寺院建築―鎌倉時代

 

  「鎌倉時代」は1185年から1333年の約150年間で、その鎌倉時代に再び中国と国交を回復
すると新形式の建築様式が伝来し、今までの建築様式を「和様」と、新建築様式を「大仏様」「禅宗様」と呼び区別されました。後の時代ではそれらが入り混じった様式「折衷様」が新し
く実現いたしました。

 そこで、今回は鎌倉時代の「和様建築」を、次回からは「大仏様建築」「禅宗様建築」「折衷
様建築」について順次記載いたします。「和様」と言われましても我が国で純然と考案され
たものではなく、中国から伝来した建築技法を我が国の気候、趣向に準ずるよう改変され
国風化したものです。大仏様、禅宗様が今までの建築技法と大きく違っていたので、これ
らを大陸様だとすると今までの建築技法が我が国の建築技法すなわち和様となったのでし
ょう。和様と言っても時間経過と共に柱と柱の繋ぎを強固にする「貫」技法や細部装飾の
「木鼻」など大仏様、禅宗様の様式が取り込まれて行きます。
 つい最近まで「大仏様」は「天竺様(てんじくよう)」、「禅宗様」は「唐様(からよう)」と呼称
されておりました。

 法然の教えは、戒律による難しい行を実践しなくてもただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え
さえすれば極楽に往生出来ると言うものでしたから庶民には大いにもてはやされました。
阿弥陀如来像も救済を求める人々を直ちに迎えに行けるよう「坐像」から「立像」へと変わっ
ていきました。
 前代は数多さを競って、念仏を百万編を唱えることを奨励されましたが「親鸞」にいたっ
てはたった一回の念仏を唱えるだけで極楽往生出来ると主張いたしました。当然、これら
鎌倉新仏教は一般庶民の心を引き付け、仏教が人々の中に浸透していきました。結果、人
の出入りが多くなるに従い雨の日のため本堂に向拝を設けるのが定法となりました。 
 それと、鎌倉新仏教は中国から請来した従前の仏教ではなく、我が国で生まれた仏教だ
けに開祖した高僧をお祀りする「御影堂」が盛んに建立され、その御影堂は後の時代には大
規模な建築となりました。
   
 本堂内に「大型厨子」の設置が多くなり、そうなりますと大型厨子が本堂で、本堂は「中尊寺覆堂」の如く覆堂になったとも言えます。その「大型厨子」は奥深い内陣に設置されており
ますので殆ど見ることは適いません。

 「塔」の建築様式は何故か和様が多く例えば平行垂木の使用などが見られます。それと四
方に縁が設けられるのが普通となりました。またこの時代は「多宝塔」が優作揃いです。
 平安時代以降、基壇は自然石の乱積の上に縁、床を設け、その床下には盛土した亀腹が
造られ、また、床は石の布敷だったのが板敷となりましたのを、そのまま鎌倉時代引き継
がれました。
 「和様」では「蟇股」が唯一の装飾だったのが以後装飾部材も増えて参り、近代には彫刻だ
らけのごてごてした建築も現出しました。いずれにしても「蟇股」は意匠の中で一番力を注
ぎ制作されました。
 和様の「窓」は連子窓一本だったのが禅宗様の花頭窓も一部取り入れられています。 
 「扉」は桟唐戸、蔀戸が多くなりました。
 「屋根」は寄棟造が少なくなり、入母屋造、宝形造が主流となります。
 「木部」の彩色は丹塗りか彩色なしの素木ですが、素木の方が多いように感じました。


             本 堂(大善寺)

  「大善寺」は「勝沼ぶどう卿」駅の
近接にあり駅名の通り周り一面ブ
ドウ畑でした。近くには「清白寺」
があります。
 楼門の時代ですが大規模な二重
門である豪壮な山門(仁王門)をく
ぐり、石段を上がると「本堂」の建
物が眼に飛び込んできたのでその
大きさに一瞬たじろぎました。
  「本堂」ではなく「薬師堂 」と呼
称されておりました。その本堂は
それは雄大壮麗な建築でした。

