隼人石 -隼人説考-

30 聖武天皇と相撲〈仮説①〉

 とはいえ、200年も前に廃れた葬送儀礼が、突然よみがえるというのは不自然です。
 しかし、隼人石が聖武天皇や佐保の地とゆかりの深いものであるなら、可能性がないわけではありません。

(四月)辛卯。勅して曰く、「聞くならく。諸の国郡司等、部下に騎射、相撲及び膂力者有らば、輙ち王公・卿相の宅に給(たてまつ)ると。詔有りて捜り索むるに、人の進(たてまつ)るべき無し。今より以後、更に然ること得ざれ。若し違ふこと有らば、国司は位記を追ひ奪ひて、仍ち見任を解け。郡司は先づ决罸を加へて、勅に准へて解き却けよ。其の誂へ求むる者は、違勅の罪を以て之を罪なへ。但し先に帳内・資人に宛てたる者は、此の限りに在らず。凡そ此の如き色の人等は、国郡預め知りて、意を存して簡点し、勅の至る日に臨みて、即時、貢進せよ。内外に告げて咸く知らせ聞かしむべし。」と宜ふ。  ※原文は漢文
(『続日本紀』聖武紀神亀五年)
秋七月丙寅。天皇、相撲の戯を観す。是の夕、南苑に徙り御しまして。文人に命じて七夕の詩を賦せしむ。禄賜ふこと差(しな)有り。  ※原文は漢文
(『続日本紀』聖武紀天平六年)

 一つ目の記事は、国司郡司に端午の節の騎射人と七夕の相撲人・膂力者を必ず選出せよという内容です。有力な者を先に王公や公卿に差し出していて、詔を出したときにはもう該当者がいないという状況だったようです。国司郡司に官位を剥奪したり処罰したりするぞと脅しています。逆に言うと、相撲がそれだけ人気であったという証拠でしょう。
 二つ目の記事は、もっとも古い相撲節の記録として有名な箇所で、七月七日の七夕の行事として、天覧相撲が催され、文人たちが漢詩を作ったという内容です。
 少しさかのぼって、元正天皇養老3年には、後に「相撲司」へと変わる「抜出司」という職が初めて任命されています。

秋七月辛卯。初めて抜出の司を置く。  ※原文は漢文
(『続日本紀』元正紀養老三年)

 この抜出司は、相撲人を選抜し指導監督する役割であったようです。この頃から朝廷で相撲が重視され始めたのでしょう。

 このように、一旦相撲と葬送とは関係が切れてしまいますが、聖武天皇の頃にまた再び相撲が盛んとなり、その関係が復活したと考えることは可能ではないかと思われます。


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