元興寺

 「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、
新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、
飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが
平安時代に焼失して
しまいました。
本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊
とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も
同じ止利仏師の作です。

  現在、元興寺が「奈良町」の一角に存在しておりますが天平時代、奈良町は元興寺の
境内という広大な寺域を持つ大寺院でした。伽藍地は南北に細長く、南北四町、東西
二町を擁しており、敷地面積は約九萬六千八百平方メートル(約29333坪)という巨大
寺院だったのです。なお、
奈良町は歴史を刻んだ地名ですが通称で行政地名ではあり
ません。

 天平時代きっての学僧「智光」が住まいとしていた僧房の一室を、念仏道場として使
い極楽坊と称されておりました。時の庶民にとって極楽とは未知への憧れであり庶民
信仰を集めるには適したネーミングといえましょう。
元興寺の一部だった僧房が極楽
坊と変わりましたことは国家鎮護の
官寺から庶民の信仰寺院へと変革したことであり
ます。結果、極楽坊は
元興寺から離脱して独立の別寺となっていきました。

 元興寺は室町時代の土一揆で伽藍の殆どを失い、智光曼荼羅を祀る「元興寺極楽坊」、
五重塔を祀る「元興寺観音堂」、「元興寺小塔院」の三寺院に分かれました。それと残念
なことに当時、智光曼荼羅は別院で保管されていて建物とともに焼失いたしました。
 元興寺極楽坊は
江戸時代に西大寺の末寺・真言律宗のお寺となり、現在、国宝指定
の本堂、禅室、五重小塔の建造物が存在いたします。

 
元興寺観音堂は東大寺の末寺で、宗派は当然華厳宗です。土一揆で焼失を免れた五
重塔も江戸時代に焼失して塔跡となっております。
 元興寺小塔院にいたっては見るも無残な姿です。奈良には文化財が多くて整備に手
が回らないのでしょう。
 
 元興寺極楽坊の門標には「元興寺 極楽房 僧坊」となっております。一方の塔跡のあ
る寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当
時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。元興寺
極楽坊も昭和52年には元興寺と称することにされたらしいのですが通称元興寺極楽坊
です。
 
  「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関
する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよというこ
とでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから
国家鎮護の寺院から
庶民信仰の寺院へと
刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。
 鐘楼の鐘は金閣寺でお馴染みの足利義満によって京都の相国寺に持って行かれる

いう厳しい試練にも遭遇いたしました。
 昔、南都七大寺では「東大寺」に続く大寺であったという元興寺の面影はなく苦難の
歴史が想像されます。
 明治、大正、昭和18年までは無住の寺となり、「お化け寺」と呼ばれるくらい荒廃し
ておりました。

 
元興寺は寂れるにしたがって寺域内に住宅が建ち並び宅地化が進みました。民家の
中にひっそりと元興寺があります。気をつけていないと見過ごしそうです。
 元興寺極楽坊をお参りした後、元興寺の境内だった古都の風情を今に伝える奈良町
をぶらりと散策されれば古き良き奈良にタイムスリップすることが出来ます。

   
        伽 藍 図  

  創建当初の伽藍図はお寺のパンフレッ
トを元に制作しました。
 天平の伽藍様式通り、塔の配置が回廊
外となっております。
 南から北に向かった進む伽藍配置で、
南北一直線に南大門から金堂、講堂、食
堂と並んでおりましたのが青矢印のよう
に東から西に向かって入る伽藍配置に変
わっております。
 
 極楽堂、禅室の両堂とも僧房が改築さ
れたものでその僧房の正式名は東室南階
大房(ひがしむろなんかいだいぼう)と言
い、鎌倉初期まで東西に長い一棟でした。
 東室南階大房の十二室のうち八房が残
り、その八房のうち一房を馬道(めどう)
に当てましたので七房となりその七房を
東の三房と西の四房に分け三房が極楽堂、
四房を禅室に改変されました。

 後述の説明に出てくる仏堂を分かりや
すくするため伽藍図の堂塔を赤枠で囲ん
でおきました。


                 
東  門

 


       
     北  門

  「寺院」は「南門」が「正門(しょうもん)」ですが、「元興寺極楽坊」の場合、極楽浄土へ
向かう「極楽の東門」ということで、「東門」が正門となり、信者の方は阿弥陀の西方極
楽浄土に向かって入ることになります。
 東門は「東大寺西南院」の門が移築されてきたものです。簡潔で品格あふれる四脚門
です。  
  聖徳太子が建立され、大阪の仏壇といわれる「四天王寺」にも極楽の東門があります。  