 写真は広角レンズ撮影のため屋根の背が低く見えますが 実物は豪快な屋根でした。 
 山梨県下最古の国宝建造物ですが屋根の桧皮は葺かれて間もないのか綺麗な状態でした。
 頭貫の「木鼻」は「唐招提寺鼓楼」の大仏様木鼻によく似ておりました。大仏様は早くに廃
れましたが木鼻などは和様建築に取り入れられました。木鼻が大陸より伝来した鎌倉時代
に既にこんなに遠い国で和様建築に取り込まれているとは驚きでした。

    
           本 堂(明通寺)       


      三重塔(明通寺)

  「明通寺(みょうつうじ)」は山号を「棡山(ゆずりさん)」
と言う難しい読み方です。「棡」とは「譲葉(ゆずりは)」の
ことです。日本海側では国宝指定の建築は珍しいのに明
通寺には「本堂」「三重塔」の2棟もある貴重なお寺です。 

 2棟とも杉木立の中に静かに佇み非常に均整がとれた美しさを湛えておりました。
  「本堂」は1258年に再建されたもので乱積の基壇上に床、縁が設けられ、単層、入母屋造、屋根は桧皮葺です。多くの寺院のように正面側だけ「蟇股」で装飾されておりますが
他の三面は「間斗束」です。正面すべて蔀戸で覆われており住宅風の仏堂です。   

 「三重塔」は本堂の右手前に位置し石段を上がると僅かに切り開かれた空地に建築されておりました。1270年に再建されたもので回り縁が付き、屋根は桧皮葺です。大仏様の猪目(ハート型・
矢印
)の付いた「拳鼻(こぶしばな)」は現存最古の一つとして著名
です。拳鼻とは手の拳を横から見たのに似ていますからの命名です。木鼻の一種です。
 心柱は二重目と止め、初層には仏像をお祀りするいわゆる仏像舎利であります。


   拳鼻(三重塔)

 これら国宝建築が鬱蒼とした杉の老木で囲まれておりますだけに「室生寺五重塔」のよう
な悲しい事故が起こらないようお祈りするほかありません。杉は地表近くしか根を張らな
いため地すべり、杉の倒壊が起こりやすいものですので。先日の台風6号(2004.06.21)で
も奈良県下の重文の建造物が杉の木の倒壊で大きな被害を蒙りました。

 
               本 堂(西明寺)


   三重塔(西明寺)

  本堂の「蟇股」は3種で修
 築した時代の違いが表れて
 おり、時代判定が出来る貴
 重な遺構です。

 「西明寺(さいみょうじ)」は湖東三山の一つで、山間に位置するだけに自然豊かな清浄さの
中にありました。
 「本堂」「三重塔」は釘を使用していないと説明されておりましたがそれは長期保存を考えた
古の工人達の知恵でしょう。
 「本堂」は豪壮な建物でありながら正面だけでなく、西面からも眺められる配置となってお
ります。窓は連子窓でなく花頭窓で、和様建築に禅宗様の窓が取り入れられた例です。
  「縁」が外陣と内陣の境界(青矢印)で切れているのは、天台系密教寺院の中で、外陣が板敷
の床、内陣が土間(石敷)仕様の寺院があり、その場合縁は床部分には設けるが土間部分には
設けない名残だと言われております。
  三重塔は本堂の西側で、本堂より高い位置にするためか高い土壇が築いてありました。
 「三重塔」は洗練された様式美で日本美人のような佇まいです。前庭が広く、明るい雰囲気
の全体像が眺められ、屋根が大きく反り上がっておりますのが印象的でした。

 
           本 堂(金剛輪寺)

