隼人石 -隼人説考-
33 隼人石はやはり隼人の像なのか〈仮説③〉
天平期は、相次ぐ天変地異や政変の激動の中、国家の強化を目指した時代でもありました。
701年(大宝年)の大宝律令によって律令国家の形は完成していましたが、まだ東北や九州には大和政権に従わない勢力があり、また、若い政権には中国のような国の徳がありませんでした。663年(天智2年)の白村江の戦いに敗れ、百済・高句麗といった緩衝地を失った大和政権が、中国や新羅と対等に付き合うには、力による全国制圧と同時に、蛮族に朝貢によって帰順の意を示させ、国としての格を見せる必要があったと考えられます。
そこで目を付けたのが蝦夷や隼人でした。
隼人は政権側によって新たに作られた呼称で、隼人自らが名乗った事実は見当たりません。南九州に住む彼らを蛮族に仕立て上げ、朝貢させるというのが大和政権の計画だったのでしょう。
そのために海幸・山幸神話に隼人を登場させ、皇族との縁をつくり、さらに宮墻に伺候する根拠を語ったのだと思われます。
奇しくも隼人の最後の反乱と『日本書紀』の完成は同じ720年(養老4年)の出来事です。
三月丙辰。中納言正四位下大伴宿祢旅人を以て、征隼人持節大将軍と為す。授刀の助従五位下笠の朝臣御室。民部の少輔従五位下巨勢の朝臣真人を副将軍と為す。
ですから、隼人の朝貢の際に、滑稽な歌舞を行わせたのは、単なる余興ではなかったはずです。
日本書紀によれば、隼人舞は隼人の祖先である火酢芹命が、弟の彦火火出見命によって溺れ苦しめられる様子を再現した舞です。『令義解』(833年)隼人司には「歌□(人偏に舞)ヲ教習ス ※原文は漢文」とあり、隼人舞は習わなければ舞えないもの、すなわち隼人国(大隅薩摩)で一般的に舞われる舞ではなかった可能性があります。
とすると、隼人たちにわざと滑稽な踊りを踊らせることで服従の意を表させたのでしょう。そうして、大和朝廷としては、国の徳を内外に示し、大国としての体裁を整えたのだと考えられます。
中国や朝鮮半島からの使節が訪れる際は、難波津から大和川を遡り、佐保川に入って平城京に到着したと考えられます。海外の使節といえども、すぐに天皇に拝謁できたとは思われませんから、佐保の地に彼らの宿泊施設があったと考えるのが自然です。そこに、大和朝廷の威光を表すオブジェを置くとすれば、隼人舞は最適な題材だったと考えられます。
改めて、隼人舞に関する『日本書紀』の記述を見てみましょう。
福山敏男氏が、手の形に注目して「神代紀の海宮遊幸章に、天皇の宮垣のそばで行う隼人のおどりをのべて、褌をつけ、顔や手を赤く塗っておどるが、次第に増してくる水におぼれまどう色々な所作をし、水が腋の下まで達すると、手を胸に置くとしている。裸形で、褌をつけることと、手を胸におくことが隼人石の像を想わせる点である。」(『中国建築と金石文の研究』)と示唆されているように、隼人石の姿によく似ています。
前川明久氏は、古代中国における異民族と犬の関係について概観したうえで、「天皇の宮墻の傍に吠える狗となって護衛したという隼人の職掌の起源は、…漢民族が犬と異民族とを共犠し、邪霊防護にあたらせた宮廟圧勝信仰の移入・影響によるものであって、隼人をこのような職掌にあたらせたのは、まさしく大和政権の異民族対策に他ならなかったのではないか」と述べておられます。
また、隼人舞についても、守屋俊彦氏によって、海神である綿津見命を祖とする「阿曇氏」の海中での降神の儀式が、隼人の服従を示す踊りに転用された可能性が指摘されています。
すると、神話で語られる隼人の大部分が、政権にとって都合の良いように作られたことになります。そうであれば、神話を事実にするために政権が何らかの証拠もでっち上げたとしてもおかしくありません。その証拠が隼人石だったのではないでしょうか。
以上のように考えると、隼人石は、実際の隼人舞を模写したのではなく、日本書紀に記された服従の踊り、つまり、狗人が犢鼻褌姿で、溺れ苦しむ姿を写したものと考えるのが、もっともつじつまの合う説明のように思われます。そう考えれば、狗頭人身で裸形に褌姿であることも当然であり、上半身しかない第3石も腹まで潮に沈んだ様子を表しているのだという説明がつきます。
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