隼人石 -隼人説考-

32 十二神将像?邪鬼像?〈仮説②〉

 聖武天皇といえば、相次ぐ天変地異や疫病流行を仏法によって鎮めようと、全国に国分寺・国分尼寺を建てさせ、東大寺に巨大な廬舎那仏を造らせた厚く仏教に帰依した人物です。
 ならば、仏教における十二神将や獣頭人身像と隼人石との間に何らかの関連があるかもしれません。

 最古の十二神将で有名な新薬師寺は、聖武天皇の眼病平癒を願って天平19年(747年)、妻の光明皇后によって創建されたお寺で、当初は七堂伽藍と東西二基の塔が立ち並ぶ巨大寺院でした。しかし、相次ぐ台風などで現在は本堂を残すのみです。その本堂の本尊、薬師如来を守るように周囲を「十二神将」が囲んでいます。平安時代以降の十二神将像は十二支との関連を深め、その頭上に動物を載せていることが多いのですが、新薬師寺の十二神将像は、怒りの表情であたりを見下ろすたいへん写実的な姿で、隼人石とは全くつながりを感じさせません。

 聖徳太子ゆかりの法隆寺には飛鳥時代、奈良時代の獣頭人身像が残っています。
 法隆寺五重塔初層には塔本四面具と呼ばれる舞台状のくぼみがあり、釈迦に関する四つの説話の場面が小さな塑像群で表現されています。そのうち北面は、涅槃の場面を表しており、釈迦の死を嘆き悲しむ侍者たちがぎっしりと並んでいます。その中に、頭は鳥や馬で鎧のような武具を身につけ正座する獣頭人身像が混じっています。仏教には薬師十二神将や四天王など仏法を守る武人がいますが、その一種なのかもしれません。和銅4年(711年)の作で、隼人石の少し前に当たります。見た目は中国の俑に似ており、顔立ちも爬虫類のようで、隼人石との共通点はあまり見当たりません。

 法隆寺金堂の四天王像が踏みつけている邪鬼像も獣頭人身で表されています。この四天王像は背中に制作者の氏名が残っていたことで650年(白雉元年)の作と判明しています。邪鬼は両手両足を縛られてうずくまるポーズをしており、それぞれサル、ウシ、ヒヒのような顔をしています(もう一つは一角の鬼)。ユーモラスな表情が隼人石に似ていなくもありませんが、邪鬼だけをあえて石像にする理由を説明することは難しそうです。

 新羅の墳墓の腰石に彫られた獣頭人身の十二支像のレリーフは、武装して周囲を威嚇し墓内を守っているように配置されることから、十二神将との関連を指摘する説もありますが、飛鳥・奈良の仏像などを見る限り、隼人石と仏教との関連を認めることは難しいようです。


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