                       
極 楽 堂


             東南側(極楽堂)

 「極楽坊本堂」とか「極楽堂」と言
われているのは、「極楽浄土」から
来ているのでしょう。
また、曼荼
羅堂とも言われるのは曼荼羅を本
尊としているからです。
 古代の本尊を祀る金堂は南向き
でありますが浄土教の極楽浄土を
礼拝する阿弥陀堂(本堂)は東向き
に変わります。宇治の平等院鳳凰
堂などがそうでありますように。

  昔、僧坊であった東室南階大房が、法隆寺の聖霊院と同じく、僧坊が仏堂にな
りました。中世には僧坊の一端が仏堂に改変されることが多くなりました。
 正面の柱間は奇数になるのが正
規であるのにかかわらず、僧坊を改変したので正面
の中央に柱がくる偶数の六間となっております。正面の柱間を奇数にしなければ中央
に柱が来て不都合だからです。とはいえ、中央の柱を基準に左右三間となり整然とし
ているようにも見え違和感は感じません。古代の「金堂」は正方形ですが天平時代には
横長の建物で、鎌倉時代の「本堂」は縦長になります。鎌倉時代に伝来した禅宗様の
「仏殿」は正方形です。古代の金堂は回廊内にありましたが天平時代には金堂に回廊が
取り付いたため四方から眺めることが出来なくなりました。当極楽堂は六間・六間の
正方形で、法隆寺金堂と同じように四方から眺めることが出来、均整のとれた優美な
建物となっております。
古代では柱と柱の間を間隔寸法に関係なく一間と称されてお
りました。

 
寄棟造、妻入、妻入の妻とは大棟が見える方が「平」側、大棟の鬼瓦(鴟尾など)が見
える方を「妻」側と言い、通常は平側に出入り口があります。ですから、妻入とは妻側
に入口があるということです。正面一間に浅い庇がありますが向拝の積りでしょう。

 智光が描かせた智光曼荼羅(阿弥陀浄土図)が祀られた内陣を念仏を唱えながら右繞
(右回り、時計まわり)礼拝できる構造となっております。しかも、畳が敷かれ、坐式
形式の和様となっております。現在の智光曼荼羅は焼失したため模作です。 

 「内陣」の天井は「禅宗様」の「鏡天井」ですが創建当時の建材が再用されております。

 内陣の「角柱」には信者からの寄進状が陰刻されているという珍しいものです。是非
探してみてください。

    

 引違格子戸、葺寄菱格子欄間で
壁がありません。  

  「藁座(緑矢印)」「桟唐戸」「木鼻」など大仏様の建築様式を取り入れています。


 角地垂木と角飛檐垂木で我が国特有 の角・角の組み合せです。


 
「出組(一手先)(赤矢印)」、背の低い「蟇股(緑矢印)」、「間斗束(青矢印)」など和様の建築様式ですが大仏様の繰形付実肘木(紫矢印)もあります。

   


    大仏様の木鼻

  切目縁は両側面のみで正面・背面には設けられておりません。


  鬼 瓦(極楽堂)


    鬼 瓦(東門)  

       恐ろしい形相ではなく可愛らしく愛嬌のある顔です。

        


 
 本瓦葺  (禅室)  行基葺


    
行 基 葺(極楽堂)

  元興寺 極楽堂・禅室は「行基葺(ぎょうぎぶき)屋根」ですが、この行基葺の瓦の
中には飛鳥時代創建の
法興寺の屋根に載せていた瓦、すなわち、1400年も遠い昔に
作られた瓦が混じっていると言われております。色のついた瓦がそうなんでしょう。
歴史を背負った古い屋根瓦とはロマンのある話ですね。
 

 本瓦葺の重ね葺きの場合、丸瓦の一方に重ねしろを取るため、段が出来ずフラッ
ト(図)になるように作られております。ところが、「行基葺」の方は、ただ重ねられる
よう丸瓦の一方を細くしただけです。当然、重ね葺きの場合瓦の継ぎ目に瓦の厚み
(
段差)が表面に出て変化に富んだ趣のある瓦屋根となります。

