るための鉄格子は、仕方が
ないと納得いたしました。
 この岩石窟に起居して彫刻したと言わ
れますが、夏はともかく冬は厳寒地獄だ

ったことでしょう。そこで、地獄谷石仏と呼ばれるようになったのではないかと思わ
れますが事実はもっと悲惨な物語から名付けられたようです。インドのような気候な
ら石窟の僧院も快適なのですが。

  

  「首切地蔵」は「荒木又右衛門」が試し斬りしたとも伝え
られています。
 「地蔵菩薩」は我が国では観音菩薩と並んで人気ある菩
薩で、堂内だけでなく道端、橋のたもとなどにも安置さ
れております。しかし、衆生救済の地蔵菩薩が、後の時
代に衆生ではなく子供だけを守る仏さんに変わったので
試し切りをしたのでしょうか。赤いエプロンは紐だけに
なっていて首を切られて血が滲んでいるように見え、哀
れみを誘っておりました。
 剃髪で錫杖と宝珠を持つ姿が普通ですが初めは錫杖を
持ちません。その現存最古の「地蔵菩薩立像」が「法隆寺」
に安置されおります。観音さんと同じく衆生救済の要請
があれば直ちに向かえるよう立ち姿が多いようです。

 関西地方ではつい最近まで「地蔵盆」があちこちで見受けられました今は懐かしい思
い出となりました。それと、現代人は「いぼ」で悩む人も少なくなりましたので「いぼ
取り地蔵」はどうなったことでしょう。ひょっとすると、新型肝炎「SARS」から衆生を
守る地蔵さんに変わっているかも知れませんね。
  地蔵さんの居られる三叉路にはトイレと休憩所がありますが、もし、陽気が良けれ
ば「地獄谷石仏」の方に少し行きますと「新池」がありますのでそこでの休憩も良いでし
ょう。

    「朝日観音」は観音ではなく「通肩」
の「如来」です。「脇侍」は頭が剃髪、
それと錫杖を持っておられるので「地
蔵菩薩」でしょう。
 本尊の如来は「弥勒如来」と伝えられ
ております。弥勒菩薩が「釈迦如来」入
滅後、56億7千万年間も長い間修行を
積んだ後に「弥勒如来」となられ釈迦の
代わりをする仏さんとなりました。
 一方、地蔵菩薩は弥勒菩薩が修行の間、リリーフとして衆生救済の役目を

背負った仏さんです。しかし、釈迦入滅からまだたった3000年しか経っていないの
にもう既に弥勒如来がいらしゃっるので、我々はどちらの仏さんにお願いすれば救
済していただけるのか迷います。恐らく、弥勒如来と地蔵菩薩の両尊にお祈りすれば、現世も来世も守っていただけるご利益(ごりやく)があることでしょう。
 如来は父親のような厳しい仏さんですが観音さんは母親のように優しい仏さんです。ですから、我が国では観音さんの方が人気があり、それゆえ、如来とせずに観
音としたのでしょう。
 能登川の対岸の岩石に彫られており、目の前で見ることが出来ます。滝阪の道で
は一番感動を与える石仏だと思いました。

 

  「三体地蔵」とは珍しいですね。普通は六
地蔵の筈ですが。京都にはJR、私鉄とも
「六地蔵駅」があります。
 六地蔵とは六道(天・人間・修羅・畜生・
餓鬼・地獄)をくるくる輪廻する衆生を、救
済する仏さんです。ここの三地蔵は畜生・
餓鬼・地獄の衆生を救っていただけるのか
も知れません。 

     

   「地蔵菩薩」は「夕日観音」の東側にありま
す。登る設備も無く急斜面を這い上がる必要
がありますので、上がる人もいないようでした。「荒木又右衛門」も「首切り地蔵」にするに
は巨岩もろとも斬らなければならず、石舟斎
のように「一刀石」にすることは出来なかった
のでしょう。

       

  「夕日観音」と名付けられた当時は、周辺
には樹林がなかったので、夕日で像がきれい
に浮かび上がったことでしょう。夕日には少
し早い昼過ぎの撮影でした。
  上記の地蔵菩薩立像と同じように急斜面を
這い上がっての撮影でした。
 見た感じ装飾品も着けていらっしゃらない
ので観音ではなく如来でしょう。

     

  「寝仏」はよく調べても何も分かりませ
んでした。じっと眺めた後瞑想でもすれば、「仏さんのお姿」が頭の中に浮かんでくるの
でしょうか。私はゆっくりする時間がなか
ったので無理でした。

 

   「滝坂の道」の紅葉は、寺院境内とは違って高い位置にあり見上げながら探さなけれ
ばならないので、ごつごつした石畳のでこぼこ道を、安全確認のため下を見たり、紅
葉を探すため上を見たりの行程でした。多くの方はおしゃべりをしながらゆったりと
過ぎゆく優雅な時間を楽しんでおられ、私みたいに撮影のためだけにせかせかと歩き
回る方は見当たりませんでした。いずれかの日に、風情溢れる滝阪の道をゆっくりゆ
っくりと歩きたいものです。滝阪の道は多くの方で賑わいを見せておりました。
 途中には光と影の対象である昼でもなお薄暗い幻想的な道もあります。柳生から夜
支布山口神社までのような無音の道でなく、絶えず能登川のせせらぎが聞こえる道で、
喧騒の中で日常生活を送っております者にとっては少し癒される気分になりました。
 春になれば鮮やかな緑に彩られた滝阪の道と変わっていることでしょう。  

 
   

  バス停「破石」から「柳生街道入口」に通じる旧街道の左右には「志賀直哉旧宅」と
「新薬師寺」があります。その旧街道には綺麗な街路樹があり、いにしえの残る道と
なっております。