 「金剛輪寺(こんごうりんじ)」は湖東三山の
一つで「西明寺」とは近い距離にあります。駐
車場から少し上ってゆく必要があります。立
ち入り禁止かと思わせるくらい本堂周辺には
誰も居られませんでした。
 「本堂」は7間堂の大型建築でしかも樹木に
囲われていたため広角レンズを使った撮影で
も駄目でした。しかし、参拝される方にとっ
ては自然に囲まれた本堂での礼拝には感激さ
れることでしょう。
  正面に設けられております「向拝」はありま
せんでした。

 「長寿寺」はどなたも居られず私一人でした。
 簡素な山門を潜って緑のトンネルの幅狭
い参道を抜けると「本堂」が眼に入り、屋根
が汚れていないため美しかったです。
 「向拝」は広く、とって付けたような狭い
ものに比べると非常に均整がとれた感じが
しました。本堂は「間斗束」であるのに向拝
には「蟇股」が付けられており、同じ手法の
寺院は他でも見られます。 

 
             本 堂(長寿寺)

 床下には「亀腹」が設けられておりませんが基礎面は後ろに行くにしたがって少し高く
なっております。簡単に整地出来た筈なので何か意味することがあるのでしょう。   


          多宝塔(石山寺)      

 
   硅灰石 

 「石山寺」境内には奇妙
な岩石が目に付きます。
その岩石は天然記念物に
指定されている硅灰石(けいかいせき)で、この石が寺名の起こりとのことです。
建物はこの硅灰石の上に
建てられております。

  「本堂」に設けられた、紫式部が『源氏物語』を執筆した「紫式部源氏の間」を通り過ぎ
階段を上ると「多宝塔」です。
 「多宝塔」は我が国で考案されたもので数多
く造立されました現存最古の遺構です。我が
国の三大多宝塔と評判だけに優美な塔です。

 また三方から眺めることが出来、感動を覚えること間違いなしです。裳階部分が大き
いだけにどっしりとして安定感に富んでいます。
 多宝塔から少し行くと見晴らしのよい「月見亭」に出ます。石山の名月を観賞するため
月見亭と名付けられているとのことでした。 
 「石山寺」は瀬田川の畔にあり、山門近くの料理店で食した瀬田川で取れたしじみを調
理した「しじめめし」は美味でした。

 「大報恩寺」は「千本釈迦堂」とも俗称されております。
 京都の市街地にあり探すのは簡単ではありませんでした。しかし、一歩境内に足を踏み入れるとそこは市街地とは想えないほど閑静な佇まいでした。     
 「本堂」は京都では最古の仏堂で相次ぐ内乱にもよくぞ焼失せず残ったものだと感心させられました。


             本 堂(大報恩寺)

  黒ずんだ木部と白い壁と白色塗装した軒下の明るさが見事なアクセントを築いております。


             蓮華王院本堂(妙法院)

 「蓮華王院」の「蓮華王」とは
「千手観音」のことです。蓮華
王院は横長の大きな本堂で知
られておりますが毎年1月に
行われる「通し矢」でも有名で
す。
  「本堂」は「裳階」を入れると
35間ととにかく南北に長く、
この仏堂以外では考えられな
いほど横長の建物です。 

 「千手観音像」を1001体もお祀りするのに必要なスペースであります。

 

 

 「蓮花門」は三間一戸八脚門で「東寺」伽藍の西
側に建てられており、一度境内を出て西側に回
れなければ眺めることが出来ません。鎌倉時代
に建てられたものとは思えないくらい天平様式
で建築されておりました。
  略字の「花」ではなく「華」を使うはずですが奈
良の「法華寺」も一時「法花寺」と記述されたこと
から何らかの事情で略字を使われたのでしょう。

 
            蓮花門(東寺)


                阿弥陀堂(法界寺)