 
法隆寺玉虫厨子の屋根形式 も行基葺であります。同じ行基葺である大分の「富貴
寺大堂
は豊かな自然に抱かれて静かな佇まいです。


 禅室   馬 道   極楽堂

 馬道(めどう)とは字の如く馬が通る通路の
ことです。馬を必要とする者の建屋なら理解
できますが馬とはあまり関係がない寺院では
理解できません。多分、馬には関係なく細長
い建物の途中を横切る通路のことを一般に馬
道といわれるようになりましたので、僧房の
建物などを分割して利用する際建物と建物の
間の空間にも馬道の名称が借用されたのでし
ょう。
 
 馬道(めどう)から派生した言葉が面倒(め
んどう)で、馬が馬道を通ることを嫌がって

面倒だったのでしょうか。面倒には色んな説があります。


      
禅 室(西面からの撮影・奥の建物は極楽堂)

 「禅室」は旧僧房の四房分を改築した端正で優美な建物ですが鎌倉時代の再建といわ
れるくらい手が加えられております。切妻造、正面・背面に縁を設けております。
  禅室は僧侶が寝泊りするだけでなく三論、法相の教義を学ばれた道場でもあります。

 「千塔塚」にはお墓がピラミッド状に高く積み上げられていましたが現在は自然(土
地)に帰っていくよう後述の写真の場所に移されております。
 

 明治時代には、禅室は僧侶が修行に励む
ではなく小学校の校舎として使われており、
後の飛鳥小学校であります。現在の飛鳥小学
校は隣町の
紀寺町にあります。

 昔、寺の一室を教室としたので寺小屋、就
学者を寺子と言われました。それが時代とと
もに現在の小学校へと変身いたしました。
 寺子屋当時の主な先生は僧侶だったことで
しょう。 

  

 飛鳥時代の屋根瓦、天平時代の建築資材を再
用して、「鎌倉時代の大仏様建築様式」で再建さ
れたという興味が尽きないお寺です。「大仏様
建築」を知る貴重な遺構です。 
 「垂木」は丸地垂木と角飛檐垂木の二軒であり
ましたが、二軒と同寸法の「角垂木の一軒(緑矢
)」に変わっております。一軒とは一本の垂木
のみのことで「法隆寺金堂」も禅室と同じように
角の一軒です。一方、法隆寺玉虫厨子は一軒で
すが丸垂木です。

 また垂木の鼻には「大仏様の鼻隠板(青矢印)」が設けられています。  
 官寺の場合垂木の木口(鼻)には金メッキした銅板の透かし彫りを貼り付けたり私寺
では黄色の彩色などで装飾するのになぜ鼻隠板で隠してしまうのか。それにはやはり、
雨風の影響で垂木が腐食するのを防止するための工夫でありましょう。


          
西面の妻側

  頭貫と直角にでる「挿
 肘木(さしひじき)(青矢
 印
)」とシンプルです。
 出桁受の実肘木には大
仏様の繰形(緑矢印)が施
されております。

  「大虹梁(赤矢印)」、「小虹梁(紫矢印)」と「蟇股(青矢
 印
)」を組み合わせた「二重虹梁蟇股」で「法隆寺伝法堂」
 と同じですが、ただ「大仏様の木鼻(緑矢印)」が設けら
 れているのが違います。
   「妻」側をすっぱと切ったことから「切妻造」といいま
 す。

 
 
      五 重 小 塔

  「五重小塔」の塔高は5.5メートル。天平
時代に造られましたが室内で保管されてお
りましたので、直接に強い日差し、雨風に
さらされることがありませんでした。その
ため、時代、時代の建築様式で修理される
ことがなく、「天平時代の建築様式」を知る
貴重な資料となっております。
天平時代の
五重塔が一塔も残っていないだけに価値の
極めて高い遺構と言えるもので天平の五重
塔の面影が想像出来ます。

 
屋根瓦は丸瓦と平瓦の組み合わせにつき
古代建築のように屋根勾配の緩いものでは
雨漏りが起こりますので建物の保存上後世
屋根勾配を強くしております。その意味で
は、天平創建の五重塔の穏やかな屋根勾配
を偲ぶことが出来ます。

 「各重の柱間」で中の間を広くするのが普
通ですが、五重小塔の各重三間の柱間の寸
法が等しく造られております。 

  「高欄の横連子」が開くのは平安時代以降でありますが。
 「間斗束」が四重、五重目にはありません。
 天平時代、「塔の相輪」の高さは「塔の全高」の三分の一であるのに対し、この塔は五
分の二となっております。もし、「相輪の高さ」を「塔の全高」の三分の一に縮小します
と天平時代の「塔の高さ」の十分の一になります。相輪の高さが後世の改変と考えられ
ないのは、時代が降ると相輪の高さが全高の三分の一より逆に小さくなりますのにそ
うではないことから創建当初から現状の姿であったと
思われます。

