隼人石 -隼人説考-
29 隼人石は力士像ではないか〈仮説①〉
もう一度、先入観を排して隼人石を眺めてみましょう。顔こそ動物ですが、広い肩幅に褌姿とくれば、まず思い浮かぶのは「力士」です。確かに丑像や卯像の座り方は相撲を取ろうとしているようには見えませんし、子像は立像ですし、戌像に至っては上半身しかないので違和感はありますが、どの像も力士にふさわしい筋肉質の肢体です。
現在では相撲の起源を、豊作を祈る神事とすることが多いようですが、古代の相撲には葬送儀礼とのかかわりも指摘されています。
相撲の起源は古く、はっきりとした始まりを定めることは難しいようですが、文献上は有名な当麻蹴速と野見宿禰の一番が最初です。
この時勝った野見宿祢は大和にとどまり、帝に仕えます。そして、葬送儀礼について次のような提案をします。
皇族の死に従って殉死させる習慣を悪習だと考えていた垂仁天皇に、野見宿祢が人の代わりに「埴輪」を並べることを提案し、大変気に入った垂仁天皇が取り入れて以後殉死はなくなったという内容です。その後、宿祢の子孫である土部(土師)氏は、古墳造営など葬送を取り仕切ります。
埴輪といえば、力士(形)埴輪と呼ばれるものが全国から30例程度出土しています。しこを踏むような格好のもの、手を広げたもの、顔に刺青が施されたものといくつかのバリエーションはありますが、基本的に裸にふんどし(まわし)姿で、単独のもののほか、二人が組み合った状態のものもあり、装飾の一部のような小さなものもあります。成立は5世紀後半から6世紀半ばごろまでと考えられています。
また、九州北部で出土した石人石馬のうちに、力士像と思われるものがあります。残念ながら完全な姿ではありませんが、でっぷりしたお腹や褌だけ着けていたことが表現されており、こちらも5~6世紀のものだと考えられています。
さらに、高句麗の角抵塚(4世紀末ごろ。角抵は相撲の意)の壁画には、相撲を取る二人の力士とそのそばで隼人石の第1石(子像)と同じように杖のようなものを持って立っている人物が描かれています。この杖を持った異国人風の人物は行司ではないかと考えられています。
他にも、これも時代は違いますが、欽明帝陵の猿石のうち「僧」と呼ばれる像は、力士ではないかという説が最近出されています。
このように、古代の相撲は葬送と浅からぬ関係があったと考えられます。
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