 「法界寺」はこじんまりとした樹林
に囲まれた所にあり少し分かりづら
いです。と申しますのは親鸞聖人の「日野誕生院」の方がよく目に付き、
数人の方が拝観されておりましたが
法界寺には撮影中、どなたも訪ねて
来られませんでした。
  「阿弥陀堂」ですのに東向きでは
なく南向きでした。しかし、阿弥陀
堂の定法通りの桧皮葺、宝珠露盤、

宝形造です。多くの人々を魅了してきた本尊の「阿弥陀如来像」に相応しく方七間堂という
威風堂々とした建築で、正面の裳階屋根を「薬師寺金堂」、「鳳凰堂」のように一段上げてあ
ります。
 「裳階」は4面にありますが吹放しです。柱間の中備は「蟇股」でなく「間斗束」です。 

  「海住山寺(かいじゅうせんじ)」は京都府に
位置いたしますが奈良市に近い距離にあります。山を相当距離上って行く必要があり山岳
寺院そのものでした。
 時代は、「三重塔」が多くなるだけに「五重
塔」は貴重な存在で、鎌倉時代唯一の五重塔
です。しかし、三重塔を意識したのか三重塔
の高さ位しかない小振りの塔です。
 五重塔で「裳階」付きは「法隆寺塔」と2塔の
みで、当塔は吹き放しですが法隆寺の裳階に
は壁が設けてあります。裳階を設けてありま
すので重厚な感じでしかも均整よく端麗でした。 
 「塔」は古風を守り、「三手先」でありますが
当塔は小ぶりな形ゆえか「二手先」でした。

  
     五重塔(海住山寺)


          二王門(光明寺)


           裏 側

  「光明寺」は「君尾山(きみのおさん)」の中腹にありますが林道を使えば近くまで行けま
す。ただ、林道ですから道路標識、カーブミラーが設置されておりませんので慎重な運転
が要求されます。駐車場から狭い山道を下れば「二王門」ですが雨の日はもう一方の道、国
道から綾部温泉方面に行き、その温泉を過ぎると二王門駐車場に出ます。そこから320段
の階段を上らなければなりませんが足許が濡れず滑らないので良いでしょう。
 二重門の「二王門」の屋根が「栩葺(とちぶき)」で初めて見るものでした。前面の生い茂っ
た樹林が障害となり屋根なしの全景しか撮影できませんでしたので「裏側」からの写真も掲
載いたしました。
  扉は設置されておりませんが扉があろうが無かろうが出入り口のことを「戸(こ)」と言い
ます。ですからこの門は「三間一戸(さんげんいっこ)」となります。
  建築材料は「桧」材ではなく「杉」材のことですが多分地元産の良杉があったことでしょう。
 連子窓の枠は唐戸面で黄色塗装です。ところが連子子(れんじこ)は緑色でなくて青色塗
装でした。
 柿葺、栩葺、木賊葺とは部材の木の厚みが違います。栩葺は栩板の厚さが1〜3aと甚
だ厚いもので、種類は水に強い椹(さわら)、栗などでありますが当門は栗材が使用されて
おります。
 仁王像の前に板敷の床があるので礼拝場所でしょう。現在は履物を脱がずに礼拝できる
よう賽銭箱を手前に置いてあります。
 自然石の乱積の基壇上に色んな形状の礎石が使用されておりますのは周囲の自然環境と
の調和を考えて、手頃な石が使われたからでしょう。
 鎌倉以降の二重門では「石手寺二王門」、「金峯山寺二王門」がありますがこの門だけは構
築物に遮られることなく自然に囲まれた貴重な二王門です。
 ここより少し離れた所に先述の「明通寺」があります。


       栩葺屋根 


    仁王象と賽銭箱


  礎石(光明寺)


  礎石(法隆寺)

 

 

 「秋篠寺のお話」をご参照ください。


                 本 堂(秋篠寺)

    
        北円堂(興福寺) 

      

 「和様」では鎌倉時代には珍しい「三手先」のうえ「三軒」で再建されております。「基壇」も床ではなく壇上積です。

 写真の中央下の垂木は「力垂木」で、総ての地垂木が六角形です。時代は「角地垂木」形
式ですが古代の「円地垂木」への郷愁からそのような形にしたのでしょうか?