 横に走る「頭貫」「長押」が細く、それに比べて柱が太いのは縦の線を強調する天平建
築の特徴です。
 「大斗」「肘木」「巻斗」の組物が同一寸法であるのは「室生寺五重塔」と同じです。
 
組物が実際の五重塔の組物を縮小して組み立てられているという大変手間のかかる
仕事をしております。模型的な建物の構造は外形だけが整えられるのが普通でありま
すがこの塔は内部の部材まで丁寧というか忠実に施工されております。
 都から離れた土地では技術者が不足しておりその解決策として当塔のような模型を
教材として五重塔が建立されたのではないでしょうか。小塔は実際の五重塔を建立す
る工法通りに仕上げてあり、部材を10倍にして組み上げると天平時代の五重塔が完成
いたします。部材が規格統一されているのは施工を容易にし、生産の合理化を図る目
的であり通例、都から離れた技術者が少ない地域では柱間が等間の五重塔が建立され
ております。五重小塔の国宝指定は建造物としてであります。 
 西小塔院の本尊として安置されていなかったようです。なぜならば西小塔院は室町
時代の土一揆で焼失しているからです。
 ※
写真はお寺の許可を頂き絵葉書から取り込みました。 

 

 
   右は
禅室、 手前は「極楽堂」

                    墓  地

 庶民信仰の寺院に変身した元興寺極楽坊の「南庭」には「墓地」があり、古代の大寺院
としては到底考えられない光景です。 

 秋を代表するの寺としても有名です。萩の花は古代の人々に大変愛され、多く
の歌に詠まれています。萩のシーズンには建物の周りに華やかに咲いており、写真撮
影会などが催されておりますがそれ以外のシーズンは深い静けさを保った境内です。 

     美しい色彩に染め上がられた春車菊(はるしゃぎく)(2006.06.20)   

 

  奈 良 町 の ス ナ ッ プ)


     街 の 驛

     奈良市杉岡華邨書道美術館

 

 


       奈良町資料館

 
 「奈良町資料館」のある所は、
「旧元興寺本堂跡」で1451年の戦
火により焼失となっております。
本堂といえば平安、鎌倉時代と
なりますが創建当時なら金堂と
ならねばならず、お寺のパンフ
レットには1451年に金堂焼亡と
なっております。室生寺の金堂
も中世には本堂と呼ばれており
元興寺の金堂も中世には本堂と
呼ばれていたのかも知れません。

      


      奈良市史料保存館


    奈良町物語館

 


     庚 申 堂


         藤岡家住宅

 奈良町の住宅の軒先に身代わり庚申(こうしん)の赤い猿が数多くぶら下げてありま
す。これは道教の「三尸(さんし)庚申」の名残ではないかと言われております。ここで
の三尸とは虫のことで庚申とは干支の「かのえさる」で57番目にあります。三尸庚申の
俗信についての説明は奈良町でご覧ください。赤い猿が町屋の軒先にぶら下がってお
ります風景は奈良町の象徴とも言えます。

 

  元興寺(塔跡)
       正門(元興寺・塔跡)
 「元興寺」の掲額が正面にみえます。元興寺
(塔跡)は華厳宗で、真言律宗の元興寺極楽坊
とは宗派が違います。

 
   道路に面したこの門の奥に左
  の正門があります。

 
  正門を潜ると間もなく塔跡です。


         基壇(五重塔)


    礎  石

 今は基壇と礎石を残すのみとなり、昔日の高い基壇上に聳える壮大華麗な五重塔を
偲ぶしかありません。 

 


        ならまち格子の家
 「ならまち格子の家」は伝統をふまえ
た格調高い建物です。

 
 中からは外の風景が見えますが外からは
中の状態を見えなくする格子の入った「み
せの間」で、ここで商談が行われていたと
のことです。格子は風をよく通しており奈
良盆地の蒸し暑い夏には快適な自然冷房と
なることでしょう。

 


     中 庭


  小便器

   一番奥にある土蔵


       二階部分


        二階天井

 

 「小塔院跡」は昔日の佇まいを偲ぶべきもなく朽ち果てており建物の痕跡もなくただ
の雑木林でした。
 小塔院とは伽藍図の西小塔院のことで室町時代の土一揆で焼失いたしました。