隼人石 -隼人説考-

31 佐保の公卿たち〈仮説①’〉

 あるいは、佐保の地が大伴氏や藤原氏といった有力貴族が邸宅を構えていた場所であったことを考えると、葬送儀礼から離れて考えてもよいのかもしれません。

 いにしえから佐保川と佐保山に囲まれた佐保の地は、風光明媚な景勝地として、また春の女神である佐保姫のゆかりの地として万葉人に愛されていました。

 大伴坂上郎女の柳の歌二首
我が背子が 見らむ佐保道の 青柳を 手折りてだにも 見むよしもがも
(吾背兒我 見良牟佐保道乃 青柳乎 手折而谷裳 見縁欲得)
うちのぼる 佐保の川原の 青柳は 今は春べと なりにけるかも
(打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尓鶏類鴨)
(『万葉集』巻8 1432、1433)

 万葉集の編纂に関わったとされる大伴家持の祖父、大伴安麻呂(?~714年)は、壬申の乱(672年)で功績をたて大納言・大将軍となり、平城遷都にともない新邸の土地を佐保に与えられたので、「佐保大納言」と呼ばれました。その子の旅人、孫にあたる家持も佐保に住み続け、三代にわたり「佐保大納言」と呼ばれました。大伴坂上郎女は大伴旅人の妹で、万葉集にもっとも多くの歌を残した女流歌人として、また恋多き女性として知られています。

 また、藤原不比等も佐保に邸宅を構えたようです(諸説あり)。不比等の次男、房前が引き継ぎ、「佐保殿」と呼ばれました。以後藤原北家の邸宅となり、平安時代には藤原氏長者が春日大社や興福寺に参詣する際の宿泊地となりました。『今昔物語集』(巻22)には「山階寺(興福寺)の西に佐保殿と云ふ所は、此の大臣(=藤原房前)の御家也」と記されています。また、佐保山のふもとの狭岡神社の社伝では、霊亀2年(715年)に藤原不比等が国家鎮護、藤原氏繁栄を願い、自分の邸宅・佐保殿に天神八座を祀ったのが神社の始まりとあります。

 さらに長屋王も別荘「作宝楼」を佐保に持っており、佐保は高級貴族の邸宅地として、風雅を愛でる風流士が集い、芸術・文芸を競う華やかな場所であったと思われます。

 続日本紀の記事のとおり、公卿たちが力士を囲い、自邸で相撲観戦を楽しんだのであれば、隼人石は、彼らの邸宅の庭に建てられた相撲のオブジェであった可能性も考えられます。

 しかし、もちろん疑問も残ります。最も大きな謎は、なぜ獣頭人身像にしたのかという点です。相撲の像であれば人間の姿で全く問題はないはずです。また、方位を刻んだ理由も説明できません。現在のように東西に分かれて争う形は、そんなに古いものではないでしょう。さらに上半身しかない第3石も合理的な説明をつけることは難しそうです。また、佐保と奈保山は少し離れています。いつだれが何のために山の上に移動させたのかという謎も残ります。


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