     
      三重塔(興福寺)

 「禅宗様建築」で取り上げます長野県
の裳階付きの「安楽寺三重塔」と外観が
似ております。

 「東大寺」は大仏様で再建されました
が「興福寺」は和様で再建されました。

 「興福寺のお話」をご参照ください。


          本 堂(十輪院)     

 「十輪院」の「本堂」は建物の背が低く、
屋根勾配も緩やかで、感じとしてはこ
じんまりとした小型の仏堂です。奈良
の市街地にあるわりには人影もなく静
かな佇まいのお寺でした。寺院建築と
いうより住宅建築と言ったほうが似つ
かわしく優しい雰囲気を醸し出してお
りました。  
 「本尊」は石仏龕に納められた石造の
地蔵菩薩立像です。 

 

 垂木の代わりに厚板を利用して軒を支える「板軒」という珍しい構造でした。
   「板軒」は「禅宗建築」の
 雰囲気ですね。

 
           楼 門(般若寺)


         鼓 楼(唐招提寺)

 従来形式の門から楼門に変わっていきます。その楼門の多くは三間一戸ですがこの楼門は一間一戸です。 
 「般若寺のお話」をご参照ください。

 

 「頭貫」に大仏様の「木鼻」が設けられて
おり、先述の「大善寺」の木鼻とよく似て
おります。
 「唐招提寺のお話」をご参照ください。

 
          東院堂(薬師寺) 

 「薬師寺のお話」をご参照ください。 

 


            本 堂(霊山寺) 

 「霊山寺(りょうぜんじ)」は境内に一
歩足を踏み入れると「大辯才天」の掲額
を嵌め込んだ朱塗りの鳥居があるのに
は少し驚きました。
  山岳寺院の面影がありきれいに掃除
されており清清しいお寺でした。
  「本堂」の屋根は瓦葺で、奈良では珍
しい密教寺院です。

 
   「向拝」の蟇股内の彫刻文様は「薬壷」で
  「室生寺金堂」と同じですが室生寺は絵模
 様です。

   
  「向拝」には円を組み合わせた輪違
  支輪と菱支輪があります。

 「三重塔(鎌倉時代)」は手入れが行き届いており、国宝指定にならないのは後世に手を加えすぎているのかどうかは分かりませんが、早晩国宝指定になることを祈っております。

   

 「長弓寺」は「霊山寺」に近接しております。長弓寺の周辺には住宅が密集してい
るうえ人影もない静寂の中に佇んでいる
ためすぐには探しだすことが出来ません
でした。奈良の中心部に近く宅地開発が
進みつつありますが今ところは静かな環
境にあります。
  屋根は奈良では珍しい「桧皮葺」です。
背景の雑木林に囲まれている「本堂」は優


              本 堂(長弓寺)

美な佇まいを感じさせていて、その本堂を数人の方が写生をされておりのどかな風景で
した。 

 

 


      三経院(法隆寺) 


       聖霊院(法隆寺)

 「聖霊院」とは「聖徳太子」をお祀りしてあり、通常「開山堂」「御影堂」「祖師堂」などと呼ばれているものです。           


               西円堂(法隆寺)
     


     東院鐘楼(法隆寺)

   
              本 堂(室生寺)

 

 

  「室生寺のお話」をご参照ください。

 
 

 

 

 
                  観音堂(孝恩寺)

 行基葺

 大仏様木鼻
  象鼻
 「孝恩寺」はわが大阪では国宝建造物の最初の紹介です。

 「観音堂」が木積(こつみ)の釘無堂(くぎなしどう)と俗称されるのは建築の際釘の使用
を控えたからでしょう。
 行基葺、寄棟造ですが連子窓、蟇股と和様系、木鼻は大仏様系、桟唐戸は禅宗様系と
色んな手法が用いられております。
 向拝がないだけに、古風な感じがいたしました。ただ、切石積の基壇は新しい手法です。

