隼人石 -隼人説考-

29 隼人石は力士像ではないか〈仮説①〉

 もう一度、先入観を排して隼人石を眺めてみましょう。顔こそ動物ですが、広い肩幅に褌姿とくれば、まず思い浮かぶのは「力士」です。確かに丑像や卯像の座り方は相撲を取ろうとしているようには見えませんし、子像は立像ですし、戌像に至っては上半身しかないので違和感はありますが、どの像も力士にふさわしい筋肉質の肢体です。
 現在では相撲の起源を、豊作を祈る神事とすることが多いようですが、古代の相撲には葬送儀礼とのかかわりも指摘されています。

 相撲の起源は古く、はっきりとした始まりを定めることは難しいようですが、文献上は有名な当麻蹴速と野見宿禰の一番が最初です。

七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏して言ふ「当麻の邑に、勇悍士有り、当摩蹶速と曰ふ。其人となりや、強力以て能く角を毀き鉤を申ぶ、恒に衆中に語りて曰はく『四方に求めむに、豈に我が力に比ぶる者有らんや。何れの強力の者に遇ひて死生を期せず、頓に力を争ふことを得んか。』」天皇之を聞き、群卿に詔して曰はく「朕聞く、当摩蹶速は天下の力士なり。若し此の人と比ぶるもの有るか。」一臣進言す「臣聞く、出雲の国に勇士有り、野見宿祢と曰ふ。試みに是の人を召し、蹶速に当てんと欲す。」即日、倭直祖、長尾市を遣はし、野見宿祢を喚ぶ。是に於いて、野見宿祢、出雲より至る。則ち当摩蹶速と野見宿祢とに□(手偏に角)力せしむ。二人相対立ち、各々足を挙げ相蹶、則ち当摩蹶速の脇骨を蹶折り、亦其の腰を踏み折りて之を殺す。故に、当摩蹶速の地を奪ひ、悉く野見宿祢に賜ふ。是を以て、其の邑に腰折田の有るの縁なり。野見宿祢乃ち留まり仕ふ。  ※原文は漢文
(『日本書紀』垂仁紀7年)

この時勝った野見宿祢は大和にとどまり、帝に仕えます。そして、葬送儀礼について次のような提案をします。

三十二年秋七月甲戌の朔の己卯、皇后日葉酢媛命<一に云はく、日葉酢根命なり>薨りぬ。臨葬に日有り、天皇、群卿に詔して曰はく、「死に従ふ道、前に可ならずと知りぬ。今此の行(たび)の葬に、奈何にせむ。」と。是に於いて、野見宿祢、進みて曰はく、「夫れ君王の陵墓に、生人を埋み立つ、是れ不良(さがな)し、豈に後葉に伝ふるを得む。願はくは今、便事を議りて之を奏さむ。」と。則ち使者を遣はし、出雲の国の土部壹佰人を喚し上げて、自ら土部等を領し、埴を取りて以て人・馬及び種種の物の形を造作して、天皇に献りて曰はく、「今より以後、是の土物(はに)を以て生人に更易へて陵墓に樹て、後葉の法則と為む。」と。天皇、是に於いて大きに之を喜び、野見宿祢に詔して曰はく、「汝の便議、寔に朕が心に洽(かな)へり。」と。則ち其の土物、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号けて埴輪と謂ふ。亦は立物と名く。仍りて令を下して曰はく、「今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹て、人を傷うこと無かれ。」と。天皇、厚く野見宿祢の功を賞め、亦、鍛地を賜ふ。即ち土部の職に任ず。因りて本の姓改め土部臣と謂ふ。是れ、土部連等、天皇の喪葬を主る縁なり。所謂野見宿祢、是れ、土部連等が始祖なり。  ※原文は漢文
(『日本書紀』垂仁紀三十二年)

 皇族の死に従って殉死させる習慣を悪習だと考えていた垂仁天皇に、野見宿祢が人の代わりに「埴輪」を並べることを提案し、大変気に入った垂仁天皇が取り入れて以後殉死はなくなったという内容です。その後、宿祢の子孫である土部(土師)氏は、古墳造営など葬送を取り仕切ります。

 埴輪といえば、力士(形)埴輪と呼ばれるものが全国から30例程度出土しています。しこを踏むような格好のもの、手を広げたもの、顔に刺青が施されたものといくつかのバリエーションはありますが、基本的に裸にふんどし(まわし)姿で、単独のもののほか、二人が組み合った状態のものもあり、装飾の一部のような小さなものもあります。成立は5世紀後半から6世紀半ばごろまでと考えられています。
 また、九州北部で出土した石人石馬のうちに、力士像と思われるものがあります。残念ながら完全な姿ではありませんが、でっぷりしたお腹や褌だけ着けていたことが表現されており、こちらも5~6世紀のものだと考えられています。
 さらに、高句麗の角抵塚(4世紀末ごろ。角抵は相撲の意)の壁画には、相撲を取る二人の力士とそのそばで隼人石の第1石(子像)と同じように杖のようなものを持って立っている人物が描かれています。この杖を持った異国人風の人物は行司ではないかと考えられています。
 他にも、これも時代は違いますが、欽明帝陵の猿石のうち「僧」と呼ばれる像は、力士ではないかという説が最近出されています。

 このように、古代の相撲は葬送と浅からぬ関係があったと考えられます。


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