  

 

 「慈眼院(じげんいん)」は「孝恩寺」とそう遠くない
位置関係にあり、大阪では南の関西空港に近い場所
にあります。
 予約制とは露知らず訪れたのですが住職の奥さん
らしき方が出て来られどうぞと招き入れていただき
ました。
 基壇が高く、塔身が小振りな塔です。
 裳階部分が本来、面取の角柱であるのに丸柱とな
っておりますのは裳階が付随的な建物と言う考えが
希薄になったからでしょうか?
 石積基壇は建物を湿気から守るのには適している
と思いますが無いほうがバランス上良かったのでは
ないかと思うのは素人の浅知恵でしょうか?

 
      多宝塔(慈眼院)

  塔の前庭には苔が植えてあり手入れがよく行き届いておりました。苔を踏むことの
ないよう注意をしながら撮影するのは初めての経験でした。
 周辺には「根来寺大塔」「金剛三昧院多宝塔」「長保寺多宝塔」とあり多宝塔のメッカとい
える地域です。


               本 堂(太山寺)     

 「太山寺(たいさんじ)」は神戸市に
存在しますが後述の同名の「太山寺」
は松山市にあります。
 「本堂」は神戸市内では唯一の国宝
建造物ということですがよくぞ今ま
で保存できたものです。大規模を誇
る7間堂で撮影位置を探しましたが
堂前の左右には樹木が生い茂ってお

りこれが精一杯の撮影位置でした。  
 地垂木に比べて飛檐垂木が短く、しかも、間斗束、板唐戸という様式で古風な造りでした。
 緑青色の銅板葺屋根は美しく風雅な本堂でした。

  「金剛峯寺(こんごうぶじ)」は「弘法
大師」が密教の教えを広めるため建立
された寺院です。
 「不動堂」は東向きに建てられた住宅
風の仏堂です。
 桁行(正面)三間、梁行(奥行)四間で
一間の母屋に一間の庇に縋破風の孫庇
を付けた複雑な構造のため、説明する


           不動堂(金剛峯寺)

のが難しいので三方の写真を掲載いたしました。
 高野山の紅葉は最高に美しいです。車は渋滞しますが訪れられましてこの建物を是非
皆さんの目で確認してください。
 右に僅か見える朱色の建物は「根本大塔」です。

  
      正面と右側


        裏  側

              多宝塔(金剛三昧院)

 「金剛三昧院(こんごうさんまいいん)」は「金
剛峯寺」とは近接しておりますが至って静かな
空間で霊山の雰囲気が充満しております。
 「多宝塔」は均整のとれた美しい姿です。
「慈眼院」の多宝塔とは逆で下層の背が低いのが
特徴です。それと、裳階の柱は慣例に従い面取
の角柱です。 
 「蟇股」は簡素で初期の形式です。

  
         蟇 股

  「長保寺(ちょうほうじ)」は密教寺
院の三種の神器とも言える「本堂」「多
宝塔」「大門」の3棟も国宝指定となっ
ております希少な寺院ですが余り世
間の方には知られていないのは残念
至極です。 
 「多宝塔」は上層にくらべて下層が
大きく安定感のある優美な塔でした。
「裳階」は丸柱で、「相輪」は「当麻寺
東塔」と同じく八輪と珍しいもので
す。
 余談ですが寺名の場合「保」は「ほ」
でなく「ほう」と呼称することが多い
ようです。


        多宝塔(長保寺) 


  八輪

 

   
       多宝塔(浄土寺)

 「浄土寺」のある「尾道」とは尾道水道と山
との狭隘平地に住宅が密集しているところ
です。迫りくる山の階段を上がって行くと
「本堂」「多宝塔」の2棟の国宝建造物が同じ
南向きに建っております。
 国宝指定の「本堂」は掲載すべきがどうか
迷いましたが「折衷様」のジャンルで掲載す
ることにいたしました。
 「多宝塔」は雄大にしては優美な姿でした。黒ずんだ風腐した建物ばかりを眺めてきた
ので少し違和感を覚えましたが創建当初の
姿を見るようで感激もいたしました。

 

 

     

        邪鬼 黄色の丸印のところ 

         邪鬼(法隆寺金堂・五重塔) 

 「邪鬼」と言えば「四天王」の足許でもだえ苦しむ姿を想像されると思いますが建物を支
え守る邪鬼の例です。上方でしかも小型の像だったので気が付きませんでしたが通りか
かった方が親切に教えてくださいました。

 「本山寺(もとやまじ)」は香川県下で
は唯一の国宝建造物です。当寺も札所
ですが訪れたのは夕方でしたのでお遍
路さんの姿はまばらでした。
 「本堂」の屋根は背が低く両端の反り
が少ないので穏やかな感じでしたが棟
の長さが短いのが少し気になりました。
 「本堂」は弘法大師の一夜造りとのこ
とで、「室生寺五重塔」も弘法大師の一
夜造りの言い伝えがあります。 


            本 堂(本山寺)   

 「中備」は総て「間斗束」の上に「蟇股」を組合せたもので
「元興寺本堂」と同じ形式です。
 本堂内陣に安置された大型厨子はよく見えませんでした。  
 
 「本堂」と並んで建つ「五重塔」は初層と最上層の桁行の低
減率が極端に小さく、一見、一重塔に四つの裳階付きの建
築のようでした。

  
蟇股(上段)・間斗束(下段)

 

 「石手寺(いしてじ)」は松山市内にあり後
述の「大宝寺」「太山寺」も同じ市内にあります。納められた由緒ある小石が寺名の由来
とのことでした。
 「二王門」は最も優れた楼門と評判なだけ
に門の姿が見通せないとは残念でした。
 参道がアーケードになって店が並んでおり、これこそ門前市をなすということでし
ょう。 

   
        二王門(石手寺)

 2階部分の高欄付き回り縁は上がる階段も無いので装飾のためかと思いましたが設け
た縁は装飾にしては広すぎる感じがいたしました。
 正面、背面は「蟇股」ですが側面は「撥束」で建築されております。 
 草履奉納は大きくて滅多に見られるものではありませんでした。東大寺南大門に奉納
されている草履はずっと小さいです。向かい合って奉納されている「藁草履」を撫でると
足の病気が治るとか健脚になるとかいわれており「撫で仏」でなく「撫で草履」と言えるも
のでした。 


        本 堂(大宝寺)

 
    右側と裏側

 「大宝寺本堂」は県下最古の木造建築とのことですが右側の樹木は鬱蒼として多くの年輪
を重ねた「うば桜」で、そのうば桜で視界が遮られているため全景撮影は無理でした。初め
て本物の「うば桜」にお目に掛かりました。自然に溶け込むこじんまりとした建物の上、前
面蔀戸でまるで仏堂というより住宅のようでした。庇部分は面取の角柱ではなく丸柱でした。


              本 堂(太山寺)


        妻 飾

 「太山寺(たいさんじ)」は第52番の札所で、次から次へとお遍路さんがお参りに来られて
は先達の合図で一斉にご詠歌や般若心経をあげられておりました。その間撮影は休憩すると
いう初めての経験でした。 
 県下最大の国宝建造物といわれるだけあって雄雄しい反りの屋根で豪壮な「本堂」でした。
桁行より梁行が広いので破風も大きくなりその妻飾は見事で一つ一つの装飾部材は必見の価
値があるものでした。   
  「本堂」は残念なことに「亀腹」が平成16年6月現在工事中で工事用防護柵が設置されており
ましたが縁から下部でしたので諦めもつきました。